スペインによる征服
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スペイン人は1522年にはじめてこの地を訪れた。年代記作家のベルナル・ディアス・デル・カスティリョによれば、この土地には約15000人の先住民が住んでいたというが、他の推定では1520年代に最大75000人が住んでいたともいう。ペドロ・デ・アルバラードが1524年にベラクルス南部のスペインの要塞から中央アメリカへ向かう際にこの地を征服した。征服以後、先住民の人口の大部分はこの土地からの移民またはヨーロッパ人がもたらした伝染病による死によって失われた。 1526年、現在グアテマラに属している部分を含むソコヌスコ一帯はスペイン国王に属するものと宣言された。チアパスの一部として、初代総督にはペドロ・デ・モンテホが任命された。しかしこの期間は短く、その後はメキシコシティによって統治されるようになった。ミゲル・デ・セルバンテスは16世紀後半にスペイン王にソコヌスコ統治の権利を要求したが、これはカカオの権益のためだった。 1545年にバルトロメ・デ・ラス・カサスによってサン・クリストバル・デ・ラス・カサスから派遣された最初の宣教師団がソコヌスコに到着した。彼らはドミニコ会に属し、ソコヌスコを6つの小教区に分けた。はじめはトラスカラ大司教区に属したが、1538年にチアパス教区が作られ、ソコヌスコはその一部になった。 1543年、チアパスは今のメキシコ南部と中央アメリカの大部分を含むアウディエンシア・デ・ロス・コンフィネス(レアル・アウディエンシア・デ・グアテマラ)の一部となった。このアウディエンシアの首都はグアテマラシティであったが、1564年にパナマシティに首都が移り、ソコヌスコは再びメキシコシティによって支配されるようになった。しかし1568年にグアテマラ総督領が成立するとソコヌスコとチアパスはその一部分になり、1821年のメキシコ独立革命までその状態が続いた。それにもかかわらず、スペイン統治時代を通じてメキシコシティとの重要な政治的・経済的な結びつきを維持した。1540年にはウェウェタンがソコヌスコの首都になったが、1700年にはエスクィンタに移動した。1794年にこの町がハリケーンに襲われたため、再びタパチュラに移転した。エンコミエンダ制とアシエンダ制による迫害により、人口の減少とさまざまな反乱が起きた。そのひとつ、1712年に起きたツェルタル族の反乱 (Tzeltal Rebellion of 1712) ではカンクク(英語版)を中心として32の村が加わった。人口減少に対応するため、スペインは1760年に先住民を保護するための2つのアルカルデを作ったが、保護は不十分に終わり、1790年にソコヌスコは地方としての地位を失ってチアパスの一部分になった。 ソコヌスコとチアパス高地は中央アメリカで最初にスペインからの独立を支持した地域のひとつだった。彼らはアグスティン・デ・イトゥルビデの「3つの保証軍」を支持したが、1821年にスペインから分離して独立を宣言した。1823年にメキシコと新しい中央アメリカ連邦共和国が分離した際、チアパスがどちらと同盟あるいは合併するかについて議論が分かれた。高地の人々はメキシコとの統一を望んだが、ソコヌスコを含む低地の人々は中央アメリカを支持した。
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スペインによる征服
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スペインによる征服もここから始まり、今でもスペイン植民地時代の宗教的・文化的遺産を多く残す。ビサヤ諸島は15世紀に相次いでこの地を訪れたスペインの航海者と接触した。1521年に世界一周の途上訪れたフェルディナンド・マゼラン、1543年に訪れてこれら諸島に「フィリピン」の名をつけたルイ・ロペス・デ・ビリャロボス、そして1565年に来航しフィリピンを征服したミゲル・ロペス・デ・レガスピらはビサヤ諸島を探検しこれをスペイン領にしようとした。なかでも、レガスピはビサヤ諸島の征服と植民地化に成功し、セブ市をフィリピン初の植民都市とした。
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スペインによる征服
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詳細は「スペインによる征服(スペイン語版、英語版)」を参照 1532年にスペインのコンキスタドール(征服者)がペルーに戻ってきたとき、インカ帝国はかなり弱体化していた。その原因としては、インカ帝国内戦が勃発したことや新たに征服された領土内に不安が広がったことが挙げられるが、それ以上に中央アメリカから広まった天然痘の影響が大きかったと考えられる。コンキスタドールは身長こそ少し高かったものの、インカには確かに途方もない高地に順応しているという利点があった。ピサロ隊の兵力は、わずか168名の兵士と大砲1門、馬27頭と決して抜きんでたものではなかった。そのため、万一、自隊を簡単に壊滅できそうな敵に遭遇したら、その場をどのように切り抜けるかをピサロはいつも説いていた。