オスマン帝国との同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/19 22:00 UTC 版)
「テケリ・イムレ」の記事における「オスマン帝国との同盟」の解説
1683年の第二次ウィーン包囲に際してはオスマン帝国を物資面で支援し、敗走したオスマン軍の退却にも同行した。ところが指揮官の大宰相カラ・ムスタファ・パシャはウィーンでの敗戦の責任をテケリになすりつけたため、テケリはスルタンの面前で自己弁護するためエディルネに急行した。しかし、直後にトルコが覇権を失ったことを理解したテケリは、ポーランド王ヤン3世ソビェスキの仲介でレオポルト1世と和解する道を模索し始めた。 テケリは皇帝がハンガリーにおけるプロテスタントの宗教上の権利と、テケリの領土となった上ハンガリー(正確には王領ハンガリー内の13郡)と君主の称号の保持を認めれば降伏するという提案を行ったが、レオポルト1世はこれらの条件をのむことを拒否し、無条件降伏を要求したため、テケリは戦争を再開することになった。しかし1685年の遠征は失敗の連続で、ナジヴァーラドのトルコ人達に支援を求めに行ったところ、逮捕されてエディルネに連行された(レオポルト1世との交渉で信用を失っていたとされる)。臣下達の大部分は皇帝との和平を結んだため、テケリは劣勢になった。 1686年に牢獄から解放され、小規模な部隊と共にトランシルヴァニアに送り込まれたが、この時の遠征も1688年の遠征も失敗に終わり、またもや投獄された。しかし1690年、オスマン帝国から1万6000人の軍勢を与えられトランシルヴァニアに送り込まれ、ジグベルト・ハイスター(de:Sigbert Heister)とテレキ・ミハーイ伯爵の連合軍にゼルネストで勝利した。この大勝の後、テケリはケレステミネズの議会によってトランシルヴァニア公に選出されたが、この地位は皇帝軍との戦いが極めて難局に陥ると維持出来なくなり、1691年にトランシルヴァニアから完全に撤退、トランシルヴァニア公はアパフィ・ミハーイ2世が選出された。テケリは以後大トルコ戦争でオスマン帝国に協力し、1691年のスランカメンの戦いではトルコ騎馬隊を率いて活躍したが、その後のオーストリアとの戦いでは振るわず、1697年のゼンタの戦いで完敗してしまった。 1699年1月26日に結ばれたカルロヴィッツ条約では、ハンガリー人反乱者に恩赦が約束されたが、テケリは恩赦の対象外とされた。1700年にトランシルヴァニア公国を取り戻そうとしたが失敗に終わり、妻イロナと共に亡命、ガラタに身を落ちつけた。スルタン・ムスタファ2世からは膨大な領地を与えられ、ヴィディン伯爵の称号を贈った。1705年、48歳でニコメディアで亡くなった。 イロナとの間に娘エルジェーベトが1683年に生まれたが、1688年に夭折した。継子のラーコーツィ・フェレンツ2世はウィーンでハプスブルク家の保護下に置かれていたがやがて脱走、ハンガリー独立戦争を起こすことになる。
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