司馬朗
父司馬防は厳格な人物で、司馬朗兄弟は成人したあとでも、進めと命じられなければ進まず、座れと命じられなければ座らず、指差して問われなければ口を利かず、父子の関係は厳粛そのものであった。 九歳のとき、父の字を呼ぶ者があったが、司馬朗は「他人の親を粗末にする者は自分の親を尊敬できませんよ」と言って、その人に頭を下げさせた。十二歳で経典の試験を受けて童子郎になったが、そのとき試験官は彼の大きな身体をみて年をごまかしているのだろうと問い詰めた。司馬朗は「司馬朗の両親はともに代々大柄の家系なのです。司馬朗は若輩者でありますが高望みする気持ちはありませんし、さばを読んで早い出世を求めるなど志すものではございません」と答え、試験官を感心させた。 初平元年(一九〇)、関東で義兵が立ち上がった。故(もと)の冀州刺史李邵は野王に住まいしていたが、山岳に近かったので温に移住しようと考えた。司馬朗は李邵に告げた。「唇歯のたとえは虞・虢に限りません。温・野王の関係も同じで、いま移住しても朝の滅亡を(夕に)遅らせるだけのことです。それに貴君は国人の仰ぎ見るところ。盗賊どもが来たわけでないのに移住なさるなら、山沿いの県では民心を動揺させ、犯罪を招く元になりましょう。郡のために心配いたしております」。李邵は聞き入れなかった。その結果、山沿いの民衆は混乱して内地に入り、中には略奪を働く者もあった。 そのころ董卓は洛陽に残ったまま、天子を長安に遷していた。父司馬防は治書御史として西方に向かうことになったが、四方が騒擾しているので、司馬朗に家族を本県へ連れて行かせた。「司馬朗が逃亡を企てている」と告訴する者があり、逮捕されて董卓の前に引き出された。「貴卿は吾の死んだ息子と同じ歳(の仕官)なのに、大それた裏切りをされるところだったわ」と、董卓は言った。 司馬朗は答える。「明公は孤高の徳義を持って災難の時代に臨み、邪悪な者どもを一掃して賢者を推挙しておられます。これぞ虚心坦懐に配慮を巡らされている証、至高の治世は今にも勃興いたしましょう。威光は高まり功業は明らかでありますのに、兵乱が日に日に起こり、州郡は鼎のごとく沸き立ち、領内の民衆は家業に落ち着かず、住居を捨てて流浪しており、四方の関所を固めて刑罰を厳しくしても留まるところを知りません。それが司馬朗には気がかりです」。董卓「吾もそう思っておった。貴卿の言葉には重みがある」。 司馬朗は董卓の滅亡を予見した。引き留められることを恐れ、董卓の側近に賄賂を渡して財産を使いはたし、郷里に帰らせてもらった。郷里の父老に「この郡は京都に隣接しており、洛陽は東に成皋があり、北は黄河に面しておりますから、天下で義兵を起こした者は、進軍できなければ必ずこの地に駐屯いたします。ここは四分五裂の戦争の地なのです。道路が通じているうちに一族こぞって黎陽へ行くに越したことはありません。黎陽には軍勢があり、古くから姻戚関係のある趙威孫が監営謁者として兵馬を統率しておりますゆえ、主君と仰ぐには充分です」と告げた。 むかし光武帝が幽州・冀州・幷州の歩騎を率いて天下を平定したので、黎陽に陣営を作り、観察黎陽謁者に精鋭の歩騎千人を統率させていたという《後漢書百官志・司馬朗伝集解》。 父老たちは故郷を恋しがり、彼に従う者はなかった。ただ同県の趙咨だけは家族を連れて司馬朗とともに出立した。数ヶ月後、関東諸州の軍勢数十万が熒陽や河内に集結したが、諸将は仲違いし、兵を好き勝手にさせて略奪したため、民衆の半数近くが死んだ。 しばらくして関東の軍勢は解散し、太祖(曹操)が濮陽において呂布と対峙した。司馬朗は家族を連れて温へ帰ったが、その年、大飢饉に遭遇した。司馬朗は宗族をいたわって若者を教育し、世が衰えても家業をおろそかにしなかった。 二十二歳のとき太祖に召されて司空掾属となり、成皋の県令に任じられた。病気のため退官したが、また堂陽の県長に復帰した。