スペインによる植民地化とは? わかりやすく解説

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スペインによる植民地化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:30 UTC 版)

フィリピンの歴史」の記事における「スペインによる植民地化」の解説

フィリピン到達した初のスペイン人1521年マゼラン率いスペイン船団である。マゼランフィリピンにたどりつくと、鎧と火縄銃大砲などの武器威力背景に、部族長たちに対してスペイン王への服属および朝貢と、キリスト教改宗したセブ王への服従ならびにキリスト教への改宗要求し部族長次々と服従させていった。しかし、イスラム部族長ラプ=ラプはこれを拒絶した激怒したマゼランは、1521年4月27日ラプ=ラプ討伐のためマクタン島へ軍を派遣したラプ=ラプ軍は甲冑身を固めたスペイン兵の足が無防備なことを見抜くなど、巧み戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人殺害したリーダー失ったマゼラン配下たちは退却していった(マクタン島の戦い)。 スペイン1529年サラゴサ条約で、ポルトガルフィリピン領有認めさせた。 1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いスペイン船団サマール島レイテ島到着し、この島々フェリペ皇太子(後のフェリペ2世にちなんで「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名した(「フィリピン」の国名の由来)。 「マニラの戦い (1570年)」および「プリンキパリア」も参照 1565年ミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征隊がメキシコからセブ島到着し、これを占領して植民基地作ったセブ島ヌエバ・エスパーニャ新スペイン副王領一部となったレガスピはこの帰路フィリピンからメキシコに向かう航路発見し当時帆船なので来た航路そのまま引き返すことができなかった)、メキシコフィリピンの間でガレオン貿易始めた:36。ただしポルトガルフィリピン原住民最初拠点セブ追われ本格的な支配開始できたのはフアン・デ・サルセードらによる1570年マニラ征服1571年マニラ市の設置からだった:126当時マニラには日本人20人ほど住んでいた:39初期植民地時代エンコミエンダ制の下で、征服されフィリピン原住民スペイン人征服者によって分配された。分配され徴税労働徴発権引き換えに、スペイン人フィリピン原住民に対してカトリック布教を行うことを義務付けられた。しかし、エンコミエンダ制原住民組織への打撃大きかったため、17世紀前半廃止された。 広大なスペイン帝国の中で、フィリピン総督領メキシコ市首府とするヌエバ・エスパーニャ副王領一部となり、ヌエバ・エスパーニャ副王の下で総督を頭とする行政組織体系化され、州(アルカルデ)、町(プエブロ)、バリオバランガイが行区画として再編され総督権力監視するためにアウディエンシア置かれた。 スペイン当初トルデシリャス条約抵触せずに香料産出する地を求めてフィリピン征服したが、フィリピンでは期待され香料発見されなかったため、交易中継地として扱われることになった1573年には初め中国産品メキシコにまで運ばれガレオン貿易始まった季節風利用して年に一隻ガレオン船マニラからアカプルコまで太平洋横断したガレオン貿易により、アカプルコから山を超えたカリブ海岸のベラクルス中継してヨーロッパにまでアジア産物送られた。さらに、マニラからは1581年1582年南米ペルー副王領カヤオにまでガレオン船送られたが、ペルーマニラ貿易1631年禁止された。ガレオン貿易スペイン側からの決済にはメキシコ銀用いられた。 スペインフアン・ゴンサーレス・デ・メンドーサ1585年出版シナ大王国誌(Historia de las cosas más notables, ritos y costumbres del gran reyno de la China)で当時フィリピンについても言及しており、それによると中国からフィリピンに絹や陶磁器などが非常に安くもたらされフィリピンから中国へは金製品やスペイン銀貨英語版)などが支払われていた。また、中国張燮1617年東西洋考の中で「フィリピンからの品にフィリピン産のものは何も無く夷人銀貨ばかりである」と記している。 「カスティーリャ戦争」も参照 スペイン入植後、浸透した貨幣経済によって原住民はたちまち居住地借金代わりに取り上げられスペインからの入植者増えた1578年には近隣有力なイスラム国だったブルネイスペイン破れたことでイスラム勢力の力が弱まり1587年マニラ近郊首長反乱計画したものの、翌年発覚して数名絞首刑晒し首となっている(トンド謀議英語版)):42,61当時スペイン布教していたカトリック教会は、スペイン本国からの仕送り少なくガレオン貿易収益重要な資金源としていたため、貨幣経済浸透止めることは無かったスペイン荒地開拓積極的に進めたが、その労働力フィリピン原住民頼り結果としてスペインによる土地支配進んでいくことになったまた、信者遺言土地教会寄進することもあり、スペイン占領末期には全耕作地の7%ほどを占めようになった<:49。 「マニラの戦い (1574)」、「カガヤンの戦い (1582)」、および「文禄・慶長の役#スペイン領フィリピン」も参照 1591年豊臣秀吉は、長崎貿易を営む原田喜右衛門部下である原田孫七郎使者として、スペイン領フィリピン日本国への朝貢要求する内容書状持ってマニラスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスへ遣わした1592年豊臣秀吉によって朱印船貿易おこなわれ日本人スペイン商人相手とする通商発展していった。貿易従事する多く日本人東南アジア移り住み各地日本人町形成しフィリピンにもマニラなどに日本人町作られた。1570年には20人ほどだった日本人居住者も、17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなった。大名高山右近日本追放によってマニラ訪れフィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している:39。しかし1633年から順次施行され日本鎖国令によって、これらの都市衰えたこの後、サルセド総督統治時代:8のフィリピン日本の川淵久左衛門訪れており、1671年口述筆記呂宋覚書』として残されている:241ガレオン貿易進展伴って中国人日本人移住しまた、黒人ヌエバ・エスパーニャから連行されマニラ城外居住区築いた。特に中国人ガレオン貿易フィリピン植民地経営当たって決定的に重要な役割果たした1637年には中国人人口は約2万人に達し17世紀から18世紀にかけてフィリピン総督による弾圧もあったものの、中国人現地人女性通婚してメスティーソ混血)と呼ばれる社会階層築きあげ、フィリピン社会同化した。18世紀半ば三度に及ぶ中国人追放令発令後中国メスティーソ地方商業進出したが、19世紀マニラ開港後総督府中国人移民奨励影響もあって新規に移民した中国人商人在来中国メスティーソに代わった。 フィリピンには世俗教会よりも修道会進出進んだが、修道会ガレオン貿易積極的に参加しフィリピン植民地経済支えた。しかし、全体として高温多湿過酷な気候条件地理的な遠隔さ、経済的な魅力の不足から、スペインからフィリピンへの入植は進まなかった。 スペイン人フィリピン植民地化過程で、フィリピン諸島全土植民地化できた訳ではなかった。特に南部ホロ島ミンダナオ島のムスリムスペイン人に対して頑強に抵抗し300年以上に渡ってモロ戦争英語版)と呼ばれるスペインイスラーム勢力との間の抗争続けられた。また、スペイン支配地域でもカトリック化した原住民反乱相次いだ17世紀に入ると、政治的にスペイン対立し東アジアへの進出盛んだったオランダ連合東インド会社によるフィリピン攻撃1610年1660年断続的に行われたヌエバ・エスパーニャ副王政府はこうしたオランダによるフィリピン攻撃からの防衛費をも負担した1603年には、マニラ最初華人反乱起きている。1621年から1621年にかけてBankaw Revoltが起こった18世紀に入ると、七年戦争最中1762年それまでフィリピンとの密輸続けていたイギリス東インド会社によってマニラ占領された。イギリス人1764年フィリピンから撤退したが、この事件スペインによるフィリピン経営あり方再考させる一つきっかけとなり、カルロス3世ブルボン改革によってフィリピンにもタバコ強制栽培専売制度確立(1782)や王立フィリピン会社設立(1785)など、プランテーション農業基盤とした開発植民地への転換目指し政策導入された。 1809年にはイギリスマニラ商館設立したスペインフィリピン経営における商品作物栽培鉱山開発失敗終わったが、イギリス海賊跳梁メキシコ独立戦争影響のため1815年ガレオン貿易廃止され19世紀初めにフィリピン重商主義植民地支配から自由主義的植民地支配移行した1834年マニラ正式に開港されると、自由主義の下で輸出向け商品作物栽培進みマニラ麻砂糖タバコなどがアメリカ合衆国イギリス市場向けて生産される一方で商品作物栽培のための土地所有集中招きアシエンダ呼ばれる大土地所制度確立され農民小作農化が進んだ

