安倍晴明物語一代記 一
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「安倍晴明物語」の記事における「安倍晴明物語一代記 一」の解説
序 卜兆(うらかた)根元の事 (『簠簋抄』を原典に、天竺(インド)、太唐(中国)、日本における卜占の起源を説く) 占いの奥義は、天竺においては羯毘羅仙(かびらせん)⇒阿私多(あした)仙人⇒釈尊(仏陀)⇒文殊菩薩、太唐では伏羲(ふっぎ)⇒周の文王⇒周公旦⇒孔子、日本では思兼命⇒春日明神⇒太織冠(藤原鎌足)⇒吉備大臣(吉備真備)へと伝えられたが、三国ともに世に広まることはなかった。しかし安倍晴明が現れ、三国の卜占の技を統一することとなった。 伯道(はくどう)上人の事 (『簠簋抄』が原典) 周の時代、雍州城荊山の洞窟に伯道上人と呼ばれる人がいた。彼は山奥で天地陰陽の理を究めたいと修行に勤しんでいたが、ある日大海に出ることを決意し、小舟で沖に漕ぎ出た。そこへ筏に乗った童子が乗り移ってきて、なぜこんなところにいるかを伯道に問う。伯道は、天地の理を悟るため山奥で修行してきたが成らず、こうして大海に出てきたことを告げると、童子は笑って、そんなことでは天地の理を知ることはできない、師について教えを受けなければならないと答えた。伯道はこれに納得して、ただ者には見えない童子に教えを乞うと「五台山に来なさい」と告げ、虚空に消えた。伯道は童子が文殊菩薩であったことに気がつくのであった。 伯道は五台山へと至り、歩き回ったが誰の姿も見えない。さらに深山に分け入ると共命鳥(ぐみょうちょう)が現れ、伯道の着物の裾を咥えてさらに山の奥へと導いた。伯道は「五台山」と書かれた扁額のかかった七宝の楼門へと至り、中に入ると極楽世界を思わせる宮殿楼閣が建ち並び、そこに文殊菩薩がおわした。文殊菩薩は伯道に天地陰陽五行の理を一日一夜で説き与えた。これにより伯道は羅漢果の悟りや通力を得、荊山に戻り、文殊菩薩の教えを160巻に書き記した。伯道はこの秘伝書のごく一部を、太公望、范蠡、張良、孔安国、河上公といった人々に密か伝えた。伯道自身は仙人となり、五台山において文殊菩薩の眷属となった。秘伝書160巻は漢の武帝に譲られ、これを読んだ東方朔は仙人となった。 安倍仲麿入唐(あべのなかまろにっとう)の事 (『簠簋抄』が原典だが、『簠簋抄』は『江談抄』第三「吉備入唐間事」を元にしている) 伯道上人の書き記した秘伝書は後に日本へ伝わることとなるのだが、それには安倍仲麿(阿倍仲麻呂)が関わっている。安倍仲麿は元正天皇の時代の人で、霊亀2年(西暦716年)に遣唐使として唐へ渡った。さらに仲麿は熒惑星(けいわくしょう)の分身でもあった。同じ熒惑星が降りた者としては東方朔がいる。彼は漢の武帝の政事を補佐し、世を豊かにした。それゆえ、仲麿も東方朔同様、自国(日本)のために尽くすものと思われ、これが唐にとっては日本の不服従につながることから、日本への帰国が許されず、高楼に幽閉される。嘆き悲しんだ仲麿は「あまの原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」と句を読むが、最後は食を断って自死した。仲麿の霊魂は死して後、鬼となって彷徨い、出会った者は体調を崩し死に至ったという。 吉備大臣(きびのだいじん)入唐(にっとう)の事付殿上(てんじょう)にて碁をうつ事 (承前) 仲麿が唐に渡った翌年(霊亀3年)、吉備大臣(吉備真備)が遣唐使として唐に渡った。時の皇帝である玄宗は日本からの貢ぎ物が少ないことに腹を立て吉備公の処刑を命じるが、吉備公が才知に優れた者であった場合は日本へ送還すべしと申し添えた。これにより、吉備公は試されることとなる。 廷臣たちが課した第一の試練は、当時まだ日本に伝えられていない囲碁であった。碁を知らなければ処刑、鍛錬の程を見せれば助命と決まり、試合は翌朝とされた。一方、吉備公は何も知らず宿舎の楼閣で休んでいたが、そこへ赤鬼が現れる。赤鬼は「自分は遣唐使として遣わされた安倍仲麿である。二度日本へ帰ろうと願い出たが許されず、この地で死んだ。しかし望郷の念が凝り固まって霊魂は赤鬼となって彷徨っている」と語った。さらに仲麿は、玄宗皇帝の出した処刑命令のこと、囲碁の勝負で試されることを吉備公に伝え、「相手となる憲当という者が明日に備えて宿舎で囲碁を打つので、これを見せてやる」と言う。仲麿は囲碁のルールを教えた上で吉備公を背負って憲当の元に赴き、彼が碁を打っているところを密かに見せた。吉備公は即座に囲碁を理解し、翌朝行われた勝負は二番とも勝った。 吉備公文選(もんぜん)をよむ事 (承前) 天子(玄宗)は「吉備は梁の昭明太子が編纂した『文選』を知らないだろう。