オスマン帝国での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 08:54 UTC 版)
「マヌエル・パレオロゴス」の記事における「オスマン帝国での生活」の解説
1476年春、21歳になっていたマヌエルは再びローマを離れ、コンスタンティノープルに赴いてオスマン帝国のメフメト2世に慈悲を求めた。彼がミラノやヴォーデモンで受けた仕打ちとは対照的に、メフメト2世は気前よく彼を受け入れ、領地や年金、2人の妾まで差配した。マヌエルは、かつて叔父が守ろうとして命を落としたコンスタンティノープルで余生を過ごすことになった。彼はコンスタンティノープルで「エル・ガーズィー」(聖戦士)とあだ名され、オスマン海軍で働いた可能性がある。時期は不明だが、マヌエルは名前不詳の女性と結婚し、ヨハネス(夭折)とアンドレアスという2人の息子をもうけた。後者の名はマヌエルの兄にちなんでおり、こちらのアンドレアス・パレオロゴスは後にイスラームに改宗した。マヌエルは1512年以前に死去した。息子アンドレアスの生涯はほとんど分かっておらず、1519年を最後に記録が途絶えている。マヌエルの子は二人とも、子孫を残したとは考えられていない。
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