オスマン帝国とエジプトの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 03:29 UTC 版)
「ベツレヘム」の記事における「オスマン帝国とエジプトの時代」の解説
オスマン帝国支配下の1517年から、教会の管理についてカトリック教会と正教会の間で論争が巻き起こった。16世紀の終わりまでに、エルサレム行政区の中で有数の都市となっており、7つの地域に細分化された。この時期 Basbus 家は、ベツレヘムの長として仕えていた。1596年から始まるオスマンの納税記録と人口調査では、ベツレヘムは人口1,435人で、当時のパレスチナでは13番目に大きい都市であり、その総収入は30,000アクチェであった。 小麦、大麦、ぶどうに課税されていた。ムスリムとキリスト教徒は異なるコミュニティーを形成し、それぞれの指導者を持っていた。5名の指導者が16世紀中ごろには存在し、そのうち3名はムスリムだった。納税記録によればキリスト教徒の税収は多く、人口が多かった、あるいはブドウよりも税収の多い穀物の栽培に力をいれていたのかもしれない。 1831年から1841年にかけて、パレスチナはエジプトのムハンマド・アリー朝の支配下にあった。この時期に街は地震に襲われた。1834年にイブラーヒーム・パシャによる反乱鎮圧の一環として、エジプト軍によりムスリム地区が破壊された。1841年、反乱は鎮圧され、第一次世界大戦が終わるまで、オスマン帝国の支配下となった。オスマン支配下では、失業や徴兵制度、重い課税などの様々な問題に直面し、その結果、大量の移民が発生した。特に南アメリカに移住する者が多かった。1850年代に、あるアメリカ合衆国の宣教師は、人口は4,000人以下で、ほぼ全員が正教会に属していると伝えている。彼は、水不足が町の発展を妨げているとも伝えている。
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