これを読ませて、音読できないときは殺せ」と命じた。その夜、またもや吉備公の元に仲麿の鬼が現れ、「明日は必ず『文選』を読まされる。この本はたやすく読めるものではない。天子は毎日読んでいるから、おまえはそれを聞け」と言う。吉備公は鬼に背負われ天子の元に赴き『文選』を読むのを密かに聞いた後、宿舎に戻り眠りについた。翌朝、天子は吉備公を召して『文選』を読ませるが、吉備公は淀むことなく流麗に読み終えた。天子をはじめ公卿臣下全員が感心し、「日本は小国だが、このように才知にたけた者がいるのか」と褒め称えた。 しかし『文選』を簡単に読まれたことを悔しく思った天子は、「宝誌和尚の書いた日本の未来を予言した詩『野馬台之詩(やばたいのし)』を読むことはできまい。この詩は非常に難解で唐へ密かに伝えられたものの、自分も読むことができず、これまでに読むことができたのはただ一人のみ。これを吉備が読めなかったときは殺す」と言い渡す。その夜、再度鬼が吉備公の元に現れ、明朝野馬台之詩を読むという試練が与えられるという話をしたが、今度は鬼もこれを打開する策を持たず、「日本の神仏に祈れ」と言い置いて消えてしまう。吉備公は驚き呆然としたが、「心を込めて祈れば仏の御利益もあるはずだ」と若い頃より信奉してきた大和長谷寺の観音に祈った。しばらく微睡んでいると、枕元に老僧が現れ、「我は長谷寺の観音である。なんじの真摯な祈りに応え夢に現れている。安心して明日の試練に臨め。我は蜘蛛の姿に変じて『野馬台之詩』の文字の上に現れる。それから糸を出して文字の上巡るので、その糸に従って読め」とお告げを残した。目を覚ました吉備公は、歓喜の涙を流して観音の名を唱えた。 長谷寺観音の事付法道仙人の事 (吉備公の試練の話を離れ、本来独立した法道仙人の飛鉢法の説話と長谷寺の縁起を混交して説く。吉備公の話の続きは次巻へ) 法道仙人は天竺の人で全世界を飛び回って功徳を授けていたが、あるとき日本に飛来し、播磨国印南郡(いなみのこおり)法花山(法華山)に天下った。法道は、千手観音像、仏舎利、宝鉢以外の何も持たず、日夜法華経を唱えていた。この宝鉢は、虚空を駆けて各地を巡り、喜捨を受けては法道の元に戻る。このため法道は「空鉢仙人」と呼ばれた。 大化元年(西暦645年)、藤井の駒城(こまき)という者が年貢米1000石を船に積んで運んでいた。法道仙人が飛ばした鉢が藤井のところに現れたが、彼は「これは官米なので一粒たりともやれん」と断ったところ、鉢は岸へと飛び返った。ところが、船に積んでいた年貢米は鉢を追いかけて列をなして飛び去ってしまった。藤井が肝をつぶして仙人の庵に詫びに来たところ、仙人は笑って許し、米は船に戻った。藤井がこのことを孝徳天皇に報告したところ、たいそう奇特なことと感嘆した。 大化5年(西暦649年)、孝徳天皇が病に倒れるが、法道仙人の祈祷により程なく快癒した。この功により法花山には巨大な仏殿が作られ、観音像が安置された。さらに数十年を経て、法道仙人は観音の木像を作ろうと思い立ち、材料となる木材を全国各地に求めた。 (話はいったん100年近く過去へ遡る) 近江国高嶋郡三尾崎(みおがさき)というところで洪水があり、橋のほとりにあった楠が流出した。この木が流れ寄ったところは火事や疫病が流行り、人々は恐れ戦いた。しかし和州葛下郡(かつげのこおり)出雲の大満(おおまつ)という人がこのことを聞き及んで、「この木は霊木だろう」と考えて十一面観音を作る願をかけた。実地に行ってみると、大木で容易に動かせないようだったが、試しに綱をかけて一人で引っ張ってみると板のように軽い。道行く人たちの助けも借りて、木を地元の当麻郷まで運んできたが、大松は朝廷に出仕することとなり、木は80年余放置された。そうしているうちに木が運ばれた里で疫病が流行り、村人は木が原因と考え、長谷の川上に木を捨てた。 長谷の地に捨てられた木を見つけた法道仙人はこれを霊木として、15年の加持の後、十一面観音を仏師に彫らせた。この観音像の安置場所を思案した法道だが、夢に金色の人が現れ、「この山の北の嶺の地中に8尺四方の瑪瑙石が埋まっている。これを掘り出し、大悲菩薩(観音の異称)の台座とせよ」と啓示を受ける。法道は喜んで掘ったところ、夢のとおりの巨石が出てきた。石の表面には足跡があり、寸法を測ると観音像の足と寸分違わぬものであった。観音像を据え付け、文武天皇に奏上したところ、大伽藍を建立し、開眼供養が行われたという。 このようにありがたい観音菩薩なので、信心する人たちの願いには必ず応え、吉備公にも利益を施したのである。
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