銅版画
【英】:COPPER PRINT
版画技法。版材に銅板を用いる版画の総称。基本的に凹版画であり、彫られた凹部にインキをつめ、プレス機で紙に刷り上げる。製版の方法によって、直刻法(直接法)と酸腐蝕法(間接法)に大別できる。直刻法は、彫刻刀などによって銅版に刻画し凹部をつくるもので、用いる彫刻刀の種類と刻画の方法によって、エングレーヴィング,ドライポイント,メゾチントなどの技法に区別できる。一方酸腐蝕法は、防蝕剤によって版面に腐蝕される部分とされない部分を作った上で、酸による腐刻を行い凹部をつくるもので、防蝕剤の使い方の様々で、エッチング,アクアチントなどの技法に区別できる。これら様々な銅版画の技法は、同じ銅板を用いた凹版画でありながらもそれぞれ独特の表現効果をもっている。また同一版の上で複数の技法を併用し、一気に刷り上げることも可能である。
銅版
(銅版画 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/18 12:43 UTC 版)
銅版(どうばん)とは版画、印刷の技法の一種である。銅板とも表記する。銅の版に絵画、文字などを彫ってその銅版の表面を凹版にしてインクを流して印刷を行う。また、このようにして作ったものをさす。主に銅版画の制作に使用されており、これは銅版を直接道具を用いて彫る彫刻銅版と、硝酸などの薬品によって腐食させる腐食銅版とに大きく分類される。主としてルネサンス期以降のヨーロッパにおいて銅版画として広く使用された。
- 1 銅版とは
- 2 銅版の概要
銅版画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 19:05 UTC 版)
この街の最も古い景観図は、オッテルンドルフのクックスハーフェン郡立文書館にある。1747年製のこの銅版画は、同年に亡くなった医師ヨハン・ニコラウス・グリマンがオッテルンドルフを南から描いたものである。識別できるのは、19世紀までウシが草を食んでいたエシュヴァイデ、左側がクーレミューレで右側がメデム川である。屋根の上に1615年製の小塔を戴いた1580年建造の東門、古く1804年に取り壊された教会塔や、その背後に風車や民家が見られる。街は土塁と堀で囲まれていたが、18世紀半ばに埋め立てられ、セイヨウボダイジュが植えられた。
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銅版画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 14:38 UTC 版)
『三囲景図』(神戸市立博物館所蔵) 『三囲之景』(神戸市立博物館所蔵) 『獅子のいる風景』(神戸市立博物館所蔵)・・・江漢が日本で初めての銅版画を発表する以前にその技法を探るため、試験的に制作したものといわれている。レンブラントが完成した腐食銅版画の技法を大槻玄沢の協力により翻訳し、手探りでその技法を完成した。因みにこの絵に描かれている獅子は平賀源内が私財を投げ打ってまで求めたといわれている『ヨンストン動物図譜』から模写したもの、といわれている。 『広尾親父茶屋図』(神戸市立博物館所蔵)
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銅版画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 14:52 UTC 版)
「甲州申橋」 1879-81年 この他に9点の銅版画が知られている[要出典]。
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銅版画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 20:28 UTC 版)
「アンソニー・ヴァン・ダイク」の記事における「銅版画」の解説
当時の著名人たちの半身像の大規模な『アイコノグラフィ』と呼ばれる銅版画の制作をヴァン・ダイクが始めたのは、おそらくイタリアからアントウェルペンへと戻ったときからとされている。ヴァン・ダイクが下絵を描き、自ら18点の肖像の頭部をエッチングで、身体の輪郭をエングレービングでそれぞれ制作し始めた。「エッチングによる肖像は当時もそれ以前もほとんどなく、ヴァン・ダイクの作品において突然に芸術的価値のある優れた作品が制作された」 しかしながら、この肖像銅版画をヴァン・ダイク自身で完成させることはなく、残りはすべて銅版画の専門家の手にゆだねている。ヴァン・ダイク自らがエッチングを施した銅版画はヴァン・ダイクが死去するまで商業出版されず、生前に制作された銅版画は極めて希少な作品となっている。ヴァン・ダイクは『アイコノグラフィ』の制作を少なくともイングランドへ移住するまでは継続しており、イングランドの建築家イニゴー・ジョーンズの肖像はおそらくロンドン滞在時に追加されたものである。 『アイコノグラフィ』は大きな成功を収めたが、この連作のみがヴァン・ダイクが手がけた銅版画作品である。ヴァン・ダイクにとっては、おそらく肖像油彩画のほうが収入が上であり肖像画の制作依頼は途絶えることがなかった。1641年に死去したときに残っていた銅版画原版は80枚で、そのうち52枚が芸術家の肖像(18枚がヴァン・ダイク自身の肖像)、18枚が芸術家以外の人物の肖像だった。この原版は出版業者に売却され、その後数世紀にわたってこの原版を使用した版画が出版された。原版は経年使用とともに摩滅するため定期的に改訂されており、さらに後世の版画家によって新たに肖像が加えられて、18世紀の終わりには200点以上の肖像版画が制作されている。1851年にはこれらの原版がルーブル宮殿に購入された。 『アイコノグラフィ』は銅版画の大量生産モデルに大きな影響を与えた。現在では銅版画による肖像の存在はほぼ忘れられているが、写真技術が発明されるまではもっとも大衆の目にふれることに寄与した肖像芸術だった。「この一連の銅版画による肖像の重要性はとても大きなもので、それまで肖像画家によって独占されていた人物肖像を、その後200年以上にわたってヨーロッパ中に普及することに多大な役割を果たした」といわれている。ヴァン・ダイクの優れたエッチング技術は線と点の高度な組合せによるもので、同時代の優れた肖像画家たち、例えばレンブラントの銅板画肖像とも一線を画す出来だった。ヴァン・ダイクの銅版画の影響力は時代とともに徐々に弱まっていったとはいえ、19世紀の芸術家ホイッスラーの後期の肖像銅板画にも多大な影響を与えている。20世紀のアメリカ人美術史家で、メトロポリタン美術館のキュレーターだったアルフェウス・ハイアット ・メイヤー (en:A. Hyatt Mayor) は「エッチング版画家たちは少しでもヴァン・ダイクの見事な直裁的表現に近づこうと、その銅版画作品を学び続けてきた。その一方でレンブラントの銅板肖像に見られる複雑な表現は誰からも顧みられることはなかった」と書き記している。
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