第三次日本侵攻計画とは? わかりやすく解説

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第三次日本侵攻計画(1282年〜)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(1282年〜)」の解説

第二次侵攻弘安の役)で敗北した元は、翌年1282年弘安5年至元19年1月に一旦は日本侵攻司令部日本行省廃止したものの、クビライ日本侵攻諦めきれず再度日本侵攻計画した同年7月クビライの再侵攻意向知った高麗国王・忠烈王は、150艘の軍船建造し日本侵攻助けたい旨をクビライ上奏する同年9月第二次日本侵攻弘安の役)で大半軍船失っていた元は、平灤高麗耽羅揚州隆興泉州において新たに大小3,000艘の軍船建造開始した。しかし、こうした大造事業大量木材を必要としたため平灤では山は禿山となり、寺や墳墓からも木を伐採しなければならない状況であったという。また、平灤五台山造寺南城新寺建立造船木材集中させるために中止となったこのような軍船の不足から、民間から商船徴発し、日本侵攻用の軍船へと転用した。 1283年弘安6年至元20年1月日本侵攻司令部日本行省を再設置アタカイ阿塔海)を日本行省丞相任命して日本侵攻総司令官として、チェリテムル(徹里帖木兒)を右丞、劉国傑を左丞に任命し、兵を募り造船指揮を執らせ日本侵攻急いだ。この出兵計画には、兵員の不足から、重犯罪者の囚人部隊動員する計画であったという。また、第二次日本侵攻弘安の役)で軍船大量喪失とともに多く海事技術者失ったため、海事技術者養成急務となっていた。そのため、アタカイ阿塔海)は都元帥張林、招討使・張瑄、管軍総管清など軍官水練を行うよう命じて出征備えさせた。また、右丞・チェリテムル(徹里帖木兒)と管軍万戸35人が中心となって水練施した兵士中には蒙古軍2,000人や深馬赤軍10,000人などの元朝精鋭部隊含まれそのうち500人には水練の他に海上戦闘での訓練施している。日本侵攻江南地方から徴発した軍勢主力に、この年8月実行することが予定された。 一方日本はこうした元側の動向察知し元朝領内造船担った江南地方間者送り込み情報収集努めていた。江南地方日本側の間者捕らえられたことが元側の史料元史』において確認できるこのような急激な日本侵攻準備は、元に大きな負担もたらすものであった日本侵攻用の軍船造船担った江南地方では盗賊蜂起し、元は軍隊派遣するなどして鎮圧苦心したまた、江南地方盗賊続発は、元朝領内遠近問わず広がりをみせ、騒然としたという。このような状況の中でクビライ日本侵攻計画中止、あるいは延期するよう諫言する者も現れた。『元史』崔彧伝には、日本侵攻計画延期訴えた御史中丞・崔彧とクビライとの間で以下のようなやりとりがあったとされる。 崔彧「江南地方相次いで盗賊起こってます。およそ200余所においてです。皆、かつては水手として拘束され海船造り人民の生活は安んずることができなかったため、激情して盗賊として変を為してます。日本の役は暫く止めるべきです。また、江南地方四省軍需は、民力量って土地産物が無い所の者には労働を強いるべきではありません。およそ労働に対して物価給して民に与えるのは、必ず実をもってなければなりません。水手召募するのは、その労働欲する土地に従わなければならないのです。そして、民の気力がやや回復して我が力がほぼ備わるのをうかがい2、3年後に東征日本侵攻)しても未だ遅くはないでしょう」 崔彧の諫言退けてクビライ次のように言ったクビライ「汝の言う所は弓を射るようなものだ。弓を引く姿は見るに堪えるが、矢を発すれば見るに堪えぬ」 淮西宣慰使・アンキル(昂吉児)もまた、民が疲弊していることを上奏して、クビライ日本侵攻取り止めるよう諫言した。これらの諫言退けたクビライであったが、考え改め同年5月には日本侵攻計画を一旦取り止めた高麗侵攻計画中止となったことを受けると、造船徴兵停止させた。

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第三次日本侵攻計画(1283年〜)

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元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(1283年〜)」の解説

一旦白紙となった当初出兵予定1283年弘安6年至元20年8月の頃、再び出兵計画持ち上がった同年8月民間から日本侵攻用に徴発していた民間船500艘を民が困窮したため返還し、換わりにモンゴル人大船主・アバチ(阿八赤)が所有する船を徴発して修理行い日本行省丞相アタカイ阿塔海)の日本侵攻用の艦船群に組み入れた同年9月江南地方広東大規模な盗賊蜂起起こった元朝はただちに兵10,000でこれを鎮圧同年10月続いて江南地方福建宋王朝復興スローガン黄華率い100,000人ともいわれる群衆蜂起反乱軍は自らを頭陀軍と称して宋朝年号用いた。元はただちに22,000軍勢鎮圧派遣した。この反乱には日本行省左丞・劉国傑日本侵攻部隊率いて鎮圧乗り出している。 1284年弘安7年至元21年2月クビライは、このような国内情勢不安定化のなかで高麗における造船停止させた。さらに敵対関係にあったベトナム南方チャンパ王国との情勢思わしくないため、第三次日本侵攻計画の総司令官アタカイ阿塔海)に命じて日本侵攻部隊のうちか15,000の兵と軍船200艘をチャンパ王国派遣したこのように元の国内情勢チャンパ王国との敵対関係による不安定化のため、同年5月クビライ日本行省廃止し、再び日本侵攻計画中止したこの間日本側は明年1284年春に元の大軍襲来するという情報得て九州の各守護用心するよう厳命していた。

