処刑命令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:09 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニの死」の記事における「処刑命令」の解説
誰がムッソリーニの即時処刑を決定したのかについては諸説が存在する。イタリア共産党書記長であったパルミーロ・トリアッティは、ムッソリーニが逮捕される以前に自分がムッソリーニの処刑を命令していたと主張した。トリアッティは1945年4月26日に、「彼ら(ムッソリーニらファシスト党幹部)の処刑を決定するために必要な条件は、彼ら本人であることの確認だけだ」とのメッセージを無線電信で送ることで、ムッソリーニ処刑の命令を下していたと述べた。トリアッティはさらに、イタリア王国の副首相およびイタリア共産党の書記長として処刑の命令を下したと主張した。のちに、当時のイタリア王国首相イヴァノエ・ボノーミは、トリアッティの命令が政府としての権限や承認を得たものであったことを否定した。ミラノの上級共産党員であったルイージ・ロンゴ(英語版)は当初、ムッソリーニ処刑の命令はパルチザンの軍総司令部から「CLNAIの決定を受けて」下されたものであったと語っていたが、のちに異なる証言を行い、ムッソリーニ逮捕のニュースを知ったロンゴとフェルモ・ソラーリ(行動党(英語版)のメンバー)が、ムッソリーニが即時処刑されるべきとの意見でただちに一致し、ロンゴが処刑執行の命令を下したと述べた。 CLNAIにおける行動党の代表だったレオ・ヴァリアーニ(英語版)の証言によれば、ムッソリーニ処刑の決定は1945年4月27日の夜、CLNAIを代表して活動するグループ(ヴァリアーニ、ペルティーニ、共産党員のロンゴとエミリオ・セレーニから成る)によって下されたという。CLNAIはムッソリーニの死の翌日、ムッソリーニがCLNAIの指令によって処刑されたと発表した。 いずれにしても、ロンゴは共産党パルチザンのヴァルテル・アウディージオ(英語版)に対して、ただちにドンゴへ向かい処刑命令を遂行するよう指示した。ロンゴは処刑を命令するにあたって、「奴を撃ってこい」と声をかけたとしている。ロンゴはまた、別のパルチザンであるアルド・ランプレーディ(イタリア語版)にアウディージオに同行するよう頼んだ。ランプレーディによれば、ロンゴはアウディージオの性格が「生意気で、強情かつ向こう見ず」であると考えていたため、ランプレーディを任務に同行させたという。
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