反トルコ運動を主導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「反トルコ運動を主導」の解説
当時バルカン半島はイスラム教国オスマン帝国の統治下にあり、キリスト教徒スラブ人に対して重い特別税が課されるなど圧政が行われていた。1875年7月にはヘルツェゴビナとボスニアのスラブ人がトルコに対して蜂起した。この蜂起で汎スラブ主義が高まり、1876年4月にはブルガリアのスラブ人も蜂起し、続いて同年6月にはトルコ宗主権下のスラブ人自治国セルビア公国とモンテネグロ公国がトルコに宣戦布告した。最大のスラブ人国家ロシアも資金と義勇兵を送ることでこの一連のスラブ人蜂起を支援した。これに対抗してトルコ軍はブルガリアで1万2000人を超える老若男女を大量虐殺した。 1876年6月23日付けの『デイリー・ニューズ』がこの虐殺を報道したことでイギリス世論はトルコに対して急速に硬化した。ディズレーリ首相は、バルカン半島がロシアの手に堕ちることでイギリスの地中海の覇権が失われることを恐れており、終始親トルコ的態度をとったが、彼のそのような態度は世論の激しい批判を集めた。 グラッドストンは以前よりバルカン半島問題について「トルコがこれ以上暴政を続ける事も、ロシアがスラブ人自治を装って支配することも『貪欲(Greed)』であるから許されない。ヨーロッパ各国の監視の下に本当の意味でのスラブ人自治を達成しなければならない」という見解を示していた。ハワーデン城で半ば引退した生活を送っていたグラッドストンだったが、クリミア戦争の頃から閣僚だった政治家としてバルカン半島を救う責任を感じて政治活動を再開した。 早速反トルコ・パンフレット『ブルガリアの恐怖と東方問題』の執筆を開始し、9月6日にこれを出版した。グラッドストンはその中で「人類の中でも反人間の最たる見本がトルコ人だ。我が国の凶悪犯、あるいは南海の食人種でさえも、トルコ人がブルガリアで犯した虐殺を聞いて戦慄しない者はいないだろう。我々が取るべき道は、トルコ人の悪行と手を切り、バルカン半島からトルコ人を追い出すことだ。」と主張した。このパンフレットは9月末までに24万部を売りきっている。 グラッドストンは反トルコ運動の象徴的人物となり、イギリス中の反トルコ論者がハワーデン詣し、そこでグラッドストンからブルガリアで行われている虐殺についての講義を受けた。グラッドストンの地元であるリヴァプールでは特に反トルコ機運が盛り上がり、シェークスピアの『オセロ』の上演で「トルコ人は溺死した」というセリフが出るや、観客が総立ちになり、拍手喝采に包まれたという。 [先頭へ戻る]
※この「反トルコ運動を主導」の解説は、「ウィリアム・グラッドストン」の解説の一部です。
「反トルコ運動を主導」を含む「ウィリアム・グラッドストン」の記事については、「ウィリアム・グラッドストン」の概要を参照ください。
- 反トルコ運動を主導のページへのリンク