大飢饉と羊飼い十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「大飢饉と羊飼い十字軍」の解説
1315年から1317年にかけてのヨーロッパ大飢饉では、パリやアントワープでは何百人もの死体が街路に散乱した。飢えのために、各地で人食(カニバリズム)が行われた。ルイ10世は、フィリップ4世のユダヤ追放令(1306)は王国の経済にとって打撃となっていたため、1315年に高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した。しかし、大飢饉の発生によって、1317年にはシノンでユダヤ居住区が襲撃され、1319年にはリュネルでユダヤ人が儀式殺人で告発された。 1320年、貧窮に耐えかねたフランス北部の農民や修道僧は行き先のない行進をはじめた。一人の若い羊飼いが、奇跡の鳥が生娘に姿を変えて、不信心者を打ち据えに行けと促した。これによって、羊飼い十字軍(パストゥロー十字軍、牧童十字軍)がはじまり、フランス南西部、ボルドー、トゥールーズ、アルビ、さらにスペインで、ユダヤ人が襲撃される大規模なポグロムが発生した。ユダヤ人は襲撃に抵抗したが、やがて集団自決を選び、ヴェルダン=シュール=ガロンヌでは500人が自決し、羊飼い十字軍によって、140のユダヤ居住地が絶滅した。襲撃するユダヤ人がいなくなると、羊飼い十字軍は聖職者に矛先を向けていったため、教皇ヨハネ22世は羊飼い十字軍をたしなめ、年末にはフィリップ5世がフランス軍を出動して制圧した。 同じ1320年、フランス南部オート=ロワール県のル・ピュイで起こった儀式殺人事件では、ユダヤ人が聖歌隊員を殺害して、民衆が取調を待たずに殺したために、1325年、シャルル4世は聖歌隊にユダヤ人に関する司法権を委ねた。 翌1321年、アキテーヌでユダヤ人がキリスト教徒を殺すために井戸に毒を入れたという噂が流れ、実際に井戸に毒が流された。パルトゥネーの癩病患者がユダヤ人から謝礼をもらって井戸にキリストの聖体(聖餅)と混ぜて毒を入れたと告白したという事件が起きた。フィリップ5世は調査を命じて、フランス全土でユダヤ人が逮捕、告発され、シャンパーニュ地方のヴィトリ−=ル=フランソワでは40人のユダヤ人が獄中で自殺し、トゥレーヌ地方シノンでは160人のユダヤ人が焚刑に処された。1322年、フランス王国で再びユダヤ追放令が出された。ポリアコフは、ユダヤ人が綿密な陰謀でキリスト教徒の滅亡を図るという、罪のなすりつけが行われたのはこれが初めてであり、また王権がユダヤ人の財産を没収するために行ったと説明することもできるが、ナチスが「潜在的な復讐屋」としてユダヤ人殺害を正当化するメカニズムと同一のものとする。これ以降、1361年までの40年間、フランスの資料、年代記で、フランス王国のユダヤ人の存在について言及するものはないため、フランスのユダヤ人はほとんどいなくなったとみられる。 1336年、アルザス、シュヴァーベンでユダヤ人虐殺。その直後、バイエルンのデッケンドルフ、オーストリアのブルカで聖体冒涜事件が発生。 1343年、神聖ローマ皇帝バイエルン公ルートヴィヒ4世は、12歳以上のユダヤ人に人頭税を課した。ルートヴィヒ4世は、ニュルンベルクのユダヤ人に対して、ユダヤ人はその身体や財産は皇帝が保有すると宣言した。 1345年、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクは、レグニツァ、ヴロツワフで、ユダヤ人の墓地を壊して、その墓石で町の城壁を補修するよう命じた。
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