文学活動の始まり
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「アレクサンドル・クプリーン」の記事における「文学活動の始まり」の解説
1889年にクプリーンは詩人リオドール・パールミン (Liodor Palmin)に出会い、パールミンが編集したうえで刊行したクプリーンのデビュー短編小説『最後のデビュー』は1881年に舞台歌手イェヴラリーヤ・カドミナが毒物によって自殺する実際に起きた事件に基づいている。また、イワン・ツルゲーネフの物語『クララ・ミリッチ』もこの悲劇に着想を得ている。およそ3年の間で、デビュー作『最後のデビュー』や、1892年12月には2作目の物語"Psyche"を発表した。次いで作品"On a Moonlit Night"では精神に異常をきたす1節を示し、幻想や現実の狭間における細い繋がりを表した。兵役を務めていたクプリーンは数年間で"In the Dark" (1893)など複数の作品を出版、筆者自らを珍しく奇妙な人間の心身症状の収集家と称し、狡猾で異常な精神状態の調査をした("A Slav Soul"、"Madness"、"The Forgotten Kiss"、すべて1894年刊行)。最初の刊行物"The Enquiry"(1894)は軍に関わる批判的意見を喚起したものであった。刊行された"The Enquiry"は間違いなく1894年夏にクプリーンが辞職した主な原因である。"The Enquiry"を皮切りにロシア軍をテーマにした短編小説のシリーズを開始。最終的に最も著名な作品になった『決闘』を含む"A Place to Sleep" (1897), "The Night-shift" (1899), "Praporshchik" (1897), "The Mission" (1901) 等。 1894年に軍隊を除隊後、将来に対する明確な計画を持っているわけでは無かった。クプリーンはロシア帝国南西部をまたがる約5年間にわたった長旅に踏み出した。彼は歯科医療、土地測量、役者、サーカス曲芸師、教会の歌手、医者、狩猟家、漁師など数々の職種に就いた。これら全ての経験はのちの小説に反映されている。その間、作家グレープ・ウスペンスキーの短編を数多く読み込む独学に従事、クプリーンのお気に入りな作家となっている。 1894年夏、クプリーンはキエフに到着し、9月まで地元にある新聞『Kievskoe Slovo』(キエフ世界)、『Zhizn i Iskusstvo』(美術生活)で働き始め、そしてのちに『Kievlianin』(キエフ市民)に移った。1890年代後半にヴォルィーニで農園経営者として、それから彼は植物ニコチアナ・ルスティカを栽培させるため南ベラルーシのポリーシャ地域で働いていた。優れたジャーナリストに必要な資質である「無謀な勇気、大胆さ、視野の広さ、そして驚くほどの記憶力」は彼自身においてすべて備わっている才能であると信じていた。ロシア帝国南西部へと頻繁に旅を敢行しながらノヴォチェルカッスク、ロストフ・ナ・ドヌ、ツァリーツィン、タガンログ、オデッサ等でそれぞれ発行されている新聞に寄稿している。 クプリーンは文芸欄連載やクロニクルを並行しながら短編を書き、特定な職業や人々の環境を詳細に調査、または境遇を集めて、のちにまとめ、生き生きと描いた。1896年3月に"Kiev Types"と題する8つの短編を含む限定版を刊行した。 1897年10月に第二弾となる短編集"Miniatures"を刊行、彼の最も有名なサーカス物語のひとつ『さあ、やれ』(Allez!)はレフ・トルストイから高い評価を獲得する。 1905年にクプリーンは短編集"Miniatures"について「文学の道に沿った最初の大人げない歩み」と評する、それにもかかわらず、"Kiev Types"に見られるように作家としてキエフにおける体験により、おおいなる成熟段階を迎えた。複数の工業労働者上の短編小説はドンバス地域を訪れたあと1896年から1899年にかけて書かれている。 1896年、クプリーンの最初の重要な作品『貪欲の神』を『Russkoye Bogatstvo』誌に発表、急速に発展していくロシア資本主義の批判や発展していく国家の影で起こる産業不安を垣間見せた。それから、2度だけ簡単な主題("A Muddle", 1897、"In the Bowels of the Earth", 1899)に戻っている。1897年の数ヶ月、クプリーンはヴォルィーニで過ごしていた。「ここで私は最も活発で、広々した高貴にして実りの多い印象を吸収し... そしてロシアの本当の景観や言葉を知るに至った」と1920年に回想している。未完成の短編集"Polesye Cycle"に含む3つの短編小説である"The Backwoods"、大いに絶賛された愛の一篇『野性の誘惑 オレーシャ』、そしてホラー物語"The Werewolf"等を1898年から1901年の間にそれぞれ発表した。 クプリーンの文学的評判は『貪欲の神』や『野性の誘惑 オレーシャ』によって大きく築き上げられた。1901年9月にペテルブルクの人気月刊誌『みんなのジャーナル』の編集者ヴィクトル・ ミロリュボフ (Viktor Mirolyubov)より招待され、編集の一員として参加、12月から首都で働き始めた。
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