人物・生涯とは? わかりやすく解説

人物・生涯

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崔立」の記事における「人物・生涯」の解説

若いころ寺院に籍を置き、鉦や太鼓鳴らして生計立てていたようである。 『金史』によると、後に金に仕官し都統、提控使を経て、領太原府事を歴任した1232年天興元年)に、スブタイ率いモンゴル軍開封府迫って来ると、平安都尉兼ねて、その総指揮となった。だが、哀宗開封府放棄して帰徳府逃亡した。そのため、金の宗室である参知政事完顔奴申と枢密副使完顔斜捻阿不らが臨時的開封府留守となり、彼等実力者崔立西面元帥昇格させた。だが翌年正月早々崔立クーデター起こし上司完顔奴申・完顔斜捻阿不を殺害し、彼は実権把握した。そこで、彼は20年間も監禁されていた衛紹王皇太子であった梁王従恪先帝であった宣宗未亡人李氏通じて擁立し従恪を再び皇太子監国とし、彼自身太師兵馬元帥尚書令・鄭王と称した

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ウィリアム・モーリス・ディヴィス」の記事における「人物・生涯」の解説

ペンシルベニア州フィラデルフィアにてクエーカー家庭であるエドワード・モーリス・ディヴィスとマリア・モット・ディヴィスの間に生まれた1869年ハーバード大学卒業し翌年工学修士Master of Engineering)の学位受けた3年アルゼンチンコルドバ働き1879年より地質学者ナサニエル・シェーラー助手となりハーバード大学地質学教員として働き始めたが、ディヴィス終生Ph.D.を取得しなかった。同年マサチューセッツ州スプリングフィールドのエレン・ワーナー(Ellen B. Warner)と結婚するディヴィスの最も影響力大き科学的業績は、いかにして河川地形形成するかを示すモデルである地形輪廻侵食輪廻)を提唱したことである。この概念1889年に、 ペンシルベニア河谷発達説明する文章で初め言及され定義された。ディヴィス地形輪廻は(大きな河川は主に3つの部分、すなわち上流中流・下流持ちそれぞれ固有の地形地形に関する特性有することを示唆している。地形輪廻概念は、チャールズ・ダーウィンの進化論影響受けている。一方で人文地理学については自然環境人間への影響機械論的論じ環境決定論的な見方示したディヴィス弟子環境決定論知られるエルズワース・ハンティントンがいる。 地形学草創期重大な貢献をしたにもかかわらず多く地形変化に関するディヴィス理論は、ディヴィス流地形学(Davisian geomorphology)と時折呼ばれ現代地形学者から激し批判なされてきた。またディヴィス後を追う研究者彼の説や方法懐疑的な者へのディヴィス対応について批判されている。事実ディヴィス退官するまで地形変化研究をほぼ独占していたのであった現代、「ディヴィス流地形学」という語は他者科学論文に対して懐疑的な説を試み時に批判するために使われるディヴィスアメリカ地理学会AAG)を1904年立ち上げ設立初期ナショナルジオグラフィック協会学会誌ナショナルジオグラフィック』に多数記事投稿することで同協会巻き込んだこの頃ディヴィス地理学地質学から独立させよう努力していた。 1911年ディヴィスハーバード大学退官する最初の妻死去後1914年マサチューセッツ州ケンブリッジのメアリー・ワイマン(Mary M. Wyman)と再婚、彼女が死去すると、マサチューセッツ州ミルトンのルーシー・テナント(Lucy L. Tennant)と結婚した1934年84歳誕生日目前にしてカリフォルニア州パサデナ死去した

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マルキャン・ボリシコ」の記事における「人物・生涯」の解説

サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは1885年1888年ウクライナ東部ハリコフ県ザチピーロフカ地区ルノフシナ生まれたロシア帝国による極東移住呼びかけ応じた農民両親とともに樺太入植した1917年ロシア革命が起こると、北樺太アレクサンドル・クラスノシチョーコフ極東共和国組み込まれた。1918年北部州都アレクサンドロフスク市のロシア移民未亡人結婚して一女もうけたその後極東共和国消滅し北樺太社会主義化が進むと、革命政権嫌って1925年にマルキャンは単身日本治政下の南樺太大泊(現:コルサコフ)へ亡命した1928年洋裁勤務の納谷キヨ後志管内神恵内村出身)と結婚し翌年から敷香牧場経営した。マルキャンは多く日本人白系ロシア人雇い、肉や乳製品卸して成功し南樺太では知られ名士だった。 1940年昭和15年5月29日敷香郡敷香町幸喜生まれた南樺太にはロシア革命以来白系とされたウクライナ系ポーランド系住民ソヴィエト政府による弾圧逃れて居住していたが、1944年戦況の悪化により樺太庁指示でこれらの住民を美喜内村外国人居留地移送した。マルキャンも一人居留地移され1945年8月に船で北海道へ引き揚げ家族との連絡絶たれた。陸上でもソ連軍無差別攻撃がしばしば行われ、約2000人の民間人死亡し亡命していた白系ロシア人多く死傷し犠牲となった第二次世界大戦終了間際ソ連対日参戦とともに赤軍南樺太侵攻樺太の戦い)してソ連南樺太実効支配するようになってからは、外国とのつながりのあったマルキャンは大泊ソ連当局逮捕され1949年反ソ宣伝理由に自由剥奪10年の刑に処せられ強制収容された。1954年恩赦認められ出獄したその後サハリン州博物館守衛務めたが、1960年11月15日肺炎のためユジノサハリンスク豊原市)で死去した息子イヴァーン日本名:幸喜四股名:大鵬)が幕内入幕6場所目、関脇地位で、初優勝する昭和35年11月場所中のことだった。 1989年スターリン時代無実の罪サハリン捕らえられ強制収容された人々ゴルバチョフにより公式に名誉回復された。 2001年サハリン州日本研究家によってマルキャン・ボリシコ生涯明らかになり、ウクライナハルキウ市に大鵬記念館が建設された。息子大鵬幸喜によるハルキウでの相撲大会企画や、日本ウクライナ国際交流舞台となっている。

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ジョモ・ケニヤッタ」の記事における「人物・生涯」の解説

子供の頃ミッション系学校教育受けたケニア国内での学歴は、この時の初等教育のみのようである。1913年に、キクユ族成人儀式終えている。その後農園労働者商店事務員ナイロビ市水道局職員等を掛け持ち働き白人標準からしてもかなり裕福な暮らしぶりだったという。また、独学かなりの教養を身につけ、キクユ人はもちろん、イギリス系住民からも「知識人」と見なされていた。1917年から1919年にかけて、最初の妻グレース・ワフ(英語版)(?-2007 死去時は110歳くらい)と結婚しており、二人の子儲けた。この時、カソリック洗礼受けていたにもかかわらず教会ではなくキクユ族伝統則って結婚式挙げて婚姻無効ということになり、ケニヤッタ宣教師の活動敬意抱きつつも不信感高めた1923年頃から居酒屋経営をはじめるが、そこが民族運動家の溜まり場となったことから政治活動にも興味を持つようになり、1926年キクユ中央連盟英語版)(Kikuyu Central Association, KCA)の書記として活動参加しはじめる。1927年組織の金を横領して姿を消した前任者の後をついで、仕事辞めてKCA活動専念するようになった1929年1931年KCA代表として渡英し、植民地省との交渉にあたる。なお、1931年にはマハトマ・ガンディー会見している。そしてそのまま帰国せず、当時著名だった黒人革命家ジョージ・パドモア(George Padmore 1901-1959)の紹介ソ連渡りモスクワ大学経済学学んだが、パドモアがスターリン睨まれたこともあって、得たのは共産主義への不信感だけであり、1933年改めロンドン大学聴講生となった同時にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス研究生となり、文化人類学者ブロニスワフ・マリノフスキ師事してキクユ族伝統文化について研究行い1938年欧米出版され最初アフリカ人著作と言われる名『ケニア山望んで』("Facing mount Kenya")を出版。この時、初めて「ケニヤッタと言う名前を用いている。その後人類学研究書や、ケニア伝説に範をとった小説などいくつか出版した後、1939年からは、ロンドン大学教員イギリス軍顧問などを務めた。そして1942年には、イギリス人女性エドナ・クラークと結婚して子供儲けている(1946年離婚)。 1946年ケニア帰国キクユ族長老の娘と結婚し(1950年死別)、教員として働くが、1947年6月、ケニア・アフリカ人連合英語版スワヒリ語版)(Kenya African Union, KAU)党首選ばれた。1951年最後の妻となるキクユ族長老の娘、エンジナ(英語版)と結婚。エンジナは、ケニア最初のファーストレディ、「ママ・エンジナ」として今も人気がある。 1952年マウマウ団の乱関係したとされ、またその一味であったとされ逮捕された。裁判官通訳者などが不当にケニヤッタ扱ったとされる裁判は5ヶ月及んだが、インド系およびインド本国からの有名弁護士が彼を支援しさらにはケニヤッタ自身若い頃ナイロビ地裁通訳として働いていた経験もあった。結果として7年間の重度労役処分とされたが、ケニア北西辺境地ロドワーに移送され保護観察下での執行猶予処置とされた。現在の研究でも、彼とマウマウとの関係はあったとされているが、他の説唱える研究もある。ケニヤッタ教会から問題視されるほどの大酒飲みで、なおかつ居酒屋経営という仕事柄付き合いがあった酒の密輸組織が、マウマウ団母体一つだったともいわれる結果的に1959年まで刑務所で過ごすこととなった1963年ケニア独立する初代首相となり、1年後大統領制移行するそのまま大統領となった大統領としてケニヤッタ一貫して西側寄り資本主義体制堅持し、外資積極導入し西側寄り政策取ったこのためケニア経済発展し東アフリカ地域大国となっていった。一方で国内では独裁政治行い1969年には完全に与党ケニア・アフリカ民族同盟KANU)による一党制を敷くこととなったまた、自らの出身民族であり、ケニア最大民族でもあるキクユ人優遇行い、後の民族対立発端となったケニアのみならずアフリカ諸国民族運動大きな影響与えた。自らの出身でもあるキクユ族研究でも民俗学者として業績を残す。ナイロビにあるジョモ・ケニヤッタ国際空港彼にちなんで名付けられた。建国の父として「ムゼー(Mzee、おじいさん)」という愛称がある。1966年から現在に至るまで複数額面ケニア・シリング紙幣肖像使用されている。 エンジナ(英語版)との子ケニヤ第4第大統領務めたウフル・ケニヤッタがいる。

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ジャック・モイヤー」の記事における「人物・生涯」の解説

1948年コルゲート大学在学中朝鮮戦争徴兵され日本駐在。このとき、アメリカ軍爆撃訓練場となっていた三宅島近く大野原島通称三本岳)に生息する希少種カンムリウミスズメを、ハリー・S・トルーマン大統領の側近手紙訴えて爆撃訓練阻止することで救った1954年に一旦帰国しコルゲート大学卒業1957年三宅島中学校英語教師として赴任以降三宅島永住しアカコッコ海洋生物などの生態研究続ける。1984年東京大学において「繁殖生態」により博士号取得するクマノミ性転換発見三宅島生息する魚類のミヤケテグリ(ネズッポ科)の発見など、数多く業績残し、また同時に環境問題にも通じていた。 2000年三宅島噴火し全島避難が行われると東京都北区都営団地に居を移した。それと共にフィリピン開いていた自然学校の経営悪化し資金繰り苦しむようになるその後噴火活動沈静化受けて三宅島周辺サンゴ礁調査従事ジャック・マイヨール自殺に関しては「自殺良くないね」と言っていたが、2004年避難先の東京都北区赤羽団地一室で、妻への感謝述べた遺書残して自殺した2014年、かつての勤務先アメリカンスクール・イン・ジャパン1960年代から1990年代まで数十人の女子生徒性的暴行与えていたことが明るみ出た2000年に、彼から性的暴行受けた被害女性数人によりこの事実突き付けられ挙句被害女性が事を公にするとの連絡受けた数日後自殺したとされている。2014年問題となった勤務先アメリカンスクール・イン・ジャパンは、1970年代後半をはじめ1980年代1990年など数回渡り、この事実告げられていた。その後も全く対処しなことに業を煮やした被害者女性学校OBジャパンタイムズにこの事実告発したその後学校全生徒及び学校関係者、卒業生に対して事実初め認識し謝罪メール送信した2014年6月4日アメリカンスクール・イン・ジャパン理事会は、1962年頃~2000年頃の期間アメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)と関係があった元教員コンサルタントジャック・モイヤーによる性的虐待被害申立に関する独立調査発表しサイト報告している。

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マリア・ゲッパート=メイヤー」の記事における「人物・生涯」の解説

ドイツ帝国・オーバーシュレジエンのカトヴィッツ現在のポーランドカトヴィツェ)に生まれた1910年、父フリードリヒ・ゲッパート(ドイツ語版)が小児医科教授になるため、家族ゲッティンゲン移住したマリア大学の学生講師、後のノーベル賞受賞者になる、フェルミハイゼンベルクディラックパウリらに囲まれ育った。彼女自身ゲッティンゲン大学学びボルンらの教え受けた1930年にジョセフ・エドワード・メイヤー(英語版)と結婚して、夫の国のアメリカに移住した。夫も物理学者でその専門統計力学、特に不完全気体理論知られる1931年から1939年までボルチモアジョンズ・ホプキンス大学働き1940年から1946年までコロンビア大学研究員となり、1946年シカゴ大学講師-准教授となったサラ・ローレンス大学教鞭をとり、シカゴ大学研究行い時にロスアラモス国立研究所訪れたこの頃1963年ノーベル賞受賞することになる「魔法数に関する研究など原子核モデル研究おこなったまた、アルゴンヌ国立研究所研究員務めた。同じ頃同じテーマ研究していたドイツ研究者たち1人ハンス・イェンセンと"Elementary Theory of Nuclear Shell Structure"を出版した1963年2人ノーベル物理学賞受賞した1953年には、国際理論物理学会 東京京都来日した1960年にはカリフォルニア大学サンディエゴ校物理学専任教授就任した1972年死去。ゲッパート=メイヤー死後女性物理学者贈られるマリア・ゲッパート=メイヤー賞(英語版)がアメリカ物理学会によって創設された。

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志筑忠雄」の記事における「人物・生涯」の解説

天文物理オランダ語文法地理誌海外事情といった分野中心に蘭書底本とした各種和訳書成した本姓中野氏通称忠次郎、字季飛。名をはじめは盈長、後に忠雄とし、圃と号した長崎三井用達業としていた三代中野用助の五男として生まれ養父孫次郎養子として阿蘭陀通詞志筑本家8代継いだ志筑経歴について長年長崎通詞由緒書』の情報をもとに、阿蘭陀通詞志筑家の養子となり、安永5年1776年)には稽古通詞となったが、その翌年病身理由辞職し阿蘭陀通詞西洋天文学精通していた本木良永師事した信じられてきた。近年の研究成果によって、志筑少なくとも天明2年1782年)まで稽古通詞務めていたことが究明された。また、天明6年1786年5月まで同職務めていた可能性指摘されている。 その生涯蘭書翻訳に身を捧げる一方多病であったようである。大槻玄幹(1785年 - 1837年)、杉田玄白新宮凉庭1787年 - 1854年)らの諸著述において、志筑若くして病気理由阿蘭陀稽古通詞辞し隠居して人との交わりできるだけ絶ち、およそ政治現実問題とは無縁な生き方しながら蘭書没頭する人物として描かれている。 大正5年1916年)、従五位追贈された。

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李升基」の記事における「人物・生涯」の解説

日本統治時代の朝鮮全羅南道潭陽郡生まれ中央普通学校経て松山高等学校理科甲類1928年3月卒業したその後京都帝国大学工学部進学して1931年3月卒業しその後京都帝国大学化学研究所では助教授務めた1939年には桜田一郎川上博(大日本紡績)らと共にビニロン合成し世界で2番目の合成繊維作成した。しかし戦時中日本の軍事政策協力しなかったために治安維持法により拘束され終戦迎えるまでとらわれの身となった解放後韓国へ渡りソウル大学校工科大学長(大学工学部長に相当)を務めるものの朝鮮戦争勃発し北朝鮮へ逃れた(韓国側拉致主張)。その後は、北朝鮮ビナロンビニロン北朝鮮名)などの繊維工業発展尽くしたほか、1962年1990年には最高人民会議代議員務めた1967年寧辺原子力研究所設立される初代所長となり、核兵器開発にも携わるとともに多く科学技術者育てた生前功績により死後愛国烈士陵祀られている。

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原志免太郎」の記事における「人物・生涯」の解説

1882年10月4日に、原田種紀・トエの四男として生まれ、父は黒田藩仕え武士であった明治維新体験県庁役人、しかし失業不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが戸籍係間違いか「郎」が足され志免太郎になった高等小学校卒業後、親元離れ福岡市大浜三丁目(現・博多区大博町)の原三信医学生となり、独学。(後に原一族女婿となる。)検定資格取り京都府医専(現・京都府立医科大学)に入り卒業九州帝国大学医学部宮入慶之助教授及び大平三教授の指導を受けながら「灸」(きゅう)の研究取り組み1929年結核感染したウサギに灸をすえたら抵抗力が増すことを突き止めた論文日本初の「お灸博士」となる(ヒートショックプロテイン研究嚆矢ともされる)。1929年開業1943年香椎病院設立院長椅子長男譲った後も104歳まで聴診器持ち生涯医者」を貫いた104歳まで医師として患者をみたこと、灸の研究博士号取った最初の人物であること、ホタル日本住血吸虫宿主宮入貝天敵であると突き止めるなどのホタル生態・飼育の研究1961年6月には昭和天皇ホタルの卵、幼虫献上したこと、静岡県風土病病原体発見したことなど、業績多岐に亘る亡くなる約2ヵ月前に男性長寿日本一となったが、原志免太郎死去により、男性長寿日本一岡儀平となった

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ジョン・ヘンリー・プラット」の記事における「人物・生涯」の解説

プラットロンドン生まれケンブリッジ大学数学者として卒業した。そして彼は一般的にはプラット機械的思考」と呼ばれる正式名称を「主に国際的重力に関する機械的思考による数学的原理基礎機械工及び建築応用方法と言う600頁程の論文残している。そして、彼はインド副司教[訳語疑問点]をしている間に、インド学問理論取り入れた自らの理論大成した最終的には彼はインド北部ガーズィープル死亡した

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奥崎謙三」の記事における「人物・生涯」の解説

1920年兵庫県明石市大蔵町6丁目生まれる。本籍地兵庫県三木市口吉川町槙小学校卒業後は木綿問屋丁稚奉公出た1940年徴兵検査甲種合格1941年3月岡山連隊入営陸軍二等兵)し、後に九江工兵隊転属1943年1月独立工兵36連隊配属され4月当時激戦地だった東部ニューギニアニューギニアの戦い)に派遣される部隊敗走重ねながら飢えマラリア苦しみ、千数百名のうち生き残ったのはわずか30数名だった。奥崎敗走の前からたびたび上官暴行働いて食料奪っていたが、そのこと知れる上官の恥になるため露見しなかったという。また、奥崎は、この敗走過程右手右足に敵の銃弾受けた結果右手小指失っている。最終階級上等兵1944年7月18日西部ニューギニアのデンタにて連合軍食料盗んでいたところを米兵よ、自分撃て」の意で"GI, Come gun!"と叫び投降豪州軍の捕虜となる。捕虜番号148715。ヘイの第8捕虜収容所にて病院コックをしていた。1946年3月復員豪州当局引揚船生鮮野菜肉類大量に積み込んだものの、船内給食極めて悪く船員復員者の食料横領しているのだとのうわさが流れた奥崎は噂を確かめるべく単身船長室に乗り込み船長執拗な暴行加え腹部携行した理髪用のハサミ刺した。しかし、被害者であるはずの船長横領事件発覚恐れ奥崎に「事件内聞済ませてもらいたい」と申し出たため、このときも刑罰を受けることはなかった。それ以降引揚船では食べきれないほどの食料が出るようになり、それまで目立たぬ存在であった奥崎はたちまち船内英雄となる。 1947年3月三木市共和製作所就職同年5月製作所寮母石地シズミ結婚1951年神戸市兵庫区サン電池工業所を開業しバッテリー商・中古車販売自動車修理を営む。1956年店舗賃貸借をめぐる金銭トラブルから不動産業者刺殺し、傷害致死罪懲役10年の刑に服する1969年皇居一般参賀昭和天皇パチンコ玉発射し次節参照)、暴行罪懲役1年6か月の刑に服する1974年残留日本兵救出目的グアム訪問1976年、『宇宙人聖書!?』を自費出版。その宣伝のため、銀座渋谷新宿歩行者天国で、ポルノ写真天皇一家顔写真コラージュしたビラ約3,000をまいた(皇室ポルノビラ事件)。全国指名手配され直後独立工兵36連隊生き残りの元軍曹宅を訪れたところを埼玉県警察パトカー発見され深谷警察署により逮捕猥褻図画頒布懲役1年2か月の刑に服する1977年獄中から参院選全国区出馬し神軍新聞発行した1980年、ふたたび参院選全国区立候補2度にわたり選挙広告掲載拒否した朝日新聞社社長渡辺誠毅襲撃計画するが、年末、偶然テレビで当時自民党最大派閥木曜会」の忘年会ニュースを観たことから、「天皇通ず社会悪因」として、目標田中角栄変更1981年、『田中角栄を殺すために記す』を自費出版田中対す殺人予備罪書類送検されるが不起訴となったその後は、自家用車2台(トヨタ・マークIIダイハツ・ハイゼット)を使用し街宣活動自著宣伝行っていた。 1982年から記録映画ゆきゆきて、神軍』の撮影が始まる。1983年3月原一男監督らと西ニューギニアロケ敢行同年9月にはパプアニューギニア単独慰霊おもむく同年12月行われた衆院選当時兵庫1区から立候補終戦直後独立工兵隊36連隊内で「戦病死」した兵士死の真相を追ううち、元中隊長ほか3名の殺害を決意する。元中隊長宅を訪れた際、応対出た長男改造拳銃発砲し殺人未遂罪等で懲役12年の刑に服する広島拘置所収監中だった1986年9月、妻を亡くす。刑の確定後、熊本刑務所経て1993年6月城野医療刑務所移監1997年8月府中刑務所より満期出所1998年映画神様の愛い奴』に主演2005年死去入院していた神戸市内の病院で、死去寸前まで「馬鹿野郎」と周り喚き散らしていたと報道されていた。しかし、奥崎支援者によると、入院中に「みんな、良うしてくれます。」と漏らしていたという。奥崎死後程なくして自宅解体され、現在は駐車場となっている。原一男によると、奥崎シズミ奥崎母親の眠る墓(神戸市追谷墓園内)も撤去され跡地更地となっている。

