第三次改革法案
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第二次改革法案が貴族院で否決された直後、庶民院は内閣信任動議を可決してグレイ伯爵内閣への支持を表明した。議事規則では同一会期中に同じ法案を2回提出することが禁じられているため、内閣は国王ウィリアム4世に議会を閉会させるよう求めた。そして、1831年12月に新会期が始まると、第三次改革法案が提出された。この法案は第一次と第二次改革法案と違い、庶民院議員の人数を減らさないようにし、直近に行われた国勢調査で収集したデータに基づくようにしていた。1832年3月、第三次法案は第二次法案よりも圧倒的な多数で庶民院を通過し、貴族院に送付された。 貴族院では依然として改革への反対が根強かったが、改革法案を再度却下することが政治的に不可能だったため、代わりに腐敗選挙区の廃止延期など改正案を提出して改革法案を骨抜きにした。内閣は改革を支持する貴族を多数創家して貴族院で賛成票を増やすことが唯一の方策であると表明したが、貴族創家は国王大権であり、ウィリアム4世はそのような激しい手段にひるみ、内閣全体の助言にもかかわらず貴族創家を拒否した。そして、グレイ伯爵は首相を辞任、ウィリアム4世はウェリントン公爵に組閣の大命を与えた。 続く期間は「五月の日々(英語版)」と呼ばれる政情不安の時期になり、革命前夜という情勢になっていた。改革を支持する者の間で納税拒否や銀行預金引き出しへの呼びかけが現れ、とある日にはロンドン中に「公爵を止めろ、金を取り戻せよ!」(Stop the Duke, go for gold!)という看板があちこちで掲げられた。そして、取り付け騒ぎの1日目だけでイングランド銀行が保有する700万ポンド分の金の4分の1にあたる180万ポンドが引き出された。国民政治同盟などの組織は庶民院に請願を出し、貴族院が折れない限り、政府に運営資金を与えないよう要求した。各地のデモ活動の一部には貴族の廃止、ひいては王政の廃止まで要求するものが出てくる始末となった。この情勢の中、ウェリントン公爵は必要に迫られて穏健な改革を約束したものの、自身の首相就任への支持を集められず、組閣に失敗した。結局ウィリアム4世はグレイ伯爵を呼び戻すしかなく、ホイッグ党員を叙爵して貴族院議員にすることに同意した。一方、ウェリントン公爵はトーリー党貴族に回状を出し、これ以上反対を続けた場合の結果を述べ、反対をやめるよう警告した。ここでようやく十分な数の貴族が折れ、法案が貴族院で可決され、ウィリアム4世は貴族を創家せずに済んだ。法案は1832年6月7日に国王の裁可(英語版)を受け、正式な法律となった。
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