正宗白鳥とは? わかりやすく解説

まさむね‐はくちょう〔‐ハクテウ〕【正宗白鳥】


正宗白鳥 まさむね はくちょう

明治12年3月3日昭和37年10月28日(1879~1962

岡山生まれ作家明治29年(1896)東京専門学校英語専修科入学牧師植村正久より洗礼を受ける。卒業後は同校出版部勤務島村抱月のもと読売新聞月曜文学欄批評書き始める。36年(1903)読売新聞社入社37年1904処女作寂寞」を『新小説』に発表41年(1908)まで『早稲田文学』に連載した何処へ」は自然主義作家としての代表作となった43年(1910)退社して作家として自立短編小説のほか、戯曲や『作家論』(194142)などの批評幅広く執筆する

キーワード 文学者
号・別称 剣菱(けんびし) , 影法師(かげぼうし)
著作等近代デジタルライブラリー収載
  1. 珍事奇談 / 南海散士名倉昭文館, 明26.3 <YDM94520>
  2. イリアッド物語 / ホオマア著 ; 正宗白鳥(忠夫)編 富山房, 明36.4 (通俗世界文学 ; 第3編) <YDM100828>
  3. 文学批評論 / 正宗忠夫抄訳 早稲田大学出版部, 〔明37〕 (早稲田大学七年文学教育第二学年講義録) <YDM310471>
  4. 誰の罪業 / ホール・ケーン著 ; 正宗白鳥抄訳 今古堂, 明39.8 <YDM101183>
  5. パラドツクス / マックス・ノルダウ著 ; 剣菱正宗忠夫)訳 読新聞社, 明39.9 <YDM102203>
  6. 紅塵 / 正宗白鳥著 西本波太, 明40.9 <YDM93657>
  7. 吾輩ハ鼠デアル / 影法師著 大学館, 明40.9 <YDM95778>
  8. 何処へ / 正宗白鳥(忠夫)著 易風社, 明41.10 <YDM92867>
  9. 二家族 / 正宗白鳥著 新潮社, 明42.7 <YDM94796>
  10. 白鳥集 / 正宗白鳥著 左久良書房, 明42.5 <YDM94940>
  11. 泥人形 / 正宗白鳥著 春陽堂, 明44.8 (現代文叢書 ; 第1編) <YDM94740>
  12. 微光 / 正宗白鳥著 籾山書店, 明44.6 <YDM95067>
  13. / 正宗白鳥著 春陽堂, 明45.5 <YDM94696>

(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の近代日本人の肖像」の内容を転載しております掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)

正宗白鳥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 03:26 UTC 版)

正宗 白鳥
(まさむね はくちょう)
誕生 正宗 忠夫
1879年3月3日
日本岡山県和気郡穂浪村
(現・備前市穂浪)
死没 (1962-10-28) 1962年10月28日(83歳没)
日本東京都千代田区飯田橋
墓地 日本多磨霊園
職業 小説家劇作家文芸評論家
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 東京専門学校文学科
(現・早稲田大学
活動期間 1904年 - 1962年
ジャンル 小説戯曲文芸評論
文学活動 自然主義文学
代表作 『寂寞』(1904年)
『何処へ』(1908年)
『入江のほとり』(1915年)
『牛部屋の臭ひ』(1916年)
『最後の女』(1924年、戯曲)
『自然主義盛衰史』(1948年、評論)
『今年の秋』(1959年)
主な受賞歴 文化勲章(1950年)
菊池寛賞(1957年)
読売文学賞(1960年)
デビュー作 『寂寞』(1904年)
親族 兄弟:正宗敦夫(国文学者)、正宗厳敬(植物学者)、正宗得三郎(画家)
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正宗白鳥
生家跡

正宗 白鳥(まさむね はくちょう、1879年明治12年)3月3日[1] - 1962年昭和37年)10月28日[1])は、明治から昭和にかけて活躍した日本小説家劇作家文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。別号は剣菱、影法師[1]岡山県生まれ[1]東京専門学校文学科卒。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。評論にも優れている。戯曲も知られる。日本芸術院会員、文化功労者文化勲章受章者。

旧家の長男として生まれる。虚弱で、幼時からの生への不安が、後のニヒリズムの気質を育てたという。読売新聞社で文芸時評を書いたのち、『塵埃』(1907年)で自然主義文学の代表的作家に。『何処へ』(1908年)、『泥人形』(1911年)など否定的人生観を反映した作品が多い。