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第三次日本侵攻計画(1284年〜)

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元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(1284年〜)」の解説

クビライ前回日本侵攻計画取り止めてから1年経たず、再び日本侵攻準備開始した1284年弘安7年至元21年10月クビライ日本侵攻用の船と水夫募集開始1285年弘安8年至元22年4月、江淮地方日本侵攻用の兵糧軍船運び、そこで海戦訓練実施する同年6月クビライ実体不明なものの、「迎風船」なる軍船建造女真族命じる。 同年10月日本侵攻司令部日本行省を再設置アタカイ阿塔海)を日本行省左丞相劉国傑・陳巌を左丞、洪茶丘を右丞に任命し日本侵攻部隊指揮を執らせた。さらに水夫募集方法航海従事する者を通して水夫千人集めたものには千戸軍職百人集めたものには百戸軍職与える事にした。また、囚人赦免する代わりにその顔に入墨をあてて水夫とし、南宋時代に私塩を販売して航海技術のある者も水夫とするなどした。 同年11月第三次日本侵攻作戦計画発表される今回は、第二次日本侵攻弘安の役)の反省から、来年三月から八月までに、朝鮮半島合浦(がっぽ)に全軍集結させてから日本侵攻を行うという計画であった兵糧は江淮地方より米百万石徴発し、高麗東京遼陽)に各々十万貯蔵させた。この作戦高麗課され軍役は兵10,000軍船650であった同年12月軍籍条例施行日本侵攻兵士として全国から壮士および有力者選抜し日本侵攻部隊充てた。さらに五衛軍を各自、家に帰らせて装備整えさせ、翌年正月一日に元の首都・大都に集結するよう命じたまた、江淮行省では軍船1,000艘に水上戦闘の訓練施した。さらに最新鋭投石器である回回砲砲手として50人が軍に加えられた。 1286年弘安9年至元23年1月、ところが計画一変し突如日本侵攻計画中止となった。その理由は、日本侵攻計画が元の軍民に重い負担を強いるものであり困窮極度に達していたこと、さらに外征であるベトナム陳朝大越国チャンパ王国との戦況思わしくなかったためである。 クビライが第三次日本侵攻計画を中止したのは、以下のようなクビライ礼部尚書劉宣とのやりとりがあったためである。 劉宣は、かつて隋が高句麗侵攻してたびたび敗北した例を引用し「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しよう思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」と述べ、かつての隋の高句麗侵攻以上に日本侵攻が困難であるとして、クビライ日本侵攻とりやめるよう諫言した。 これに対してクビライは「日本は孤遠の島夷なり。重ねて民力を困するを以て日本征するをやむ」 と述べて日本侵攻計画取りやめた。この知らせ江浙軍民に伝わると、軍民歓声上げ、その歓声のようであったという。 日本侵攻諦めたクビライは「日本今まで我が国をかつて侵略したことはない。今は交趾ベトナム北部の国。陳朝大越国)が我が国辺境犯している。日本のことは置いておき、専ら交趾事とするがよい」 として、日本から陳朝大越国に目を転じた南宋遺臣の鄭思肖はチャンパ王国元朝背いた理由について「弘安の役で元軍が敗れた後、日本チャンパ王国使者送り元朝戦わず属国でいることを責めたチャンパ王国元朝に背くことを決めた」としている。

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第三次日本侵攻計画(クビライ晩年)

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元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(クビライ晩年)」の解説

クビライ5年にわたる内乱鎮まると、再び日本侵攻考え始めた1292年正応5年至元29年)、中書省右丞の丁なる者がクビライに対して江南戦船大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本遠征し日本を取ることがよろしい」と進言した。これを受けてクビライ近臣らに日本侵攻是非を問うたという。それに対して洪茶丘の弟・洪君祥は「軍事重大なことです。先に遣使し、これ(日本侵攻の是非)を高麗問い然る後に之を行うべきです」と進言したためクビライはそれを了承した高麗遣わされた洪君祥は、7年間、元に勾留されていた漂着した日本人護送高麗命じとともに第十二回使節)、日本侵攻の是非を高麗国王・忠烈王に問うた。忠烈王は「臣(忠烈王)は、既に不庭の俗(日本)に隣接してます。願わくば当に自ら(日本を)致討し、僅かながら功労立てます」と答えて日本侵攻積極姿勢クビライ示した。それを受けてクビライは再び、戦艦造船高麗命じる。ところが、この頃には相次ぐ造船により、すでに高麗では木材がほとんど尽きていたため、造船できるような状況では無かったという。 1294年永仁2年至元31年1月大元初代皇帝クビライ没するクビライ死去したことに伴い高麗での造船停止し幾度も持ち上がって消えた日本侵攻計画はようやく中止となった1298年永仁6年大徳2年)、クビライの後を継いだ大元第2代皇帝テムル穆耳)に対して江浙平章政事・イェスタル(也速答兒)が日本征すことを願ったが、テムル穆耳)は「今は其の時に非ず。朕、おもむろに之を思わん」と述べてイェスタル(也速答兒)の進言退けた以後元において日本侵攻計画持ち上がることは無かった

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