第三次日本侵攻計画(1282年〜)
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「元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(1282年〜)」の解説
第二次侵攻(弘安の役)で敗北した元は、翌年の1282年(弘安5年・至元19年)1月に一旦は日本侵攻の司令部・日本行省を廃止したものの、クビライは日本侵攻を諦めきれず再度日本侵攻を計画した。 同年7月、クビライの再侵攻の意向を知った高麗国王・忠烈王は、150艘の軍船を建造して日本侵攻を助けたい旨をクビライに上奏する。 同年9月、第二次日本侵攻(弘安の役)で大半の軍船を失っていた元は、平灤、高麗、耽羅、揚州、隆興、泉州において新たに大小3,000艘の軍船の建造を開始した。しかし、こうした大造船事業は大量の木材を必要としたため、平灤では山は禿山となり、寺や墳墓からも木を伐採しなければならない状況であったという。また、平灤の五台山造寺や南城の新寺の建立も造船に木材を集中させるために中止となった。このような軍船の不足から、民間から商船を徴発し、日本侵攻用の軍船へと転用した。 1283年(弘安6年・至元20年)1月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。アタカイ(阿塔海)を日本行省丞相に任命して日本再侵攻の総司令官として、チェリテムル(徹里帖木兒)を右丞、劉国傑を左丞に任命し、兵を募り造船の指揮を執らせ日本侵攻を急いだ。この出兵計画には、兵員の不足から、重犯罪者の囚人部隊も動員する計画であったという。また、第二次日本侵攻(弘安の役)で軍船の大量喪失とともに多くの海事技術者も失ったため、海事技術者の養成が急務となっていた。そのため、アタカイ(阿塔海)は都元帥・張林、招討使・張瑄、管軍総管・朱清など軍官に水練を行うよう命じて出征に備えさせた。また、右丞・チェリテムル(徹里帖木兒)と管軍万戸35人が中心となって水練を施した兵士の中には蒙古軍2,000人や深馬赤軍10,000人などの元朝精鋭部隊も含まれ、そのうち500人には水練の他に海上戦闘での訓練を施している。日本侵攻は江南地方から徴発した軍勢を主力に、この年の8月に実行することが予定された。 一方、日本側はこうした元側の動向を察知し、元朝領内の造船を担った江南地方に間者を送り込み、情報収集に努めていた。江南地方で日本側の間者が捕らえられたことが元側の史料『元史』において確認できる。 このような急激な日本侵攻準備は、元に大きな負担をもたらすものであった。日本侵攻用の軍船の造船を担った江南地方では盗賊が蜂起し、元は軍隊を派遣するなどして鎮圧に苦心した。また、江南地方の盗賊の続発は、元朝領内の遠近を問わず広がりをみせ、騒然としたという。このような状況の中でクビライに日本侵攻計画を中止、あるいは延期するよう諫言する者も現れた。『元史』崔彧伝には、日本侵攻計画の延期を訴えた御史中丞・崔彧とクビライとの間で以下のようなやりとりがあったとされる。 崔彧「江南地方で相次いで盗賊が起こっています。およそ200余所においてです。皆、かつては水手として拘束され、海船を造り、人民の生活は安んずることができなかったため、激情して盗賊として変を為しています。日本の役は暫く止めるべきです。また、江南地方四省の軍需は、民力を量って、土地の産物が無い所の者には労働を強いるべきではありません。およそ労働に対して物価を給して民に与えるのは、必ず実をもってしなければなりません。水手を召募するのは、その労働を欲する土地に従わなければならないのです。そして、民の気力がやや回復して、我が力がほぼ備わるのをうかがい、2、3年後に東征(日本侵攻)しても未だ遅くはないでしょう」 崔彧の諫言を退けて、クビライは次のように言った。 クビライ「汝の言う所は弓を射るようなものだ。弓を引く姿は見るに堪えるが、矢を発すれば見るに堪えぬ」 淮西宣慰使・アンキル(昂吉児)もまた、民が疲弊していることを上奏して、クビライに日本侵攻を取り止めるよう諫言した。これらの諫言を退けたクビライであったが、考えを改めて同年5月には日本侵攻計画を一旦取り止めた。高麗は侵攻計画が中止となったことを受けると、造船、徴兵を停止させた。
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第三次日本侵攻計画(1283年〜)
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「元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(1283年〜)」の解説
一旦白紙となった当初の出兵予定の1283年(弘安6年・至元20年)8月の頃、再び出兵計画が持ち上がった。 同年8月、民間から日本侵攻用に徴発していた民間船500艘を民が困窮したため返還し、換わりにモンゴル人の大船主・アバチ(阿八赤)が所有する船を徴発して修理を行い、日本行省丞相・アタカイ(阿塔海)の日本侵攻用の艦船群に組み入れた。 同年9月、江南地方の広東で大規模な盗賊の蜂起が起こった。元朝はただちに兵10,000でこれを鎮圧。 同年10月、続いて江南地方の福建で宋王朝の復興をスローガンに黄華率いる100,000人ともいわれる群衆が蜂起。反乱軍は自らを頭陀軍と称して宋朝の年号を用いた。元はただちに22,000の軍勢を鎮圧に派遣した。この反乱には日本行省左丞・劉国傑が日本侵攻部隊を率いて鎮圧に乗り出している。 1284年(弘安7年・至元21年)2月、クビライは、このような国内情勢の不安定化のなかで高麗における造船を停止させた。さらに敵対関係にあったベトナム南方のチャンパ王国との情勢が思わしくないため、第三次日本侵攻計画の総司令官・アタカイ(阿塔海)に命じて、日本侵攻部隊のうちから15,000の兵と軍船200艘をチャンパ王国に派遣した。 このように元の国内情勢やチャンパ王国との敵対関係による不安定化のため、同年5月、クビライは日本行省を廃止し、再び日本侵攻計画を中止した。 この間、日本側は明年(1284年)春に元の大軍が襲来するという情報を得て、九州の各守護に用心するよう厳命していた。
