セルビア人の大移動とラザルの不朽体
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「ラザル・フレベリャノヴィチ (セルビアの侯)」の記事における「セルビア人の大移動とラザルの不朽体」の解説
17世紀終わりの大トルコ戦争の間に、ハプスブルク帝国がオスマン帝国からセルビアの一部を奪った。しかしハプスブルク軍がオスマン軍が再侵攻してくる前にこの地から撤収してしまったため、この地域に住んでいたセルビア人の中のかなりの割合がハプスブルク帝国領へ逃れて移住した。このセルビア人の大移動(英語版)を主導したのが、セルビア正教会の総主教アルセニイェ3世ツルノイェヴィチ(英語版)だった。この大移住にラヴァニツァ修道院の修道士が加わり、修道院からラザルの不朽体や貴重品を持ち出した。彼らはセンテンドレに落ち着き、この町の近くに木造教会を建設して不朽体を収めた。彼らはこの教会の周りに住居を建て、この新たな集落にもラヴァニツァという名前を付けた。なおセンテンドレでは、一時期アルセニイェ3世も総主教座を置いている。 ラヴァニツァ修道院の修道士たちは、セルビアの諸修道院とハプスブルク帝国やロシア正教会の間を取り持ち、援助を獲得した。彼らはセンテンドレにいる間に、かなり図書と宝物を蓄えた。そしてこの時期、彼らは印刷機を用いて聖なる侯ラザルの崇敬を広め始めた。彼らはラザルをケファロフォレ(英語版)(自分の首を自分で持った聖人像)の姿で描き、木版画にした。1697年、ラヴァニツァ修道院の修道士たちはセンテンドレの木造教会を離れ、スレム地方のフルシュカ山(英語版)にある荒廃したヴルドニク=ラヴァニツァ修道院(英語版)へ移った。彼らはこの修道院を修復してラザルの不朽体を安置し、以後この修道院がラザル崇敬の中心地となった。そう時を経ないうちに、この侵攻は「ラヴァニツァの」ものとしてよりも「ヴルドニクの」ものとして言及されるようになった。18世紀半ばまでには、このヴルドニク=ラヴァニツァ修道院そのものがラザルによって建てられたのだという伝説が広まっていた。祭日には、押しかけた参拝者の数のわりに修道院の教会が小さすぎて、全員を収容できないほどであった。 ラザル・フレベリャノヴィチを描いた銅版画(左: フリストフォル・ジェファロヴィチ(英語版)画、1741年。右: ザハリイェ・オルフェリン(英語版)画、1773年。) 1718年7月21日、パッサロヴィッツ条約が調印され、セルビア地域のうち西モラヴァ川以北がオスマン帝国からハプスブルク帝国に割譲された。この時、28年前に旧来のラヴァニツァ修道院から逃れた修道士のうち、ステファンという者一人だけが生存していた。条約調印の直前、ステファンはラヴァニツァに帰り、半ば荒廃して植物が生い茂っていた修道院を修繕した。1733年の時点で、ラヴァニツァ修道院に暮らす修道士はわずか5人だった。1739年にセルビアがオスマン帝国に返還されたが、この時はラヴァニツァ修道院は放棄されなかった。 セルビア人の大移動後、セルビア正教会の高位聖職者たちは、列聖されたかつてのセルビア君主たちの崇敬を積極的に広めていった。カルロヴツィ府主教のアルセニイェ4世ヨヴァノヴィチ・シャカベンタ(英語版)は、1741年にエングレービング画家のフリストフォル・ジェファロヴィチ(英語版)とトマ・メスマーを雇い、『聖サヴァとネマニャ家のセルビアの聖人たち』と題したポスターを作らせた。この中にラザルも描かれている。このポスター作製の目的は単に宗教的なものに留まらず、オスマン帝国に征服される以前のセルビア人が独立していたこと、またラザルがオスマン帝国に立ち向かったことをセルビア人たちに思い起こさせることも意図していた。このポスターはハプスブルク宮廷でも披露された。この2人のエングレービング画家たちは、同じ年にウィーンで『ステンマトグラフィア(英語版)』と題した本を出版している。この中には29人の君主と聖人たちの凹版印刷画が収録されており、うち2つがドゥクリャの支配者ヨヴァン・ヴラディミル(英語版)とラザルのケファロフォレである。『ステンマトグラフィア』はセルビア人の中で大変人気の作品となり、彼らの中に愛国的な感情を呼び起こした。その後、様々な作品において、聖なる侯ラザルのケファロフォレ像が様々な技法を用いて描き出されていった 。それらと一線を画しているのが1773年にザハリイェ・オルフェリン(英語版)が製作したラザルの銅版画である。ここではパレードを行うラザルが描かれているのだが、光背が描かれている以外に聖人性を示す意匠がみられない。 ラザルの不朽体は、1941年までヴルドニク=ラヴァニツァに安置されていた。しかし第二次世界大戦中、ナチ・ドイツがユーゴスラヴィア王国に宣戦布告してこれを席巻すると、不朽体は同じフルシュカ山にあるベシェノヴォ修道院(英語版)へ移された。スレムはファシズム・クロアチア民族主義を掲げるウスタシャが支配するクロアチア独立国の一部となり、大規模なセルビア人虐殺が展開された。1941年にベオグラードへ亡命したヴルドニク掌院ロンギンは、フルシュカ山にあるセルビア人の聖なる品が完全に破壊される危機に陥っている、と述べている。彼は不朽体をベオグラードへ移送するよう主張し、セルビア正教会の宗教会議で承認された。ドイツ占領軍当局の許可が下りた後の1942年4月14日、ラザルの不朽体を収めた聖櫃がベシェノヴォ修道院からベオグラードの聖天使首ミハイル大聖堂(英語版)へ移送され、儀礼的に教会のイコノスタシスの前に安置された。戦後の1954年、宗教会議でラザルの不朽体をラヴァニツァ修道院に帰還させる決議が為された。これが実現したのはさらに30年以上後の1989年、コソヴォの戦い600周年の時であった。
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