鋭い批評を行い、晩年は文壇の御意見番的存在であった。評論に『作家論』(1941年)、戯曲に『安土の春』(1925年)などがある。

経歴

岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。江戸時代の正宗家は代々網元であり、高祖父の雅明の代までは材木商も営んだ財産家であった。閑谷黌を卒業し、1896年(明治29年)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学[1]。在学中に植村正久内村鑑三の影響を受けキリスト教洗礼を受ける[1][2]。史学科、英語科に在籍し、1901年(明治34年)文学科を卒業。『読売新聞』1901年7月1日に、「花袋作『野の花』」を発表し、花袋と間に論争がおこる。早大出版部を経て、1903年(明治36年)読売新聞社に入社[1]。文芸・美術・教育を担当し、そこで上司小剣を知った。翌1904年(明治37年)からは読売に劇評を寄せ始める。

1904年(明治37年)処女作品となる『寂寞』を発表し文壇デビューする[1]1908年(明治41年)に発表した、日露戦争後の青年像を描いた『何処へ』は彼の代表作であり[1]自然主義文学に新分野を開き注目された。読売新聞1909年9月1日-1911年6月12日に「落日」を連載。1910年(明治43年)読売新聞社を退社して作家として自立する[1]1911年(明治44年)甲府市の油商清水徳兵衛の娘・つ禰と結婚。この頃、本間久雄は評論書『高台より』上で、諸作品から見た正宗の思想は「シニシズムの哲学」であると評している[3]

昭和期になると、活動の主点を評論に置く。1936年昭和11年)1月24日-25日の読売新聞に小林秀雄が「作家の顔」という小論文を掲載した。その中に、『読売新聞』同年1月11日-12日に正宗がトルストイについて書いた評論「トルストイについて」に対する非難が掲載されており、『中央公論』などを舞台に小林と正宗との間に「思想と実生活論争」が起こった。

1935年(昭和10年)、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。1940年(昭和15年)、帝国芸術院会員。1943年(昭和18年)の秋、それまで別荘として使っていた長野県軽井沢町の家に疎開し、その後1957年(昭和32年)に大田区南千束の家に帰るまで居住しつづけた[4]。1943年(昭和18年)11月3日から1947年(昭和22年)2月12日まで日本ペンクラブの2代目会長。1950年(昭和25年)文化勲章受章。1962年(昭和37年)膵臓による衰弱のため、飯田橋日本医科大学付属病院で死去(83歳)。墓所は多磨霊園にある。

白鳥は6男3女の長男で、弟に画家の正宗得三郎国文学者正宗敦夫植物学者正宗厳敬が、甥に日本興業銀行第3代頭取となった正宗猪早夫がいる。

代表作

小説

  • 『寂寞』(1904年)
  • 『何処へ』(1908年)
  • 『泥人形』(1911年)
  • 『入江のほとり』(1915年)
  • 『牛部屋の臭ひ』(1916年)
  • 『毒婦のやうな女』(1920年)
  • 『生まざりしならば』(1923年)
  • 『戦災者の悲み』(1946年)
  • 『人間嫌ひ』(1949年)
  • 『銀座風景』(1950年)
  • 『日本脱出』(1949年~1953年)
  • 『人生恐怖圖』(1956年)

戯曲

  • 『白壁』(1912年)
  • 『秘密』(1914年)
  • 『人生の幸福』(1923年)
  • 『影法師』(1923年)
  • 『ある心の影』(1923年)
  • 『梅雨の頃』(1923年)
  • 『ある病室』(1923年)
  • 『農村二日の出来事』(1923年)
  • 『隣家の夫婦』(1924年)
  • 『最後の女』(1924年)
  • 『大地震』(1924年)
  • 『雲の彼方へ』(1924年)
  • 『観劇の後』(1924年)
  • 『柿の木』(1924年)
  • 『老醜』(1924年)
  • 『ある文学者の心』(1925年)
  • 『安土の春』(1925年)
  • 『勝頼の最後』(1925年)
  • 『歓迎されぬ男』(1925年)
  • 『光秀と紹巴』(1925年)

評論

  • 『文壇人物評論』(1932年)
  • 『自然主義盛衰史』(1948年)
  • 『内村鑑三』(1950年)
  • 『文壇五十年』(1954年)
  • 『作家論』、『文壇的自叙伝』、『読書雑記』等多数ある

全集

  • 『正宗白鳥全集』全13巻 新潮社、1965-68年 - 代表作を収める
  • 『正宗白鳥全集』全30巻 福武書店、1983-86年 - ほぼ全文業を収む

伝記

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 正宗白鳥|近代日本人の肖像”. 近代日本人の肖像. 国立国会図書館. 2022年8月1日閲覧。
  2. ^ 中村武羅夫 1909, pp. 206–207.
  3. ^ 本間久雄 1913, pp. 96–97, 153。同書ではギ・ド・モーパッサンとの比較論も展開されている。
  4. ^ 『日本文学全集 第12巻』(河出書房, 1967)345頁

参考文献

関連項目

外部リンク




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