セルビア人らの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 06:43 UTC 版)
オスマン帝国支配下のセルビアは15世紀にスメデレヴォ・サンジャク(en)として扱われ、18世紀にはパシャが管理するベオグラード・パシャルクと呼ばれていた。このベオグラード・パシャルクはシュマディヤ地方に限定され、その他、ヴィディン、ニシュ、レスコヴァツ、ノヴィ・パザルなど隣接したパシャリクにもセルビア人らは居住していた。ベオグラード・パシャルクはさらに12のナヒヤが設立されており、その他数個のナヒヤを統合してカーディも設立されていた。 18世紀末まで、セルビア人らはナヒヤより下の行政単位で自治が与えられており、このナヒヤがオスマン帝国とセルビア人らの自治との接点であったが、このナヒヤの下にクネジーナが存在しており、ナヒヤの長であるクネズを集会(スクープシュティナ)で選出していた。また、このクネジーナの下には村長であるクメットが管理する村があり、この村の中でクネジーナの長であるクネズを選出、さらに租税分配等も行った。 この村は約1,800存在したと言われており、さらに村の下には30から50のザドルガが所属していた。このザドルガは父系制大家族共同体であり、各単位で自給自足を行ない、また、セルビア蜂起の際には兵士の供給源となった。この時期、セルビア人らは主に農民として生活していたため、セルビアの言語学者ヴーク・カラジッチはこの状態を「セルビア人であるということは農民であるということ」と語っている。 18世紀のベオグラード・パシャルクではヨーロッパ西部と比べると農業において未発達で牧畜に大きく依存していた。そのため、牧畜が発展したことで家畜を扱う商人が生まれ、彼らは農民から買った家畜をハプスブルク帝国などに販売して大きな利益を得ていたが、この家畜商人の中から後に第一次セルビア蜂起、第二次セルビア蜂起の指導者となるカラジョルジェ・ペトロヴィッチやミロシュ・オブレノヴィチが生まれる。 そして、セルビアではセルビア正教会が自立できたこと、コソボの戦いを元とする英雄叙事詩が口述で伝承されたことなどのお陰でセルビア人としての民族的アイデンティティを確保することができた。そしてセルビアはオスマン帝国辺境地としてハプスブルク帝国と隣接したことで軍事的、経済的影響を受けていた。 1787年に発生した露土戦争でオスマン帝国はロシア、オーストリアに敗北したが、これに伴いセルビア人らがオーストリアへ大移動を開始した。この動きの中でセルビア人らはオーストリアで義勇軍を結成して戦いに参加していた。この露土戦争終了後、オーストリアとオスマン帝国の間で結ばれたシストヴァ条約でセルビア人義勇兵の罪を問わないことやベオグラード・パシャルクでの内政自治が保障された。 この内政自治を認めたオスマン帝国スルタンセリム3世はベオグラード・パシャルクで暴政を振るっていたイェニチェリの追放する布告を発布した。これはベオグラード・パシャルクがオスマン帝国辺境の重要拠点であったため、セルビア人らがオスマン帝国から離れていくことを防ぐための布告であった。このイェニチェリの排除にオスマン帝国はキリスト教徒にまで援助を要請、これを鎮圧した。 その一方で、ベオグラード・パシャルクのパシャ、ムスタファ・パシャは隣接するヴィディン・パシャルクのアーヤーン、パスヴァノールに対抗するためにセルビア人民兵を組織させた。しかし、パスヴァノールがオスマン帝国と和平を結んだことでセリム3世はこの民兵が脅威になると考えて1799年、イェニチェリのベオグラード・パシャルクへの帰還を許可した。 ベオグラード・パシャルクへ帰還したイェニチェリらのダヒヤの称号を持つ4人の将軍らはパシャルクを掌握、自らの利益のためにセルビア人有力者やクネズ(en)、聖職者ら72人を殺害した。そのため、セルビア人らはイェニチェリによる大量虐殺を恐れなければならなかった。
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