その統治は寛容で恵み深く、鞭打ちの刑も行わないのに民衆は禁令を犯さなかった。かつて都内を充実させるために領民が移住させられたが、のちに県が艦船建造を割り当てられたとき、間に合わせられないのではないかと心配して、移住民たちが手を取り合って内緒で帰り、仕事を手伝った。司馬朗はそれほど愛されていたのである。 元城の県令に昇進したのち、中央に入って丞相主簿になった。司馬朗は「天下が崩壊したのは秦が五等の制度を廃止して郡国に軍備がなくなったからだ。いま五等を復活させるのは不可能だが、州郡に軍を持たせて内外に備えることは可能であり、計略としても優れている」と主張し、その提議は採用された。 また「井田の制度を復活すべきである。むかしは民衆それぞれが家業を代々受け継いでいて、途中で取り上げることが困難なまま現在に至っている。今日では大乱の後ということで民衆が分散し、土地の持ち主がおらず公田となっておるゆえ、この機会を利用して復活させるべきだ」とも主張したが、これは認められなかった。 ちくま訳では誤って「それらの意見は施行されないままであった」とするが、『杜恕伝』には「刺史には兵を宰領させることなく、民政に専心させるべきだ」とあり、施行されないのは井田制だけであったと分かる《集解》。 兗州刺史に昇進した。教化は大いに行われ、百姓たちは彼を称賛した。身は軍隊にあっても、いつも粗衣粗食に耐え、倹約を心がけて下の者を導いた。日ごろ人物鑑定と書籍を愛好し、郷里の人李覿らが名誉を集めていたときも、司馬朗はいつも彼らへの軽蔑を露わにしていた。のちに李覿が失脚したので当時の人々は感服した。 鍾繇・王粲は論文を著して「聖人でなければ太平の世を作れない」と主張したが、司馬朗は「伊尹・顔回といった人たちは聖人ではないが、もし数世代続いたなら太平の世を作ることができる」と反論した。のちに文帝(曹丕)は司馬朗の主張を評価し、秘書に命じてその文章を記録させた。 建安二十二年(二一七)、夏侯惇・臧霸らとともに呉を征討し、居巣に着陣した。軍中で疫病が大流行したため、司馬朗はみずから視察してまわり医薬を与えてやったが、病気にかかり、卒去した。ときに四十七歳。司馬朗は死を迎えたとき将兵に告げた。「刺史は国恩を厚く蒙り、万里の彼方を監督することになったが、僅かな功績さえ立てられぬままこの疫病にかかってしまった。もはや自分を救うことさえままならず国恩に背くことになってしまった。身(わたし)が死んだら麻の衣と幅巾を着せ、季節に応じた衣服で殯(かりもがり)をしてくれ。吾が志に背くでないぞ」。州の人々は彼を偲んだ。 【参照】伊尹 / 王粲 / 夏侯惇 / 顔回 / 司馬遺 / 司馬懿 / 司馬防 / 鍾繇 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 趙威孫 / 趙咨 / 董卓 / 董卓亡児(董卓の死んだ息子) / 李邵 / 李覿 / 劉協(天子) / 呂布 / 兗州 / 温県 / 虢 / 河内郡 / 関東 / 冀州 / 居巣県 / 虞 / 滎陽県(熒陽県) / 元城県 / 呉 / 黄河 / 秦 / 成睾県(成皋県) / 長安県 / 堂陽県 / 濮陽県 / 野王県 / 雒陽県(洛陽県) / 黎陽県 / 監営謁者 / 県長 / 県令 / 司空掾属 / 刺史 / 丞相主簿 / 治書御史 / 童子郎 / 秘書 / 監試者(試験官) / 五等 / 試経(経典の試験) / 人倫(人物鑑定) / 聖人 / 井田 / 論(論文) |
司馬朗
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司馬朗 | |
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後漢 兗州刺史 |
