オスマン帝国との戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/18 06:42 UTC 版)
「フニャディ・ヤーノシュ」の記事における「オスマン帝国との戦闘」の解説
フニャディの領地はオスマン軍迎撃の主戦場となった。 1441年にフニャディはスメデレヴォでオスマン軍を迎撃し、激戦の末にイスハク・ベイ(英語版)を破る。1442年にメジト・ベイの率いるアキンジ(オスマン軍の非正規騎兵隊)がトランシルヴァニアに侵入し、ヘルマンシュタット(シビウ)が包囲を受ける。フニャディはオスマン軍を撃退し、メジト・ベイをはじめとする20,000のオスマン軍の将兵を敗死させた。同年9月にオスマン皇帝ムラト2世は報復としてハドゥム・シャハベッディン・パシャが率いる約80,000-100,000の兵士をトランシルヴァニアに派遣し、フニャディはマジャル人とセーケイ人の非正規兵からなる15,000の兵士を率いて、オスマン軍の迎撃にあたった。フニャディはカルパティア山脈を越えての奇襲をかけてオスマン軍を打ち破った。オスマン軍迎撃の緒戦においては、馬車を軍の側面においてバリケードの代わりとし、銃砲を装備した馬車を攻撃に使用するフス派の戦法が用いられた。 キリスト教国にとって最大の脅威であるオスマン帝国から勝利を収めたことで、キリスト教世界におけるフニャディの名声は高まった。フニャディはオスマン帝国に対して攻勢に出ようと試み、ウラースロー1世に親征の実施を訴えた。この「大遠征」には、ハンガリー・ポーランドの兵士だけでなく、ワラキア、ブルガリア、ボスニア、アルバニアの兵士も加わるものとなり、さらにハンガリーはアナトリア半島でオスマン帝国と敵対するカラマン侯国(英語版)とも同盟した。フニャディが率いる部隊はウラースロー1世と別に行軍し、トラヤヌス門(英語版)を通過してバルカン山脈を踏破した。フニャディの別動隊はセルビアのニシュ近郊でカシム・パシャ(英語版)率いるオスマン軍に勝利し、ニシュを奪回する。ブルガリアのソフィアに入城を果たした後、フニャディはウラースロー1世の本隊と合流し、ハンガリー軍はイズラディ峠でムラト2世に勝利を収めた。ハンガリー軍はオスマン帝国の首都エディルネに進軍するが、山岳地帯に潜んでいたオスマン軍によって峠を封鎖され、加えて厳冬がハンガリー軍を襲った。ハンガリー軍は撤退せざるを得なくなり、遠征で重ねた勝利にもかかわらずボスニア、ヘルツェゴヴィナ、セルビア、ブルガリア、アルバニアにおけるオスマン帝国の影響力を完全に取り除くことはできなかった。 ハンガリーへの帰路についていたフニャディは、道中で教皇エウゲニウス4世が派遣した枢機卿ジュリアーノ・チェザリーニの訪問を受けた。チェザリーニ、セルビア公ジュラジ・ブランコヴィチ(英語版)とアルバニア公スカンデルベグらは、フニャディに戦争の再開とオスマン帝国のヨーロッパからの放逐を説いた。そして、ムラト2世はアナトリア半島方面を脅かすカラマン侯国に対処するため、ハンガリーに和平を提案した。ハンガリーの使節団はエディルネを訪れ、10年間の休戦、セルビアとワラキアへの圧力の軽減を条件とする和平が成立した。続いてムラト2世が派遣した使者がセゲドのハンガリー軍を訪れ、ジュラジ・ブランコヴィチとチェザリーニの仲介によってハンガリーに有利な条件で10年間の休戦協定が締結された。条約に調印したウラースロー1世は聖書に手を置いて協定の遵守を宣言したが、この時に既に和約の破棄の準備が進められていた。
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