長谷寺の火災と銅板の安置場所
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「長谷寺銅板法華説相図」の記事における「長谷寺の火災と銅板の安置場所」の解説
伴信友が1844年(天保14年)11月に著した『長谷寺多宝塔銘文・長谷寺縁起剥偽』の冒頭に、本銅板銘の全文が書かれており、その1行目から9行目には現在と同じ文字の欠損が確認できる。これは、1828年(文政11年)に伊賀人・河村春雄が銅板から採った拓本を伴が臨書したものである。 河村は古物古跡の探索を好み、諸国を歴遊して1828年6月に長谷寺に至り、逗留しているときに本銅板を目にした。銅板は昔から本堂には安置せず、宝蔵に秘匿しており、長老の他には寺僧でさえその存在を知らないという状況であった。が、河村は懇願して秘かに見ることができ、拓したという。1836年(天保7年)、河村は伴のもとを訪れ、伴に長谷寺で見た銅板のことを話した。伴の著書『長谷寺多宝塔銘文・長谷寺縁起剥偽』はその口伝書・研究書である。伴はその中で、944年(天慶7年)と1052年(永承7年)の長谷寺での火災の様子を次のように記している。
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