銅版画習得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 07:12 UTC 版)
寛政3年(1791年)兄が死に、兄の息子が一時継ぐものの別に一家を持ったため、田善が染物業を継いだ。寛政6年(1794年)白河藩藩主であった松平定信に経緯は不明ながら、取り立てられ扶持を賜る。そして、4年間、長崎にて銅版画の研究に努めた。『永田由緒書』や『退閑雑記』(後篇巻一)では、定信が領地巡回のおり須賀川に昼食ため立ち寄った居室に、田善が描いた「江戸芝愛宕山図屏風」に目を止めて呼び寄せたという。その命により、当時定信に随行し白河にいた谷文晁に洋風画を学び、帯刀も許される。「亜欧堂」の堂号は、定信からアジアとヨーロッパに亘るという意味で授けられた号である。寛政8年(1796年)、白河城下に屋敷を賜って移り住んだ。銅版画を制作するにあたり、銅版の上に線条以外の腐蝕を防ぐため、グランドといわれる下地を作るのであるが、このグランドに田善は漆を使用したと思われ、それによって、銅板式の木版画「比翼塚の図」を残している。独自の銅版画を描き、その師については司馬江漢とも、定信に仕える蘭学者とも、長崎のオランダ人に学んだともいわれている。江漢は、性格が鈍重で飲み込みが遅いとして田善を破門したが、後に田善の方が銅版画の技術は上だと評価し、退けたことを後悔したという逸話が残る。
※この「銅版画習得」の解説は、「亜欧堂田善」の解説の一部です。
「銅版画習得」を含む「亜欧堂田善」の記事については、「亜欧堂田善」の概要を参照ください。
- 銅版画習得のページへのリンク