オスマン帝国の統治とは? わかりやすく解説

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オスマン帝国の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 10:11 UTC 版)

ダマスカス」の記事における「オスマン帝国の統治」の解説

1516年マルジュ・ダービクの戦いオスマン帝国マムルーク朝破って以来ダマスカス1918年までオスマン帝国によって統治されることとなったオスマン帝国による統治始まった1516年当時人口は、全市でおよそ5万5,000人(約8,000戸)ほどであった推定されている。オスマン帝国時代には数度にわたる行政区画改変があったが、ダマスカスは常に州都の地位維持していた。これは、ダマスカスアレッポと共に帝国シリア地方支配の要となる都市であり、長くこの地域政治・経済中心地であったほか、ムスリムにとって重要なマッカ巡礼に向かうキャラバンの出発であったため、その点においても帝国にとって重要な都市であったためである。 18世紀以降帝国衰退始めると、各地アーヤーン名士)と呼ばれる半独立大土地所有者が登場するシリア地方例外ではなくダマスカスハマ治めたアズム家などが知られている。アズム家は州の総督の座を世襲し、中央の権力から半独立状態を保ったアズム家19世紀に入ると中央政府によるタンズィマート恩恵改革)によって独占的な地位失ったものの、その後ダマスカス名望家として地域社会大きな影響力与え続けたダマスカス旧市街にはアズム家によって建てられ宮殿残っており、現在では観光名所一つとなっている。 その後二度エジプト・トルコ戦争結果1832年から1840年にかけてシリア地方エジプトムハンマド・アリー朝支配を受け、ムハンマド・アリー息子であるイブラーヒーム・パシャダマスカス支配したその後1840年ロンドン条約によってダマスカスオスマン帝国の支配下に戻ると、ダマスカスにはオスマン帝国軍第5軍団司令部置かれた。1860年には大規模な暴動発生している。背景にあったのは経済的な問題であったが、キリスト教徒ムスリム宗教対立転嫁したことで多数犠牲者生んだ1870年代にはシリア総督となったミドハト・パシャによってスーク市場)の整備などが行われ、この時期整備され二つ屋根付きスークは現在でも使用されている。また、1908年には市電開業している。 19世紀後半から20世紀初頭ダマスカスは、徐々に近代的なインフラ整備行われ地域における政治・軍事中心地としても重要な都市であった。しかし、以前とは異なり経済面では新興港湾都市であるベイルートにその地位脅かされるようになっていた。これはスエズ運河開通したことで、ヒジャーズ方面への旅客貨物以前のようにダマスカス通らずベイルートから直接船で運ばれるようになったためである。このような状態に危機感覚えたダマスカス商人達は、対抗手段としての鉄道建設強く要望し中央政府への陳情繰り返した。これは、1900年から始まったダマスカス起点とするヒジャーズ鉄道建設という形で一応の結実をみたが、それでもベイルート奪われ地域経済主導権奪い返すまでには至らなかった。 また、ダマスカス近東におけるドイツの「世界政策」(3B政策)の舞台にもなった。1898年にはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世自らダマスカス訪れ、「ドイツ皇帝世界3億の回教徒友人である」という有名な演説行ってドイツ帝国オスマン帝国の関係の緊密さをアピールしたこの際ヴィルヘルム2世サラーフッディーンの廟に参詣し、石で出来たと金属製の花輪寄贈している(なお、花輪は後にトーマス・エドワード・ロレンスダマスカス入城した際に持ち去ったといわれている。の方は現在でも廟に展示されている)。

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オスマン帝国の統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:35 UTC 版)

クレタ島」の記事における「オスマン帝国の統治」の解説

詳細は「オスマン帝国領クレタ」を参照 1644年から1669年にかけて、キョプリュリュ・アフメト・パシャ大宰相として率いオスマン帝国が、クレタ島領有権めぐって争い (クレタ戦争 (1645年1669年)(英語版)、カンディア包囲戦英語版))、結果的にオスマン帝国領となる。これにより宗教の違いによる弾圧的な扱い撤廃され、どの住民経済的にほぼ等しい権利を持つとして扱われた。現地ギリシャ人ムスリム転向する例が増える (その後1900年では、島内ムスリム人口は11%。これらの人々1923年住民交換トルコ強制移住)。オスマン帝国の支配下では、キリスト教徒による反乱散発した。

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