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橋本綱常」の記事における「人物・生涯」の解説

越前藩医の橋本家の四男に生まれる。父は長綱、母は尾。幼名破魔五郎安政2年(1855年)、兄橋本左内藩医辞して越前藩御書院番に任ぜられたことにより、代々藩医家職とした橋本家末弟綱常継いだ文久2年(1862年)、綱常藩医筆頭半井仲庵その子とともに長崎遊学オランダ医師ポンペ師事して西欧医学を学ぶが、ポンペ帰国後は同人弟子だった松本良順蘭医学を学んだ。のち越前帰国して実家において勉学続けた慶応元年(1865年)、再び長崎赴いてボードイン、兄綱維半井澄、岩佐純山本匡輔など共に勉学重ねた慶応3年1867年)、再び江戸出府医学研究続けた維新後明治3年1870年)に軍事病院出仕し越前藩剣術師範三郎兵衛の女操子と結婚明治5年(1872年)、松本推薦によりドイツ留学を命ぜられた。アメリカ横断の際には大倉喜八郎一行一緒で、学資乏し綱常尻切れズボンから下着が覗くのを見かねた大倉からズボン借り与えられている。綱常ヴュルツブルク大学外科をリンハルト(ドイツ語版英語版)に、内科をカール・ゲーアハルト(ドイツ語版英語版)に師事し明治10年(1877年)に帰国した明治16年(1883年)、陸軍大山巌随員として欧州渡り万国赤十字条約加盟のために奔走した明治18年1885年)、軍医総監陸軍省医務局長となる。明治20年1887年)、日本赤十字社病院初代院長となる。後に医務局長は辞したが、病院長職は生涯その任を離れなかった。 明治21年(1888年)、昭宮猷仁親王薨去の折、宮中医療西洋医学導入することを建白した明治28年1895年10月31日男爵授爵華族となる。また、院長職にある間、東京大学教授兼任し医学博士号取得1905年明治38年12月30日後備役編入明治42年1909年心臓疾患のため逝去享年65近代医学功労者として評価されるに至る。外孫奥野信太郎がいる。

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スヴェン・ヘディン」の記事における「人物・生涯」の解説

ストックホルム建築業を営む中流家庭生まれ小学校同級生には経済学者グスタフ・カッセル数学者のイヴァル・フレドホルムなどがいた。1902年貴族に列せられ、1909年イギリスより“ナイト”の称号を得る。 1879年出版されロシア帝国外交団1876年から77年カシュガル地域訪れた際の報告書である『カシュガリア』に影響受けて冒険家志す著者外交団一員であり、後にロシア満州軍総司令官として日露戦争指揮執ることになるアレクセイ・クロパトキンであったヘディン自身1890年クロパトキンの下を訪問している。『カシュガリア』の出版とほぼ同時期だったアドルフ・エリク・ノルデンショルド北東航路発見感銘を受け、生涯師事したベルリン大学シルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェン指導をうけて中央アジア探検決意しペルシアメソポタミア旅行1885年86年)。 スウェーデン王オスカル2世ペルシア派遣した使節団一員としてメルヴブハラサマルカンドカシュガルなどを旅行1890年91年)。 ロシアオレンブルクからウラル山脈越えパミール高原タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドス横断張家口経て北京到着1893年97年)。 1898年には、中央アジア探検功績に対して王立地理学会から金メダル創立者メダル)を贈られた。 1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地方北部探検したその間1900年古代都市楼蘭遺跡干上がったロプノールの湖床を発見し、よく知られている「さまよえる湖」説を唱える至った多く文書遺物取得してカラコルム山脈越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠越えてカシュガル至りフェルガナアンディジャン到着ロシア経由帰国した1905年ペルシアからインド入りレーから西北チベット侵入中央チベット湖沼地帯探検してインダス川サトレジ川(インダス川支流)、ブラマプトラ川ガンジス川支流)の水源地方を調査シガツェ至ってパンチェン・ラマ歓迎受けたサトレジ川河源およびヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行しカラコルム山脈連なる山脈発見し、これをトランス・ヒマラヤ(英語版)と名づけた。カイラス山へも訪れたが、チベット人入山禁じられている。これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わり生涯渡った。他に大谷探検隊知られ浄土真宗本願寺派法主務めた大谷光瑞からの援助受けていた。 1908年帰国1927年西北科学考査団 (The Sino-Swedish Expedition) を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国学者協力による大規模な探検行い東は東蒙古熱河地帯から西は新疆省(現:新疆ウイグル自治区旧・東トルキスタン)を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理考古生物民族人類学など広範囲部門について研究行った新疆省政治上の悪化第二次世界大戦勃発によってその予定は完全には実現されなかった。 1934年ロプノール復活を自らの目で確かめた後、1935年帰国したが、途上立ち寄ったドイツアドルフ・ヒトラー歓待ヘディンナチス党員ではなかったが、チベット興味持ち自分偉業正当に評価してくれるヒトラー親密になった)を受け、その後数回わたってナチス幹部接触持ち金子民雄秘められたベルリン使節」に詳しい)、自国対すドイツ動向探った。このコネクション使いユダヤ人ナチス・ドイツ占領されノルウェーレジスタンス活動家を救い出したこともあった。なおヘディンは、16分の1でユダヤ人血筋ヘディン貶める巧妙な告発であったが、自身はこれを誇りであると偏見誹謗一蹴した)を引いていたが、新聞紙上で台頭期のナチス礼賛したこともあった。 これらの行動原因で、第二次世界大戦終結後スウェーデン国内ではヘディンを「ナチス・ドイツ協力した」として大きく批判された。 1952年ヘディンストックホルム没した没する直前まで、探検に関する著述活動行っていた。 ストックホルム民族学博物館スウェーデン語版英語版)に、ヘディンに関するライブラリー併設され蔵書には彼の収集した古文書や彼自身著作物含まれている。また、ウプサラ大学スウェーデン自然歴史博物館に於いて彼の探検に関する事績採集した鉱石等が保存されている。

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人物・生涯

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ハリー・マーシャル・ウォード」の記事における「人物・生涯」の解説

イングランド西部ヘレフォード生まれたトマス・ヘンリー・ハクスリー教えていたサウスケンジントンの公立夜間学校、「学芸局」(Science and Art Department)で学んだ後、1875年マンチェスター大学のオーウェン・カレッジ、1876年からケンブリッジ大学クライスト・カレッジ学んだケンブリッジ大学学資学芸局で共に学んだ裕福なユダヤ人のルイス・ルーカスが負担したウォード当時イギリスよりも植物病理学進んでいたドイツユリウス・フォン・ザックスアントン・ド・バリーからも教え受けた指導受けたウィリアム・ターナー・シセルトン=ダイアー推薦によって、1880年から1882年まで、セイロン植民地政府雇われて、セイロンコーヒー栽培影響与えていたコーヒーサビ病の研究行ったコーヒー品種多様化や、農園間に森林設けて感染を防ぐことを進めようとしたが、農園主たちは、島の環境破壊し単一コーヒー品種植えていたため、サビ病を防ぐことはできなかった。 1883年イギリス戻り、オーウェン・カレッジの助講師となり、結婚した1885年にロイヤル・インド工学カレッジRoyal Indian. Engineering College、現在ではブリネル大学英語版)の一部となった)の林学部植物学教授となった。 シセルトン=ダイアー推薦1886年ロンドン・リンネ協会フェロー選ばれ翌年には王立園芸協会フェローにも選ばれた。1889年には王立協会フェロー選ばれ、同協会から1890年クルーニアン・メダル1893年ロイヤル・メダル受賞1900年から1901年の間、イギリス菌学会(英語版)の会長務めた1895年ケンブリッジ大学植物学教授となり、植物学教育環境整備貢献した息子のフランク・キングドン=ウォード英語版)(英: Frank Kingdon-Ward)はチベット奥地ビルマ北部多く植物採集おこなった植物学者となった

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高田和子」の記事における「人物・生涯」の解説

本名野津和子。箏を中能島欣一と谷珠美に、さらに大学院出てから、三絃杵屋正邦に師事高校1年のときに箏を習い始め大学入学1年前から三味線の手ほどきを受けた。。NHK邦楽技能者育成会18期首席修了東京芸術大学卒業1976年昭和51年同大学院修了1983年昭和58年)より一柳慧福士則夫石井眞木らへの委嘱初演リサイタル重ね話題を呼ぶ1990年平成2年4月高橋悠治出会い以後共同作品制作続ける。1991年平成3年9月高橋高田共作コンピュータ三絃弾き語りのための『……』を池袋電脳カフェにて初演また、同年より海外各地古典現代三絃曲を演奏1993年平成5年岩城宏之指揮によるオーケストラ・アンサンブル金沢と、高橋悠治作曲三絃弾きうたいとオーケストラのための『使いか』を初演1994年平成6年)には、オーケストラアンサンブル金沢海外公演ソリストとして同行しシドニー・オペラハウスメルボルンシンガポール再演好評を博す。さらに日本フィル大阪フィル神奈川フィル、と共演海外でのソロ公演多数1996年平成8年)、米川裕枝共同企画によるコンサート・シリーズ「闌声」をスタート以後数回公演を行う。1997年平成9年札幌コンサートホールKitara(キタラ)で開催され国際教育音楽祭パシフィック・サウンディング演奏会出演1999年平成11年和楽器人材派遣玉手箱設立、代表となり、さらに同年和楽器プロジェクト「糸」を結成、代表となる。2000年平成12年東京芸術大学非常勤講師をつとめる。また、アジアダンサーとのコラボレーションジャズ即興演奏家との共演行い三絃と歌のつくりだす新し音楽追求した

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三田村鳶魚」の記事における「人物・生涯」の解説

1870年武蔵国八王子現在の東京都八王子市)の八王子千人同心家系生まれた三田村家天保期に商人となり、機屋織物買継商)を営んでいた。1952年疎開先の山梨県下部温泉近く所在する湯沢温泉不二ホテル没した自由民権運動参加し日清戦争での従軍記者報知新聞記者などを経て江戸風俗や文化研究し、またそのための勉強会主催した参加者一員森銑三は、三村竹清林若樹林研海の子)を「江戸通の三大人」と評している。終生友人随筆家柴田宵曲が、口述筆記多く担当している(ですます調著作概ね口述筆記)。晩年に『江戸ばなし』(全20冊、青蛙房)を編さんしている。 研究著述は、江戸時代随筆聞き書き史料としてその時代を論じるというものであった史料出所わからないために、当時歴史学界ではさほどの評価はされなかったともいうが、再評価した山本博文によると、戦後歴史学マルクス主義階級闘争史観で主に問題になっていた百姓一揆などについて論じなかったためにあまり引用されることがなかったのが低評価原因だとしている。平成入り山本博文らにより、他の在野江戸学者と同様に再評価されている。 江戸学は、非常に広範多岐に渡り江戸学呼んで差し支えないような個性的なのであるあまりにも膨大な業績のため、没後考証史家稲垣史生が、研究成果事典形式にまとめた『三田村鳶魚 江戸武家事典』、『江戸生活事典』(青蛙房)を編纂しているほどである。 後年下記の『三田村鳶魚全集』(全28巻、中央公論社新編江戸文庫中公文庫36巻)や『未刊随筆百種』(全12巻、同)に集成されている。

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志田順」の記事における「人物・生涯」の解説

千葉県佐倉出身1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業1909年第一高等学校教授経て京都帝国大学理工大学着任京都帝国大学理学博士京都帝国大学名誉教授地震P波初動地表面押し引きする向き地理的な分布初動分布四象分布することを発見したまた、和達清夫よりも早く深発地震存在指摘した観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽引力による地球弾性変形地球潮汐に関する研究でも世界先端走り、「志田数」にその名を残した1929年には「地球地殻剛性並に地震動に関する研究」で帝国学士院恩賜賞受賞している。

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ジャン・フランシスク・コワニエ」の記事における「人物・生涯」の解説

コワニェは、フランスサン=テティエンヌ鉱山学校(後のサンテティエンヌ国立高等鉱業学校)を卒業したのち、メキシコ・マダガスカルなど世界各地鉱山視察し1867年慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。 明治新政府官営鉱山体制確立すべく、明治元年江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営近代化するため、コワニェは帝国主任鉱山技師として現地派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山再興するため、鉱山学校鉱山学伝習学校)を開設し新政府技術者らを鉱山士として指導近代的鉱山学の手法により当時欧米先進技術施し成果を挙げる坑口補強フランス式組石技術採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業火薬発破導入運搬作業効率化図り機械化推進軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘対象それまで中心から金銀変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備提案し生野飾磨間に幅員6m・全長約49kmの、当時としては最新鋭マカダム式舗装道路生野鉱山寮馬車道」として1876年明治9年結実する大阪造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し発掘から積み出しまでの工程整備した着任当初鉱山混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業本格的に取り組んだ大蔵卿大隈重信官営鉱山抜本的改革について諮問により、日本滞在中に各地鉱山調査あわせて行い1874年明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minérale du Japon)を著した1877年明治10年1月に任を解かれ帰国1902年郷里サンテティエンヌにて67歳死去銀山現地にはコワニェの業績称え彼のブロンズ胸像が建つ。当時生野鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師冶金技師坑夫医師らが呼ばれ、その総数24名に達したという。

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グスタフ・ツォイナー」の記事における「人物・生涯」の解説

ザクセン州ケムニッツ生まれたケムニッツ王立職業学校Chemnitz Konigliche Gewerbeschule、現在のケムニッツ工科大学)で工学学んだ1848年からフライベルク鉱山学校で、鉱物学者ユリウス・ワイスバッハAlbin Julius Weisbach)のもとで鉱物学と金属学を学んだドイツ各地広がった1848年革命ドレスデン波及した時に革命参加し多く仲間死刑になり、刑務所送られたのに対して、ツォイナーは釈放された。卒業し1853年ライプツィヒ大学博士号をとることはできたが、ザクソン教職につくことは禁止された。 1853年力学工学雑誌"Der Civilenginieur. Zeitschrift fur das Ingenieurwesen"の編集者となりチューリッヒ移住した後の1857年まで編集者続けた1855年チューリッヒ工科大学教授となり、有名な工学者フランツ・リューロー(Franz Reuleaux)と働いたリヒャルト・ワーグナーRichard Wagner)らのドレスデン革命家たちもチューリッヒ亡命していた。 ツォイナーはチューリッヒ1858年蒸気機関車模型つくったが、理論興味移し設計改善を行うことはなかった。1869年人口を表すのに、ツォイナー図と呼ばれる3次元グラフ作った。これはヴィルヘルム・レキシス改良加え、レキシス図とよばれる事となった。 1865年チューリッヒ工科大学学長となった1862年革命参加者恩赦与えられ1871年ドイツ戻り1875年フライベルク鉱山学校力学教授となり、鉱山機械研究おこなったフライベルク鉱山学校学長務めかたわらドレスデン王立工科大学現在のドレスデン工科大学)の学長務めた1897年創立されドイツ技術者協会ドレスデン支部後援しドイツ技術者協会1993年ドイツでの工学分野学生の最もすぐれた研究に対して贈る、グスタフ・ツォイナー賞を設けたAlbin Weisbachによって鉱物Zeuneriteの名前が命名された。

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三松正夫」の記事における「人物・生涯」の解説

北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学中退後、有珠郡壮瞥町壮瞥郵便局勤め郵便局長になる。 1910年明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓側火山となる明治新山1910年明治43年)に隆起したことから四十三山命名された)が誕生する群発地震多発し住民避難指示されたが、当時壮瞥郵便局局長代理務めていた三松には通信確保のため退避許可下りず、地面に畳を敷いて徹夜勤務していた。当時凶兆などと騒がれていたハレー彗星地球接近していたが、彼は空に尾を引く彗星眺め「やはりこの彗星不吉なのだ」と思ったという。11月上旬現地調査訪れた火山学者大森房吉今村明恒田中館秀三らの案内役務め火山学への造詣深めた1917年大正6年6月杉山春己、安西岩吉、そして壮瞥郵便局長であった三松の3人が鉱山見学帰り西丸山山麓洞爺湖畔で熱い湯が沸く現場発見する地面掘り下げて湯を溜め温度を測ったところ43度を記録温泉として立派に成り立つことを確認し道庁発見者3人の名義で温泉利用出願提出する同年秋には、温泉旅館竜湖館」が建設された。これが、現在に続く温泉開基である。 1943年昭和18年12月末の有感地震契機に、有珠山麓の麦畑から突如として溶岩ドーム昭和新山)が隆起し始めた翌年初頭から翌々年まで続いたこの山が産まれるプロセスを、三松私的に定点観測続ける。その手法地震回数を皿に置いた豆で記録、台に顎を乗せ視点固定し水平に張った糸で日々形状の変化計測するという独創的なハンドトレスの手法で作成された。この図はのちに「ミマツダイヤグラム」と命名され世界で貴重な火山活動記録となったその後荒廃から守るために1946年昭和21年)に私財投じて土地ごと購入し天然記念物への申請などの保護努めた土地ごと買い取り理由本人著書で「硫黄採取できるということでの採掘阻止するため」と記したほか、娘婿で「三松正夫記念館」館長三松三朗の著書では「新山への愛着所有したかったから」とされている。別の記事では「三松この世界的に貴重な火山保護と家や農場失った住民の生活支援のために、山になってしまった土地買い取った」とされている。ともあれ昭和新山は現在、三松家の私有地であり、ニュージーランドホワイト島等と同じく世界でも珍しい“私有地にある火山となっている。1951年昭和26年)国の「天然記念物」に指定され1957年昭和32年)には「特別天然記念物」に指定された。

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岸田吟香」の記事における「人物・生涯」の解説

1833年6月15日天保4年4月28日)、美作国久米北条郡垪和村大字中垪和字谷大瀬毘に大百姓岸田修治の子として生まれた1852年嘉永5年19歳江戸入り翌年津山藩儒昌谷精渓の赤松塾に入門。その紹介同年図書頭入門。しばらく後に三河挙母藩召し抱え中小姓として奉公するも、脚気わずらい郷里へ戻る。1856年安政3年)、23歳大坂出て藤沢東畡泊園書院(現・ 関西大学)で漢学学び翌年には江戸藤森天山入門する。しかし、1858年安政5年25歳のときに天山幕府追われる身となり、翌年には係わり疑われ上州伊香保逃れたその後三河挙母藩戻り儒官昇任するが、まもなく脱藩し上州経て江戸入り深川妓楼箱屋湯屋三助など下男として糊口をしのぐほどなく妓楼主人となり吉原に住むようになり、このころ、きままに暮らすをもじり「ままよのぎん」と名乗っていたが、転じて銀次」となり、仲間内で「銀公」と呼ばれるようになったことから「吟香」と称するようになったという。また、その字面陸游の詩の一節、「吟到梅花句亦香」からとったものであるともいう。 1863年文久3年4月眼病患い箕作秋坪紹介ヘボン訪ねるその後ヘボン当時手がけていた『和英語林集成』の編纂手伝うようになるちなみに和英語林集成』という題名吟香命名したとされる)。同時期、ジョセフ・ヒコの元で英語を学び外国新聞を飜訳する『海外新聞』を発行する1866年慶応2年)、『和英語林集成』の印刷刊行のためにヘボン上海へ渡航翌年5月までの9カ月美華書館印刷校訂つとめたこの美書館は、アメリカ長老会1860年上海進出設立した印刷所で、第6代館長ウィリアム・ギャンブル (William Gamble) のもと、当時アジア最高の印刷所であったが、片仮名活字がなかったために吟香版下に基いて鑄造しなければならなかった。1867年慶応3年5月辞書完成し7月横浜居留地発売された。同年日本へ帰国すると、まもなくヘボンより処方教授された眼薬「精錡」の販売はじめた1873年東京日日新聞迎えられ主筆として活躍する台湾出兵の際には初の従軍記者として1874年4月13日赴き『台湾従軍記』を連載読者好評博した文筆活動傍ら諸事業を拡大し実業家としても活躍。「精錡」では、東京日日新聞紙面新聞広告をうち、売り上げ向上に活用しており、これは新聞広告商業的活用嚆矢となった1877年8月18日東京日日新聞発行所ある日報社を退社して9月銀座に楽善堂開き売薬業専念する1880年中国上海渡り善堂支店を開くと販路各地拡げる成功収めた商業面成功を収める傍ら岸田日中間の将来考え始める。当時中国各地販路拡大していた楽善堂には、大陸活動することを志す人々集まっており、岸田は彼らの活動支援した支援した人物の中には荒尾精がおり、日清貿易研究所東亜同文書院設立中心的な役割を果たすうになる岸田自身日清友好貿易為に1880年2月榎本武揚長岡護美曽根俊虎らと興亜会亜細亜協会)を組織している。 中国については、商業的な活動だけでなく欧米医療技術普及について活動行い中国各地病院設けた同仁会(1902年設立)にも積極的に参加した一方的に欧米式の医療広めるだけではなく漢方薬にも注目し日本普及させてもいる。また、現在でいう福祉活動にも積極的であり、盲人教育への関心強く前島密中村正直山尾庸三らと、1880年授業開始した善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設している。 晩年は『清国地誌』の編纂努めた完成待たず1905年6月7日心臓病肺炎のため亡くなった。墓は東京谷中墓地にある。 妻勝子とは子宝恵まれ、7男5女をもうけた長男銀次吟香より先に没し次男生が吟香の名を継いだ。第9子、四男劉生は洋画家であり、その下の弟岸田辰彌宝塚歌劇団創設期演出家である。

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ジョエル・ロブション」の記事における「人物・生涯」の解説

