近世フランス経済の動向
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「近世フランス経済の動向」の解説
近世のフランス経済は農業に圧倒的な比重が置かれ、17世紀末まで全人口の少なくとも85パーセントは農村人口が占めた。都市人口も少なく、別格のパリでさえ18世紀初頭段階で約50万人にすぎず、それに次ぐのはリヨン、マルセイユ、ルーアン、リール、オルレアンの五大都市であり、いずれも10万人を切っていた。農業は技術的に中世からほとんど進歩がみられず、定期的に一定の土地を休耕せざるをえない二圃制・三圃制の採用が主流で、生産性は概して低かった。そして、フランス経済は農業が支配的であることに起因する脆弱性を内包しており、常に凶作から始まって経済全般に波及するタイプの経済危機を引き起こす構造を伴っていた。工業は小規模な手工業が支配的であって技術的進歩が乏しく、工業生産の大部分が限られた地域的な需要に応じた小規模なものであり、その中心は繊維工業であった。 毛織物工業では、ラングドック、プロヴァンス、ドーフィネはレヴァント地方への輸出用ラシャが生産されていた。シャンパーニュ地方のスダンは北ドイツへの輸出用ラシャを生産していたが、ここではユグノーの製造業者が織機の半数を所有していた。絹織物工業においては、17世紀中葉トゥールやリヨンでの顕著な発展が知られるが、これはユグノーの貢献によるところが大きい。リンネル工業をフランスに導入したのもユグノーであり、イングランドへの輸出用商品として貴重なものであった。亜麻織物や麻織物は西部で盛んであった。 オーヴェルニュやアングーモワでは製紙業が発達していたが、その主な担い手もユグノーであった。ここで製造された紙はフランス国内のみならず、イングランドやオランダでも消費された。とくにオーヴェルニュのアンベール産の紙は、当時のヨーロッパで最良のものとされていた。ユグノーの手工業者が担当したこれらの工業は、1685年のフォンテーヌブローの勅令(詳細は後述)以後、急速に衰退していったと説明されることが少なくない。そのほかの重要な工業部門としては、建築とそれに付随する奢侈品の生産があったが、鉱業や製鉄業はまだ二次的な役割しか果たしていなかった。 ユグノーはラ・ロシェルやボルドーにおける海上交易の発展にも貢献し、ボルドーにおいては主としてイングランド・オランダとの交易を担ったほか、ラ・ロシェルにおいてはナントの勅令直前まで貿易は彼らの独占状態にあるという状態であった。ユグノーの銀行家としては、17世紀初めにはリシュリューの財源となったタルマン家やラムブイエ家、ユグタン家が知られる。なお、ユグタン家はリヨンの出版業者であったが1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した。 長期的には、フランスは他のヨーロッパ諸国同様、中世末の14世紀から15世紀にかけて戦乱やペストによる人口の激減・商業活動の減退の傾向が著しかった。その後、大航海時代が本格化する15世紀末以降は長期的好況を享受し、1560年代から16世紀末葉まではユグノー戦争の影響で深刻な不況に見舞われるも17世紀には活力を回復し、1630年代に三十年戦争への参戦と度重なる疫病や飢饉によって経済が停滞した一方、その間は市場経済の進展がみられた。ただし、16・17世紀のフランスはまだ一体的な国民経済を形成しておらず、多様な地域経済の寄せ集めにすぎない状態であったため、穀物の市場価格も国内に統一的な価格は存在しなかった。そして、これら地域経済は17世紀前半にナントやボルドーなど大西洋岸の都市商人がオランダ商船のための仲買人として活動していたことで知られるように、しばしば国外の経済的なネットワークと密接なつながりを有していた。
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