奄美大島へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:36 UTC 版)
薩摩軍は総勢3000人、80余艘であった。大将は樺山久高、副将平田増宗である。1609年2月26日に山川港に集結し、家久の閲兵を受けた後、順風を待って3月4日寅刻に出港した。同日亥刻、口永良部島に着く。6日辰刻に出船し、7日申刻には奄美大島に到着した。 当時の奄美大島は琉球王国の支配下にあったが、大島での戦闘は一切無く、大島の現地首脳(按司)は中山王府を見限り、薩摩に全面的に協力した。 7日申刻に大島深江ヶ浦に着き、8日には周辺を打廻った。薩摩軍は、笠利の蔵元に人衆が集まっていると聞いていたが、そんな人衆はおらず何事もなく終わったという。彼等はことごとく山林に逃げ隠れたため、ようようにして年寄どもを呼び出し、皆々安堵すべき旨を申し聞かせてから帰った。薩摩軍は、しばらく深江ヶ浦に滞在したが、12日には出船し、大和浜を経由して16日には西古見に着く。ここで順風を待ち、20日卯刻に出船し、徳之島に向かった。 中山は3月10日、薩摩軍大島到着の報告を受け、降伏を申し入れるべく天龍寺以文長老を派遣したが、接触すらなかった。以文はどこかに隠れていて薩摩軍と出合わず、後でとがめを受けたとする史料がある。なお、戦闘があったことが記載されている史料もあり、これを支持する研究者もいる。
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