追放令の原因とは? わかりやすく解説

追放令の原因

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 11:55 UTC 版)

バテレン追放令」の記事における「追放令の原因」の解説

プロパガンダ」、「恐怖に訴える論証」、「フィアモンガリング」、「モラルパニック」、および「陰謀論」も参照 秀吉がこの追放令出した理由については諸説ある。 キリスト教拡大し一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。 キリスト教徒神道仏教迫害したため)。 ポルトガル人日本人奴隷として売買していたのをやめさせるため。(性的奴隷からゆきさん遊郭) 秀吉有馬女性連れてくるように命令した際、女性たちキリシタンであることを理由拒否したため。 豊臣秀吉によって1586年5月4日イエズス会に対して布教許可証発布されたことに危機感覚えた仏教等の在来宗教勢力による宗教弾圧要望受け入れたため。 ポルトガルイエズス会(またはスペインフランシスコ会)による侵略を防ぐため。(学説とは無関係だ自主公表された情報源等において陰謀論として論じられてきた。) ポルトガル・スペインの船を、長崎平戸口之津だけでなく、博多にも寄港させるよう頼んだが「博多湾水深浅く危険である」と断わられたため。 1.については、イエズス会宣教師ルイス・フロイスによると秀吉言い分は「かつて織田信長苦しめた一向一揆は、その構成員のほとんどが身分の低い者だったが、キリスト教大名にまで広まっているため、もしキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になる」というものである秀吉このような考えを持つに至った直接的なきっかけは、九州征伐向かった秀吉目の前で当時日本イエズス会管区長でもあったガスパール・コエリョが、スペイン艦隊自分指揮下にあるごとく誇示したことだとも見られている。同時期にイエズス会東インド管区巡察師として日本来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノコエリョ軽率な行動厳しく非難しており、コエリョ行動問題があったことは確かなようである。キリスト教拡大については、6月18日11か条の「覚」(『御朱印師職古格』)ではキリシタンも「八宗九宗」(第九条)と規定して体制下の宗教見なしていたが、翌19日の「追放令」ではこれを覆すかのように邪法授け」るものとしてキリスト教厳しく規定しなおしている。 2.のキリシタンによる神道仏教への迫害については、九州において領民強制的にキリスト教改宗させたり、多良岳金泉寺代表される神社仏閣破壊するなどといったことが有馬氏大村氏などで行なわれていた。[信頼性検証] 3.の人身売買に関しては、11か条の「覚」に、日本人南蛮売り渡すことを禁止する一文がある一方翌日の「追放令」にはそのような文言見当たらない秀吉1587年九州征伐の際、九州中心として奴隷貿易が行なわれていたことについて当時イエズス会布教責任者であったコエリョ呼び詰問するとほぼ同時期にバテレン追放令発布している。ただし、1537年発令され教皇勅書スブリミス・デウス異教徒奴隷とする事を禁じイエズス会日本人奴隷として売買することを禁止するようにポルトガル呼びかけていたこと、ポルトガル国王セバスティアン1世大規模になった奴隷交易カトリック教会への改宗悪影響を及ぼすことを懸念して1571年日本人奴隷交易中止命令したことについて秀吉知ってたかどうかについては不明である点には留意が必要である。 デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化宗教道徳的退廃に対して批判が行われている。 日本人には慾心と金銭執着はなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れかぶせているのを、ポルトガル人ヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記ポルトガル国王による奴隷売買禁止勅令後も、人目を忍んで奴隷強引な売り込み日本人奴隷商人ら行われたとしている。 また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心してポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本渡来する商人日本人奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人いたって強慾であって兄弟縁者朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力詭計用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込みポルトガル人哀願なり、値段の安いことで奴隷買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸い口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種暴力日本人執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して自分犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