ポワチエ出身15歳で、ホテル「ルレ・ド・ポワチエ」の見習いシェフとしてキャリアスタートさせた。その後セーヌ川船上シェフ務めた28歳で「コンコルド・ラファエットホテル」の総料理長就任1976年フランス国家最優秀職人章Meilleur Ouvrier de France, 略称MOF)の資格取得同年来日しレストランラ・ベル・エポック」で働く。 1981年には独立してレストランジャマン」を開店1982年ミシュラン1つ星1983年ミシュラン2つ星、そして1984年には史上最短ミシュラン3つ星獲得した1994年店名を「ジョエル・ロブション」へと改め、現在に至る。ロブションは、レストランガイド「ゴー・ミヨ」に「世紀シェフ」として紹介された事でも知られている。1990年代以降フランス国とりわけ日本での活動が豊富で、日本フレンチ業界に与えた影響大きく日本のメディアでは「フレンチ神様」や 「フレンチ皇帝」と称されることも多い。 1996年現役を退くも、その味を愛してやまない人達からの熱烈な声に後押しされる形で2003年料理人として現役復帰する2020年現在世界10カ国に店舗持ちミシュランガイドにて総数33個の星を獲得しており、「世界一星を持つシェフ」としても知られている。日本国内では東京9つ店舗持ちそのうちの「ガストロノミー ジョエル・ロブション恵比寿ガーデンプレイス)」が三つ星、「ラ ターブル ドゥ ジョエル・ロブション恵比寿ガーデンプレイス)」が二つ星、「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション六本木ヒルズ)」が二つ星獲得している。 日本国内でのロブション・グループの経営母体は、ピザーラ親会社としても知られる株式会社フォーシーズ受け持っている。世界的には、東京香港、マカオミシュラン3つ星レストラン3軒の総料理長で、世界最多3つ星シェフドルドーニュ県レストラン夫婦経営する娘・ソフィーと、福岡在住日本女性との息子ルイ(龍依)・ロブション安部がいる。ルイ日仏産品輸出入会社経営している。

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チカップ美恵子」の記事における「人物・生涯」の解説

釧路アイヌ家族生まれる。伯父に、エカシとして有名な山本多助がいる。幼少期より、母の伊賀ふでより、アイヌ文様刺繡アイヌ歌舞ウポポを習う。兄に、アイヌ民族活動家山本一昭がいる。少女時代映画にも出演したことがある。このときの写真無断使用され学術書出版され、「アイヌ民族肖像権裁判」となる。 首都圏で、アニメーション彩色仕事につく。その後1983年首都圏在住アイヌ民族団体アイヌ民族の現在を考えレラの会」の立ち上げ関わりアイヌ復権運動大きく関わるうになる。その一方アイヌ文様刺繡家として生計立て知名度上げる。その後札幌移り住むまた、1985年アイヌ民族肖像権裁判マスメディア登場する1969年出版された『アイヌ民族誌』(第一法規出版)で、少女時代映画撮影でとられたアイヌ民族衣装いでたち顔つき写真無断使われ見出しに「滅び行く民族」という語句つけられた。このことを知ったチカップ美恵子は、そのページ著者更科源蔵らに抗議する満足する謝罪得られ1985年札幌地方裁判所提訴、「アイヌ民族肖像権裁判」として知られるうになる。その年に、更科源蔵死去するが、出版社監修者相手に、裁判継続する1988年に、チカップ美恵子への謝罪その他の条件和解となる。この事件は、波紋呼びその後日本における、アイヌ対象とする人類学・民族学研究あり方について一石を投じることになったその後アイヌ尊厳先住民族としてのアイヌ民族地位の確立、その他アイヌ民族立場として、著書出版し発言するアイヌ文様刺繡初めとしたアイヌ文化奥行き深さについて、説いている内容文章が多い。その一方でアイヌ搾取収奪してきた近代日本に対してアイヌ立場として告発するような表現多くあった。北方領土問題については、北海道ウタリ協会立場異なり19世紀アイヌを「北方領土」から追い出した日本返還要求することを非難するという立場とっていた。ピースボートに、積極的に参加している。また、最近著書では、日本一般市民との対話大切にした雰囲気表現となっていて、NHK出版から、『アイヌ・モシリの風』を出している。 2002年第6回女性文化賞受賞2006年急性骨髄性白血病患い入院その後講演活動再開した2009年9月に再入院し2010年2月5日午前1122分(JST)、入院先の札幌市内病院死去した61歳没。 2012年にはチカップ美恵子故郷である釧路市北海道立釧路芸術館で「チカップ美恵子展~アイヌ文様刺繡と詩の世界から~」と題され作品展4月13日から6月27日まで開催された。

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ジョージ・ビドル・エアリー」の記事における「人物・生涯」の解説

イングランドノーサンバーランド州アニック生まれる。1819年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ入学1836年王立協会フェロー選出された。グリニッジ天文台長時代に同天文台設備機構大幅に整備しエアリー自身観測機械を発明・改良した。位置天文学貢献する一方、光の回折干渉光学研究にも従事し円形開口通過した光の回折によって生じ光学現象エアリーディスクにその名を残している。アイソスタシーの提唱者でもある。1871年バス勲章コンパニオン受勲し、翌1872年バス勲章ナイト・コンパニオンに昇叙されサーとなっている。

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人物・生涯

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エガス・モニス」の記事における「人物・生涯」の解説

ポルトガル中部大西洋岸アヴェイロ県エスタレージャ(ポルトガル語版北郊のアヴァンカ(ポルトガル語版)に生まれたモニス医学故郷に近いコインブラ大学学び神経学フランスボルドーパリ学んだ1902年コインブラ大学神経学科の主任教授として戻る。リスボン大学教授となり、20年以上務めたその間政治世界に入る。政治家としてはポルトガルの国会議員1903年から1917年の間務め1917年外務大臣となる。1918年から1919年まで第一次世界大戦後開かれたパリ講和会議首席代表となったスペイン大使1917年から1919年まで(第一次共和制務める。 その後政治家辞めて1944年までの間はリスボン大学神経学教授となる。その間1927年X線利用した脳血管造影法を開発する。像の陰影で脳の腫瘍動静脈奇形などの神経性の病気の原因診断する方法考案する

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ピエール・ガッサンディ」の記事における「人物・生涯」の解説

プロヴァンス地方ディーニュ=レ=バン近郊シャンテルシェ(Champtercier)で貧し農夫の子として生まれディーニュ大学聴講し言語学数学才能を示す。エクサンプロヴァンス大学哲学学び16歳修辞学教師となり、3年後神学哲学教授となった翌年1612年神学講義するためにディーニュ大学招聘され1616年アヴィニョン神学学位授与され翌年僧職就いた同年エクサンプロヴァンス大学哲学教授となり、徐々に神学研究から遠のくことになる。1628年から1633年までフランドルオランダへ旅行1633年元老議員のベイレスシウスに推挙され聖堂参事会員となりディーニュ聖堂学院学長となる。1645年パリのコレージュ・ロアイヤルの数学教授となり、1648年体調を崩すまで講義行ったパリ没する

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ファイズッラ・ホジャエフ」の記事における「人物・生涯」の解説

ホジャエフは、ブハラ裕福な商家生まれ1907年モスクワ留学したモスクワでの生活を経てブハラ伝統的社会後進性を痛感し改革必要性認識するようになったとされる1912年ブハラ帰国した後、叔父のオスマン・ホジャエフやアブドゥラウフ・フィトラトとともに改革派ムスリム知識人(ジャディード)らで構成され青年ブハラグループ参加した1917年ロシア2月革命勃発を受け、ブハラ・アミール国君主アーリム・ハーン改革勅令発布して、ロシア臨時政府への恭順示した。これを不十分とするホジャエフ青年ブハラグループは、ブハラにて反アミール示威行動行ったが、アミール当局弾圧受けてブハラ隣接するロシア租界カガン市)に亡命することとなったホジャエフは、その後ボリシェヴィキ接近しロシア10月革命勃発後には、タシュケントトルキスタン人民委員会議議長コレソフに対してブハラへの軍事介入要請した1918年3月に、コレソフ率い赤軍部隊青年ブハラ勢力は、ブハラ侵攻しアミール政権転覆図った失敗軍事クーデタ失敗したホジャエフタシケント亡命したホジャエフは、タシケントで反アミール勢力糾合努め1920年には、ブハラ共産党組織と、傘下青年ブハラ勢力合同行った同年9月青年ブハラ勢力赤軍と共にブハラ市に侵攻しアミール政府打倒ブハラ人民ソビエト共和国樹立したホジャエフ新政権人民委員会議議長選出された。 ブハラ革命により追放されアミールアーリム・ハーンは、その後も旧勢力糾合して抵抗運動バスマチ運動)を続けたため、自前軍事力持たないブハラ新政権は、赤軍軍事力依存する存在であったブハラ指導部は、ロシア共産党影響下に置かれ1922年ブハラ共産党ロシア共産党合流しホジャエフロシア共産党入党した1923年6月ロシア共産党中央委員会での協議にて、ブハラ指導部民族主義的偏向性批判され多く青年ブハラ活動家政権から追放された。 その一方ホジャエフ粛清免れその後ブハラ指導部に留まった。1924年民族境界画定工作では、ホジャエフフェルガナサマルカンドブハラヒヴァ居住するムスリム定住民を、「ウズベク人」として識別することを主張し中央アジア政治単位再編中心的な役割果たした民族境界画定結果ブハラ人民ソビエト共和国廃止されホジャエフは、新設ウズベク・ソビエト社会主義共和国人民委員会議議長就任した1930年代入りスターリン大粛清が始まると、1937年ホジャエフ政府の全役職から解任逮捕されブハーリンルイコフと共に、「トロツキスト」「右派修正主義」の罪状で、1938年3月13日処刑された。 1956年スターリン批判機に名誉回復なされた独立後のウズベキスタンでは、ソビエト政権への協力批判される一方ウズベク人独立のための貢献再評価されるなど、評価賛否両論とされる

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榊原仟」の記事における「人物・生涯」の解説

福井県福井市宝永上町開業医の四男として生まれ、兄に榊原亨がいる。幕臣榊原職直後裔である。 旧制福井中学(現福井県立藤島高等学校)を経て第六高等学校時代1930年昭和5年)、帝大であった次兄・周と上京中の母が和田倉門辺りタクシー乗車中に交通事故遭い、母は頸髄損傷が元で、周も間もなく亡くなったその後東京帝国大学進み医学部卒業都築正男教授医学部第二外科講座入局大学同期に、若月俊一津川武一近藤宏二など。 第二次世界大戦中軍医としてフィリピン戦線従軍し1943年昭和18年)には東京帝大医学部支援同仁会が設立した上海同仁大学教授として赴任するが、日本の降伏後に同大接収されたため、46年帰国し東京帝大医学部第二外科講座医局長を担う。50年東京女子医科大学外科主任教授就任し56年には執刀した心臓手術TBSラジオ史上初の実況中継が行われた。 1967年昭和42年6月、自らが発起人となり財団法人日本心臓血圧研究振興会を設立し日本心臓血管外科学会会長務めた73年から76年まで筑波大学副学長77年東京代々木新宿駅南口)に心臓病専門榊原記念病院創設した俳優田宮二郎交友があり、この縁で田宮東京女子医大にある学生の手見学室に通って榊原の手術を見学した当時フジテレビ本社東京女子医大の隣にあった事もあり、テレビドラマ『白い巨塔』収録中も田宮頻繁に見学室に通った。この経験財前五郎役作り大きく役立ったという。

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ベン・ベラ」の記事における「人物・生涯」の解説

アルジェリア西部小都市マグニアアラビア語版、フランス語版英語版)の農家生まれたスーフィー信仰家系1936年より宗主国フランス軍隊志願兵として加わった第二次世界大戦でも自由フランス軍兵士としてイタリア戦線活躍し幾度か勲章受けた大戦後は、母国アルジェリアにて地方警察官に応募するも、登録を拒否される。同じ時期ベン・ベラの母がタバコ店を開く許可当局与えなかったこともあって、フランスの植民地支配反発反植民地主義勢力民主主義と自由勝利運動」に加わり地方議員に選出された。しかし、同運動当局によって解散させられると、地下活動身を寄せ1949年オランにあるフランス軍士官詰め所急襲組織した1950年逮捕されブリダ近郊刑務所収監されるが、1952年脱獄果たした1954年よりアルジェリア戦争勃発すると、アルジェリア民族解放戦線FLN)の中心人物としてエジプトカイロリビア逃れつつ独立戦争展開した1956年10月22日チュニスラバト行き航空機ハイジャックしアルジェリアのメイスン・ブランチ空港強制着陸させた。すぐにフランス軍によって再び捕らえられ1962年までフランス国内の獄中過ごしたこの間アルジェリア共和国臨時政府副首相選ばれた。 独立後、社会主義的政策の是非などをめぐってベン・ヘッダ(アラビア語版、フランス語版英語版)と対立したが、彼を抑えて1963年初代大統領になった大統領就任した後、非同盟運動積極的に主導しアルジェリアキューバ革命後のキューバと共に第三世界中心的国家となった1964年ソ連邦英雄称号ソ連政府から授与されたが、このような姿勢から、1965年2月27日アルジェ開催され第二回アジア・アフリカ経済会議キューバ閣僚チェ・ゲバラソ連を「帝国主義的搾取共犯者」と批判する演説行った際に、ゲバラ共同演説起草したのはベン・ベラだった。 しかし、同年アルジェ開催される予定だった非同盟諸国首脳会議直前にウアリ・ブーメディエン(アラビア語版、フランス語版英語版国防相による軍事クーデターで失脚すると、1980年まで自宅軟禁下に置かれた。ブーメディエン政権下では、ベン・ベラ存在タブーとされ、公の場彼の前に言及することは厳しく規制された。 1978年、ブーメディエンが死去すると、後任のシャドリ・ベンジャディード(アラビア語版、フランス語版英語版大統領によって自宅軟禁解除され10年家族と共にスイスローザンヌ暮らした1990年祖国へ帰国許された。 1991年行われた議会選挙では、自ら「アルジェリア民主主義運動党」(Movement for the Democracy in Algeria Party MDAP)を結党し、選挙臨んだものの、わずか2パーセントの票しか獲得できなかった。1997年にはMDAP当局によって解党させられた。晩年は、政治表舞台からは去ったものの、一貫してアブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領政策批判し続けた2012年4月11日病気のためにアルジェにある家族宅で死去93歳没。

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馮国璋」の記事における「人物・生涯」の解説

北洋武備学堂卒業して歩兵学堂監督官になった1903年に錬兵所ができると軍学司の正使任じられる辛亥革命が起こると、北洋第1軍率いて武昌蜂起鎮圧向かった10月27日漢口への攻撃開始し市街地焼き討ちにしてあぶりだす戦術11月1日漢口陥落27日には漢陽陥落させ、そのまま破竹の勢い武昌迫ろうとしていた。しかし、革命派手打ちにしようとしていた袁世凱の命で急遽段祺瑞交代させられ第2軍総統官兼禁衛軍司令官転属した。 1913年袁世凱対す反乱南方で起こると、軍を進めて南京進攻して鎮圧している。 1916年袁世凱亡くなると、馮国璋中華民国副総統選ばれる翌年袁世凱の後を継いで大総統になっていた黎元洪国務総理段祺瑞政争府院の争い)が起こり7月張勲復辟黎元洪大総統から引きずり下ろされると、馮国璋代理総統選ばれる。 ここに至って北洋軍閥直隷派馮国璋)・安徽派段祺瑞)・奉天派張作霖)に分かれて政争繰り広げる馮国璋直隷派首魁として湖北督軍王占元江西督軍李純組んで北洋政府中心となっていた安徽派段祺瑞対抗した1917年9月孫文広東軍政府組織して事実上中華民国分裂状態になると、南征による武力統一主張する段祺瑞対抗して和平統一主張した。だが奉天派連合した段祺瑞南征強行加えて新国会での安徽派多数派工作によって1918年馮国璋政権瓦解する1919年12月28日北京病死

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羽田亨」の記事における「人物・生涯」の解説

1882年5月15日京都府峰山町(後の京丹後市)に生まれる。 内藤湖南桑原隲藏と共に京大東洋史学黄金期築き、「塞外史」の「西域史」の研究においてユーラシア大陸各地遺文解明するなど、日本西域史学確立貢献した内藤桑原亡き後は、宮崎市定田村實造らを率い世界的な東洋史研究拠点としての京大立場確固たるものとした。 1938年には、同じ文学部教授であった濱田耕作京都帝国大学総長急逝に伴い後任総長に任ぜられ、厳し時局の中で人文科学研究所結核研究所木材研究所などの設立尽力したまた、広い学識知見持った羽田弁舌は、しばしば他大学総長圧倒した。その弁舌をもって1943年には大学院学生の特別研究制度実現させた。京大農学部グラウンド行われた学徒出陣式の際には「諸君行き給え。そして帰り給え大学は門を開いて諸君待っている」という訓示行い多く学生涙したと言われる。なお京帝国大学京都大学では、羽田最後に文学部から総長選ばれた者はいない。 1955年4月13日膵臓癌肺炎併発し京都大学医学部附属病院死去した内陸アジア研究の発展寄与した功績顕彰するため、1966年に旧自宅付近ユーラシア文化研究センターになっている主著一つである『西域文明史概論西域文化史』が、1992年平凡社東洋文庫から復刊された。

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岩城宏之」の記事における「人物・生涯」の解説

東京府にて大蔵省専売局官吏の第5子(末子)として生まれた小学校入学して間もなく父の転任京都転居9歳木琴始める。小学4年生3学期東京に戻る。当時病弱で、小学5年生6年生2年間に10か月病欠し、骨膜炎片脚切断寸前まで行ったことがある1945年5月旧制中学1年生のとき空襲罹災したため、親類頼って金沢市疎開2学期間を旧制金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に学ぶ。敗戦後、父の勤めの関係で岐阜県瑞浪転居、ここで1年半過ごし旧制多治見中学校(現:岐阜県立多治見高等学校)に通学する1947年旧制東京都立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)の編入試験失敗して学習院中等科編入学する。学習院高等科2年の時、映画オーケストラの少女』を観て感動し音楽家志すに至る。同校在学中から放送局木琴独奏する1951年学習院高等科卒業する東京大学独文学科への進学志していたが、第二次試験の前の晩に高熱発して受験断念する現役東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが、1年生終わり頃から学内規則破って近衛秀麿オーケストラティンパニ演奏し始め授業に出ることなく1年分の単位取得しないまま、6年在学ののち中退学校には、1年後輩の友人山本直純後輩たちに声を掛け合って集めた学生オーケストラ指揮するために顔を出す一方で山本とともに東京芸大指揮教員渡邉暁雄音羽自宅目白齋藤秀雄指揮教室にたびたび通って指揮レッスン受けた当時東京芸大音楽学部には専攻によって根強い差別存在し作曲科指揮科が階級最上位属し次いでピアノ科、その下が弦楽器科、残り全て被差別民族」であり、その中で最下位属するのが管・打楽器部で、特に「タイコは管・打というように、順番からして管の次なのだから、タイコ屋は、下層中の下層少数中の少数年中差別感じているような状態だった」「ピアノ科の女の子とつきあおうとして、『お父さまタイコの人なんかと友達になっちゃいけないっていわれたのヨ』なんて追っ払われたことが何度もある」と語っている。学生時代から各所音楽ホール忍び込み観客席ではなく舞台裏などで音楽を聴くことを繰り返していてブラックリスト扱いになっていた。指揮者正面から見るために、舞台上の管楽器用のヒナ段の中に忍び込んでコンサート聴くこともたびたびであった数々悪行から、後年岩城指揮者就任したのちも、舞台関係者誤って不法侵入者扱いされたことがあるNHK交響楽団初代事務長有馬大五郎からの誘い推薦により、1954年芸大4年)の9月から同楽団指揮研究員として副指揮ライブラリアン仕事始め1960年の同楽団世界一周演奏旅行では常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター指揮研究員同僚外山雄三とともに指揮者陣の一人として同行ヨーロッパ・デビューを果たす。これが機縁となり、1963年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団招かれてオール・チャイコフスキー・プログラムを指揮した1970年の日本万国博覧会開会式では、NHK交響楽団当日式典での楽曲演奏担当したが、その指揮をしている。 1977年急病ベルナルト・ハイティンク代役として、日本人として初めウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会指揮台登りベルリオーズ幻想交響曲他を指揮した。翌シーズンウィーン・フィル定期にも登場バルトーク管弦楽のための協奏曲他を指揮したそのほかライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団指揮台にも立った晩年顕著な活動としては、2004年12月31日昼から2005年1月1日未明にかけて、東京文化会館ベートーヴェンの全交響曲1人指揮したことが知られている(ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会)。同様の公演は、翌2005年12月31日にも東京芸術劇場行われた。なお、2回目公演では健康面配慮して途中1時間休憩時間設けたり医師日野原重明聴衆として立ち会わせ、休憩時間体調チェック行ってプログラム消化していった。この演奏会インターネットでもストリーミング中継された。 1987年頸椎後縦靭帯骨化症患ったのを皮切りに1989年胃がん2001年喉頭腫瘍2005年には肺がん立て続け病魔襲われたものの、そのたび復活し力強い指揮姿披露した。しかし、2006年5月24日東京紀尾井ホール東京混声合唱団指揮後に体調崩して入院し同年6月13日午前0時20分、心不全のため都内病院にて没した73歳没。 「初演魔」として知られ、特に自身音楽監督務めたオーケストラ・アンサンブル金沢では、コンポーザー・イン・レジデンス専属作曲家)制を敷き委嘱曲を世界初演することに意欲燃やしたまた、黛敏郎作品精力的に指揮した名古屋フィルハーモニー交響楽団初代音楽総監督NHK交響楽団指揮者オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督東京混声合唱団音楽監督京都市交響楽団首席客演指揮者札幌交響楽団桂冠指揮者メルボルン交響楽団終身桂冠指揮者務めたピアニスト木村かをりは妻。指揮活動のほかにも、打楽器奏者としての演奏活動テレビ・ラジオへの出演プロデューサー音楽アドバイザー執筆など多彩な活動行ったまた、東京芸術大学指揮客員教授として後進育成にも当たった

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セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー」の記事における「人物・生涯」の解説

ムーロム生まれ家族とともにサンクトペテルブルクに移ると、サンクトペテルブルク国立工業大学ドミトリ・メンデレーエフのもとで化学学び帝国芸術アカデミー音楽絵画学んだ。 赤・青・緑フィルター通して3枚モノクロ乾板素早く連続撮影することによりカラー写真を撮る方法開発三色合成)。ニコライ2世援助によりロシア各地撮影して数千カラー写真残した。これらの写真ロシア革命により失われたものが多い帝政ロシア末期貴重な記録として現在も評価が高い。これらの写真を基にした印刷物残したロシア革命後パリへ逃れ同地没した。彼が撮影した膨大な写真乾板戦火避けてパリ地下室秘匿され、第二次世界大戦後アメリカ議会図書館買い取られた。現在では、デジタル合成により復元されカラー画像インターネットにより広く知られるようになった

