第三次法難事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 00:58 UTC 版)
第二次法難事件の時、商用で奄美大島へ渡っていた備瀬知恆(びせちこう:仲尾次政隆の秘書役だった)は、島々に流浪して難を避けることができた。1861年に琉球へ戻り、心安き人々に本尊を礼拝させた。1876(明治9)年に、来琉した最初の真宗僧侶の田原法水(大谷派)に出会い、布教に専念した。 1877(明治10)年に信仰が露見して、360余名の信者が琉球王府に検挙された。備瀬知恆は、八重山流刑10年に処せられるが、配所に向かう途中で難船したために亡くなった。沖縄開教における最初の殉教者である。 この事件は、1876(明治9)年に明治政府が鹿児島県に対し真宗解禁を命令した後だったので、東本願寺使僧の小栗憲一と琉球王府との間で談判があり、その訴えによって、琉球王府は明治政府の譴責を受け、その信者に対する刑を取り消している。
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