文学欄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:22 UTC 版)
国家主義、国粋主義的な論調とともに、特徴的な文学も同紙の売りの一つだった。 国分青崖が漢詩の時評『評林』を連載し、1892年(明治25年)入社の子規こと正岡常規は最初は短歌、後に俳句も手掛け、同僚の碧梧桐こと河東秉五郎、虚子こと高浜清らが投句していた。1898年(明治31年)には正岡が『歌よみに与ふる書』を連載、根岸短歌会を経て短歌のアララギ系や俳句のホトトギス派が隆盛となる基礎を作った。正岡が肺結核に倒れて出勤できなくなった後は、陸の次女と結婚した鈴木虎雄が短歌、碧梧桐が俳句の選者を務めた。 「アララギ#アララギ派・アララギ系」および「河東碧梧桐#経歴」も参照 この影響で、小説は初期には全く扱われなかった。
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