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エリーネ・エリクセン」の記事における「人物・生涯」の解説

仕立て職人の娘として生まれる。1900年エドヴァルド結婚人魚姫の像以前にもThe First Grief や The Suffererなどの夫の作品のモデルをつとめる。 1963年9月24日死去。夫と共にコペンハーゲンのヴェストル墓地デンマーク語版、英語版)に埋葬される

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折田要蔵」の記事における「人物・生涯」の解説

祖父田中玄淵の薫陶を受け、天保10年1839年造士館入学弘化2年1845年江戸遊学し昌平黌に入るが、留学中藤田東湖、また特に箕作阮甫から蘭学学んで西洋兵学精通する嘉永元年1848年蝦夷地樺太渡って見聞を広める嘉永6年1853年黒船来航する水夫鍛冶師扮して蒸気船大砲視察行った安政2年1855年徳川斉昭求めに応じて軍艦海防について論じて称された。しかし同年志士糾合する謀略明るみになったことから江戸町奉行捕らえられ薩摩送られる文久3年1863年薩英戦争が起こると砲術精通していたことを買われ砲台建造大砲製造主事務めた同年島津久光の上京に従軍元治元年1864年摂津沖の防備急務考え島津久光の命を受けて湾岸防備設備設計行って久光提出した久光から献策受けた幕府より台場造営命じられ100扶持。なおこのとき、一橋家家臣だった渋沢栄一内偵のために一時期内弟子となっている。また久光建言して楠木正成南朝の忠臣らの顕彰のため、湊川の戦い跡地英霊祀ることを上奏させている。慶応4年1868年山陰道鎮撫総督参謀書記として山陰道西進し生野代官所抵抗見せたため黒田清綱とともにこれを破り代官横田新之丞を追放総督西園寺公望から代官所占領命じられ直後発生した一揆への対応に苦慮するが、鉄砲隊駆使して鎮圧成功した同年府中裁判所設置される判事就任明治3年1870年)官を辞し三国屋要七と名乗って京都武器商人転身した明治6年1873年かねてより建立建言していた湊川神社初代宮司任じられる明治10年1877年廣田神社宮司転任命じられたものの、これを辞退し引き続き湊川神社宮司務めた明治30年1897年湊川菊水文庫官舎で没。

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藤木九三」の記事における「人物・生涯」の解説

京都府福知山市生まれ京都三中(現 京都府立福知山高等学校)を卒業し早稲田大学文学部英文学科入学する中退1909年東京毎日新聞社に入社した1909年に、やまと新聞移籍し1915年には、朝日新聞社に移る。1916年に、特派員として東久邇宮槍ヶ岳登山随行する1919年神戸支局長となる。西宮市甲子園住み六甲山岩場ロック・ガーデン命名する。また甲子園球場にあるアルプススタンド最初にアルプス形容したという説がある。 1928年には、日本初ロック・クライミング目的とした山岳会であるRCC同人を、水野祥太郎西岡一雄とともに発足させる1929年、やはり日本初岩登り理論書である『岩登り術』を刊行するとともに8月には、案内人松井憲三とともに北穂高岳滝谷初登攀成功した1930年5月日本離れパリ滞在6月から9月の間に、モンブラン・マッターホルンなどの岩場登攀した。1932年に、樺太突岨山登攀した。1935年京都大学山岳部白頭山への冬季遠征記者として参加した1936年には、1月石鎚山冬季初登成し遂げた1959年日本山岳会顧問第2次RCC創設時には奥山章請われ顧問就任した

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可児藤吉」の記事における「人物・生涯」の解説

岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱したまた、昆虫生息するそれぞれの環境研究することで今西錦司とともに棲み分け理論」の基礎築いた。「河川形態型」が発表され同年太平洋戦争において36歳という若さサイパン島にて戦死した

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セオドア・フォン・カルマン」の記事における「人物・生涯」の解説

ブダペスト生まれユダヤ人で、1902年ブダペスト工科経済大学卒業。父は教師教育学者のカールマーン・モール(ハンガリー語版)(ハンガリー語: Kármán Mór)。1906年ゲッティンゲン大学ルートヴィヒ・プラントルのもとに留学4年ゲッティンゲン大学教えた後、1912年アーヘン工科大学新設航空研究所所長になり、1915年から1918年までオーストリア・ハンガリー軍のためにヘリコプター研究中断し1918年にはハンガリー民主共和国クン・ベーラ政権下で教育副大臣務めるも、政権崩壊後ドイツ戻った1928年頃、日本神戸航空機メーカー川西航空機招聘され川西試験風洞設計1930年カリフォルニア工科大学移りグッゲンハイム航空研究所英語版所長になった1946年ロンドン王立協会フェロー選出された。また彼は、中国の宇宙開発主導した銭学森の師であった空気力学研究大きな業績残し、また航空機開発分野においても活躍したカルマン渦列に名前を残している。1958年ティモシェンコ・メダル受賞ヘンリー・アーノルド科学諮問委員会英語版)を立ち上げてこれは多く科学委員会モデルとなり、1962年アメリカ国家科学賞最初受賞者となった同年ヴィルヘルム・エクスナー・メダル受賞国際宇宙航行アカデミーによってその名を記念したフォン・カルマン賞(英: von Karman Award)」が設けられ航空・宇宙工学分野において大きな貢献をなした研究者や団体に贈られている。カルマンの名を冠した賞としては他に米国土木学会の「セオドア・フォン・カルマン・メダル(英語版)」とアメリカ応用数理学会の「セオドア・フォン・カルマン賞(英語版)」が設けられている。

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エウドクソス」の記事における「人物・生涯」の解説

彼は紀元前4世紀ごろに天動説唱えた円錐体積は、同じ半径、同じ高さの円柱体積3分の1になることを証明した。これらの成果は、ユークリッド著書記載された。 天文学者としては、地球球体説採用し、また地球中心に他の天体がその周りを回る天動説立場立った彼によると、他の星々各々個別透明な球にはりついており、その球は地球中心に速さかえることなく回転しつづける(同心モデル)。これによって、惑星逆行大雑把に説明することに成功したが、定量的予測には至らなかった。彼の説明アリストテレス宇宙論取り入れられるヒッパルコスプトレマイオスは同じ天動説立ちながら惑星や月、太陽軌道説明には、周転円エカント基づいた全く別の理論用い数値的に精度のよい予測成功した。しかし、これらの新しいモデルアリストテレス自然学原理に必ずしも充実でなく、特にエカント実現する物理的な仕組み誰にも想像がつかなかった。そのため、エウドクソス同心モデル改良してプトレマイオス理論置き換えようとする動きは、一度ならずあった。特に、12世紀イスラム圏だったスペイン起こった一連の研究は、ヘブライ語ラテン語にも翻訳されプトレマイオス理論からの脱却目指す動ききっかけ与えることになる。

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人物・生涯

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バースカラ2世」の記事における「人物・生涯」の解説

代々宮廷学者地位世襲しており、バースカラ息子その子孫もその地位継承していることが記録残っている。父マヘーシュヴァラ(Mahesvara)は占星術師で、バースカラ数学教えバースカラはそれを息子 Loksamudra に継承させた。Loksamudra の息子1207年学校設立助け、そこでバースカラ書いた文書研究行ったバースカラは、12世紀数学および天文学発展大きな業績残した主な著書として、『リーラーヴァティ』 (Lilavati) (主に算術扱っている)、『ビージャガニタ』 (Bijaganita) (代数学)、『シッダーンタ・シローマニ』 (Siddhānta Shiromani) (1150年)がある。『シッダーンタ・シローマニ』は Goladhyaya(球面)と Grahaganita(惑星の数学)の2部構成になっている

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渡辺渡 (冶金学者)」の記事における「人物・生涯」の解説

長崎県出身大学南校経て1879年明治12年)、東京大学理学部卒業し東京大学助教授となった1882年明治15年)から1885年明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツ留学しフライベルク鉱山大学に学ぶ。1886年明治19年)、東京帝国大学工科大学教授就任し農商務省技師兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省御料鉱山設置構想が進むと、御料局技師理事佐渡支庁長に任命された。1891年明治24年)には工学博士学位得た。しかし1896年明治29年)に御料鉱山構想中止になると退官した。しかし翌年に再び工科大学教授任命され農商務省鉱山局長兼ねた1899年明治32年)、局長辞し欧米出張した1902年明治35年)から工科大学長を務めた

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青木昌彦」の記事における「人物・生涯」の解説

1938年愛知県名古屋市生まれる。湘南学園中学校東京都立小山台高等学校経て1956年東京大学入学学生時代共産主義者同盟ブント)の指導部一人であり、東大在学中姫岡玲治筆名執筆した論文民主主義的言辞による資本主義への忠勤国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、共産主義者同盟理論的支柱となり、「姫岡国独資」と略称された。[要出典]1960年1月16日には、日米安保条約改定のための岸信介首相訪米阻止為に羽田空港ロビー占拠した学生一味加わり現行犯逮捕されている。 1962年 東京大学経済学部卒業し学生運動から離脱後、東京大学大学院進学して近代経済学転じた。同じブント仲間であった西部邁経済学研究誘ったのも青木である。1964年東京大学大学院経済学研究科修士課程修了する渡米しミネソタ大学留学。ジョン・チップマン教授指導を受け、 1967年同大博士課程修了(Ph.D.)。その後スタンフォード大学助教授(1967年)、 ハーバード大学助教授(1968年)、京都大学助教授(1969-1977年)、同教授(1977-1984年)を経て1984年にはスタンフォード大学教授就任した1990年には日本学士院賞受賞したまた、2001年度からの約4年間、独立行政法人経済産業研究所所長兼任した2004年スタンフォード大学教授退職すると、一橋大学大学院国際企業戦略研究科客員教授就任2008年には同大特任教授となったまた、名誉職としては2001年京都大学名誉教授2004年スタンフォード大学タカハシ名誉教授就いた。[要出典]晩年日本での活動拠点は、2008年から自ら主宰務めた東京財団仮想制度研究所VCASI)であり、スタンフォード大学経済政策研究所上級研究員スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究上級研究員東京財団特別上席研究員として活動した2015年7月肺疾患のため死去

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原田豊吉」の記事における「人物・生涯」の解説

東京外国語学校フランス語学び軍人であり欧州経験豊富な父親とその知り合いであるドイツ人武器商人マイケル・ベアの勧めで、14歳にして1874年明治7年ドイツへ留学ハンブルク近郊シュターデ中高一貫教育校ギムナジウム)で3年学んだのち、フライベルク鉱山学校卒業ハイデルベルク大学地質学ミュンヘン大学古生物学学びベルリン大学から博士号取得しウィーン地質調査所勤務した1883年明治16年帰国し農商務省御用書記官として地質調査所奉職した。1884年明治17年東京帝国大学理科大学地質学教授兼任し、初の日本人地質学教授となったハインリッヒ・エドムント・ナウマン帰国した1885年明治18年以降は局に昇格した地質局の中心となり、1886年明治19年地質次長となる。1888年明治21年)に『日本地質構造論』を発表しナウマンの、フォッサマグナによる日本分断説に反対原田ナウマン論争引き起こした原田主張では、日本列島日本北弧(樺太山系)と日本南弧(支那山系)の二つからなり,両弧が衝突した接合部関東付近にありフォッサマグナのような大地溝帯存在しないとした。現代知見ではナウマン主張正しかった考えられている。 肺結核のため1889年明治22年大学辞職し翌年地質局も休職1891年明治24年肺結核治療のために、ツベルクリン研究赴く親友佐々木政吉と共にドイツ渡りロベルト・コッホ治療を受けるが、帰国1894年明治27年)に33歳死去した14歳から留学したため帰国したときに日本語忘れ通訳が必要であったというエピソードがある。

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エドワード・G・サイデンステッカー」の記事における「人物・生涯」の解説

コロラド州デンバー近郊にあるキャッスルロック農家生まれる。父方ドイツ系プロテスタント母方アイルランド系カトリック出自コロラド大学経済学専攻したが、中途英文学専攻変更海軍日本語学校日本語学んだ後、第二次世界大戦従軍海兵隊師団語学将校として硫黄島作戦参加没収した日本軍書類解読翻訳にあたる。ハワイ経て戦後佐世保勤務闇市取り締まりなど占領政策にかかわる勤務だった。1946年終戦処理任務終えて帰国。帰米後、コロンビア大学公法及び行政学修士号取得テーマは「近衛文麿日記」だった。 外交官試験合格して1947年国務省外交局へ入りイェール大学ハーヴァード大学出向して日本語訓練重ねる。当時まだ日本アメリカ大使館存在しなかったため、連合軍高司長官外交部局の一員として、1948年再来日する。日本財閥現状調査1950年まで担当した1950年退官すると、5年東京大学に籍を置いて吉田精一のもとで日本文学勉強したその時友人直木賞作家高橋治池田亀鑑の「源氏物語」の読書会にも参加、同会には歌人五島美代子参加していた。 卒業後は上智大学教鞭をとりながら翻訳家として活躍した1958年ソ連政府ボリス・パステルナークノーベル文学賞授与辞退させた際の、日本ペンクラブソ連政府寄り姿勢を、1959年2月アイヴァン・モリスヨゼフ・ロゲンドルフとの3名で、批判するコメント発表した日本人作家では平林たい子がそれに同調したまた、来日してペンクラブ会合出席することを予定していたアーサー・ケストラーは、日本ペンクラブ姿勢批判して訪日後の会合への出席ことわった1962年帰国後、スタンフォード大学教員となり、1964年から教授1966年からミシガン大学極東言語・文学教授1977年コロンビア大学教授として日本文学講じ、アンソニー・チェンバースのような後進育てた1986年からコロンビア大学名誉教授1991年メリーランド大学名誉文学博士また、1950年代から谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫日本の文学作品英訳し結果的に3人をノーベル文学賞選考過程の場に引きあげることに貢献。さらにアーサー・ウェイリーに続く二度目『源氏物語』の英語完訳行った英訳された『雪国』などにより、日本人初のノーベル文学賞受賞した川端は、日本語書いた自作世界で読まれ評価されたのは訳者であるサイデンステッカーの貢献大きいとし、「ノーベル賞半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と賞金半分渡している。また、川端からストックホルムでの授賞式一緒に行ってくれるよう頼まれ同伴している。2010年代以降公開され1960年代ノーベル文学賞選考資料では、サイデンステッカーは、同じく日本文学研究者であるドナルド・キーンとともに選考委員から日本人文学者についての参考意見求められていたことが明らかになっている。キーンとは個人的に親交深く東大在学中は彼を家に宿泊させており、コロンビア大学で、春学期キーンが、秋学期はサイデンステッカーが教鞭取っていたとされる1971年、『山の音』の翻訳第22回全米図書賞翻訳部門受賞。同1971年文部大臣表彰1975年勲三等旭日中綬章受章1977年、「源氏物語」の全訳により菊池寛賞受賞1981年五島美代子受賞1985年東京都文化賞受賞1991年第10回山片蟠桃賞受賞2006年日本への永住決意して東京湯島を生活の拠点とする。だが、翌2007年4月26日不忍池散歩中に転倒して頭部強打そのまま意識失って入院し、4カ月間の療養甲斐もなく8月26日死去した86歳没。 没後終戦直後赴任した佐世保近く思い出の地の一つである伊万里市伊万里市民図書館に、遺品500点が寄贈された。

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エドヴァルド・エリクセン」の記事における「人物・生涯」の解説

コペンハーゲン出身1895年から1899年デンマーク王立美術院に学ぶ。 1902年、シャルロッテンボー宮殿デンマーク語版、英語版)に作品「The Sufferer」が展示される彼にとって本格的なキャリア開始であるが、シャルロッテンボー宮殿には以後何回作品展示されている。1904年州立美術館作品Hope」を購入1905年作品Doom」で賞を受ける。 1913年8月23日人魚姫の像現在の場所に恒久的に設置される。この像の体部分は妻のエリーネ・エリクセンモデル務めた1916年カッラーラ美術アカデミアイタリア語版英語版)の名誉教授推挙される。1910年 - 1918年クリスチャン9世王妃ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル大理石石棺のために3体の女性像Grief, Memory and Love)を制作ロスキレ大聖堂奉納1914年ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館外壁を飾る砂岩レリーフ制作設置 1930年トーヴァルセン美術館文化財修復士に就任1953年まで)。1932年ダンネブロ勲章授与される

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ミールサイト・スルタンガリエフ」の記事における「人物・生涯」の解説

現在のバシコルトスタン共和国ウファステルリタマク郡にて生まれた1907年からカザンタタール師範学校タタール語版、ロシア語版)に在籍し卒業後、ウファ市立図書館勤務する新聞社での記者活動経て1917年ロシア共産党入党入党後は、カフカース派で共感覚えていたヨシフ・スターリン大抜擢され、中央ムスリム人委員委員ムスリム軍事参与会議長、民族問題人民委員部(露: Наркомнац、英: Narkomnats)の機関紙民族生活』(露: Жизнь Национальностей、英: The Life of nationalities)の編集長務めムスリム出身党員では党内最高位まで登りつめた。 スルタンガリエフは、ソ連タタール人社会を、資本主義前段階にあるものとして位置づけ、すでに資本主義化したロシア人社会とは異なるアプローチ社会主義システム建設する必要がある主張したまた、西洋の帝国主義から植民地解放する上で民族主義宗教の役割高く評価した。 スルタンガリエフは、著作ムスリム対す反宗教宣伝方法』において、党内一般的であったイスラーム反動的宗教とする考え否定し人間社会の間のバランスを取る存在としてイスラーム評価している。また、帝国主義諸国植民地化されたイスラーム世界において、イスラーム反帝国主義思想なり得る主張したこうした思想背景として、スルタンガリエフは、ソ連領内テュルク系諸民族による統一した自治政府必要性主張しヴォルガ川中流域の「タタール共和国」・「バシキール共和国」、トルキスタンの「トルキスタン共和国」の設立活動行ったエンヴェル・パシャの裏切り(バスマチ蜂起)によって汎テュルク主義奨励されなくなり、その同年1923年反ソ運動行ったということ逮捕され失脚1940年処刑された。 ペレストロイカ期の歴史見直し過程で、1990年ソ連邦最高裁決定により名誉回復なされた

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ミルティン・ミランコビッチ」の記事における「人物・生涯」の解説

オーストリア=ハンガリー帝国オシエク近郊のDaljに生まれたウィーン工科大学土木工学学びウィーンAdolf Baron Pittel Betonbau-Unternehmung の工場働き多く建物建築たずさわったが、1909年ベオグラード大学応用数学教授の職についた1912年初め惑星気候温度対す太陽寄与興味持ち研究の成果1920年に『太陽放射による熱現象数学理論 (Théorie mathématique des phénomènes thermiques produits par la radiation solaire)』として発表された。この結果科学世界で評判になったが、1924年ウラジミール・ペーター・ケッペンアルフレート・ヴェーゲナーが、『地質学的過去の気候 (Die Klimate der Geologischen Vorzeit)』を発表してミランコビッチ理論支持するまで、必ずしも受け入れられなかった。 『気候学ハンドブック (Handbuch der Klimatologie)』の執筆加わり1930年には『気候数理科学季候変動対す天文理論 (Mathematische Klimalehre und astronomische Theorie der Klimaschwankungen)』を発表した19世紀にジェームズ・クロール(英語版)によって仮定され理論を基に、地球の自転軸の歳差運動理論改良し氷期周期理論確立したセルビア発行されている2000ディナール紙幣肖像使用されている。

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ファン・ボイ・チャウ」の記事における「人物・生涯」の解説

ベトナム19世紀後半フランスの植民地フランス領インドシナとなったファン・ボイ・チャウ10代の頃から反仏独運動参加1904年阮朝皇族クォン・デ盟主として「維新会」を結成し武器援助求めるべく1905年来日した亡命中の梁啓超通じて知り合った犬養毅らから、人材育成の必要を説かれたことから、ベトナム青年大日本帝国留学させる東遊運動ドンズー運動)を興した医師浅羽佐喜太郎支援され活動した が、危機感抱いたフランス日仏協約日本政府働き掛け1909年国外退去させられる。 後に中国渡り1912年広東ベトナム光復会結成した武力によるベトナム解放目指したが、大きな成果得られなかった。 浅羽訃報知ったファンは、1917年5月偽名使って日本密入国した。1918年3度目訪日をし、東浅羽村村長村民による金銭的援助もあり、浅羽佐喜太郎への「報恩記念碑」を現在の静岡県袋井市存する常林寺建立した。碑は高さ2.7メートル、幅0.87メートル大掛かりな石碑漢文で以下のように刻まれている。 予等以國難奔扶桑公哀其志拯於困弗冀所酬古之奇俠也嗚呼今竟無公矣蒼茫天海俯仰誰訴爰泐所感于石銘曰 豪空古今義亘中外公施以天我受以海 我志未成公不我待悠悠此心其億萬載 — 戊午春、越南光復会同人謹誌 現代語訳以下のとおりである。 われらは国難のため扶桑日本)に亡命した。公はわれらの志を憐れんで無償援助して下さった思うに古今たぐいなき義侠お方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。 豪空タリ古今、義ハ中外ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダラズ、公ハ我ヲ待タズ悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。 — 大正七年三月 1925年上海フランス官憲によって逮捕されハノイ終身刑宣告されるが、ベトナム国内の世論反発受けて恩赦された後、フエ軟禁されたまま没した

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小野武夫」の記事における「人物・生涯」の解説

大分県生まれる。1901年大分県農学校卒業して代用教員となり、数年後には日露戦争従軍する1906年上京し農商務省勤務しながら、1912年7月法政大学専門部政治学科卒業する1913年帝国農会入り次いで1920年農商務省移って永小作慣行本格的な調査行なう。その調査結果1924年に「永小作論」として刊行され、その精緻な研究当時学界から高く評価された。1925年に「郷士制度史論」によって農学博士東京帝国大学)。 1925年東京商科大学講師となり、1931年法政大学教授就任また、社会経済史学会創立発起人一人でもある。

