本格小説家への夢――途絶
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「梶井基次郎」の記事における「本格小説家への夢――途絶」の解説
11月下旬、病状が重い中、「のんきな患者」の執筆に懸命に取り組んだ基次郎だが、思うようにならず、12月2日に、冒頭から書き直して9日夕方に完成させ、母の校正で10日の深夜2時にやっと清書が出来た。弟・勇はそれを持ってオートバイで大阪中央郵便局まで飛ばし、航空便で東京の中央公論社に送った。中旬、執筆や転居の無理がたたり、基次郎はカンフル注射や酸素吸入で看護される病床生活になった。 ひと足先に20日に新年号が基次郎の元に届き、24日に原稿料230円が送金されてきた。これが基次郎の初めて手にした「原稿料」であった。基次郎は母に金時計を買ってやると言ったが、「そんなピカピカしたものはいらん」と母は遠慮した。歳末には母と大阪の丸善に出かけて、その原稿料で弟の嫁の3姉妹(豊子・光子・雅子)にショール、自分にはオノトの万年筆を買った。この月、基次郎は『作品』からの依頼原稿のため、草稿「温泉」に取りかかっていた。 1932年(昭和7年)1月、「のんきな患者」が『中央公論』新年号に発表された。この作品は、正宗白鳥が『東京朝日新聞』で褒め、直木三十五が『読売新聞』の文芸時評で取上げ「シャッポをぬいだ」と評して好調であった。しかし7日、体調のすぐれない基次郎は『作品』編集部に宛て、約束が果たせないかもしれないと書いた。中旬、母は基次郎と一緒に落ちついて暮らせる家を住之江区の北島や姫松、田辺方面に探した。絶対安静の床で基次郎は、「のんきな患者」の続篇を考えていた。 早く起きて小説が書き度いです、小説のことを考へると昂奮して寝られなくなるので困りました、それがこの頃段々よくなつて来てからは別にさうも考へず夜も昼もよく寝ます、こんどはあれの続きのやうなものをやはり書き度いのです、「のんきな患者」が「のんきな患者」でゐられなくなるとこまで書いてあの題材を大きく完成したいのですが。それが出来たら僕の一つの仕事といへませう。 — 梶井基次郎「飯島正宛ての書簡」(昭和7年1月31日付) 2月、小林秀雄が『中央公論』で「檸檬」をはじめとした基次郎の作品を賞讃した。しかし基次郎は嬉しいながらも、小林が「のんきな患者」を論じていなかったことが少し心残りであった。病床で森鷗外の史伝・歴史文学に親しんでいた基次郎だが、次々と友人らが見舞いに来ても、胸の苦しみであまりしゃべれず、次第に本を読むこともできなくなってきた。下旬に往診に医師から心臓嚢炎と診断されて胸を氷で冷やした。 3月3日、一時気分がよくなり頭を洗ったり、髭を剃ったりするが、母は往診の医師の家に行き、今度浮腫が出たらもう永くは持たないと警告され、絶望しながらも覚悟を決めた。滋養のあるバターや刺身や肉類に飽きた基次郎のため、母は旬の野菜や西瓜の奈良漬など欲しがるものを食べさせたが、この頃から基次郎は噛むことも辛くなり流動食になった。 次第に様態悪化し、12日から13日、基次郎は狂人のように肺結核に苦しみ、酸素ボンベ吸入をしてやっと眠った。17日の午後2時頃起きると顔が2倍になるほど浮腫がひどく出て、手も腫れていた。基次郎は手鏡で確かめたがったが、見ない方がいいと言う母に素直に従った。食欲もなくなり、この日で基次郎の日記が途絶えた。 この頃から兄や姉を家に呼んでほしいと寂しさを訴え、19日には、別宅にいる弟・勇と良吉を枕元に呼んで手を握らせた。20日には京都帝大工学部の入学発表から帰った良吉の勇ましい下駄の音で、「良ちゃん、試験はよかったな」と呟き、声を上げて泣く弟を笑顔で祝福した。21日には、ひどい浮腫の手当をする医者に「もうだめでしょう」と何度も訊ね、22日は朝から激しい苦痛で、夜半に母が呼んだ派遣看護婦の荒い応対が気に入らず、「帰して仕舞へ」と言い張った。 23日、基次郎は朝から苦しみ、姉に会いたがり、肝臓の痛みを訴えた。医者の投薬と注射でうつらうつらの状態の夜、基次郎は頓服を要求し、勇がやっとのことで求めてきた薬を飲んだ。酸素吸入も効かずに激しく苦しむ基次郎に母は、「まだ悟りと言ふものが残つてゐる。若し幸いして悟れたら其の苦痛は無くなるだらう」と諭した。 基次郎は死を覚悟し、「悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と合掌し、弟に無理を言ったことを詫びて目を閉じた。その頬にひとすじの涙をつたうのを勇の嫁・豊子は見ていた。夕刻前に基次郎は意識不明となり、家族が見守る中、24日の深夜2時に永眠した。31歳没。奈良県高市郡飛鳥村(現・明日香村)の唯称寺の僧職・順誠になっていた異母弟・網干順三が駆けつけ、通夜で読経した。 遺言により棺は茶の葉が詰められ、上部は草花で飾られた。戒名は「泰山院基道居士」。25日の午後2時から王子町2丁目13番地の自宅で告別式が行われ、15時に出棺した。阿倍野葬儀場の荼毘に付された遺骨は、南区中寺町(現・中央区中寺)常国寺2丁目にある菩提寺の日蓮宗常国寺の梶井家代々の墓に納められた。
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