長谷寺観音の事付法道仙人の事
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「安倍晴明物語」の記事における「長谷寺観音の事付法道仙人の事」の解説
(吉備公の試練の話を離れ、本来独立した法道仙人の飛鉢法の説話と長谷寺の縁起を混交して説く。吉備公の話の続きは次巻へ) 法道仙人は天竺の人で全世界を飛び回って功徳を授けていたが、あるとき日本に飛来し、播磨国印南郡(いなみのこおり)法花山(法華山)に天下った。法道は、千手観音像、仏舎利、宝鉢以外の何も持たず、日夜法華経を唱えていた。この宝鉢は、虚空を駆けて各地を巡り、喜捨を受けては法道の元に戻る。このため法道は「空鉢仙人」と呼ばれた。 大化元年(西暦645年)、藤井の駒城(こまき)という者が年貢米1000石を船に積んで運んでいた。法道仙人が飛ばした鉢が藤井のところに現れたが、彼は「これは官米なので一粒たりともやれん」と断ったところ、鉢は岸へと飛び返った。ところが、船に積んでいた年貢米は鉢を追いかけて列をなして飛び去ってしまった。藤井が肝をつぶして仙人の庵に詫びに来たところ、仙人は笑って許し、米は船に戻った。藤井がこのことを孝徳天皇に報告したところ、たいそう奇特なことと感嘆した。 大化5年(西暦649年)、孝徳天皇が病に倒れるが、法道仙人の祈祷により程なく快癒した。この功により法花山には巨大な仏殿が作られ、観音像が安置された。さらに数十年を経て、法道仙人は観音の木像を作ろうと思い立ち、材料となる木材を全国各地に求めた。 (話はいったん100年近く過去へ遡る) 近江国高嶋郡三尾崎(みおがさき)というところで洪水があり、橋のほとりにあった楠が流出した。この木が流れ寄ったところは火事や疫病が流行り、人々は恐れ戦いた。しかし和州葛下郡(かつげのこおり)出雲の大満(おおまつ)という人がこのことを聞き及んで、「この木は霊木だろう」と考えて十一面観音を作る願をかけた。実地に行ってみると、大木で容易に動かせないようだったが、試しに綱をかけて一人で引っ張ってみると板のように軽い。道行く人たちの助けも借りて、木を地元の当麻郷まで運んできたが、大松は朝廷に出仕することとなり、木は80年余放置された。そうしているうちに木が運ばれた里で疫病が流行り、村人は木が原因と考え、長谷の川上に木を捨てた。 長谷の地に捨てられた木を見つけた法道仙人はこれを霊木として、15年の加持の後、十一面観音を仏師に彫らせた。この観音像の安置場所を思案した法道だが、夢に金色の人が現れ、「この山の北の嶺の地中に8尺四方の瑪瑙石が埋まっている。これを掘り出し、大悲菩薩(観音の異称)の台座とせよ」と啓示を受ける。法道は喜んで掘ったところ、夢のとおりの巨石が出てきた。石の表面には足跡があり、寸法を測ると観音像の足と寸分違わぬものであった。観音像を据え付け、文武天皇に奏上したところ、大伽藍を建立し、開眼供養が行われたという。 このようにありがたい観音菩薩なので、信心する人たちの願いには必ず応え、吉備公にも利益を施したのである。
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