近世までの歴史
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「八代郡 (甲斐国)」の記事における「近世までの歴史」の解説
古代の律令制下では地方制度として国郡制が施行され、甲斐国では八代郡を含む四郡が設置される。八代郡に関する初見史料は『続日本紀』神護景雲2年(768年)5月28日条とされる。 郡域のうち白井郷に比定される甲府盆地南部の曽根丘陵は甲斐銚子塚古墳をはじめとする畿内の影響を受けた古墳前期の大型古墳が分布している地域で、伝統的勢力の根拠地である。古墳時代後期の甲府盆地においては、盆地南部の伝統的勢力の衰退後に盆地各地へ古墳の分布が拡散し、6世紀後半段階では盆地東西に二大勢力が出現する。八代郡域にあたる笛吹市御坂町井之上には盟主とされる姥塚古墳を築造した勢力と、巨摩郡域にあたる甲府市千塚の加牟那塚古墳を盟主とする勢力が対峙していた構造が指摘されている。 7世紀には山梨郡域にあたる笛吹市春日居地区において白鳳期の古代寺院である寺本廃寺(寺本古代寺院)を創建する勢力が出現しているが、国郡編成にあたり盆地赤口の在地勢力が立郡に携わっていた可能性が考えられている。 八代郡の郡衙所在地は不明であるが、八代郡衙については笛吹市八代町高家を「郡家」が訛化したものであるとする説があるほか、同市八代町米倉には屯田・屯倉跡が存在したという伝承があり、同市八代町永井の瑜伽寺には奈良時代の塑像片が伝来し、境内からは同時期の布目瓦が出土していることから周辺は八代郡における政治的中心地であったと考えられている。 古代甲斐国においては山梨郡が政治的中心地であったと考えられており、山梨郡山梨郷に比定される笛吹市春日居地区には寺本廃寺や官衙遺跡が分布し条里制地割も見られることから、国府所在地であったと推定されている。一方、『和名類聚抄』(以下『和名抄』)においては国府所在地を八代郡としており、八代郡八代郷に比定される笛吹市御坂町国衙はその遺称地であると考えられている。御坂町国衙は八代郡と山梨郡井上郷との郡境付近に比定されることからも、春日居地区を前期国府、御坂町国衙を後期国府とし、前者から後者へ移転された可能性が考えられている。 平安時代後期には10世紀初頭に成立し、国中三郡に田地が分布していた市河荘が存在し、中世には石和流武田氏の本拠であった石和御厨や金沢流北条氏領であったと考えられている石和荘、天皇家領の青島荘、古代には在庁官人三枝氏の基盤であった八代荘のほか、向山荘や石橋荘、井上荘などの存在が見られる。 『和名抄』国郡部においては「八代」は「夜豆之呂」と訓じられ、郡域は旧東八代郡・西八代郡全域から南巨摩郡身延町、南部町の富士川左岸、富士河口湖町の西湖付近までが比定されている。八代郷、長江郷、白井郷、沼尾郷、川合郷の5の管郷を持っている。
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近世までの歴史
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マヤの年代記によれば、ウシュマルは、フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる。このことは、ウシュマルと同盟者チチェン・イッツアの衰退とマヤパンへユカタンの権力が移っていく過程と関係しているとおもわれる。シウ家が、マニへ首都を移すとともに、ウシュマルの人口は減少していった。 スペインによる征服後、シウ家自身は、スペインの同盟者となったが、初期植民地時代の記録によると、ウシュマルは、1550年代までは、ある程度の数の人々が住む重要な場所であったが、そこにスペイン風の町が建てられることはなくやがてウシュマルは放棄されることとなった。 ウシュマル遺跡「魔法使いのピラミッド」 ウシュマル遺跡の「尼僧院」
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