オスマン帝国から見た経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 06:43 UTC 版)
「第一次ウィーン包囲」の記事における「オスマン帝国から見た経緯」の解説
スレイマン1世率いるオスマン帝国は絶頂期を迎えており、東ローマ帝国陥落によって手に入れたバルカン半島南部に続いてさらに北上し、陸ではベオグラードを陥落させ、海ではロドス島の聖ヨハネ騎士団を打ち破り、ハンガリー、ルーマニアの獲得を狙っていた。フランソワ1世との同盟を結んだオスマン帝国はさらに深く侵攻し、1526年にはモハーチの戦いでラヨシュ2世率いるハンガリー王国軍を壊滅させ、ラヨシュ2世を戦死させている。 敗れたハンガリーは首都であるブダを放棄し、現在のスロバキアの首都であるブラチスラヴァに都を移したが、問題となったのは空位となったハンガリー王位の取扱であった。王位は選挙の結果ハンガリー貴族の大半の支持を得たトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュに委ねられることになったが、敗れたハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントも兄カール5世の支援を受けて独自に議会を招集、ハンガリー王を名乗ったことで事態は複雑化した。ハプスブルク家の介入に嫌気が差したサポヤイはオスマン帝国に救援を求め、ここにオスマン帝国は事実上ハプスブルク家と直接対峙することになった。
※この「オスマン帝国から見た経緯」の解説は、「第一次ウィーン包囲」の解説の一部です。
「オスマン帝国から見た経緯」を含む「第一次ウィーン包囲」の記事については、「第一次ウィーン包囲」の概要を参照ください。
- オスマン帝国から見た経緯のページへのリンク