大飢饉
飢饉
大飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:57 UTC 版)
「1315年-1317年の大飢饉」の記事における「大飢饉」の解説
1315年春に、ヨーロッパの広範囲で、異常に激しい雨が降り始めた。春と夏を通じて雨が降り続き、気温は涼しいままであった。このような条件下では、穀物は成熟せず、広範囲にわたる作物の不作につながった。動物のための藁や干し草も充分に用意できず、家畜のための飼料もなかった。イングランドでは、ヨークシャーとノッティンガムの低地が浸水し、ヨークシャーのリバー・フォスの豊かな土壌は流された。 穀物の不作により食料の価格が上昇し始め、イングランドでの価格は、春と真夏との間に2倍になった。また、雨天では海水を蒸発させることは難しく、塩の入手も困難になることで食塩の価格も30シリングから40シリングに上昇した。また、食塩の不足により肉を長期間保存することも難しくなった。ロレーヌでは、小麦の価格が320%上昇し、そのためにパンは小作農らにとって手に入れることができなくなった。長期の緊急事態のための穀物の貯蔵所は、王族、領主ら、貴族ら、裕福な商人ら、そして教会に限られていたため庶民の食料は不足した。飢えた人々は森の中で野生の食用の根、草、ナッツ、そして樹皮などで飢えを凌いだ。 文書化された事件の数は、飢饉の規模を示している。イングランドのエドワード2世は1315年8月10日にセント・オールバンズに立ち寄り、自身と側近のためにパンを見つけるのに苦労した。イングランドの王が食事をすることができなかったのは稀であった。ブリストル市の年代記は1315年に次のことがあったと報告した――'a great Famine of Dearth with suchmortality that the living coud scarcesuffice to Bury the dead, horse fleshand Dogs flesh was accounted goodmeat, and some eat their own Children.The Thieves that were in Prison didpluck and tear in pieces, such aswere newly put into Prison and devoured them half alive.' フランス軍はルイ10世の下で、フランダースに侵入しようとしたが、オランダの低地では畑は浸され、軍隊は沼にはまり込んだために、食糧を運び去ることができずそれらを離れる過程で食糧を燃やしながら、撤退を余儀なくされた。 1316年春にも、蓄えを奪われたヨーロッパの住民に雨が降り続いた。貴族から農民までの社会のすべての人々が影響を受けたが、特に農民は住民の95%を占め、予備の食料を持っていなかった。そのため、その場の飢えを凌ぐために輓獣を屠殺し、種粒を食べ、自分の食料を得るために子供たちを捨てる(「ヘンゼルとグレーテル」を参照)など多くの犠牲を払い、老人の間ではより若い世代が生き残るために自発的に食べ物を拒否することによって抵当に入れられた。当時の年代記は共食いの多くの事件を指摘したが、「そのような話が単にうわさの問題ではなかったかどうかは決してわからない」("one can never tell if such talk was not simply a matter of rumor-mongering")。 雨天が続いたために、飢饉のピークは1317年であったが、天候は夏の頃までには通常のパターンに戻った。しかし、その時までに人々は肺炎、気管支炎、結核のような病気によって非常に衰弱していたために、また食料の備蓄の多くが食べられていたために食糧供給が比較的正常なレベルに戻り人口が再び増加し始めたのは、1325年になってからであった。現代の歴史家は犠牲者について数々の議論をしているが、多くの都市や町の人口の10〜25%が死亡したと推定されている。後に発生する黒死病(1347年–1351年)はより多くの人々を殺すことになるが、それは数か月のうちにその地域を襲ったのに対して、大飢饉は何年も続き大衆の苦しみを長引かせた。 Jean-Pierre Leguayは「すでに過密状態であった世界、特に農村の過疎の自然の出口であった町では、大規模な虐殺が行われた。」("produced wholesale slaughter in a world that was already overcrowded, especially in the towns, which were natural outlets for rural overpopulation")と述べた。死亡率の推定値は場所によって異なるが、いくつかの例は、イングランド南部での10〜15%の損失をふくんでいる。北フランスは人口の約10%を失った。
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