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出生 | 建寧4年(171年) 河内郡温県 |
死去 | 建安22年(217年) 揚州廬江郡居巣 |
拼音 | Sīmǎ Lǎng |
字 | 伯達 |
主君 | 曹操 |
父 | 司馬防 |
兄弟 | 司馬懿、司馬孚、司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通、司馬敏 |
子 | 司馬遺、司馬望(養子) |
司馬 朗(しば ろう、建寧4年(171年) - 建安22年(217年))は、後漢時代末期の政治家。字は伯達。秦末の殷王司馬卬の末裔。司馬防の長男。司馬懿・司馬孚らの長兄。
生涯
彼は厳格な父の司馬防に厳しく育てられたという。彼が9歳になった時のことである。父の友人が父の字を呼んだので、司馬朗はその人に対して言った。「他家の親を軽率に呼ぶ人はご自身の親も軽視しているのです」、と。その父の友人はあまりの恥で顔を上げられなかったという。
彼が12歳になった時、経典の暗記で見事に及第して、童子郎となる。しかし、ある人が司馬朗に対して、「君は、12歳の割には随分と大きい体をしている。本当は12歳ではないのだろう?」と問い詰めた。しかし、彼は「わが家は先祖代々、体格の大柄の家系ですし、このわたしは若輩者ですが、生来出世心を持っておりません」と明確に答えたという。
初平元年(190年)に洛陽が董卓に占拠された時のことである。治書御史を務めた父は司馬朗に対し、家族を引き連れて故郷に戻るように命じた。ところがある者が董卓に向かって「司馬朗は郷里に戻ろうとしています」と讒訴した。そのために司馬朗は逮捕され、董卓の前に曳き出された。董卓は彼に対して「君は先年に亡くなった私の息子と同年だ。何故、私を見放すのか?」と問うた。司馬朗は答えた「今の世の中は混乱に極めております。私も郷里もこのままでは退廃する恐れがあり、いずれ民は飢えで亡くなるでしょう」。董卓も堂々とした態度を示した司馬朗を評価したという。
しかし、司馬朗は董卓の身の破滅を直感したので、董卓の腹心らに賄賂を渡して、それが巧くいったので、彼は逸早く一族を引き連れて郷里に逃げたという。
数え22歳の時に、曹操が召し寄せて司空掾属とし、成皋県令などの地方官吏を歴任した(記述はこのとおりであるが、曹操が司空に任命されたのは196年であり、没年から逆算すると26歳になるので、年齢が合わない。記述のミスか、年齢をごまかしていたか、どちらかなのであろう)。しかし、病のために職を辞した。後に、病が快方して堂陽県令に復帰した。この時、司馬朗は領民に寛大な政策を執る善政を敷き、領民から慕われたという。このような功績を曹操に認められ、元城県令を経て、後に中央に戻されて丞相主簿に任じられた。
その後は兗州刺史となり、内政手腕を存分に発揮して、領民に善政を敷いて多くの人々から慕われたという。
ある時に崔琰は、「君の才は弟の司馬懿に及ぶところではない」と司馬朗に語ったが、司馬朗は崔琰の言葉に全く気を悪くする様子もなく、笑ってそれに同意して、弟の司馬懿の才能を高く評価していたという。
217年に夏侯惇に従軍して、臧覇らと共に孫権の征伐に従軍する。しかし、そこで疫病による風邪が蔓延し、彼を含めて多くの兵士が風邪をこじらせた。そこで司馬朗は兵士達に薬を全て分け与え、自分は飲まなかったために病死した。齢47。彼の訃報を聞いた兗州の多くの人々は涙を流して、彼を偲んだという。
後に、司馬懿は亡き長兄のことを顧みて、「私は人格者としては、亡き兄に及ばなかった」と懐古したという。
子
- 実子
- 司馬遺(明帝の時期に昌武亭侯に封ぜられる)
- 養子(司馬朗と司馬遺の死後に司馬朗の跡継ぎとされた)
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