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スペインによる植民地化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:43 UTC 版)

マヤ文明」の記事における「スペインによる植民地化」の解説

詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ユカタン半島征服スペイン語版英語版)」を参照グアテマラ征服スペイン語版英語版)」および「ペテン盆地征服スペイン語版英語版)」も参照 1492年クリストファー・コロンブスアメリカ地域到達したときは、いまだマヤ地域にまでは到達していなかった。ヨーロッパ人がはじめてマヤ姿を現すのは、1517年フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ遠征によってである。この時の遠征失敗終わったが、翌1518年にはフアン・デ・グリハルバトゥルム到達し文明の高さに驚嘆している。その後スペイン人による本格的な侵略はじまり、1524年にはペドロ・デ・アルバラードによってマヤ高地キチェ人征服され、この地方グアテマラとしてスペイン支配下入ったユカタン半島北部また、フランシスコ・デ・モンテーホによって1527年侵略開始されたが、各都市の強い抵抗にあって2度撤退し1540年ユカタン西岸カンペチェ1542年半島北部メリダの街を建設して足がかりとし、1546年にこの地方制圧した。 これらコンキスタドール活動によってマヤ文明北部と南部スペイン支配下入ったが、密林広がるマヤ低地南部はじめとする内陸部征服は遅れ、この地域にはいまだマヤ文明諸国残存していた。これら諸国その後150年以上独立保っていたが、1697年に最も遅くまで自立保っていたペテン盆地タヤサル陥落マヤ全域スペイン領併合された。

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