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第三次日本侵攻計画(1284年〜)
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「元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(1284年〜)」の解説
クビライは前回の日本侵攻計画を取り止めてから1年も経たず、再び日本侵攻準備を開始した。 1284年(弘安7年・至元21年)10月、クビライは日本侵攻用の船と水夫の募集を開始。 1285年(弘安8年・至元22年)4月、江淮地方に日本侵攻用の兵糧と軍船を運び、そこで海戦訓練を実施する。 同年6月、クビライは実体は不明なものの、「迎風船」なる軍船の建造を女真族に命じる。 同年10月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。アタカイ(阿塔海)を日本行省左丞相、劉国傑・陳巌を左丞、洪茶丘を右丞に任命し、日本侵攻部隊の指揮を執らせた。さらに水夫の募集方法も航海に従事する者を通して、水夫を千人集めたものには千戸の軍職、百人集めたものには百戸の軍職を与える事にした。また、囚人を赦免する代わりにその顔に入墨をあてて水夫とし、南宋の時代に私塩を販売して航海技術のある者も水夫とするなどした。 同年11月、第三次日本侵攻の作戦計画が発表される。今回は、第二次日本侵攻(弘安の役)の反省から、来年の三月から八月までに、朝鮮半島の合浦(がっぽ)に全軍を集結させてから日本侵攻を行うという計画であった。兵糧は江淮地方より米百万石を徴発し、高麗と東京(遼陽)に各々、十万石貯蔵させた。この作戦に高麗が課された軍役は兵10,000、軍船650艘であった。 同年12月、軍籍条例を施行。日本侵攻の兵士として全国から壮士および有力者を選抜し日本侵攻部隊に充てた。さらに五衛軍を各自、家に帰らせて装備を整えさせ、翌年正月一日に元の首都・大都に集結するよう命じた。また、江淮行省では軍船1,000艘に水上戦闘の訓練を施した。さらに最新鋭の投石器である回回砲の砲手として50人が軍に加えられた。 1286年(弘安9年・至元23年)1月、ところが計画は一変し、突如日本侵攻計画は中止となった。その理由は、日本侵攻計画が元の軍民に重い負担を強いるものであり困窮が極度に達していたこと、さらに外征であるベトナムの陳朝大越国とチャンパ王国との戦況が思わしくなかったためである。 クビライが第三次日本侵攻計画を中止したのは、以下のようなクビライと礼部尚書劉宣とのやりとりがあったためである。 劉宣は、かつて隋が高句麗に侵攻してたびたび敗北した例を引用し「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」と述べ、かつての隋の高句麗侵攻以上に日本侵攻が困難であるとして、クビライに日本侵攻をとりやめるよう諫言した。 これに対して、クビライは「日本は孤遠の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ」 と述べて、日本侵攻計画を取りやめた。この知らせが江浙の軍民に伝わると、軍民は歓声を上げ、その歓声は雷のようであったという。 日本侵攻を諦めたクビライは「日本は今までに我が国をかつて侵略したことはない。今は交趾(ベトナム北部の国。陳朝大越国)が我が国の辺境を犯している。日本のことは置いておき、専ら交趾を事とするがよい」 として、日本から陳朝大越国に目を転じた。 南宋遺臣の鄭思肖はチャンパ王国が元朝に背いた理由について「弘安の役で元軍が敗れた後、日本がチャンパ王国へ使者を送り、元朝と戦わずに属国でいることを責めた。チャンパ王国は元朝に背くことを決めた」としている。
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第三次日本侵攻計画(クビライ晩年)
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「元寇」の記事における「第三次日本侵攻計画(クビライ晩年)」の解説
クビライは5年にわたる内乱が鎮まると、再び日本侵攻を考え始めた。 1292年(正応5年・至元29年)、中書省右丞の丁なる者がクビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」と進言した。これを受けてクビライは近臣らに日本侵攻の是非を問うたという。それに対して、洪茶丘の弟・洪君祥は「軍事は重大なことです。先に遣使し、これ(日本侵攻の是非)を高麗に問い、然る後に之を行うべきです」と進言したため、クビライはそれを了承した。 高麗に遣わされた洪君祥は、7年間、元に勾留されていた漂着した日本人の護送を高麗に命じるとともに(第十二回使節)、日本侵攻の是非を高麗国王・忠烈王に問うた。忠烈王は「臣(忠烈王)は、既に不庭の俗(日本)に隣接しています。願わくば、当に自ら(日本を)致討し、僅かながら功労を立てます」と答えて、日本侵攻に積極的姿勢をクビライに示した。それを受けて、クビライは再び、戦艦の造船を高麗に命じる。ところが、この頃には相次ぐ造船により、すでに高麗では木材がほとんど尽きていたため、造船できるような状況では無かったという。 1294年(永仁2年・至元31年)1月、大元朝初代皇帝・クビライが没する。クビライが死去したことに伴い、高麗での造船は停止し、幾度も持ち上がっては消えた日本侵攻計画はようやく中止となった。 1298年(永仁6年・大徳2年)、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムル(鐵穆耳)に対して、江浙省平章政事・イェスタル(也速答兒)が日本を征すことを願ったが、テムル(鐵穆耳)は「今は其の時に非ず。朕、おもむろに之を思わん」と述べてイェスタル(也速答兒)の進言を退けた。以後、元において日本侵攻計画が持ち上がることは無かった。
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