銅板研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/27 05:54 UTC 版)
「長谷寺銅板法華説相図」の記事における「銅板研究」の解説
長谷寺では長い間、本銅板を秘匿していたため、江戸時代後期の学者・狩谷棭斎もその存在を知らなかったが、1876年(明治9年)の同寺・三重塔の火災に際して世の知るところとなった。一方、1828年(文政11年)に銅板銘の拓本が秘かに採られており、伴信友はその拓本をもとに銘文を解読し、制作年を推定するなど本銅板研究の先駆をなした。その1828年当時、銅板の安置場所は三重塔ではなく、同寺・宝蔵であり、宝蔵に秘匿しておく事情があった(#長谷寺の火災と銅板の安置場所を参照)。 造仏造塔の功徳は絶大であるという仏教思想を背景に、本銅板は天皇のために造立したと銘文に見え、その天皇を「飛鳥清御原大宮治天下天皇」と表現しているが、飛鳥浄御原宮の宮号を冠した天皇の呼称は、天武と持統の両天皇に用いられる。また、銘文中の年紀「歳次降婁」は伴信友により戌年と解読されたが、いつの戌年であるかは記されていない。そのような銘文内容のため、制作年の特定が難しく、大きな争点となった。ゆえに本銅板の研究の歴史は、主としてその制作年代の解明を目的とするものであった(#銅板の制作年代を参照)。 誤伝 銅板の右下部分は銘文の一部とともに欠損しているが、それが1876年の火災によるものという伝承が今も行われている。しかし、1828年の拓本にすでにその欠損が確認できるため、その伝承は明らかに誤伝であり、欠損の事情と時期は不明とされている。
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