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マルセル・ミュール」の記事における「人物・生涯」の解説

ノルマンディー地方オーブAube)に生まれ、「Le Patron」(父)の通称知られた。彼は偉大なクラシック・サクソフォーン奏者として世界的に知られ彼のために多くの曲が作曲され、また彼によって初演編曲された。これらの曲の多く今日のクラシック・サクソフォーンのレパートリー中心をなしている。また、サクソフォーン初めビブラート奏法導入した人物でもある。 サクソフォーン父親から学んだまた、1935年にはナディア・ブーランジェ師事し、その縁で多く作曲家知り合うこととなった休止状態にあったパリ音楽院サクソフォーン科を1942年復活させた。当時すでにサクソフォーン奏者および教師として評価されていたミュールは、同科の指導者に選ばれた。パリ音楽院教授としてミュール300人以上の熱心な学生教え、その多くが自らの力で有名なサクソフォーン奏者教師となっていった。またミュールは、当時第一級のサクソフォーン・アンサンブルといわれた「パリ・サクソフォーン四重奏団」を結成し、自らもそこでソプラノ・サクソフォーンを演奏したミュール1968年パリ音楽院教授引退した彼の地位は、かつての教え子ひとりであったダニエル・デファイエ引き継がれた。引退後ミュール南フランスイェール隠棲し、2001年12月19日睡眠中に死去した100歳没。 ミュールパリ音楽院教鞭を執った時期は、現在ではクラシック・サクソフォーンの開花期であったとも見なされており、そのような意味でミュールサクソフォーン歴史大きな影響を与えた人物である。

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ロン・リチャードソン」の記事における「人物・生涯」の解説

ペンシルベニア州フィラデルフィア出身フィラデルフィア芸術大学en:University of the Arts (Philadelphia))で声楽学びショーボートキャメロットラ・マンチャの男といった古典的ミュージカル出演する1977年、ヒューストン・グランド・オペラのフォーク・オペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)にてスポーティング・ライフ役を演じる。 1978年にはミュージカルTimbuktu!』でブロードウェイ舞台に立ち、以降数年間はアメリカ国内各地舞台をこのミュージカルでまわる1985年、ブロードウェー・ミュージカル『ビッグ・リバー』でジム役を演じる。『ビッグ・リバー』はアメリカ演劇界において最も権威ある賞であるトニー賞の最優秀ミュージカル作品賞等を受賞する。 『ビッグ・リバー』は1987年まで上演されその後世界各地舞台コンサート出演する1989年1993年には、さだまさしコンサート夏 長崎から さだまさし』にも出演コンサート目的である「広島原爆の日の8月6日に、長崎から広島向かって平和について歌う」という主旨理解示しボランティア出演だったという。なお、1989年出演した模様さだまさしライヴ・アルバムおよびビデオ夏・長崎から'89』に収録されている。 1990年ミュージカルOh, Kay!』、1993年にはミュージカルThe Boys Choir of Harlem and Friends』に出演する1995年4月5日エイズのためニューヨーク郊外ニューヨーク州ウエストチェスター郡ブロンクスビル死去43歳没。

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金斗漢」の記事における「人物・生涯」の解説

1918年5月15日京城府鐘路チョンノ)にて金佐鎮(キム・ジャジン)の息子として生まれたとされる1924年7歳祖母一緒に満州1回だけ金佐鎮対面した朝鮮総督府から不逞鮮人として監視される一方家庭内事情良くなく、童(キョドン)国民学校(現 キョドン小学校)を2年生中退開城移ったが、10歳の時、1人京城にきた際に乞食たちに捕まり路上生活者となり、袁氏名乗る老人に「日帝勉強はする必要がない。すぐに独立するのでその時勉強しなさい」と言われ学校には通わずに朝鮮語版)の下や路頭17歳まで過ごした18歳にして朝鮮全土に約3万人構成員抱え暴力団鐘路派(チョンノ・パ)の頭目就任日本統治時代末期にはソウル繁華街鐘路チョンノ)を中心に朝鮮のチュモッケの王(げんこつ界の王、拳の皇帝最強腕っぷしとなった不良愚連隊暴力団のごとく一般市民対し悪行を働くのではなく金佐鎮息子であることを誇りに、強い抗日姿勢から、日本軍武器庫爆破日本暴力団商業狙って縄張り拡大していた)と抗争繰り広げ朝鮮人商人保護する侠客として活動したとされる。 後の自由党政権下で政治暴力団の頭目として急成長した丁載(イ・ジョンジェ)は、金斗漢キム・ドゥハン)が組織する鐘路派の下位団体準構成員出身である。 戦中満州朝鮮半島北部優勢誇った朝鮮半島北部愚連隊頭目であるシラソニこと李聖淳(イ・ソンスン)とは私的に義兄弟として呼び合う仲だった。 1944年載熙(朝鮮語版)(本貫全州李氏)と結婚1945年9月5日、のちに国会議員となるキム・ウルドン生まれる。

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簗田藤左衛門」の記事における「人物・生涯」の解説

先祖代々蘆名家庇護受けた特権商人会津地方商人司商人頭)に任じられ特産品独占販売許可される一方で他国商人統制徴税請負などに活躍した蘆名家変わって伊達政宗会津入ったのちも特権認められ地位守った

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坂上昭一」の記事における「人物・生涯」の解説

1927年千葉県生まれ1948年北海道帝国大学農学部農業生物学科卒業1954年北海道大学大学院理学研究科博士課程修了1954年北大理学部講師1955年、「ミツバチに於ける視覚学習知覚心理学研究」で北海道大学理学博士1955年助教授1961年-1963年ブラジルパラナ大学研究員、リオクラーロ大学客員教授。1971-72年ブラジル、リベラン・プレト大学客員教授1976年ブラジル科学アカデミーポルトガル語版英語版会員1978年北海道大学低温科学研究所教授ハナバチ類の比較社会学研究をし、その進化論じた1967年日本動物学会賞、1992年朝日賞受賞1990年北海道大学退官名誉教授以後自宅研究続けたが、1996年自宅研究中、心筋梗塞死去ハチについて数多く論文著書を残す。

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マニ・シン・ラワット」の記事における「人物・生涯」の解説

マニ・シンは、英領インドクマーウーン北部現在のピトーラーガル県(ヒンディー語版、英語版))のチベットとの国境に近いミラムのデブ・シン・ラワット(Deb Singh Rawat)という名の商人の家に生まれた従弟のナイン・シン・ラワット(ヒンディー語版、英語版)、弟のキシェン・シン(英語版)も、同じくインド測量局(英語版)の大三角測量に伴う秘密裏測量調査による地図製作携わった著名なパンディットであった

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白鳥庫吉」の記事における「人物・生涯」の解説

上総国長柄郡長谷村(現:千葉県茂原市出身父の名は嘉一郎本名倉吉邪馬台国北九州の提唱者として有名。師に那珂通世弟子津田左右吉など。外交官政治家白鳥敏夫は甥。 千葉中学一高東京大学文科大学史学科(のち東京帝国大学現在の東京大学卒業1886年)。東大在学中ルートヴィヒ・リース師事その後学習院教授1886年 - 1921年)、東京帝国大学文科大学史学教授1904年 - 1925年)を歴任。さらに東宮御学問所御用掛として東宮時代昭和天皇教育にも携わる1914年 - 1920年)。 1900年文学博士1919年帝国学士院会員2度渡欧し資料蒐集研究発表行った1901年 - 1903年1922年 - 1923年)。 日本朝鮮始まりアジア全土歴史民俗神話伝説言語、宗教考古学など広範な分野研究を行う。1910年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉西の内湖南」、「実証学派内藤湖南文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。後に東大派京大派に分かれ激し論争邪馬台国論争)を戦わせることとなる。 1907年東洋協会学術調査部を設立し、『東洋学報』の創刊、『満鮮地理歴史研究報告』の刊行1924年東洋文庫設立などに尽力した

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フェルディナント・ライヒ」の記事における「人物・生涯」の解説

ライヒは、ベルンブルクで生まれフライベルク死去した色盲であるかまたは白と黒のみ識別可能であったため、リヒターパートナーとしていた。リヒターは、彼らの実験生成物の色を確認する役割だった。 ライヒリヒターは、フライベルク鉱山大学インジウム単離した

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エミール・バールセン」の記事における「人物・生涯」の解説

南アメリカチリ生まれる。後にドイツ渡りフライベルク鉱山学校で学ぶ。 卒業後の1897年明治30年)に日本政府招聘により来日した東京帝国大学現在の東京大学)で鉱山学冶金学等、鉱山に関する工学教鞭を執った。1900年明治33年)に任期満了となり、帰国した

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石井永子」の記事における「人物・生涯」の解説

1953年昭和28年)に東京芸術大学音楽学部ピアノ専攻卒業徳島県初め東京芸術大学卒業した人物である。卒業後は徳島大学教育学部教授鳴門教育大学教授歴任1995年平成7年)に鳴門教育大学教授定年退職し、名誉教授となる。 1997年平成9年8月徳島県教育委員会委員就任その後2000年平成12年9月から2001年平成13年8月まで徳島県教育委員会委員長2006年平成18年7月徳島西ロータリークラブ会長就任1年間会長務めた2009年平成21年4月23日に、脳梗塞のため徳島市内の病院死去79歳)。葬儀徳島市寺町イマデヤ葵会館で行われた弟子には藤井睦子藤井学理事長)等がいる。

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茅原基治」の記事における「人物・生涯」の解説

岡山県小田郡北川村現在の岡山県笠岡市出身旧制金光中学校卒業ロシア革命時、800名程の子供がサンクトペテルブルクからウラル地方経てウラジオストク逃れ難民状態にあったその子供たちを太平洋から大西洋を横断してフィンランドまで茅原船長務め陽明丸送り届けた。 墓は岡山県笠岡市にあり、岡山県親戚がいる。 難民の子孫に出会った篆刻家の北室南苑尽力により、茅原基治親戚難民の子孫とを結ぶことができ、墓参り実現されるとともに茅原基治らの功績広く知られるようになった

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マリアーノ・メルガレホ」の記事における「人物・生涯」の解説

メスティーソ非嫡出子としてコチャバンバ生まれ17歳軍隊入りラ・パス軍司令官となった1864年それまで影で権力握っていた前大統領マヌエル・イシドロ・ベルスを暗殺し政権についた大統領就任するメートル法採用蒸気機関導入など近代化政策をとったこともあるが議会および地方行政機関解散させ政敵弾圧。特にインディオ共有地解体され奪われ反乱おこした住民虐殺された。鉱業寡頭支配層に支持され自由貿易政策取りそれまで保護されていた手工業崩壊させた。 また奢侈放蕩耽るために自分の名を冠した紙幣乱発し、アタカマ砂漠硝石採掘権チリ売ってしまった(このことは後に太平洋戦争原因となる)。 こうしたことから1871年にアグスティン・モラレスによりクーデター起こされ失脚する追放され同年亡命先リマ愛人の弟に暗殺された。

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矢次一夫」の記事における「人物・生涯」の解説

1899年明治32年7月5日に、佐賀県にて、長崎県立病院勤め医師だった父と、同じ病院看護婦だった母の間に生まれた早くに母を亡くしたこともあって、大阪で、厳格な祖父の下で育てられた。 祖父亡くなった15・6歳の頃に家を出て人夫・沖仲仕鉄工所などを渡り歩いて肉体労働明け暮れる放浪生活経験した後、徴兵検査で一旦故郷帰ったものの、20歳上京一時北一輝食客となり、これを契機労働運動渦中身を投じることになる。 1921年大正10年)に、田澤義鋪(たざわよしはる)の勧め協調会入り1924年大正13年)に退会し独立1925年大正14年)に、労働事情調査所を創立して労働週報発刊野田醤油争議共同印刷争議日本楽器争議などの大争議調停にあたり辣腕振るう調停過程で、無産運動家から軍人まで幅広い人脈をつかみ、その能力買われ陸軍との繋がりを持つ。 1933年昭和8年)、陸軍省から依頼され統制派幕僚池田純久少佐結んで国策立案着手総合的な政策研究組織の必要を感じ同年10月に、官僚学者社会運動家政治家など集めて国策研究同志会組織1936年昭和11年)の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年昭和12年)に再組織1938年昭和13年)に国策研究会改称戦時国策立案従事組織の拡大を図る。 戦時中は、福家俊一共同上海で「大陸新報」の発行関与当時国策研究会常任幹事)する傍ら企画院委員大政翼賛会参与翼賛政治会理事などを歴任戦時内閣組閣倒閣にも深く関与した田中隆吉によれば、矢次は大政翼賛会操っていた人物として名指しされている。 終戦後公職追放されたが、1951年昭和26年)、追放解除となる。サンフランシスコ講和条約発効後の1953年6月国策研究会再建1956年昭和31年)、矢次は台湾訪問して蔣介石総統会談日台韓の反共連盟強化目指していたことで蒋と意見一致し以降日韓関係改善求め様になる1957年昭和32年)に日韓会談再開のため、矢次は泰夏駐日韓国代表部参事官李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介金東祚韓国外務部長官・駐日韓国大使岸信介首相接触1958年昭和33年5月岸信介個人特使として韓国訪問して李承晩韓国大統領会談日韓併合について謝罪し国交回復打診している。日韓国交正常化後1970年昭和45年10月には朴正煕韓国大統領によって一等勲章受章した。 その一方で1972年昭和47年)には福家仲介で矢次と金炳植朝鮮総連副議長会談日朝経済関係促進乗り出し、自ら日朝貿易取りまとめる協和物産設立している。金大中事件日韓関係拗れた際にも1973年昭和48年9月に岸と共に訪韓し、事件処理経済関係切り離すことで朴大統領合意取りつけた。1980年昭和55年5月には岸の個人特使として訪中し、中華人民共和国最高指導者である鄧小平会談中台統一向けた台湾蔣経国総統との仲介役を鄧から要請を受けると共に中韓経済交流についても交渉した。岸も廖承志によって訪中打診1970年代から受けていたとされる同年9月には岸の訪韓同道して全斗煥韓国大統領と金大中問題について会談する目立った進展はなかった。旧朴正煕政権対日人脈不信感持っていたとされる1983年昭和58年3月22日に、80歳でこの世を去るまで、その広い人脈生かして韓国・台湾政財界とのパイプ役として力を発揮した。 元読売新聞記者橋本文夫は、矢次をこう評している。 『黒幕と言われる他の人々例え児玉誉士夫小佐野賢治らは利害関係にある人達としか交際はなく、彼等知り得る情報は彼らの企業利益必要なもの限られている。小林中荻原朔太郎笹川良一にして然りである。一方、矢次の持つ情報多方面にわたり、かつ正確なのだ。会った人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大な情報屋であり、それが怪物本質である。』

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オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)」の記事における「人物・生涯」の解説

オマル・アブドッラフマーンは、エジプトダカリーヤ県生まれ幼くして糖尿病から盲目になった。幼児期からイブン・タイミーヤサラフィー主義サイイド・クトゥブのクトゥブ主義(Qutbism)に傾倒したカイロアル=アズハル大学入学後注目されるようになり、反体制であるとして投獄経験するオマル・アブドッラフマーン3年間、エジプト獄中で過ごすが、この間、酷い拷問を受ける。その報復が、1981年ジハード団によるサダトエジプト大統領暗殺となったアブドッラフマーン関与実証されなかったが、アブドッラフマーン国外追放となり、アフガニスタンに向った。パキスタンペシャーワルでは師であるアブドゥッラー・アッザームビン・ラーディン従えてマクタブ・アル=ヒダマト」(MAK)を組織していた。ここで、アブドッラフマーンビン・ラーディン緊密な関係を結んだMAKアルカーイダ改組され、アブドゥッラー・アッザーム暗殺されると、アブドッラフマーンアルカーイダ思想上の指導者となった1970年代にはエジプト2つ主要なイスラム主義組織であるジハード団(EIJ)とイスラム集団GI)の双方頭角表し両者接近実現する1980年代にはジハード団は、その後アルカーイダビン・ラーディンとともに指導することになるアイマン・ザワーヒリー率いていく。 1990年アブドッラフマーンは、アル・カーイダアメリカで拠点構築財政面での基盤作りのためにニューヨーク移ったアブドッラフマーン旅行者用のビザサウジアラビアペシャーワルスーダン経由ニューヨーク入りアメリカ・カナダ精力的に活動ニューヨークで3つのモスク説教行ったアメリカイスラエル人極右メイル・カハネ暗殺したエル=サイード・ノサイルなどと交友持ったエル=サイード・ノサイルらは、世界貿易センター爆破事件引き起こす。ノサイルらにはビン=ラーディンから資金提供されていた。この事件後、FBIは、アブドッラフマーンやノサイル周辺捜査アブドッラフマーンらが国連本部リンカーン・トンネルジョージ・ワシントン・ブリッジなど5箇所同時に爆破する「ニューヨーク・ランドマーク同時爆破計画」を進めていることが発覚した1993年アブドッラフマーンや9人のテロリストFBI逮捕された。1995年10月1日有罪宣告がなされ、1996年終身刑確定した2017年2月18日にアメリカ・ノースカロライナ州の連邦刑務所医療施設自然死した。

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若宮正則」の記事における「人物・生涯」の解説

宇和島水産高校卒業上京して就職その後赤軍派入り中央軍小隊長となる。 1969年大菩薩峠事件逮捕される保釈後には釜ヶ崎向かい1972年の「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」(釜共 /釜共闘結成参加。またラーメン屋開業1972年9月4日水崎派出所爆弾事件起こす1972年12月26日逮捕される獄中獄中者組合結成1979年4月、増淵利行ら18人が土田・日石・ピース缶爆弾事件起訴され公判中に1969年10月24日警視庁機動隊庁舎爆破未遂事件実行犯自分であると証言した83年3月上告取り下げ京都刑務所下獄1986年5月懲役10年刑期終え京都刑務所出所親族への挨拶回り帰郷終えて釜ヶ崎戻った若宮同年8月獄中者組合活動交流のあった元獄中者、そして新たに出会ったトミさん」と親称された釜ヶ崎住人協力者として得て労働者食堂」を開く。店の入り口には若宮理念であり、アナキズム命題一つ相互扶助と書かれた黒旗掲げられており、黒旗古豪アナキスト大島三郎から寄贈されたものであった。又同年10月には、旧知の元赤軍派仲間労働戦線友人たちなどからのカンパ得て食堂から程近くに中古住宅購入。その住宅労働者自由に出入りでき、宿泊出来る「労働者の家」と名付け自主管理空間運営着手する1989年若宮食堂労働者の家を維持するべく、肉体労働稼いだ金を注ぐなど自己犠牲的に取り組んだにもかかわらず釜ヶ崎での種々の試み企図した成果もほとんど得られることがなかった。理想結実することなく疲れ行き詰まり感じていた。運動から距離を取り始めていた若宮は、同年9月より釜ヶ崎離れ一時帰郷した全国放浪して、自然豊かな環境での暮らし志向するようになっていった。その過程南米での新たな人生模索し始める。横浜寿町ドヤ街仕事取り仕事のない日には図書館南米に関する文献読み南米に関する様々な側面学習して知識豊かにていった日雇い労働渡航滞在資金を貯めて、1990年10月ペルーに渡る。同年11月14日彼の地激烈な武装闘争展開していた、毛沢東主義組織センデロ・ルミノソ」のゲリラ兵士達に胸部ナイフ刺され滞在家庭ペルー人2名(宿泊所を提供した村長の妻とその母)とともに落命享年45

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クラレンス・エドワード・ダットン」の記事における「人物・生涯」の解説

コネチカット州ウォーリングフォード (Wallingford) で生まれた1860年イェール大学卒業した後、南北戦争参加した1875年アメリカ地質調査所地質学者として働きコロラド高原などを調査しユタ州地質グランド・キャニオン地史1886年サウスカロライナ州チャールストン起きた地震に関する研究などを発表したアメリカ地質調査所火山部門率いてハワイ諸島カリフォルニア州オレゴン州火山研究行った1887年メキシコソノラ地震調査隊の支援おこなった1884年アメリカ科学アカデミー会員選ばれた。1886年アメリカ地質調査所調査隊を率いオレゴン州クレーターレイク調査し、その水深を608mと測定した1889年1850年代ジョン・ヘンリー・プラットジョージ・エアリー提案した地殻内のバランスに関する仮説アイソスタシーの用語を提案したことで知られる1891年アメリカ地質調査所退職し陸軍10年ほど働いたその後地質学研究戻った

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矢島保治郎」の記事における「人物・生涯」の解説

群馬県佐位郡殖蓮村大字植木(現・伊勢崎市本関町)の裕福な農家三男生まれる。群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退後、日露戦争従軍乃木希典率い第三軍旅順攻囲戦参加し突撃隊である白襷隊にも志願した。この戦功軍曹昇進し、また功七級金鵄勲章授与されている。 1906年明治39年)、剣術秀でていたことから陸軍戸山学校戦術体操剣術などの指導者養成目的とする)へ入学命じられる。しかしこの頃になると矢島は、当時ベストセラーとなっていた河口慧海西蔵旅行記』に大きく刺激されアジア横断無銭旅行志すようになっていた。そこで、チベット人変装できるようになるため髪を伸ばし始めチベット人は男でも長髪にする風習があった)、同時に長髪規律違反だとして切るように言う同僚上官対し神武天皇だって長い髪をしているではないか。俺は神武天皇従者になってロシア征伐に行くんだ」などと抗弁するなど狂人ふりをするうになる。これが功を奏し1907年明治40年12月除隊。 翌1908年明治41年)、上京しキリスト教伝道師島貫兵太夫設立した渡米支援団体日本力行会」に入会。会の中に冒険倶楽部」という部を設けてアジア横断無銭旅行同志募った当時寺本婉雅チベット入国話題になっていた時期であり、矢島計画好意持って迎えられ賛同者30名に達したまた、冒険小説家・押川春浪からは、当時貴重品であったコダックのカメラ贈られている(島貫が春浪の父・押川方義教え子だったことが縁で、矢島は春浪の家に出入りしていた)。 当初30人いた賛同者も、計画が進むにつれ脱落していき、結局矢島単身横浜港から出発することになる。1909年明治42年2月3日のことであった