完全に武装されたピサロの騎兵は、技術面ではインカ軍に大きく勝るものであった。アンデス山脈では、敵を圧倒するために大人数の兵士を敵地に送り込む攻城戦のような戦闘が伝統的な戦法であったが、兵士の多くは士気の低い徴集兵であった。一方、スペイン人はすでに近代以前に「鉄砲」(Arcabuz)などの優れた兵器を開発しており、イベリア半島で何世紀にもわたるムーア人との戦いを経験し、さまざまな戦術を身につけていた。このようにスペイン人は戦術的にも物質的にも優位であったうえに、インカによる自領の統治を断ち切ろうとする何万もの同盟者を現地で獲得していた。 最初の交戦は、現代のエクアドル、グアヤキル近郊の島で1531年4月に始まったプナの戦い(英語版)であった。その後ピサロは、1532年7月にピウラを建設した。エルナンド・デ・ソトは内陸部の探検のために送り出され、兄との内戦に勝利し8万人の兵とともにカハマルカで休息中の皇帝アタワルパとの会見への招待状を携え帰還した。 ピサロとビセンテ・デ・バルベルデ(スペイン語版、英語版)神父らの随行者は、少数の供しか連れていなかった皇帝アタワルパとの会見に臨んだ。バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と帝国のカルロス1世への服従とキリスト教への改宗とを要求した投降勧告状(requerimiento)を読み上げた。言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の説明に幾分困惑し、使節の意図を完全に理解できてはいなかったと言われている。アタワルパは、ピサロの使節が提供したキリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、スペイン人たちは苛立ち、皇帝の随行者を攻撃、皇帝アタワルパを人質として捕らえた(アタワルパの捕縛(スペイン語版、英語版)、1532年11月16日)。 人質として捕らえられた皇帝アタワルパはスペイン人たちに、彼が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。ピサロはこの身代金が実現しても約束を否定し釈放を拒否した。アタワルパの幽閉中にワスカルという者は余所で暗殺された。スペイン人たちはこれをアタワルパの命令であったと主張、1533年7月のアタワルパ処刑に際しては、これは告訴理由の一つとなった。
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スペインによる征服
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「イギリス領西フロリダ」の記事における「スペインによる征服」の解説
アランフェス条約により、スペインはフランス側としてアメリカ独立戦争に参戦したが、13植民地側では参戦しなかった。ベルナルド・デ・ガルベス率いるスペイン軍は前進し、バトンルージュとモービルを占領した。1781年、スペインはペンサコーラとその守備隊を占領した。1783年のヴェルサイユ条約で、イギリスは西フロリダと東フロリダをスペインに返還した。 1783年にスペインが西フロリダを獲得したとき、東側のイギリスとの境界はアパラチコーラ川だったが、1785年にスペインは境界を東のスワニー川まで移動させた。その目的は、サンマルコス地区とアパラチー地区を東フロリダから西フロリダに移すことであった。
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スペインによる征服
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「エルサルバドルの歴史」の記事における「スペインによる征服」の解説
詳細は「スペインによるエルサルバドル征服(英語版)」を参照 スペインによるクスカトラン王国征服の最初の試みはペドロ・デ・アルバラードにより1524年に行われたが、アカフトラの戦い(英語版)でアトラカトル(英語版)王とアトナル王子(Atonal)率いるピピル人戦士により撤退に追い込まれた。アルバラードは翌1525年に再び征服を試み、今度は植民地化に成功して、エルサルバドルを王立メキシコ・アウディエンシア(英語版)の支配下に置いた。
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スペインによる征服
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「ホンジュラスの歴史」の記事における「スペインによる征服」の解説
