オスマン帝国とオーストリアによる統治
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「ベオグラード」の記事における「オスマン帝国とオーストリアによる統治」の解説
長くオスマン帝国の攻勢に抵抗を続けていたベオグラードは、1521年8月28日、スレイマン1世の25万人の兵士によって制圧された。街はほぼ全てが破壊され、キリスト教徒(セルビア人、ハンガリー人、ギリシャ人、アルメニア人など)は全てイスタンブールへと強制移送され、その地区はこれに因んで後にベオグラード要塞と呼ばれるようになった。ベオグラードはサンジャク(県)の県都となり、トルコ人、アルメニア人、ギリシャ人、ラグーサの交易商人などが集まるようになった。ベオグラードはこの後150年に及ぶ平和を享受する。ベオグラードはコンスタンティノポリスに次いで、オスマン帝国領ヨーロッパで2番目に大きい都市となり、10万人以上が居住した。オスマン帝国の統治は、ベオグラードにオスマン建築をもたらし、多くのモスクが建造され、街にはオリエンタルの影響が強まった。1594年、バナト蜂起とよばれる大規模なセルビア人の反乱がトルコ人によって鎮圧された。さらに、アルバニア出身の大宰相スィナン・パシャ(Sinan Pasha)は、ベオグラードのヴラチャル台地にて聖サヴァの不朽体を公開の場で焼き捨てるよう命じた。後にこの事件を記憶するために聖サワ大聖堂が建造された。反乱に対する報復として、街の住民のほとんどがイスタンブールに強制移送された。 ベオグラードは3度にわたってハプスブルク帝国(オーストリア大公国)に占領された(1688年 - 1690年、1717年 - 1739年、1789年 - 1791年)。1度目は大トルコ戦争でバイエルン選帝侯マクシミリアン2世がベオグラードを包囲して奪い(ベオグラード包囲戦)、2度目はプリンツ・オイゲンの主導で墺土戦争の最中に包囲・陥落させ(ベオグラード包囲戦)、3度目は墺土戦争中にオーストリアに落とされた。ベオグラードはその度にオスマン帝国によって再制圧されたが、ゼムン以北は引き続きオーストリア領となった。 この間、セルビア人の大規模な人口移動が発生し、退却するオーストリア人とともにセルビア人がハプスブルク領内に流入した。彼らの子孫はヴォイヴォディナやスラヴォニアに居住している。
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