人日本人悪く扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教教義教えられるばかりかポルトガルではさながら自由人のような待遇受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲル日本にいた従兄弟対話録として著述されており、物理的に接触不可能な両者対話歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権ポルトガル二国間認識落差うかがえる伴天連追放令後の1589年天正17年)には日本初遊郭ともされる京都柳原遊郭豊臣秀吉によって開かれたが、遊郭女衒などによる人身売買温床となり、江戸幕府豊臣秀吉遊郭拡大して唐人屋敷への遊女出入り許可与えた丸山遊廓島原の乱後の1639年寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている。秀吉遊郭作ったことで、貧農家庭親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売り仲介をする女衒が、年季奉公前借金前渡し証文作り本人意志に関係なく性的サービスの提供の強要横行した(性的奴隷)。日本人女性人身売買ポルトガル商人倭寇限らず19世紀から20世紀初頭かけても黄色奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師指摘した日本人同国人を性的奴隷として売る商行為近代まで続いた。 「からゆきさん」、「遊郭」、「女衒」、および「性的奴隷」も参照 4.の女性問題秀吉激怒したと言うのはフロイス日本史)、正確には「女を連れてこうとした施薬院全宗怒って秀吉キリシタン讒言した」というものであり、「秀吉が女漁り邪魔され怒った」というのは誤りである。よってこれが理由ということは考えられないとの説があるが、女漁り施薬院全宗個人嗜好である場合宣教師から秀吉告げ口される前に施薬院全宗が先を制して噂、憶測等をもとにした讒訴をしたとも考えられる。「(秀吉のために)キリシタンの女を連れてこうとした施薬院全宗命令への不服従に怒り秀吉キリシタンの女が命に逆らった讒訴をして秀吉激怒した」のであれば矛盾無くなる。 5.は自身仏教徒である秀吉が元僧侶である施薬院全宗大村由己讒言受け入れたことを前提とし、秀吉側近だった施薬院全宗等が九州一定の信者数持ち前年布教許可まで受けたキリスト教対す危機感主要な動機とした宗教戦争との見解である。必ずしも神国皇国史観沿った魔女狩り宗教弾圧であったとする俗説対立するわけではない豊臣政権から徳川幕府移行してからも、仏僧である以心崇伝キリスト教弾圧において主導的役割果たしている。一方でキリスト教の禁止働きかけたのを神道側とする見解もあり、その直接的なきっかけが、伊勢神宮がある伊勢国南部与えられていた蒲生氏郷キリスト教洗礼受けたことに伊勢神宮神宮密接な朝廷危機感覚えたとするものである。 「仏教と暴力」も参照 6.のポルトガルスペインによる植民地化懸念した陰謀論については、大航海時代ポルトガルゴアマラッカマカオ等の独立した港湾都市小規模貿易拠点居留地手に入れ一方で、すでに文明発達していたインド中国等のアジア諸国植民地化には成功していない。ゴアマラッカ等の港湾都市領有要塞化法制度が異なり財産権十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な環境整備であり、ヨーロッパ小国だったポルトガル最優先すべき目標安全な貿易路の確保ポルトガル人資産保全香辛料貿易独占であって大規模な軍事紛争を伴う内陸部植民地化ではなかった。イエズス会布教支援したポルトガル対比するかのようにキリスト教布教重視しなかったオランダイギリスアジア植民地増やしていった。 フランシスコ会の宣教師米大陸上陸したのは、コルテスによる1522年メキシコ征服翌年1523年であり、侵略完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師侵略支援した事実はなく、また布教活動侵略重要な役割果たした事実はない。米先住民対すフランシスコ会布教については、スペイン人支配者対す反乱に繋がる可能性懸念されており、当初否定的に受け止められていた。イエズス会新大陸での布教始めたのは1570年以降だったが、1500年ペドロ・アルバレス・カブラル率い艦隊ブラジル上陸してから70年経過した後のことである。宗教絡めないイギリスオランダ等によるアジア植民地化成功コルテスによるアメリカ征服宗教介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教布教から文明発達した国家征服乗り出すという想像上政策実現性低く、またはそのような政策実際に存在したかについても見解分かれている。1591年から1593年秀吉フィリピン総督服従迫っており、豊臣政権アジアにおけるポルトガルスペイン脆弱な戦力把握していたとみられる追放令でもポルトガルスペイン軍事的脅威とはみなしてはいない。 「文禄・慶長の役#スペイン領フィリピン」も参照 7.の出来事直後発令している。これより前に大坂同様な頼みを、やはり「大坂湾水深が浅い」という理由断られており、機嫌損ねていたと思われる

※この「追放令の原因」の解説は、「バテレン追放令」の解説の一部です。
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