セルビア公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 03:52 UTC 版)
「アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ (セルビア公)」の記事における「セルビア公」の解説
ミハイロ・オブレノヴィッチ3世が廃位されて政治的混乱が起きると、1842年9月14日にアレクサンダルがベオグラード近郊のヴラチャル(Vračar)の国民会議においてセルビア公に選ばれた。ロシアとオスマン帝国から公位が承認されると、アレクサンダルはセルビアのさらなる発展を図るべく改革を開始して諸制度を新設し、公民権法典の施行、正規軍の導入、大砲鋳造場の設立、新旧の学校の助成、国立図書館や国立博物館の設立などを行った。 1848年にヴォイヴォディナでハンガリー革命が起こっていた最中、アレクサンダルはステヴァン・クニチャニン(Stevan Knićanin)の率いるセルビア義勇軍を派遣して自治を求めるセルビア人の闘争を援助した。諸国民の春の影響を受けて、南スラヴ人王国を建国するという汎スラヴ主義思想が登場したが、この4年前の1844年にはイリア・ガラシャニンがセルビアの政治構想についてナチェルターニェ(Načertanije)と呼ばれる秘密文書を作成し、南スラブ人を支配するオーストリアとオスマン帝国にセルビアが取って代わり、これを大セルビアの旗の下に統治すべき旨をすでに示していた。
※この「セルビア公」の解説は、「アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ (セルビア公)」の解説の一部です。
「セルビア公」を含む「アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ (セルビア公)」の記事については、「アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ (セルビア公)」の概要を参照ください。
- セルビア公のページへのリンク