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麻田剛立」の記事における「人物・生涯」の解説

豊後国杵築藩南台西(現在の大分県杵築市出身。元々は綾部(あやべ)姓であったという。儒学者綾部安正(絅斎)の四男。幼名庄吉良で、名は妥彰(やすあき)。初めしょうあん表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した幼少期から天体興味持ち二十歳くらいから本格的な天体観測を行う。『傷寒論』などを読み独学天文学医学学んだケプラーの第3法則独自に発見したとされ、その内容は『五星距地之奇法』に記されている。既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述通りケプラーの法則使って研究もしていることから、この麻田独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田惑星軌道を円と考えて惑星公転周期2乗軌道半径3乗比例する」としており、つまりこの時点ケプラーの第1法則知らなかったため、事実誤認含まれているとはいえ麻田独創性については間違いは無い。 宝暦13年1763年)に、ケプラーの法則用いて、官暦にはない同年9月1日(旧暦)日食予言し的中。この日食当時使用されていた宝暦暦記されていなかったこともあり、麻田名声高めた明和8年1771年)頃に豊後離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名した大坂行き、そこで医師生業しながら天文学研究続けた。『崇禎暦書』を基盤研究し望遠鏡反射鏡などの観測装置改良し理論実測確認、そして家暦である『時中法』を設けるなど、その手法近代的であったオランダから輸入した初の高倍グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古月面観測図を記す。安永7年1778年8年後に起こる日食情報三浦手紙送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た麻田剛立』を書くにあたり資料収集した際、現所蔵者と現物発見した弟子高橋至時山片蟠桃間重富らがいる。また中井竹山中井履軒兄弟三浦梅園とも交流した大正5年1916年)、従四位追贈された。 月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する

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劉連仁」の記事における「人物・生涯」の解説

山東省故郷家族と共に暮らしていたが、1944年9月大東亜省によって華人労務者として雇用され北海道雨竜郡沼田町明治鉱業昭和鉱業所へ炭鉱労働者として送り込まれた。1945年7月仲間労働者4人と共に脱走を図る。直後仲間次々と脱落していったが、以後13年間、ただ一人終戦知らないまま山中逃避行続けた1958年2月8日当別町山中穴ぐら中に潜んでいる姿を農民発見保護された。その後故郷へ帰国1996年東京地裁強制連行であったとして日本国相手取り提訴したが、2000年判決聞かないまま本人死去裁判は劉の息子原告として継続され2001年地裁では勝訴するが、日本国控訴2005年東京高裁訴え棄却

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ウィリアム・スミス (地質学者)」の記事における「人物・生涯」の解説

スミスオックスフォードシャーチャーチルという農村鍛冶屋で、長男として生まれた8歳父親失い母親のアン・ウィリアムが再婚するまでの二年間、弟二人と妹の4人が伯父の家で育てられた。学校成績はかなり良かったが、家が貧しいため、大学進学できなかった。しかし、学校を出るころには、農村若者にしては珍しくあちこち旅してまわっていた。イングランドでは、道路建設され運河彫られたり、また、領地測量したりする測量技術職業として成り立った1787年測量士エドワード・ウェッブの助手として働き始め短期間仕事覚えて独立した。この時は18歳だった。この後チャーチル伯父の家を出てウェッブ仕事し、一緒に旅行もした。19歳の時、チャーチル出身の元インド総督ウォーレン・ヘースティングズ領地耕作貸付地)の測量ウェッブから任され正確な測量成功収めた。。しかし、着実な儲け求めて1807年にクーム・ダウンの古い石切場を買い上質なバース・ストーン切り出す計画をたて、1814年稼働したが、ワーテルローの戦い後のイギリス戦後不況に陥り、スミス事業打ち切ざるをえない羽目になった炭鉱鉱脈調査石炭を運ぶための運河建設農地の改良といった仕事を手がけながら、様々な地層やそこに埋まっている化石観察した結果スミス地層累重の法則示準化石による年代決定法(地層同定の法則)を編み出したまた、1799年パース周辺地層分布記した世界最初地質図作成、更に1815年46歳)には、彼がこれまでの仕事通じて観察してきた事象集大成でもあるイギリス本土全域イングランドウェールズ及びスコットランド一部)の本格的な地質図完成させた。そこでは、様々な地層区分分布が、手作業色分け(これは当時画期的なことだった)されて示されていた。 しかし、当時発足したばかりのロンドン地質学協会下層階級出身であるスミス入会認めかったばかりか、彼の集めたデータ盗用して別の地質図作る者までいた。スミス次第困窮し1816年には長年かけて集めた化石コレクション大英博物館売り渡した1819年には不動産ローン返済できなくなってロンドンのキングズベンチ債務者監獄に3か月近く収監され同年8月最後の日早朝釈放された。50歳だった。ロンドンをさろうと決心した。そして、ヨークシャー小さな町ノーサラトンに引きこもった1820年代後半になるとようやくスミス正当に評価されるようになった。彼自身は既に地質学急速な発展から取り残されかけていたが、その発展基礎築いた業績によって1831年ウォラストン・メダル第1回受賞者アダム・セジウィックロデリック・マーチソンウィリアム・バックランド三人ウィリアム・スミスがふさわしいと判断し選んだ。「英国地質学の父」と称えられた。 1839年スミスバーミンガム学会出席した帰り肺炎患いノーサンプトン友人の家で亡くなった1808年頃に(正確な日時不明結婚した子供はいなかった。甥のジョン・フィリップス親代わりになって育て、彼も後に地質学者となったスミス設計関与した大きな円筒形展示棟を持つ旧スカーブラ市立博物館は、2007年9月ウィリアム・スミス地質学博物館としてリニューアルされた。

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江渡恭助」の記事における「人物・生涯」の解説

江渡は1881年明治14年)に青森県五戸生まれた造り酒屋長男であり、とうぜん家業を継ぐことを期待されていた。しかし江渡は中学生のときに、東京中学学びたいと父に告げた帝国海軍生涯捧げようとしたのだ。3日がかりで頑固な父親説得したといわれる海軍予備校として知られ海城中学経て1900年明治33年)に海軍兵学校(28期)を卒業した1905年明治38年)には、17年間におよぶ江渡の軍歴なかでも重要な功績ある日本海海戦参戦する。このとき江渡はまだ24歳であった巡洋艦吾妻」の後部8インチ砲塔指揮し金鵄勲章(功四級)を授けられた。戦後海軍大学校甲種学生(8期)を卒業した永野修身(のちに元帥海軍大将)は、江渡と海兵海大ともに同期生である。 第一次世界大戦初期には軍令部士官となり、またドイツ相手どった青島の戦い重砲預かり功績挙げた1916年大正5年5月、江渡はイギリス大使館駐在武官任じられるシベリア横断しヨーロッパへ旅路経験した日英同盟のもと、江渡は1916年大正5年8月15日からイギリス本国艦隊戦艦ヴァンガード」乗組の観戦武官一員となった1917年大正6年7月9日月曜であった日付のかわる直前に、スコットランドスカパ・フロー停泊していたヴァンガード爆発した。これはおそらく、数箇所弾薬庫向かいたくわえられコルダイトが、そばにある無人ボイラー室燃え上がったものだといわれるヴァンガードはほとんど瞬時沈没し、江渡を含めたおよそ843名がそのまま溺死した救命されたのは2人けだった。現在この地は軍事遺産保護法(1986年制定)が扱う対象となっている。1984年昭和59年)、江渡の親族オークニー訪れヴァンガード難破物まで案内されている。 江渡は戦死後同日付で大佐昇進し功三級金鵄勲章勲三等旭日中綬章受章した。さらにイギリス政府よるバス勲章与えられている。 郷里五戸町博物館には、ささやかながら江渡についての展示品があり、また同町には「江渡恭助人材育成基金条例」が設けられている。

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トゥイスコン・ツィラー」の記事における「人物・生涯」の解説

ツィラーは、ライプツィヒ大学文献学学び当初数年ギムナジウム教師として教鞭をとった後、再度大学戻り法学学んで1853年大学教授資格取得そのままライプツィヒ大学法学私講師となった。しかし、1854年教育学講義始めその後専ら教育学に専念することになる。1861年、彼は学生時代友人援助得て補修学校校舎利用できることになり、教育学ゼミナール新設ツィラーヘルバルト派の代表的な理論家1人であり、1868年以降科学的教育学協会(Vereins für Wissenschaftliche Pädagogik)の創立者にして、代表を務めた。彼はライプツィヒ亡くなった

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人物・生涯

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佐々木高重」の記事における「人物・生涯」の解説

承久3年1221年)に起こった承久の乱阿波国内の兵六百人率いて撫養の港(現徳島県鳴門市)から上京し、父経高の率いていた淡路の兵らと合流したという。しかし圧倒的な鎌倉大軍支えることができず、わずかとなった後鳥羽上皇方は京都敗走しそれぞれの国もとへ逃げ帰ったという。この戦いで阿波佐々木経高と高重の父子討死して果て六百余の阿波の兵もほとんど帰らなかったという。 しかし、高重の死については、『大日本史料』五編所収の「承久三年年日次記」貞応元年1222年5月10日条に、熊野山住の僧侶岩田法眼行盛」(熊野別当家庶子家)が同年5月6日左衛門尉源(佐々木)高重とその猶子・渋野四郎を「岩田辺」(現・和山県上富田町上岩田付近)で誅し六波羅探題にその頸を送り届けてきたと書かれているので、高重は承久3年1221年6月16日時点では死なず翌年熊野逃亡する途中で死去したことがわかる。 乱後阿波国に対して幕府佐々木氏代わり小笠原長清守護職任じた長清阿波へ入ると佐々木氏居城であった名西郡鳥坂城(現・徳島県石井町鳥坂)を攻めたという。ほとんど兵のいない鳥坂城炎上し、城を守っていた経高の二男高兼は、一族老臣平岡清らと城を捨てて名西郡山中鬼籠野村逃げたという。しかし小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、高兼は一族家臣達が百姓となってこの地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害したという。 現在、神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地区に多い苗字佐々木はかつての阿波守護職近江源氏佐々木経高後裔達であるといわれる

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サミュエル・ゴーズミット」の記事における「人物・生涯」の解説

オランダハーグユダヤ系家庭生まれたライデン大学アムステルダム大学学んだ仲間学生ジョージ・ウーレンベック電子スピン発見した1927年アメリカ帰化しミシガン大学勤めた第二次世界大戦中マサチューセッツ工科大学技術研究所レーダー研究をしたほか、1944年からドイツの原子爆弾開発状況調査するためアメリカ軍アルソス・ミッション(英語版) (ALSOS) の技術顧問としてヨーロッパ滞在した戦後ノースウェスタン大学ネバダ大学リノ校教授となったスペクトル微細構造研究行ったマックス・プランク・メダル多くの賞を受賞している。

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中根中」の記事における「人物・生涯」の解説

現在の大分県杵築市生まれる。関西学院進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃浪費癖がひどく、教会除名された。日本の妻の他に愛人もいたといわれる。大借金残してカナダへ渡り白人女性結婚する。後にアメリカタコマ移住するが、もとからの浪費癖災いして生活が破綻し、再び借金残して失踪する1932年白人比して差別され不利な立場にある有色人種糾合する組織として東方世界平和運動英語版)がシカゴ結成される中根もこれに加わり、翌1933年デトロイト移り黒人街で活動始める。中根日本陸軍から秘密裏派遣され軍人であると名乗り日本人黒人同じく有色人種であり、白人社会抑圧されてきた同胞である。そして、日本白人戦っている」として黒人扇動して白人社会打倒訴えた中根弁舌カリスマ的であり、一時10万人をも動員して黒人暴動多発させた。中根多く黒人から「小さな少佐」と呼ばれ救世主崇める者さえいたとされるこの間黒人女性と結婚する。さらに立て続け組織設立して活動していたためにFBIによって国外退去命じられ日本へ帰国するもすぐにカナダへ渡り、そこから代理としての妻を通してアメリカの組織遠隔的に運営していった。 中根らの運動一見順調に思われたが、組織中心中根支えた妻が活動資金使い込んで放蕩明け暮れるようになりその活動が行詰るうになる中根組織立て直すためにアメリカに再び入国するが、1939年逮捕されるFBI取調べでは「サトハタ・タカハシ」他複数偽名使い、嘘を並べ立てたといわれる。 こうして、中根野望一見して瓦解したようだったが、中根獄中にいる1943年デトロイト黒人の大暴動発生している(デトロイト人種暴動 (1943年)(英語版))。これは中根活動起因すると言われており、アメリカ兵器生産拠点であったデトロイト3日間、機能停止状態に陥れた。 中根第二次世界大戦中釈放され後半生愛したデトロイト戻り同地没したまた、上述の妻らとは別にさらにもう1人黒人女性愛人関係にあったとされる

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アドルフ・ワーグナー (経済学者)」の記事における「人物・生涯」の解説

エアランゲンにて哲学教授息子として生を受けるゲッティンゲン大学学び1857年博士号取得ウィーン中学教師傍らウィーン大学への奉職志すも、ローレンツ・フォン・シュタイン財政政策反対したことからハンブルクに赴き商業学校教師となる。1865年タルトゥ大学招かれ民族誌地理学統計学主任教官となって本格的な経済学研究が可能となったその後フライブルク大学ベルリン大学教鞭取りグスタフ・フォン・シュモラーとともに社会政策学会、アドルフ・シュテッカー(de)とともにキリスト教社会党(de)の創設関与ヴェルナー・ゾンバルトなどを教えたベルリン死去

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谷川徹三」の記事における「人物・生涯」の解説

1895年5月26日煙草元売りの店を営む谷川米太郎三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校卒業1913年第一高等学校(のち東京大学教養学部)に入り在学中真宗大谷派僧侶近角常観主宰していた求道学舎寄宿する西田幾多郎影響され1918年京都帝国大学文学部哲学科入学して師事する1922年卒業し同志社大学講師などを経て1928年法政大学文学部哲学科教授となる。その後文学部長、能楽研究所長を経て1963年法政大学総長選出され1965年まで務めた大学同僚だった野上豊一郎弥生夫妻とは深い交流続いた文部省国民芸能文化専門会(1942年設置)の委員務めた論壇には1929年改造』に発表した論文登場した。『思想』の編集に関わったのち、戦時中海軍思想懇談会参加し戦後三年会、世界連邦運動に加わる。『婦人公論主幹帝室博物館(現・東京国立博物館次長、『心』編集代理委員務めた大正教養主義流れ立った知識人で、旧制高校出身学歴貴族たちに大きな影響があった。その流れで、作家阿川弘之とは志賀直哉白樺派関係で、平岩外四とは同郷でもあり終生交流があった。 また宮沢賢治研究家でもあり、自ら詩も書いた。賢治については「雨ニモマケズ」を高く評価し同作否定的な見解表明した中村稔評論批判をおこなって、中村から反論受けた雨ニモマケズ#「雨ニモマケズ論争参照)。柳宗悦とも交流があり、終生民藝運動支えた晩年終生座右の書は『論語』『正法眼蔵』『ファウスト』と述べている。草野牛郎のペンネーム用いて自由律短歌書いた戦後短期間博物館次長在任中に館長安倍能成和辻哲郎田中耕太郎らと昭和天皇話し相手をしたことをたびたび述べることで、象徴天皇制擁護している。『世界』の創立メンバー一人でもあり、昭和天皇崩御に際しての『世界』の特集号では、ただ一人天皇称える文章載せている。 1960年法政大学文学博士。「美学序説 芸術としての構造」。1967年叙勲二等瑞宝章1970年宮沢賢治像を制作するよう高田博厚依頼する1987年文化功労者1989年9月27日未明虚血性心不全により自宅死去94歳没。前日まで職務行っていた。叙従三位叙勲一等瑞宝章弔辞阿川弘之読んだ墓所鎌倉市山ノ内東慶寺にある。 妻・多喜子は立憲政友会議員だった長田桃蔵娘。京都帝大時代音楽会出会ったことがきっかけで交際発展し結婚するまで2年間に多く恋文交わされた。多喜子は徹三より5年早く世を去ったが、没して10年後の1994年息子俊太郎は、多喜子が残した恋文一部を『母の恋文』(新潮社)として出版した

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史思明」の記事における「人物・生涯」の解説

突厥ソグド人混血出身で、安禄山同世代同郷だったため親しい仲にあったまた、自身6つ言語解し教養通じ人物であったため、次第頭角現していく。幽州節度使部下であったときに戦功挙げ天宝11載(752年)には安禄山配下となった至徳元載756年)に安禄山反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い李光弼顔真卿率い唐軍戦った安史の乱)。しかし、聖武2年757年)に安禄山次子安慶緒が、父を殺害するその後継いで燕の皇帝称した史思明はこれに反発し范陽帰って自立。やがて唐に降伏するも、粛宗彼に近い要人達が自分殺害計画していることを知ると降伏撤回し天成3年759年3月洛陽安慶緒攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝名乗り自立する。だが、順天3年761年)、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男史朝義によって殺された。

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普照」の記事における「人物・生涯」の解説

当初興福寺住し天平5年733年)に出家者正しい戒を授けるための伝戒師招請するため栄叡とともに唐に渡った洛陽大福先寺で具足戒授けられ道璿来日促した。唐に滞在すること10年目にして揚州大明寺鑑真拝謁し日本への渡航要請し天平勝宝6年754年)、鑑真に従って日本戻った後、東大寺住し天平宝字3年759年)には意見封事として旅をする人の飢え癒すため京外の街道果樹植えることを奏上した。苦楽を共にした栄叡とは親友同士であり、栄叡看取ったのも普照である。栄叡亡くなった酷く号泣したと伝わる。その後奈良西大寺の大鎮を務めた没年不明。 なお、平間寺の第31貫主を「普照」という僧が務めているが、活動した時代が全く異なり別人である。

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吉田東伍」の記事における「人物・生涯」の解説

元治元年1864年4月14日4月10日との説もある)、越後国蒲原郡保田村(現:阿賀野市安田村)の豪農野家の子三男)としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、1884年明治17年12月から名乗った1874年明治7年)に小学校出たのち、近所英国人について英語を4年学び英学者もてはやされる1875年明治8年)、11歳の時から新潟学校(後の新潟英語学校)中学部3年ほどで中退後、学校教育受けず独学小学校教員となる。1884年明治17年)、中蒲原大鹿新田新潟市秋葉区)の吉田家養子となり結婚する1885年明治18年)、1年志願兵として仙台兵学校入営する休日には仙台師範学校図書館(旧仙台藩図書収蔵)に通う。翌年帰郷する1887年明治20年)、24歳の時、小学校正教員検定合格し北蒲原郡水原小学校訓導となったこの頃歴史・地理天文のほか考古学人類学関心をもつ1889年明治22年水原小学校辞職1890年明治23年)、27歳での結婚後に単身北海道に渡る。大富開拓の夢は破れたが、そこから『史学雑誌』に寄稿した古代半島興廃概考」が学者注意を引き落後生という筆名続々史論発表し注目された。特に『史海』への投書論考主筆田口卯吉らの注目をひき、学界への登竜門となった1891年明治24年郷土帰り親戚市島謙吉頼って上京し市島主筆務め読売新聞社入社し、「徳川政教考」を『読売新聞』に連載また、2年足らず膨大な日韓古史断』(1893年30歳)を書き上げ翌年徳川政教考』を出版し歴史家として地位固めた1895年日清戦争記者として従軍した頃から、1893年官撰日本地誌編纂事業中止されており、その事業を独力で継ごうという意思表れでもあり、また、日本地名の変遷記した研究がないことに気付き13年かかって大日本地名辞書11冊を完成した原稿厚さ5mに及ぶ質量とも古今未曾有大地誌で、今日でも刊行されている。 歴史地理学のほか日本音楽史造詣深く、とくに能楽研究に意を注ぎ、『世子六十以後申楽談儀』(『申楽談儀』)を校訂、これが世阿弥伝書発見につながる契機となったその後吉田が『花伝書』と命名した風姿花伝』をはじめ,当時発見され世阿弥著書16部を収めた世阿弥十六部集』を校注し、従来観阿弥世阿弥像を一新させ、近代能楽研究出発点となった晩年宴曲早歌研究努め東儀鉄笛(とうぎてつてき)の協力宴曲再興試み私財投じて宴曲全集』を公刊して研究基礎築いた。 他にも、社会経済史分野では『庄園制度大要』が、近代史分野では『維新八講』があり、現代より過去さかのぼるという歴史的視野問題を含む通史倒叙日本史』(全12巻)もある。 東京専門学校早稲田大学前身文学部史学講師となり、以後国史日本地誌明治史、日本地理担当、のちに教授となり、さらに維持員理事就任した1918年大正7年尿毒症のため急死した

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ファン・ホセ・デ・エルヤル」の記事における「人物・生涯」の解説

スペイン北部ログローニョ生まれる。パリ教育受けたあと、ドイツフライベルク鉱山専門学校冶金学などを学び1781年から82年にかけてスウェーデン・ウプサラのトルビョルン・ベリマンに学ぶ。その後ファウストと共にスペインベルガラ神学校教授になった1783年ベルガラファウスト共同タングステン分離成功しウォルフラム命名その後コロンビアヌエバ・グラナダ(Nueva Granada)鉱山校長に任ぜられ、同地没した

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マーカントニオ・コロンナ」の記事における「人物・生涯」の解説

1571年レパントの海戦時に教皇庁艦隊司令官務める。神聖同盟艦隊全体としては、副司令官であった軍人というより宮廷人である。 海戦前年1570年にも神聖同盟艦隊の編成があったが、その当時海上戦闘経験がないということローマ教皇ピウス5世からの提言にもかかわらず、ヴェネツィア・スペイン両国から同盟艦隊全体指揮官への任命難色しめされ人物である。オスマン帝国キプロス島首都ニコシア包囲開始したため、とりあえ神聖同盟艦隊司令官任命されるキプロス救援を急ぐヴェネツィアと、ヴェネツィアのためには戦う気のないスペイン勢の間で調停役となるが、決断力欠き1570年は戦うことなく艦隊解体される1571年継続して法王庁艦隊司令官務め神聖同盟艦隊総司令官職はスペイン王フェリペ2世の庶弟ドン・フアン・デ・アウストリア譲り副司令官となるが、神聖同盟内で意見割れた場合妥協案を示すなど調停役として重要な役割を果たす1584年スペイン客死した49歳

