第三次戦役(216年 - 217年)
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「濡須口の戦い」の記事における「第三次戦役(216年 - 217年)」の解説
216年10月、曹操は自ら指揮を執って孫権征討に赴いた。11月、譙に到着した。曹操は軍を率いて対峙する一方で、山越族に反乱を起こさせるなどの政治工作も行った。 217年正月、曹操軍は居巣に到着したが、疫病が流行し士卒が相次いで死去した。司馬朗は自ら巡視して、兵士達に薬を与えていたが、自分は飲まなかったために病死した。曹操軍は郝渓に駐屯すると、濡須水域を攻め、同時に横江陸岸に進軍を試みた。孫権は呂蒙と蔣欽を諸軍節度に任命し、2人と共に全軍の指揮を執っていた。孫権は濡須の防衛の為に、濡須塢の前方に城を築き始めた。2月、曹操は攻撃を開始し、張遼や臧覇諸将などを先鋒として築城部隊を強攻した。これにより建設中の孫権軍の城は撃破され孫権軍は後退した。しかしその後大雨により水位が上がり、水上から孫権軍が再度進撃してきたため張遼は撤退を考えた。これにたいし臧覇は曹操が自分たちを見捨てる事はないから独断で後退するのではなく命令を待つべきだと反対した。果たして次の日に後退命令があった。 山越出身の丹陽の費桟と鄱陽の尤突が曹操の求めに応じそれぞれ反乱を起こし、陵陽・始安・涇もそれに呼応した。孫権は賀斉・陸遜らに命じてに反乱を平定させた。降伏者の中から8000人の精鋭を募り、また、会稽・鄱陽・丹陽で山越者の中から募兵を行い、精兵を数万人得た。賀斉と陸遜はこれらの兵力を従え横江の近くに戻り曹操軍を迎撃した。徐盛らは水上から曹操軍を攻撃しようとしたが強風によって流され、自分の蒙衝は曹操軍の陣の岸の下に漂着した。この時徐盛以外の武将は船内に残ったが、徐盛のみが兵を率い上陸して突撃した。徐盛の突撃は曹操の大軍を討ち取ると、敵軍が大混乱に潰走した。その後、徐盛は天候が回復した後に堂々と帰還することができた。 呂蒙は濡須の城塞に強力な弩1万を配備させ曹操軍を迎え撃った。曹操軍の孫観はこの弩によって射殺された。曹操軍の先鋒は陣を築いたが、呂蒙はこれを機として急襲し曹操軍を撃破した。3月、曹操軍はさらに再度周泰の部隊によって攻撃された。曹操軍の被害は大きく、一方全く戦果は得られなかったため曹操は撤退を決意した。曹操は夏侯惇を揚州方面26軍の総司令官に任命し曹仁・張遼らをつけて居巣に残し自らは撤退した。疫病により帰還の途上で王粲や建安七子の応瑒・陳琳・劉楨らが疫病により相次いで死亡した。曹操の大軍を撃退した功績により、孫権は呂蒙を左護軍・虎威将軍に、蔣欽を右護軍に、周泰を濡須督・平虜将軍に任命した。 この戦の後、孫権は謀略によっては使者の徐詳を派遣して漢に対し仮初めの臣従を申し出た。曹操はこれを受け入れた。
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第三次戦役(233年)
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「合肥の戦い」の記事における「第三次戦役(233年)」の解説
233年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったので上陸しようとしなかった。満寵は孫権は魏が弱気になっているのではないかと決めつけ、必ず襲撃してくるに違いないと判断し、伏兵として歩騎兵を6千用意したところ孫権が上陸して攻めかかってきた。伏兵らは100人の首を取った。
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