追放令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:08 UTC 版)
「ジョン・ウィールライト」の記事における「追放令」の解説
1637年8月に再度議会が開会されたとき、ウィールライトはその反抗的な意見を引っ込めれば、「好意的に見られるかもしれない」と告げられた。これに対してウィールライトは、自分が扇動の容疑で有罪であるならば、死罪に処されるべきであり、議会がそう宣告する意図であるのならば、国王に控訴することになると答えた。それ以上の行動が行われず、判決は再度持ち越された。 議会の次の会期は1637年11月2日に、ニュータウンのスプリング通りにある集会所で始まった。ウィールライトの伝記作者チャールズ・ベルは、この集会の目的が「その信念を捨てるよう強制されない非国教徒を植民地から排除する」ためだと記している。その月曜日に出された最初の命令の1つは、ウィールライトの問題を扱うものであり、ウィンスロップが最後はそのやり方の誤りを見つけるかもしれないと、長い間先送りされていたものだった。ウィールライトはその罪を告白する用意があるかを問われると、「彼に罪は無い。彼はキリストの真実以外の何物も説教していなかった。彼らが(他の牧師が)彼の説教から解釈したものに責任は無い」と答えた。ウィンスロップはウィールライトが到着する以前に平和な植民地の絵を描いており、断食の日の説教の後で如何にボストンの人々がピクォート戦争への協力を拒否したか、ウィルソン牧師が軽視されることが多かったか、タウンミーティングで議論が持ち上がったかを考えた。議会はウィールライトが自発的に植民地から出ていくことを勧めたが、ウィールライトはそのようなことをすれば罪を認めたことになるので拒否した。ウィールライトの外見はしっかりしていたが、その夜議会が休会になったので判決は出なかった。火曜日、この問題に関する議論が続いた後、議会は有罪を宣言し、次の判決文を読み上げた。 ジョン・ウィールライト氏は不服従と扇動の罪で正式に有罪であり、現在自身と過去の振る舞いを正当化し、市民の平和を脅かしている。彼は議会によって市民権を剥奪し、追放に処する。 — Massachusetts General Court, 3 November 1637 ウィールライトは当初3月までに植民地を出ていくようにされていたが、それまでの期間に説教を行わないよう命令されたときに、それを拒否し、2週間以内に司法権の及ぶ範囲から出ていくよう命令された。その出立にあたって安全保障を与えると申し出があったときに辞退したが、保護下に一夜を過ごしたあとで、抵抗しても無駄であることを認識した。2週間の準備期間に説教を行わないよう指示されたときも、それを拒否したが、このときは裁判所がそのような差し止め命令は追及に値しないと判断した。
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