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池辺三山」の記事における「人物・生涯」の解説

肥後国熊本(現熊本県熊本市生まれ。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる。十郎熊本藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、敗戦時に処刑されるという非運見舞われた。吉太郎14歳の時であり、これからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚風格長じるようになった慶應義塾学んだが、中退して佐賀県役人となる。 大阪朝日新聞東京朝日新聞主筆歴任朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり。公明正大で高い識見言論は、政治思想文芸など多方面に影響与えた陸羯南徳富蘇峰とともに明治三大記者とも称された。二葉亭四迷夏目漱石入社させ、朝日新聞権威高めとともに今日文豪と言われる作家長編小説新聞連載尽力した。 父が殉じた西郷思わせる巨漢で、東京朝日新聞時代部下だった石川啄木に「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」(『一握の砂』)と歌に詠まれた。

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ニコラウス・ステノ」の記事における「人物・生涯」の解説

ステノコペンハーゲン金細工職人息子として生まれたコペンハーゲン大学学んだが、スウェーデンデンマークの間で戦争がおこり、学業続けるためにアムステルダムに移らざるをえなくなったライデン大学医学学位をえた後、解剖術の才能示し有名な解剖学者となった解剖学の著書『脳の解剖についての講義』がある。その後1年ほどパリ滞在した1665年フィレンツェ移りアカデミア・デル・チメントメンバーになりフェルディナンド・デ・メディチ保護をうけて、自然科学研究おこなった。自らの解剖学的知識化石類似トスカーナ地方中心とするイタリアの地形、地層観察から、地層生成に関する研究の成果固体中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を出版したその後1667年それまで信仰していたルーター主義からカトリック改宗フィレンツェ神学勉強始め1675年司祭叙階され、1677年司教となり、ドイツ北部にて数少ないカトリック教徒のために尽力した晩年は、科学的研究から離れていた。1988年教皇ヨハネ・パウロ2世の手によって福者の位にあげられている。

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ケーテ・コルヴィッツ」の記事における「人物・生涯」の解説

彼女は1867年東プロイセンケーニヒスベルク現在のロシア領カリーニングラード)で、左官屋親方である父カール・シュミット、母ケーテ・ループの間に生まれた。彼女は父の仕事場にいた職人から絵や銅版画学び、父は17歳になった彼女をベルリンへ絵の勉強に行かせた。この時期、彼女はマックス・クリンガーなどベルリン分離派画家版画家たちの影響強く受けた。彼女は学業終えケーニヒスベルク戻ったが、再びより芸術的な環境求めミュンヘン向かいフランス印象派絵画などの影響を受ける一方版画スケッチ自分向いていると考えるようになる1890年、彼女はケーニヒスベルク戻り、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描くようになった1891年、兄の友人健康保険医のカール・コルヴィッツと結婚した彼女はベルリン貧民街移った。彼女は生涯描き続けた自画像取り組む一方スラムに住む彼女の周り住民たちや夫の患者たちに強い印象を受け、貧困苦しみを描くようになる。 彼女は1897年に、ゲアハルト・ハウプトマン作の下層階級人々描いた戯曲織匠』(Die Weber1892年)を見た印象から制作した最初の版連作織匠』(織工蜂起)を発表し一躍脚光を浴びる批評家からは絶賛浴びたが、当時芸術家のパトロンたちにとっては難し題材であった。彼女はベルリンの『大展覧会Große Kunstausstellung)』で金メダルノミネートされたが、皇帝ヴィルヘルム2世授賞対す許可与えなかった。 その後彼女はドイツ農民戦争題材にした連作農民戦争』(1908年)で評価され版画加えて彫刻手がけるようになったが、1914年第一次世界大戦開戦一週間後に末息子ペーター戦死した社会全体開戦へ熱気が高まる中で息子ハンスペーター兵士志願した際、彼女は止めるどころかむしろ後押ししてしまったこともあり、彼女は長い間悲しみさいなまれた。戦後、彼女はペーター戦死を基にした木版画による連作戦争』(1920年)や労働者題材にした『プロレタリアート』(1925年)を発表する一方息子の死17年間にわたり彫刻両親』の制作続け1932年にベルギー・フランデレンのRoggevelde にあるドイツ軍戦没兵士墓地設置された。後に、ペーター葬られ墓地近くのVlodslo に移転し彫刻移転している。彼女はその他、激戦地だったベルギー・ランゲマルク(Langemarck)の墓地のために四人黙祷する兵士の像を制作している。 彼女は1919年女性アーティストとしてはじめプロイセン芸術院会員任命され1929年にはプール・ル・メリット勲章受章するなど、第一次世界大戦後国家社会各層から高い評価を受け、多く人々から親しまれた。一方で社会主義運動平和主義運動にも関与し、『カール・リープクネヒト追憶像』の制作や、ドイツ革命わずかな存在した社会主義政府労働者芸術会議参加するなどの活動行っている。 1933年ナチ党の権力掌握とともに退廃芸術」の排斥始まった。彼女も反ナチス的な作家とされ、芸術院会員教授職から去るように強制された。彼女は最後版画連作『死』および、母と死んだ息子題材にした彫刻ピエタ』(1937年)を制作するものの、1930年代後半以後展覧会開催作品制作など芸術家として活動禁じられた。宣伝省人気のあった彼女の作品を『退廃芸術展』では展示しなかったものの、逆にいくつかの作品ナチスのプロパガンダとして利用している。彼女の夫は1940年病死し、孫のペーター長男ハンス息子)は東部戦線1942年戦死した1943年、彼女はベルリン空襲住宅デッサン多く失いザクセン王子エルンスト・ハインリヒの招きで、ベルリンからドレスデン近郊の町・モーリッツブルクに疎開し、モーリッツブルク城のそばのリューデンホーフという屋敷住んだ。彼女は制作禁じられた後もひそかに制作続けており、最末期作品には子供たちを腕の下に抱えて守り睨みつける母親描いた1941年の『種を粉に挽いてならない』という版画作品がある。1945年4月22日第二次世界大戦終結のわずか前、彼女は世を去った

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早竹虎吉」の記事における「人物・生涯」の解説

幼少期については、はっきりとした記録残っていない。寺町誓願寺軽業渡世励んだ後、1842年天保13年)に京都道場芝居にて軽業1843年天保14年)、大坂下って興行し10年以上に渡って活躍した1857年安政4年正月江戸下って両国興行始めや否や、たちまち人気を博すようになった歌舞伎仕立て衣装を身にまとい、独楽手品の手法を取り入れた豪快な舞台披露。およそ2カ月の間に錦絵30数点が出版され、たちまちのうちに売れたという。曲差し(きょくざし)(竿から手を離して肩だけで支え三味線曲弾きするという非常に高度な芸)や石橋しゃっきょう)(足で長い竿を支え、竿に人や動物載せる芸)と呼ばれる長い竿を足や肩で支え曲芸を得意とした。 慶応3年7月25日1867年8月24日)、約30名の一座率いて虎吉横浜出発しアメリカ渡航した翌月サンフランシスコ上陸サンフランシスコメトロポリタン劇場振り出しに、サクラメントニューヨークアメリカ各地興行したフィラデルフィアアカデミー・オブ・ミュージックでの興行慶応3年12月30日1868年1月24日終了後突如体調崩し慶応4年1月15日1868年2月8日)に心臓病客死した。その数日前より、一座海外へ連れ出した外国人手配師契約不履行などを訴え揉めていたようである。その後明治7年1874年)に実弟二代目早竹虎吉襲名した

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レイフ・エリクソン」の記事における「人物・生涯」の解説

レイフは、グリーンランド発見し最初の定住試みたエイリーク長男としてアイスランド生まれグリーンランド育った若い頃祖父故郷ノルウェー渡って滞在しノルウェー王会見してキリスト教改宗、そこで学んだキリスト教持ち帰ってグリーンランド教会建てたサガ伝えところによると、この頃グリーンランドへの航路から西に流された者がおり、グリーンランドの西に木材多くグリーンランドより豊かな島があるらしいので、レイフノルウェーからの帰還後997年西へ探検航海出た最初に漂流者ルートたどって西に赴くと、岩に覆われ陸地があり、彼らはこれを「岩の国ヘルランド)」と名づけた。次に南下した彼らは木に覆われ陸地を見つけ、「の国(マルクランド)」と名づけた。さらに海を南に下った彼らは、小麦自生する豊かな国へとたどり着いて、そこを「ブドウの国(ヴィンランド)」と名づけ前線基地を置き、グリーンランド帰った西暦1000年のことであったという。 ヴィンランドは、川にはサケ遡上し、定住するのに好適土地あるよう思われたので、まもなく数百人の入植者グリーンランドからヴィンランド向かった。しかし、先住民レイフたちは「スクレリング」と呼んだ)との関係もあってヴィンランド入植地長続きせず、やがて放棄されてしまった。レイフ自身は父の後を継ぎグリーンランド西海岸にあった入植地有力者としてその後人生送ったようである。

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エルンスト・エンゲル」の記事における「人物・生涯」の解説

ドイツドレスデン生まれドイツ社会統計学代表的な人物一人であり、プロイセン王国統計局長官となり、官庁統計整備し統計教育努めた家計の中でしめる食費割合エンゲル係数という)が貧富階層差に密接に関連すること指摘した。 「エンゲルの法則」で有名。著書人間価値』『ベルギー労働者家族生活費』など。

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人物・生涯

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バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア」の記事における「人物・生涯」の解説

スペイン南部ヘレス・デ・ロス・カバリェロス(エストレマドゥーラ州出身実家貴族身分ながら貧困にあえいでいた。1500年イスパニョーラ島開拓者として移住したものの経営能力のなさや放埓な生活で借財重ねた。その債権者から逃れるようにして1510年カリブ海面したヨーロッパ人最初植民都市サンタ・マリア・ラ・アンティグア(現コロンビアパナマ国境付近)に移住し、後に活動拠点とする。 現地では食糧不足先住民(インディオ・インディヘナ)の襲撃に悩むスペイン人たちのリーダーとして才覚発揮新し植民都市ダリエンの建設指揮し完成後はその総督任命される懇意にしていたインディオ酋長から南方にある黄金産出地情報得たバルボアは、1513年9月190人の隊を組織して探索開始する。この時の部下一人が、後にインカ帝国征服者として知られるフランシスコ・ピサロである。 先住民案内パナマ地峡横断し9月25日に隊は海に到達したバルボアはこの海を「南の海 (South Sea)」と命名した。これが後の太平洋である。また、彼の探検によってアメリカ大陸2つ大海接す大陸であることが明らかとなった。この探検では目当て黄金発見することはできなかったが、より南方ペルー黄金郷存在するという情報掴んだ。しかし、バルボア探検隊にはペルー赴くだけの余力はなかったので一旦植民地帰還した黄金探索という本来の目的果たせなかったものの、彼は偉大な探検者として迎えられた。 しかしながら行程中に略奪虐殺などの残虐行為働いたことにより、この探検対す後世の評価は芳しくないスペイン本国政府も、それを容認するバルボアリーダーシップ危惧持ち、またパナマ支配強化する目的彼のダリエン総督としての任を解き新たにペドラリアス・ダビラ(en)を総督として送り込んだ豪放なバルボア猜疑心の強いダビラ反り合わず次第対立深めていく。 黄金郷探索のためペルー向かおうとしたその矢先1519年1月ダビラ召喚を受ける。出頭した彼はかつての部下ピサロ捕らえられて獄につながれ形ばかり裁判反逆罪問われ挙句斬首刑(絞首刑とも)に処され波乱の生涯終えた

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人物・生涯

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慈訓」の記事における「人物・生涯」の解説

興福寺玄昉元興寺の良敏に法相唯識学び審祥から華厳学んだ740年天平12年審祥による華厳経法会では副講師をつとめ、同14年742年)には講師となった755年天平勝宝7年)には宮中講師となる。翌756年天平勝宝8年聖武天皇病気となった際、良弁・安寛とともに看病禅師華厳講師をつとめ、その功により少僧都任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策中心者として活躍し759年天平宝字3年)には、文室智努とともに意見封事淳仁天皇行い採用されている。760年天平宝字4年)には良弁とともに僧位制度改正奏上している。その後道鏡現れると、「政を行うに理に乖き、僧綱たるに堪えず」という理由763年天平宝字7年僧綱解任されかわって道鏡少僧都就任したが、道鏡失脚した770年神護景雲4年8月には少僧都復帰している。

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ジュゼッペ・モッタ」の記事における「人物・生涯」の解説

スイス唯一のイタリア語公用語とするティチーノ州出身モッタカトリック保守人民党から1911年政府閣僚に任命され以後30年間その職にあった。特に第一次世界大戦後外務大臣20年近くわたって務めたため、モッタ外交称された程である。 モッタ1920年スイス国際連盟加盟実現させ、多くヨーロッパ諸国仲裁協定結んで国際社会での仲裁役を自ら積極的に買って出ることでスイス国際的威信高めたまた、自らも熱心なカトリック信徒であったこともあり、バチカンとの関係強化にも積極であった。 だが、同時に徹底的な反共主義者であったため、1925年一方的にソビエト連邦との国交破棄その後1946年まで回復される事はなかった)した。更に隣国イタリアとの関係を重視する余り出身地ティチーノ州イタリアとの国境接する)、ムッソリーニエチオピア併合真っ先支持して1938年には国際連盟国際紛争無力であるとして、脱退表明するのである。 だが、イタリアとの協調路線を取るモッタイタリアナチス・ドイツ同盟結んでスイス圧力をかけ始めるとこれに激しく反発アンリ・ギザンを軍の司令官任じて徹底した武装中立路線へと方向転換させた。 小国スイス外相として徹底した実利重視日和見主義取った事で複雑な国際政治の中でスイス生き延びさせることが出来たことに関して高く評価されている。だが、彼の個人的な考えによって外交政策決定されてしまい、スイスにとって真の国益適った外交政策取れていたのかという疑問指摘されている。そのため、戦後スイスでは連邦議会外交委員会外務省対す監督強化されモッタの様な外務大臣による専権的な外交手法否定されるうになるのである。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:政治学/PJ政治)。

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桂小文治 (2代目)」の記事における「人物・生涯」の解説

現在の大阪府大阪市港区出身1906年明治39年)ころ、7代目桂文治門下となり9代目桂小米1915年大正5年)、2代目桂米丸襲名三友派若手有望株として踊り声色活躍する1916年大正6年10月東京寄席演芸会社招き上京し上席出演当初1か月契約だったのが、そのまま東京定住1917年大正7年5月下席から桂小文治改名し真打昇進1922年大正11年4月落語睦会移籍6代目春風亭柳橋、(俗に3代目春風亭柳好8代目桂文楽と並ぶ「睦の四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり副会長として、会長6代目春風亭柳橋補佐する大阪落語落語家ありながら東京落語界の幹部となったまた、小文治は東京行ったのち、師匠文治引退興行時に大阪顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵引退する文治よりも小文治の宣伝したため小文治の兄弟子初代桂春団治激怒し止め入った小文治を蹴飛ばし舞台上で圓蔵罵倒した、それがゆえに大阪戻れなくなり東京骨を埋めることとなったといわれている。 2代目三遊亭百生と共に上方落語東京紹介した業績大きい。また、第二次世界大戦後は、衰亡していた上方落語復興のため、当時若手6代目笑福亭松鶴3代目桂米朝らを支えた戎橋松竹道頓堀角座にも定期的に出演していた(ただし、肩書きは「東京落語であった)。 面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家引取ったため、門人多かったこのため小文治一門は現在、芸術協会大半占め80名の真打の中で50名以上いる)。 1961年文部省芸術祭奨励賞受賞1967年11月28日死去74歳没。墓所寛永寺第一霊園戒名生前からすで用意していた「芸能小文居士」。小文没後副会長総領弟子5代目古今亭今輔就任した

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中島撫山」の記事における「人物・生涯」の解説

中島撫山1829年文政12年4月12日江戸亀戸生を受ける生家江戸初期以来諸大名駕籠納入する日本橋新乗物町今日東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の豪商であった数え11歳の時、母が亡くなる。14歳時に出井貞順入門し出井貞順薦め亀田綾瀬鶯谷にも学ぶ。19歳で父と死別する1858年安政5年)に両国矢ノ倉私塾「演孔堂」を開塾する。1869年明治2年12月武蔵国埼玉郡久喜本122番地明治合併後南埼玉郡久喜町大字久喜本今日久喜市本町6丁目)に移住する1872年明治5年)、久喜戸籍を移す。1878年明治6年)には久喜本町の住居私塾幸魂教舎(こうこんきょうしゃ)」を開塾する。「幸魂教舎」の「幸魂」とは埼玉の古い読み方である「さきたま」に由来するその後晩年1909年明治42年)には大字久喜本より大字久喜新今日久喜中央2丁目)へと転居するその2年後の1911年明治44年6月24日83歳で永眠する中島撫山の墓は神道となっており、久喜市本町1丁目光明寺眠っている。また、久喜中央2丁目(旧:大字久喜新)の住居跡地に六男の田人中島敦の父)撰文記念碑中島撫山没後30年1941年昭和16年)に建てられ現存している。 上記の「幸魂教舎」のように、中島撫山地域での教育において功績残し、また久喜の地に移り住み永眠するまで多く撰文などを行い碑文数多く残すなど、旧久喜町その周辺地域にその足跡功績多く残している。

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エリス・レジーナ」の記事における「人物・生涯」の解説

ポルト・アレグレ生まれ11歳時にdio Farroupilhaの子供向けラジオ番組で、歌手としてのキャリアスタートさせた。1959年にはラヂオ・ガウシャ(Rádio Gaúcha)と契約して翌年にはリオデジャネイロへ赴き、彼女の最初LPである「Viva a Brotolândia」を録音する1965年には、彼女が初め受けた歌謡コンテストエドゥ・ロボヴィニシウス・ヂ・モライスの「アハスタォン(Arrastão)」を歌い優勝する2枚目のLPである「Dois na Bossa」は、ジャイール・ロドリゲス(Jair Rodrigues)と共演盤で、ブラジル国内のレコード売り上げ記録更新した1960年代後期から1970年代初頭にかけて、ジルベルト・ジルなどのミュージシャンたちと共にレコーディング行ったりして、トロピカリア運動の普及貢献1974年には、アントニオ・カルロス・ジョビンとのコラボレーション作品であるアルバム『エリス・アンド・トム』を発表。このアルバムを、最も優れたボサノヴァアルバムの一つ、そしてこのアルバム収録されジョビン作の「三月(Águas de Março)」を最も優れたボサノヴァ曲の一つであると考える人も多い。彼女はまた、ミルトン・ナシメントや、ジョアン・ボスコシコ・ブアルキジョルジ・ベンカエターノ・ヴェローゾとも共演作品レコーディングしたエリスは、彼女と同世代ブラジルミュージシャンたちを迫害し追放していた当時ブラジルの軍事政権を時々批判することがあった。1969年インタビューでは、「ブラジルゴリラ支配されている」という見解述べたこともあった。彼女は人気があったゆえに牢獄入れられることはなかったが、それでも圧力を受け、やむをえずスタジアムショーブラジル国歌を歌わされることになり、左翼的思想人々から反感を買うことになる。 1982年にコカイン中毒アルコール中毒によって死去36歳没。現在、彼女はサンパウロのモルンビ墓地葬られている。その短いキャリアの中で、数々のトップセラーを記録した。 なお一人目の夫である、ホナルド・ボスコリ(ポルトガル語版英語版)との間に、息子ジョアン・マルセロ・ボスコリ(ポルトガル語版)がおり、ミュージシャンとして活動している。また二人目の夫である、セザール・カマルゴ・マリアーノ(ポルトガル語版英語版)との娘であるマリア・ヒタMaria Ritaもしくはマリア・リタ)も同じく歌手となり、2004年ファースト・アルバムマリア・ヒタ』をリリースしている。これは彼女の故郷ブラジルで、プラチナム・ディスクとなり、2つラテン音楽賞受賞した

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巖谷立太郎」の記事における「人物・生涯」の解説

1857年10月2日安政4年(旧暦)8月15日)、近江国水口生まれる。巌谷家代々水口藩典医務め祖父巌谷玄通、父は典医より明治維新太政官一等書記貴族院議員務めた明治の三筆一人漢学者である巖谷一六本名巌谷修)である。立太郎長男として誕生した6歳より水口にて藩儒中村栗園学び神童称され1868年明治元年京都にて神山鳳陽師事し漢学学び1870年明治3年4月上京し慶應義塾入学10月に藩の貢進生選ばれ大学南校入学した1873年明治6年4月10日大学南校が(第一大学区開成学校改称された後、立太郎化学専攻し1875年明治8年9月化学本科第一学年進み1877年明治10年5月には鉱山学学習の為ドイツ留学命じられた。 1877年明治10年10月、ドイツザクセン州フライベルク鉱山大学(独: Bergakademie Freiberg)に入学し冶金学鉱山学専攻1880年明治13年)銀鉛冶金係る論文提出して同地学位を受ける。その後フライベルク官公冶金所で実地実験従事フライベルク鉱山大学のヴァイスバッハ教授ヴィンクラー教授要請を受け研究を行うが肺結核患い1881年明治14年8月帰国した帰国1年程度神戸静養しながら文部省依頼鉱山学関係のドイツ書籍翻訳行った1883年明治16年8月母校東京大学理学部講師となる。同年12月には文部省御用掛に任じられると共に東京大学文学部講師兼務し諮詢機関推挙された。1884年明治17年6月鉱業実施鉱物採取のため兵庫県岡山県鳥取県巡り1885年明治18年3月中学校師範学校教員免許学力試験委員命じられ同年4月東京大学理学部教授昇進した1886年明治19年3月学制変更により東京帝国大学工科大学教授再任され、また同年5月農商務省鉱山技師兼務し以後各地鉱山視察した1888年明治21年6月7日工学博士学位授与される採鉱鉱山学専攻学位としては長谷川芳之助続き二人目)。 1888年明治21年11月東京帝国大学評議員命じられ翌年辞任)、1890年明治23年)には第三回内国勧業博覧会審査官任じられた。この間長崎県佐賀県奈良県愛媛県秋田県兵庫県鉱山鉱物視察し予てから激務がたたり1891年明治24年1月24日33歳死去した。 立太郎多種多様な社会事業携わっており1885年明治18年1月東京市京橋西紺屋町東京地学協会一室日本鉱業会(現資源・素材学会)を組織議長岩佐巌)した。高橋健三と共に日本新聞社創立発起人18人の内の一人となるなどしている。 日秘鉱業株式会社 1889年明治22年)、特許局であった高橋是清南米ペルーで銀を掘ってはどうかとの話が持ちこまれ、是清は銀山開発魅力感じ特許局長を辞任してペルーのカラワクラ銀山経営のため全財産拠出し、巌谷立太郎有吉平吉沢村大八九鬼隆一米田虎雄曾我祐準と共に資本金50万円で日秘工業(にちひこうぎょう株式会社設立した。日秘鉱業株式会社創設にあたり、カラワクラ銀山への下見調査行った東京帝国大学卒業技師架空報告書描き、立太郎や是清は是を信用してしまった。日秘鉱業設立後是清が調査団率いてアンデス山中現地着いてみると、銀山廃鉱であった事後下見調査行った東京帝国大学卒業技師詐欺罪問われた。この件で技師推薦した太郎は、一部出資者世間から大きな非難浴びた

