反ナチス活動
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「クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト」の記事における「反ナチス活動」の解説
現役を退いたものの、ブロンベルク国防相と対立したハンマーシュタイン=エクヴォルトは急速に親ナチ化の加速するドイツ国防省および国防軍に忌避されるところとなり、ブロンベルクは非公式に軍現役高官が彼の元を訪ねることを禁止した。長いナイフの夜で親友のシュライヒャーが親衛隊員に殺害された折には、軍高官としてただ一人葬儀に立ち会った。その後、彼は軍部内の反ナチス勢力と接触し、その抵抗運動に身を投じた。 第二次世界大戦が勃発した1939年9月には召還されて現役復帰し、A軍集団司令官として手薄なフランス国境防備を任されたが、フランス軍が攻勢に出ないことが明らかになると早くも9月21日には解任され、一旦はシレジアを担当する第8軍管区の司令官に任じられたが、程なく退役させられた。イギリスの元エージェントの回顧録によれば、A軍集団の司令官を努めていた際にハンマーシュタイン=エクヴォルトはクーデターを画策しており、それは要請に応じて西方の前線視察に訪れるヒトラーを拘束する計画だったというが、結局ヒトラーの前線視察は行われず、またこの手記自体の信憑性も疑われている。 大戦中の1943年、ハンマーシュタイン=エクヴォルトはベルリンで癌のため死去した。棺がハーケンクロイツ旗で覆われることを嫌い、家族はベルリンにある軍人墓地への埋葬を拒否した。また総統ヒトラーから贈られた追悼の花輪を地下鉄の駅に「忘れた」という。陸軍将校だった息子二人は、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画に加わり投獄されている。
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反ナチス活動
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1933年1月30日にナチス政権が誕生し、2月27日に国会議事堂が炎上し、共産党も社会民主党もドイツ社会主義労働者党(SAP)も活動が禁止され、党指導者も解党方針を出したが党員の一部は反発して3月11日にドレスデンで秘密裡に集まり党の存続を決め、党事務所をノルウェーのオスロに置くこととし、その事務所の責任者を決めたが直後に逮捕されたため、この時まだ20歳前であったブラントを責任者としてオスロに送り込むことになった。1933年4月1日から2日にかけてブラントはリューベック北方20キロの港から船でドイツを離れて、まずデンマークに向かった。身に付けていたものは下着数枚と『資本論』第1巻と祖父がくれた100マルクの現金であった。祖父ルートヴィッヒとはこれが永遠の別れとなった。そして1歳下の女性ゲルトルート・マイヤーが彼を追っていた。
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