セルビア人の大移動とラザルの不朽体とは? わかりやすく解説

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セルビア人の大移動とラザルの不朽体

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:19 UTC 版)

ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の記事における「セルビア人の大移動とラザルの不朽体」の解説

17世紀終わり大トルコ戦争の間に、ハプスブルク帝国オスマン帝国からセルビア一部奪った。しかしハプスブルク軍がオスマン軍が再侵攻してくる前にこの地から撤収してしまったため、この地域住んでいたセルビア人の中のかなりの割合ハプスブルク帝国領へ逃れて移住した。このセルビア人大移動英語版)を主導したのが、セルビア正教会総主教アルセニイェ3世ツルノイェヴィチ(英語版)だった。この大移住にラヴァニツァ修道院修道士加わり修道院からラザル不朽体貴重品持ち出した。彼らはセンテンドレ落ち着き、この町の近く木造教会建設して不朽体収めた。彼らはこの教会周り住居を建て、この新たな集落にもラヴァニツァという名前を付けた。なおセンテンドレでは、一時期アルセニイェ3世総主教座置いている。 ラヴァニツァ修道院修道士たちは、セルビアの諸修道院ハプスブルク帝国ロシア正教会の間を取り持ち援助獲得した。彼らはセンテンドレにいる間に、かなり図書宝物蓄えた。そしてこの時期、彼らは印刷機用いて聖なるラザル崇敬広め始めた。彼らはラザルをケファロフォレ(英語版)(自分の首を自分持った聖人像)の姿で描き木版画にした。1697年、ラヴァニツァ修道院修道士たちはセンテンドレ木造教会離れスレム地方のフルシュカ山(英語版)にある荒廃したヴルドニク=ラヴァニツァ修道院英語版)へ移った。彼らはこの修道院修復してラザル不朽体安置し以後この修道院ラザル崇敬中心地となった。そう時を経ないうちに、この侵攻は「ラヴァニツァの」ものとしてよりも「ヴルドニクの」ものとして言及されるようになった18世紀半ばまでには、このヴルドニク=ラヴァニツァ修道院そのものラザルによって建てられたのだという伝説広まっていた。祭日には、押しかけ参拝者の数のわりに修道院教会小さすぎて、全員収容できないほどであったラザル・フレベリャノヴィチ描いた銅版画(左: フリストフォル・ジェファロヴィチ(英語版)画、1741年。右: ザハリイェ・オルフェリン(英語版)画、1773年。) 1718年7月21日パッサロヴィッツ条約調印されセルビア地域のうち西モラヴァ川以北オスマン帝国からハプスブルク帝国割譲された。この時、28年前に旧来のラヴァニツァ修道院から逃れた修道士のうち、ステファンという者一人だけが生存していた。条約調印直前ステファンはラヴァニツァに帰り半ば荒廃して植物生い茂っていた修道院修繕した1733年時点で、ラヴァニツァ修道院に暮らす修道士はわずか5人だった。1739年セルビアオスマン帝国返還されたが、この時はラヴァニツァ修道院放棄されなかった。 セルビア人大移動後、セルビア正教会高位聖職者たちは、列聖されたかつてのセルビア君主たちの崇敬積極的に広めていった。カルロヴツィ府主教のアルセニイェ4世ヨヴァノヴィチ・シャカベンタ(英語版)は、1741年エングレービング画家のフリストフォル・ジェファロヴィチ(英語版)とトマ・メスマーを雇い、『聖サヴァネマニャ家のセルビア聖人たち』と題したポスターを作らせた。この中ラザル描かれている。このポスター作製目的は単に宗教的なものに留まらずオスマン帝国征服される以前セルビア人独立していたこと、またラザルオスマン帝国立ち向かったことをセルビア人たちに思い起こさせることも意図していた。このポスターハプスブルク宮廷でも披露された。この2人エングレービング画家たちは、同じ年にウィーンで『ステンマトグラフィア(英語版)』と題した本を出版している。この中には29人の君主聖人たちの凹版印刷画が収録されており、うち2つがドゥクリャの支配者ヨヴァン・ヴラディミル(英語版)とラザルのケファロフォレである。『ステンマトグラフィア』はセルビア人の中で大変人気の作品となり、彼らの中に愛国的な感情呼び起こしたその後様々な作品において、聖なるラザルのケファロフォレ像が様々な技法用いて描き出されていった 。それらと一線を画しているのが1773年にザハリイェ・オルフェリン(英語版)が製作したラザル銅版画である。ここではパレードを行うラザル描かれているのだが、光背描かれている以外に聖人性を示す意匠みられないラザル不朽体は、1941年までヴルドニク=ラヴァニツァに安置されていた。しかし第二次世界大戦中ナチ・ドイツユーゴスラヴィア王国宣戦布告してこれを席巻すると、不朽体は同じフルシュカ山にあるベシェノヴォ修道院英語版)へ移された。スレムはファシズム・クロアチア民族主義掲げウスタシャ支配するクロアチア独立国一部となり、大規模なセルビア人虐殺展開された。1941年ベオグラード亡命したヴルドニク掌院ロンギンは、フルシュカ山にあるセルビア人聖なる品が完全に破壊される危機に陥っている、と述べている。彼は不朽体ベオグラード移送するよう主張しセルビア正教会宗教会議承認された。ドイツ占領軍当局許可下りた後の1942年4月14日ラザル不朽体収めた聖櫃がベシェノヴォ修道院からベオグラード聖天使首ミハイル大聖堂英語版)へ移送され儀礼的に教会イコノスタシス前に安置された。戦後1954年宗教会議ラザル不朽体をラヴァニツァ修道院帰還させる決議為された。これが実現したのはさらに30年上後1989年コソヴォの戦い600周年の時であった

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