文学活動、そしてナチスとの遭遇
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「ハンス・ファラダ」の記事における「文学活動、そしてナチスとの遭遇」の解説
療養所でファラダは翻訳や詩作を始めたが、ものにならなかった。1920年、最終的に処女作『Der junge Goedeschal』(Young Goedeschal)で小説家として新しい境地に踏み出すことになる。この時期、彼はモルヒネ依存と、第一次世界大戦における弟の死に悩まされた。 終戦直後、ファラダは薬物依存が益々強まり、薬物の代金と生活費を調達するため農場労働者として働いていた。戦争前、ファラダは執筆期間中には父からの金銭援助をあてにしていたが、ドイツ敗北後、父親の援助には依存できなくなった (もしくは意志的に止めた) 。ファラダは『Anton und Gerda』刊行直後、薬物の使用を続ける費用に充てるため雇い主から穀物を盗んだとして、グライフスヴァルトにある刑務所に6ヶ月間服役するようにとの判決を受ける。1926年、3年もたたないあとのこと、再びファラダは薬物やアルコールが原因で雇い主からたて続けに盗みを働き、監獄に収監される。1928年2月、最終的に彼は薬物依存から脱した。 ファラダは1929年にアンナ・"スーゼ"・イゼールと結婚し、いくつかの新聞社での勤務を経て自作の版元でもあった出版社ロボルト (de:Rowohlt Verlag) に職を得た。彼は今やジャーナリズムの世界で正業に就いたといえた。ファラダの小説はこの頃から目立って政治的になり、ドイツの社会的、経済的苦境について論評を始めた。1931年/1930年には、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の農村人民運動や、ノイミュンスターの町における農民の抗議活動とボイコットの歴史を基にした小説『A Small Circus』 (Bauern, Bonzen und Bomben, Peasants, Bosses and Bombs) で目覚ましいほどの成功を遂げた。ジェニー・ウィリアムズ (en:Jenny Williams) はファラダの1930年/1931年の小説について「作者は本作によって、自身が確かな文学的才能を持つというだけでなく、論争を招くのを恐れないことを証明した」と評している。マーティン・シーモア・スミスは「これまでに書かれたなかで地方の反抗にまつわる最も共感的な文章にして鮮やかな一作であり続けている。」として、ファラダにとって最高峰の小説の1冊であると述べている。 1932年に大ヒットを収めた小説『Kleiner Mann - was nun?』 (Little Man, What Now?,『ピネベルク、明日はどうする!?』) は金銭面の逼迫を一気に軽減してくれたが、ナチズムの台頭への不安はそれ以上であり、ファラダは神経衰弱に陥った。彼の作品はナチスに弾圧の口実を与えるほど反動的とはみなされなかったが、彼の作家仲間の多くは逮捕、抑留され、ナチス政権下における作家として彼の将来は暗く見えた。さらにこの不安は、我が子を産後わずか数時間で失うことによっていっそうひどくなった。しかし、イギリスやアメリカ合衆国では小説『Little Man, What Now?』がベストセラーとなっていた。本作は米国ではブック・オブ・ザ・マンス・クラブに選ばれ、さらに1934年にハリウッド映画化された。 映画はユダヤ人によって製作されたため、ファラダは台頭するナチスの注意を深く引きつけた。このころ同時代人の多くは執筆活動を休止することを余儀なくされ、一部は生命までも奪われつつあった。そのさなか、ナチス公認の作家や刊行物によって作品が公然と非難されるという形で、ファラダに対して政府による一種の査問が行われ始めた。ファラダがナチ党に参加しなかったことも批判の対象となった。1933年のイースター・サンデーにおいて、彼はそのような非難のひとつを受けたあとに「反ナチス活動」のかどでゲシュタポによって投獄されるが、自宅を引っ掻き回したにもかかわらず証拠は発見できず、ファラダは一週間後に解放された。 1934年の小説『Wir hatten mal ein Kind』 (Once We Had a Child) は、当初、肯定的な批評をもって迎えられていたが、その後、ナチス機関紙フェルキッシャー・ベオバハターで批判された。同年、国民啓蒙・宣伝省は「すべての公共図書館から『Little Man, What Now?』を撤去するよう勧告した」。それと同時に、ファラダに対する当局の行動が書籍の売上に悪影響を与え始め、金銭面で窮地に追い込まれたファラダは1934年にふたたび神経衰弱に陥った。 1935年9月にファラダは「望ましくない作家」として公式に発表され、この指定によって海外での翻訳出版が不可能になった。小説『Old Heart Goes A-Journeying』は、ナチズムではなくキリスト教による国民の統合を扱っていたことから、帝国文学会議で問題を引き起こした。この規定は数ヶ月後に廃止されたが、その間にファラダはナチスから余計な注目を浴びずに済む「童話や当たり障りのないおとぎ話」を書きはじめた。すなわち、ファラダの執筆活動が芸術の追及から単なる生計の手段へと移行したのはこの時期であった。この間、海外移住という選択肢は常にファラダの心の中にあったが、ドイツへの愛から実行には踏み切れなかった。 1937年に出版した小説『Wolf unter Wölfen』 (Wolf Among Wolves) はシリアスな写実的スタイルへの一時的な復帰を印象づけた。ナチスはこの作品をヴァイマール共和国に対する鋭い批判ととらえ、当然ながら承認した。注目すべきことにヨーゼフ・ゲッベルスは本作を「素晴らしい本」と呼んだ。ゲッベルスに作品が認められたことはファラダをかえって厄介な立場に追い込むことになった。ゲッベルスはファラダに反ユダヤ的な小品を書くように提案した。また、啓蒙・宣伝大臣の知遇を得たことがきっかけとなり、国策映画の原案となるべき小説を書く任務がファラダに与えられた。その題材はあるドイツ人家族の運命を1933年に至るまで描くというものだった。 これに応えて書かれた小説『Der eiserne Gustav』 (Iron Gustav) は、第一次世界大戦によってもたらされた損失や苦難に焦点を当てていたが、原稿を検分したゲッベルスは、ナチスが台頭して大戦やヴァイマールが残した問題を解決していくところまで物語を引き延ばすよう提案した。ファラダは何度か改稿を行ったのち、生計が逼迫したこともあり最終的にゲッベルスの圧力を受け入れた。ファラダがナチスの脅迫に屈した証拠は、後に執筆された政治的にあいまいな2作品の序文にも見て取れる。それらの短文は作中の出来事がナチス台頭以前のことだと言明しており、明らかに「ナチス当局を刺激しない意図で書かれたもの」である。 1938年末までに、ナチスの手によって数人の仲間たちが死んだにもかかわらず、最終的にファラダは移住の決定を覆した。彼のイギリスにおける版元の発行人だったジョージ·パットナムは、ファラダと彼の家族をドイツから脱出させるため自家用船を送る準備をした。ジェニー·ウィリアムズによると、ファラダは実際に荷物をまとめて自動車に積みこむところまで行っていた。しかしそのとき、ファラダは所有していたささやかな農地をもう一度散歩してきたいと妻スーゼに告げた。ウィリアムズの文によれば「しばらくして戻ってきたとき、ファラダはドイツを離れることはできないと宣言してスーゼに荷物をほどくよう言った」。 この突然にも見える計画の変更は、ファラダが長く心に抱いていた内面の信念と実に一致している。その数年前、彼は知人に対して「私はドイツ以外の場所に住むこともないし、別の言語で書くこともない」と胸の内を打ち明けていた。
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