本格化
本格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 15:43 UTC 版)
堂々川で砂留普請が本格的に進められたのは阿部正福藩主時代のことになる。これは享保2年(1717年)福山藩史上初めての百姓一揆が起こりその中で農民は農地保全を藩に懇願し、正福は農村再建としてそれに答えたことにより、砂留普請が進められていったと考えられている。 堂々川砂留群に関する史料は少ないため不明な点は多い。以下現存する史料で確定している江戸期から明治初期までの堂々川周辺整備の記録を列挙する。 1700年(元禄13年) : (普請開始年と推定) 1721年(享保6年):大原池、淀ヶ池築造。 1722年(享保7年):砂留普請の動き。 1732年(享保17年):鳶ヶ迫池築造、鳶ヶ迫砂留普請、のち破損。 1734年(享保19年) : 東中條村に砂留17・石川堰18存在。 1765年(明和2年) : 淀ヶ池新池築造 1773年(安永2年) : 「砂留とうとう奥3ヶ所」(堂々川1番砂留と6番砂留の基礎部分だと推定されている) 1773年(安永2年) : 大原池、淀ヶ池築造 1832年(天保3年) : 堂々川3番砂留普請 1835年(天保6年) : 堂々川6番砂留普請 1870年(明治3年) : 堂々谷砂留7ヶ所増改築 1879年(明治12年) : 堂々砂山砂留工事 1880年(明治13年) : 堂々谷砂留増築 1884年(明治17年) : 鳶ヶ迫砂留修築 ただし江戸期から明治初期までは砂防堰堤として機能しなかったと考えられている。
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本格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 07:15 UTC 版)
宝永7年(1710年)阿部正邦が入封、福山藩を掌握し藩制再整備を務めたが半ばで死去、正徳5年(1715年)から阿部正福が藩主となる。享保2年(1717年)福山藩史上初めて全藩にわたる百姓一揆が起こり、正福は農村再建に乗り出した。この年貢減免一揆を起こし結束した農民たちが農地保全を藩に懇願し、藩は農村再建政策の一環としてそれに答えたことにより、藩内に砂留普請が本格化していったと考えられている。ただし通説では、享保4年(1719年)鞆での朝鮮通信使接待、享保6年(1721年)芦田川の氾濫、享保17年(1732年)享保の大飢饉、寛保2年(1742年)利根川氾濫による修復手伝い普請、と藩財政を揺るがす任務・事件が立て続けに起こったため、正福の農村再建はなかなか進まなかったと見られている。なお福山藩の砂留普請が本格化していったこの1700年代前半の将軍は、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗である。 『東中條村明細帳(控)』によると享保19年(1734年)時点で同村内に17基の砂留があったという。『西中條村誌』では元文3年(1738年)時点で同村内に12基の砂留があったという。『國頭家文書』では宝暦14年(1764年)福田(別所)に13基の砂留があったという。『松永市本郷町誌』には天明7年(1787年)松永本郷銅山の下流側に本郷砂留があったと記載されている。文化9年(1812年)『山手村絵図』では2基の存在が確認できる。文政7年(1824年)頃福山藩藩士小田茂八が書いた『増補御普請手控』には藩による普請の歩掛に河川・溜池・干拓に加えて砂留石垣が記載されており、これは砂留普請が藩の事業であったことを裏付ける史料である。 阿部氏7代藩主阿部正弘は、天保の改革失敗による政治不安・安政の改革・黒船来航・日米和親条約と続いた幕末の時期に老中首座であった人物である。通説では正弘は藩校誠之館を設立し人材育成に尽力したことなど藩政にも意欲的であったものの、藩は財政難で更に幕末の動乱期に幕閣を担ったため年々藩政に時間を割けなくなったとされている。ただ福山の砂留の歴史に限定すると現存する史料にも表れているように(下記年表参照)、正弘は歴代藩主の中でも特に農民からの要求を聞き入れ砂留普請を推進したと見られている。 いくつもの砂留が造られたが江戸期ではこうした対策は実らなかったと考えられている。毎年河床浚渫のため夫役が課せられていたという。明治15年(1882年)に書かれた『西中條村誌』にはよみ人しらずの句が書かれている。 安那の海は 彌砂の海と なりにけり 川とは見えす 埋もる砂留 — よみ人しらず、 年々に かく埋れ来て 行末は いかにやならん せくすべもなみ — よみ人しらず、
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本格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:38 UTC 版)
その後1960年代に、フォーミュラ1チーム「セオドール」のオーナーで東南アジア有数の大富豪であるテディ・イップによるテコ入れなどによって、1970年代にトヨタ自動車や日産自動車、マツダなどの日本の大手自動車メーカーが相次いでワークスやセミワークス体制で参入し、三菱自動車がワンメイクのレースをスタートさせたりして、日本人の参加者も多数出るようになりました。次第に世界的にも知られる市街地レースの一つになっていった。 同時期はトヨタのワークスドライバーであった舘信秀が、市販車部門でトヨタ・セリカをドライブし日本人初優勝と2連覇を達成し、「マカオの虎」の異名を取った。 また開催時期には香港やアジア各国から多くの観戦客が訪れることから、ポルトガルのマカオ政庁も観光資源の1つとして積極的にプロモーションを行うようになっていき、ポルトガル総督も観覧するほか、マカオ港の旅客ターミナル付近への本格的なピットエリアやグランドスタンド、ガードレールの設営などのインフラストラクチャーの整備も行われるようになっていった。 なお、1970年代初頭まではフォーミュラカーとツーリングカーが混走していたが、中級フォーミュラであるフォーミュラ・パシフィック(FP)の本格導入などにより、クラス分けされ複数のレースが開催されるようになり、これを受けて上記の舘やリカルド・パトレーゼ、関谷正徳などの日本やヨーロッパのプロのレーシングドライバーが多数参戦するようになっていった。
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本格化
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1964年(昭和39年)の夏頃から脚部不安が改善し始め、コンスタントに出走することができるようになった。同年11月から12月にかけて条件戦を4連勝し、翌1965年(昭和40年)1月には重賞のアメリカジョッキークラブカップに出走。ここでは10着に敗れたものの、4月のダイヤモンドステークスで菅原泰夫が騎乗し、初めて重賞を勝った。この年のシーズン後半には当時の中央競馬トップの競走馬と対戦するようになり、10月のオールカマーでは加賀武見に乗り替わり、前年の天皇賞(秋)や有馬記念を勝ったヤマトキヨウダイらを下し優勝した。 11月には天皇賞(秋)に出走し、加賀が向こう正面で後続を30馬身以上引き離す大逃げの戦法をとって3着に粘り、場内を沸かせた。優勝したのは三冠馬シンザンであったが、ミハルカスに騎乗した加賀は前走の目黒記念の結果から正攻法ではシンザンには勝てないと判断し、「なんとか一矢報いたい」という気持ちから大逃げを打ったと後に証言している。しかしシンザンの厩務員を務めた中尾謙太郎によると、シンザン陣営には「どんなレースでも、なにが来ても負けん」という自信があったという。
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