詳細は「スペインによるホンジュラス征服(英語版)」を参照 ホンジュラスがはじめてヨーロッパ人に発見されたのは、クリストファー・コロンブスが第四次航海(英語版)中の1502年7月30日にバイア諸島に到着したときだった。同年8月14日、コロンブスは現トルヒーリョ(英語版)近くで米州大陸本土に上陸した。コロンブスは海岸近くの水深が深かったためそこをホンジュラス(「深さ」)に名づけた。 1524年1月、エルナン・コルテスはクリストバル・デ・オリド(英語版)にホンジュラスで植民地を設立するよう命じた。オリドは船数隻、兵士と入植者で合計400人以上を率いてキューバに向かい、コルテスが準備した補給を回収した。キューバ総督ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルはオリドに設立した植民地を自分のものにするよう説得した。オリドは続いてホンジュラスの北部海岸に向かい、プエルト・カルバリョス(英語版)の東のトリウンフォ・デ・ラ・クルス(英語版)で上陸、そこに入植して総督を称した。コルテスはオリドの反乱を知ると、フランシスコ・デ・ラス・カサス(英語版)を船数隻とともにホンジュラスに派遣して、オリドを追放してホンジュラスをコルテスの領地にするよう命じた。しかし、ラス・カサスはベリーズとホンジュラス沖で度重なる嵐に遭って艦隊のほとんどを失った。ラス・カサス自身の旗艦はのろのろ進みながらようやくオリドの本拠地であるトリウンフォの沖合に着いた。 ラス・カサスがトリウンフォに到着した時点ではオリドの軍勢の大半がヒル・ゴンサレス・ダビラ(英語版)の軍勢に対処するために内陸部にいた。それでもオリドはカラベル船2隻で攻撃を開始したが、ラス・カサスは砲火で反撃、さらに分遣隊を派遣してオリドの船に乗船、拿捕しようとした。この状況に至ってはオリドが和議を提案、ラス・カサスが受け入れて自軍を上陸させなかった。しかし、その夜に激しい嵐がラス・カサス艦隊を襲い、ラス・カサスの軍勢の3分の1が失われた。その後、ラス・カサス艦隊は風雨にさらされた上に食料もない2日間を過ごした後に捕虜になった。オリドに忠誠を誓うよう強制された後、ほとんどが釈放されたが、ラス・カサスは釈放されず、後にゴンサレスもオリドの内陸部隊に捕らえられた。 その後の出来事については、スペインの文献に2通りの説がある。1つはアントニオ・デ・エレーラ・イ・トルデシリャスが17世紀に書いたものであり、オリドの兵士が反乱して彼を殺害したというものだった。もう1つはベルナル・ディアス・デル・カスティリョによる『メキシコ征服記』(16世紀)であり、ラス・カサスがオリドを捕らえてナコ(スペイン語版)で殺害したというものである。一方、コルテスは陸上を行軍してメキシコからホンジュラスに向かい、1525年に到着した。コルテスは現プエルト・コルテスとトルヒーリョ近くにヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・ナビダッド(Nuestra Señora de la Navidad)という都市を設立するよう命じ、ラス・カサスをその総督に任命した。しかし、ラス・カサスもコルテスも1525年末までにメキシコに戻り、ラス・カサスはそこでオリドの死に関係したとして逮捕され、スペインに送還された。彼は1527年にメキシコに戻ったが、翌1528年にコルテスとともにスペインに帰国した。 1526年4月25日、メキシコに戻る前、コルテスはエルナンド・アリアス・デ・サアベドラ(英語版)をホンジュラス総督に任命、先住民に手厚く接するよう命じた。10月26日、スペイン王フェリペ1世はディエゴ・ロペス・デ・サルセド・イ・ロドリゲス(Diego López de Salcedo y Rodríguez)をホンジュラス総督に任命した。その後の10年間、植民地人が総督に反乱したり、先住民がスペイン人に反乱するなどして植民地が混乱した。 サルセドは私利のためにカスティーリャ・デ・オロ(英語版)総督ペドロ・アリアス・ダビラ(英語版)と戦った(ダビラもホンジュラスを自領にしようとした)。1528年、サルセドはペドロ・アリアスを捕らえてホンジュラスの一部を割譲させたが、フェリペ1世に却下された。サルセドが1530年に死去した後はホンジュラスが再び混乱に陥り、1536年にペドロ・デ・アルバラードが到着してようやく収まった。 1537年、フランシスコ・デ・モンテーホがホンジュラス総督に任命された。その前にアルバラードが領土の分割を取り決めたが、モンテーホはホンジュラスに到着するとすぐにそれを取り消した。モンテーホの配下アロンソ・デ・カセレス(英語版)はカシケのレンピラが1537年から1538年にかけて起こした先住民反乱を鎮圧した。1539年、アルバラードとモンテーホが総督位を争い、当局の目にとまった結果、モンテーホはチアパスに向かい、アルバラードはホンジュラス総督になった。 アルバラードがホンジュラスを征服する途上、ホンジュラス北海岸の多くの先住民が捕らえられてスペインのカリブ海にあるプランテーションで強制労働を強いられた。しかし、スペインによるホンジュラス征服は1536年にアルバラードがシクンバ(スペイン語版)率いるティカマヤ(Ticamaya)での先住民反乱を鎮圧した後にようやく行われた。アルバラードは先住民の町を分割して、スペインのコンキスタドールにレパルティミエントとして分け与えた。1537年から1538年にかけてはグラシアス・ア・ディオス、コマヤグア、オランチョ近くで先住民反乱がおこり、うちグラシアス・ア・ディオス近くでおきた反乱はレンピラが率いたものであり、今日では彼を記念してホンジュラスの通貨単位の名前が「レンピラ」となっている。
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