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段成式」の記事における「人物・生涯」の解説

憲宗穆宗時期宰相段文昌の子で、父の功によって校書郎に任じられ尚書郎吉州刺史処州刺史江州刺史太常少卿歴任した博学を以て知られ随筆集酉陽雑俎ゆうようざっそ)』は特に名高い。また彼は駢儷文にも優れた手腕見せ、やはり当時名手として知られ李商隠温庭筠らと並び称せられ、排行一族の中で、同世代男子通称として誕生順に番号付したもの)が3人ともに16であったところから併せて三十六体」と呼ばれた

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渡辺芳太郎」の記事における「人物・生涯」の解説

尾張国中島郡祖父江村現在の愛知県稲沢市出身1887年明治20年)、東京帝国大学工科大学卒業し大学院進んだ三菱社入社し吉岡鉱山技術係、同副支配人務めた1894年明治27年)、採鉱冶金学研究のためドイツ留学しフライベルク鉱山大学学んだ1897年明治30年)に帰国し東京帝国大学工科大学教授となり、海軍機関学校教授海軍大学校教授兼ねた1899年明治32年)には工学博士学位得た1906年明治39年)、病のため退官1908年明治41年)、東京帝国大学工科大学講師として復帰し1911年明治44年)、九州帝国大学工科大学教授転じた

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ラ・アルヘンティーナ」の記事における「人物・生涯」の解説

アンダルシア出身舞踊家マヌエル・メルセと母親ホセフィーナ・ルケ(カスティーリャ出身)の娘として、ブエノスアイレス生まれる。若いころから天分恵まれたダンサーとして頭角現した。生涯ダンス捧げたのも両親影響大きく4歳から父親クラシック・バレエ指導にあたる。 9歳で、マドリードスペイン王劇場テアトロ・レアルで、デビュー飾り11歳のころにはマドリード・オペラ界のスターとなっていた。 父が死去した直後、クラッシック・バレエ界から退き14歳で、母とともにスペイン伝統舞踊勉強始めるが、この新しいスタイルは、評価を受けることはなかった為、劇場コンサート会場披露するかわりに、カフェ・カンタンテ(居酒屋)やミュージック・ホール等での上演をしていた。 第一次世界大戦前パリムーラン・ルージュシャンゼリゼ劇場から招待を受け、ディアギレフ等の評論家から絶賛された。この頃から、ジプシー踊り関心持ち自分自身スタイルとして昇華させた。米国ツアーを6回行なっており、フラメンコ・ギタリストのカルロス・モントージャを同行することもあった。 1929年1月来日東京帝国劇場公演見た大野一雄が、功績を讃え、1977年ラ・アルヘンチーナ頌」を発表フランスバイヨンヌ死去

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フランソワ・ビエト」の記事における「人物・生涯」の解説

フランスフォントネー=ル=コント生。ポワチエ大学法律を学ぶ最高法院ブルターニュ管区判事パリ最高法院請願書審理官と王室顧問官などを歴任した1589年以降アンリ4世仕えた本職弁護士政治顧問官であるが、数学研究した初め既知数記号化行い記号代数原理方法確立し当時代数学体系化し、「代数学の父」といわれている。この頃スペインからの暗号文解読したといわれる時間合間を縫って三角法球面三角法一般係数代数方程式などを研究した

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ルシア・サラーテ」の記事における「人物・生涯」の解説

ルシア・サラーテは、1864年メキシコベラクルス州サン・カルロス(西: San Carlos)に生まれたその後同州アゴスタデロ(西: Agostadero)におちついたイギリス雑誌ストランド・マガジン』の1894年記事によれば、サラーテは1歳のときまでに十分な成長をとげた。 12歳時に、サラーテは、生地メキシコからアメリカ合衆国移ったが、合衆国で彼女は、小さ体躯のためにフリーク・ショー(freak show見世物小屋)で見せものにされた。オックスフォード大学1876年刊行した年鑑中に数人医療専門が行ったサラーテへの往診後の次のような議論掲載されている。すなわち、彼らは、彼女が12歳であることをはっきりと実証することができなかったが、彼女の歯の成長によって彼女が少なくとも6歳であることは確認することができた。当時、彼女の身長20インチ(約50センチメートル)あり、彼女のふくらはぎ周囲は4インチ(約10センチメートル)あって、平均的な成人男性親指よりも1インチ(約2.5センチメートル大きかった。彼女は当時両親とともにいて、そして健康的知的であることがわかり、母語スペイン語以外にも多少の英語を話すことができた。 彼女は最初、「妖精姉妹」("Fairy Sisters") と銘打たれ出し物パート務めた。後にフランシス・ジョセフ・フリン(英語版)(「ノミ将軍」("General Mite")というステージ名で知られ小人症男性)と組んで国際的に公演行った1889年に彼女は『ワシントン・ポスト』に「驚くべきメキシコ小人」("marvelous Mexican midget")と宣伝され、そして「ちっちゃいしかしながら大衆大い惹きつける強力な"磁石"」("a tiny but all powerful magnet to draw the public")と評された。 1890年、サラーテの一座サーカス列車のシエラネヴァダ山中立ち往生し、彼女は低体温症死亡した

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オットー・フォン・ゲーリケ」の記事における「人物・生涯」の解説

ドイツマクデブルク貴族の家に生まれたドイツの大学法学工学数学)を学ぶ。さらにイギリスフランスオランダに留学その後エルフルト工学技師として働いていたが、1627年マクデブルク戻って市会議員となった1631年三十年戦争によりマクデブルクから脱出しスウェーデングスタフ2世軍隊入隊1646年からドイツマクデブルク市長務め三十年戦争マクデブルクの戦い壊滅状態陥ったマクデブルク復興に力を尽くした1686年死去オットー・フォン・ゲーリケ大学マクデブルクゲーリケの名を冠している。

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林子平」の記事における「人物・生涯」の解説

元文3年1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸生まれる。父の岡村良通は御書物奉行620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟の従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅出た。子平らは、大名家往診にも行く開業医であった叔父の従吾のもとで養われる。 まもなく、長姉次姉仙台藩江戸屋敷奉公するようになり、仙台藩5代藩主伊達吉村侍女として仕えた次姉のなお(きよ)はその容姿心ばえ吉村愛され、やがて6代藩主となる宗村側室抜擢されお清の方呼ばれるようになったお清の方は1男1女をもうけた男子はのちに三河 刈谷藩主土井利信養嗣子となる土井利置女子出雲松江藩松平治郷正妻となる方子(青楽院)である。 お清の方の縁で、養父の従吾は仙台藩の禄を受けるようになった。従吾の没後、子平の兄の林友諒が封を継ぎ宝暦6年1756年)に正式に仙台藩士として150石が下された同年5月宗村死去すると、友諒は家族引き連れ仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。 子平はみずからの教育政策経済政策を藩上層部進言する聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国行脚する長崎江戸で学び大槻玄沢宇田川玄随桂川甫周工藤平助らと交友する。ロシアの脅威説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作著し、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して、当時人びと驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。 『海国兵談』は海防必要性説く軍事であったため、出版協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著版木を自ら彫り自費出版須原屋市兵衛から刊行した。『海国兵談』は寛政3年1791年)、仙台上梓された。しかし幕閣以外の者が幕政容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分下され、『海国兵談』は版木没収処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本作り、それがさらに書写本生むなどして後に伝えられた。 最終的に仙台兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居処される蟄居中、その心境を「親も無し無し無し版木無し 金も無けれ死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎ろくむさい)と号した寛政5年6月21日1793年7月28日死去享年56林子平の墓は仙台市青葉区龍雲院にあるが、その龍雲院所在地1967年昭和42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることにちなみ子平町改称されている。 明治15年1882年)、正五位追贈された。

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砂澤ビッキ」の記事における「人物・生涯」の解説

1931年アイヌ両親のもとに近文コタン(現旭川市内)に生まれた1953年22歳時に木彫始めて鎌倉移住してモダンアート協会所属読売アンデパンダン展などにも出展し阿寒鎌倉を製作拠点にしていた。1959年旭川市戻り北海道東京中心に多く展覧会出展した1978年には上川支庁北部音威子府村筬島(おさしま)に移住して小学校跡地自身アトリエ構えて製作活動をしていた。亡くなるまでの十余年精力的に木彫作品制作行なった北海道中心に屋外彫刻多数手がけるなど、土産物木彫から出発し大胆にして繊細原始的にしてモダンな独自の作風確立したその作品国際的に評価が高い。1989年骨髄癌で死去した北海道アイヌ協会北海道教職員組合北海道新聞と、しばしば対立的な立場取っていた。このこともあり『「アイヌ芸術家』というはめられることを嫌っていたと言われるが、背景には旭川アイヌ民族置かれ複雑な歴史的事情根ざしている。 山田年子画家)との間に長男チカルOKI (ミュージシャン))、再々婚した一般女性との間に長女砂澤チニタ(書家画家。1961-2013)、次男アウタ砂澤陣工芸家)、三男など。

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安芸敬一」の記事における「人物・生涯」の解説

横浜生まれた。父は土木工学者安芸皎一である。東京大学出身1959年東京大学より理学博士学位取得学位論文の題は「Space and time spectra of stationary stochastic waves, with special reference to microtremors(複雑な波動スペクトル研究 : 特に微動について)。 東京大学地震研究所助教授マサチューセッツ工科大学教授をへて南カリフォルニア大学教授務めたアメリカ地球物理学連合地震学部門会長アメリカ地震学会 (Seismological Society of America) の会長務めたインド洋上のフランス・レユニオン島で火山活動研究行いレユニオン島没した

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山本多助」の記事における「人物・生涯」の解説

釧路春採コタン生まれる。若い頃より民族文化関心持ち古老聞き取り取り組む1922年樺太訪問した際も、古老からの聞き取り取り組む釧路地区アイヌ老人からアイヌ口話伝承聞き文字化する作業ライフワークとして続ける。 1937年屈斜路湖コタンヒグマ木彫りなどの民芸品製造・販売する店を開業する。「アイヌ民芸品としての木彫製作・販売先駆者」としている文献もある。1940年著書阿寒国立公園アイヌ伝説』を出版する1942年海軍軍属としてトラック島従軍する戦傷で右目を失明し日本引き上げる。 1946年北海道アイヌ協会釧路支部初代支部長選ばれる1948年帯広市伏古コタン移り住み北人民芸社」を設立するアイヌ文様あしらったサラダボウルとパイプスタンドなどの木彫り1万点以上のアメリカ輸出商談決まりかけ、衆議院議員本名武経営する本名木材から材料掛け取引調達し商品製造したが、商談結局破談になり、このことが原因で「北人民芸社」は廃業することとなる。1949年釧路市に戻る。 その後も、民芸品製造アイヌ語研究活躍する1972年に『アイヌ民族抵抗史』の著者である新谷行訪問を受け、大きな影響与えている。同じ年の8月25・26日に札幌開催され第26回日本人類学会日本民族学会連合大会シンポジウム参加しアイヌ民族立場から「魂のない」アイヌ研究家態度批判している。1973年に、「ヤイユーカラアイヌ」民族学会の創立関わる1976年に、パリユネスコ本部山本多助伝承ユーカラアイヌ・ラッ・クル伝』が上演される1985年北海道文化賞受賞する1993年2月13日88歳にて死去する。 なお、妹の伊賀ふでの娘でアイヌ文様刺繍家のチカップ美恵子著作カムイ言霊』に山本多助紹介されている。

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馬仲英」の記事における「人物・生涯」の解説

青海軍事学校に入学する1925年民国14年)、寧海騎兵11営の幇帯となった1928年民国17年)、馮玉祥反旗を翻した。しかし国民軍劉郁芬敗北して河西逃れた1929年民国18年)、蔣介石から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令任命され、反蔣軍と戦う。1930年民国19年)、山東省赴いて馬鴻逵参議となった同年中に寧夏省引き返し引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長つとめている。 1931年民国20年)、馬仲英河西行政委員会組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省中国語版)として、同省政府主席自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省馬歩芳攻撃を受け、酒泉逃れた同年中に今度新疆省へ軍を率いて進入し、同省政府主席金樹仁交戦した。しかし、クムル哈密)を攻略できず、河西退却した1932年民国21年)、馬仲英は、蔣介石により国民革命軍新編36師長任命された。翌1933年民国22年5月またしても新疆進攻し、同省政府主席盛世才交戦した。馬は、トルファンなど13県城占領し9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、1934年民国23年)、盛の反撃敗北してしまう。馬は退却途中に、東トルキスタン共和国第1次)とホータンイスラム教政権攻め滅ぼしている。同年7月馬仲英は、部隊200とともにソビエト連邦向かい空軍加入した1937年民国26年)、暗殺されて死ぬ。

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エデコ」の記事における「人物・生涯」の解説

その部族的出自不明で、しばしばヘルール族ともゴート人ともテューリンゲン族(英語版)ともスキリア族ともされるが、実際にエデコゲルマン人であったかどうかすら分かっていない。 テオドシウス2世フン族の長アッティラ派遣した外交官マクシミヌス英語版)に同行したプリスクス(英語版によればエデコゲピド族の王アルダリック(英語版)と並ぶアッティラ重臣であったという。詳細不明であるが、445年アッティラの兄ブレダ死に関連してアッティラ地位高めるような功績があったという。 449年エデコアッティラからテオドシウス2世への使者としてオレステスとともにコンスタンティノープル訪れたエデコテオドシウス2世宦官クリサフィウス(英語版)から高額報酬を餌にアッティラ暗殺依頼されたが、エデコ計画賛同したふりをして暗殺計画アッティラ報告した451年にはアッティラに従ってカタラウヌムの戦い参加している。 453年アッティラ没すると、エデコゲピド族の王アルダリックとともにフン族連合体から独立し454年にはネダオ河畔戦い英語版)でフン族打ち破った以後スキリア族軍隊率いて東ローマ帝国所属し、特にレオ1世治世には皇帝より重用されパンノニア自身王国築いた469年東ローマ皇帝レオ1世示唆受けてゴート人将軍ウァラメールらを排除しようとしたが、ボリア川の戦い英語版)でウァラメール率いゴート人集団敗れて死亡した

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安田義定」の記事における「人物・生涯」の解説

安田氏甲斐国山梨郡八幡荘内の安田郷を本貫地とする一族平安後期甲斐源氏甲府盆地各地進出して土着するが、峡東地域勢力持っていた古代在庁官人三枝氏応保2年1162年)の八代停廃事件契機没落し、義定は盆地東部進出し旧族安田氏継承した考えられている。義定は同郡八幡荘牧荘安多荘などを根拠地として笛吹川流域峡東一帯勢力持ち山梨県山梨市小原西保田妙音寺に館を構えたという。 治承1180年4年4月後白河法皇皇子以仁王平家追討令旨発し諸国源氏挙兵促すが、『吾妻鏡』拠れば以仁王令旨伊豆国源頼朝から甲斐信濃方面伝えられ同年4月末から5月初めまでに、甲斐源氏元へ伝えられたと考えられている。平家方に対して挙兵し伊豆国頼朝8月23日石橋山の戦い敗退し8月25日には平家方の俣野景久駿河目代橘遠茂甲斐へ攻め込み甲斐源氏方では義定と工藤景光・工藤行光市川行房らが出兵し、富士北麓の波志田山において景久らを撃退しており(波志田山合戦)、その経緯記した吾妻鑑』同条が義定の初見資料となっている。 このときは甲斐源氏棟梁である武田信義や一条忠頼らは参加していないが、信義らは9月初頭には信濃国への侵略開始している。同年10月には駿河国侵攻する信義と共に橘遠茂らと戦い勝利するその後黄瀬川頼朝の軍と合流し10月20日頼朝甲斐源氏軍勢平家方の平維盛追討勢を撃破した富士川の戦いでは信義とともに敵の背後襲撃したという。 甲斐源氏の一族富士川合戦での戦功により頼朝から信義駿河国守護任じられ、義定も遠江国守護になったという。『吾妻鏡』見られる守護補任記事について、『吾妻鏡』以外の記録史料総合すると甲斐源氏の一族頼朝傘下ではなく独自の勢力であった考えられており、富士川合戦においては敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方占拠し『吾妻鏡』守護補任記事甲斐源氏戦功頼朝後日容認したのである考えられている。 義定は遠江国府・鎌田御厨占拠し同年12月には御厨拠点在地支配行っている。義定は遠江において平家方と対峙しており、養和元年1181年)には平家方の平通盛尾張国侵攻に際して頼朝軍勢派遣要請し頼朝和田義盛遠江派遣している。また、遠江において義定は橋本辺の陣地構築に非協力であったという浅羽相良両氏や、在地支配廻る伊勢神宮熊野神社との訴訟起こしている。 寿永2年1183年)には木曾義仲信濃越後軍勢率いて北陸道から上洛しているが、義定も平家追討使として東海道から上洛している(『愚管抄』)。義定ら源氏諸将洛中警備命じられ、義定は大内裏守護として京中守護をしている。後白河法皇平家一門官職所領没収し源氏諸将分配し、義定も同年8月10日には従五位下遠江守叙任する。 都では後白河法皇木曾義仲反目顕在化し、法皇頼朝上洛促す頼朝法皇要請して寿永二年十月宣旨勅令発布される。頼朝はこの勅令により義仲甲斐源氏に対して優位態勢整え、翌寿永3年源範頼義経義仲追討軍が上洛すると義定は義経軍勢加わり元暦元年1184年)には宇治川の戦い義仲滅亡させた。 同年一ノ谷の戦いでは、義経搦め手軍に属し(範頼、義経、義定の三軍制だったと見る説もある)、平経正平師盛平教経討ち取る教経については壇ノ浦入水異説あり)。文治5年1189年)の奥州合戦にも武田信光らと従軍している。文治6年1190年1月26日には後白河法皇から京都伏見稲荷社、祇園八坂神社修理の遅れや、六条殿造営公事怠慢責められ下総守転任されるが翌建久2年1191年3月6日には従五位上昇叙し、遠江守遷任還任)し、義定は皇室守護遠江国浅羽荘(静岡県袋井市)の地頭兼ねているまた、息子・義資も越後守となっている)。鎌倉で義定の屋敷頼朝館に隣接する鎌倉大倉存在した伝わり同年3月行われた鶴岡八幡宮法会では、参拝する頼朝御供筆頭に義定の名が見られる甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されているが、建久4年1193年)に義定も子の安田義資が院の女房艶書送った罪で斬られ、義定も所領没収されている。同時に遠江国守護職解職。翌建久5年1194年)、義定は謀反疑い梟首された(永福寺事件)。享年61。 『鎌倉大草紙』に拠れば追討使梶原景時加藤景廉で、義定は法光寺放光寺山梨県甲州市)において自害したという。また、『尊卑分脈』拠れば義定が誅された場所を馬木庄(牧庄)大井大御堂」と記しており、これを放光寺阿弥陀堂、あるいは窪八幡神社山梨市)と解釈する説がある。安田氏滅亡後、牧庄などの遺領景廉与えられといわれるが、加藤氏と牧庄を関係付ける史料見られない山梨市下井尻光寺(神龍山雲光禪寺)には安田一族の墓所とされる大五輪塔群がある。

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上原熊次郎」の記事における「人物・生涯」の解説

松前藩生まれとされるが、生年不詳。名は有次東蝦夷地請負場所で活動していたが、1807年文化4年)に蝦夷地幕府直轄領となると松前奉行所で働くようになったゴローニン事件に際してヴァシーリー・ゴロヴニーンからロシア語学び通訳務めた

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ジョセフ・フランシス・チャールズ・ロック」の記事における「人物・生涯」の解説

オーストリア=ハンガリー帝国首都ウィーン生まれた10歳時に父親エジプトにわたり、その後ヨーロッパ各地放浪した1905年アメリカに移住し、1907年からハワイホノルル住み、後にハワイ植物のオーソリティになった。ミルズ・カレッジ(現在の私立高校ミッド・パシフィック・インスティチュート(英語版))で教職に就くが、1908年に健康のために戸外で働くことを選びハワイ大学植物学者として働き最初栽培農園設立従事し1911年から学芸員として1920年まで働いたその後アジア植物の探索生涯費やしたビルマタイアッサム薬用植物ダイフウシノキ探索から始め1922年から1949年の間は中国南部植物民族、言語研究のために雲南省四川省南西甘粛省および東部チベットすごしたロック集めたアジア多く植物アーノルド樹木園英語版)で栽培された。 麗江近くベースに、ムリなどのチベット地域探検の記録を、ナショナルジオグラフィック寄稿し徐々に有名になり、たとえば小説家ジェームズ・ヒルトンの、理想郷シャングリラ」が登場する失われた地平線』の執筆影響与えたとされる1917年からのゴロクの反乱英語版)(Ngolok rebellions)の間には、ロック何度もチベット夏河県ラプラン寺ゴロクチベット人英語版)(Golok people)と馬麒率いイスラム軍との戦い目撃し馬麒軍の残虐な行動目撃したロック植物学的に興味深い地域のひとつである雲南省入った植物学者としては、ジャン・マリー・デラヴェ神父Père Jean Marie Delavay)やジョージ・フォレスト(George Forrest)、ハインリヒ・ハンデル=マツェッティ(ドイツ語版英語版)(Heinrich von Handel-Mazzetti)らの後に位置し多く植物収集し記載したという点では彼らに及ばなかったが、多く貢献をした。 中国共産党支配確立した後の1949年麗江市から他の外国人滞在とともに専用機退去させられ中国去りホノルル戻った1962年ホノルル没したボタンの種、Paeonia rockiiに献名されている。

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今泉嘉一郎」の記事における「人物・生涯」の解説

上野国勢多郡東村花輪(現・群馬県みどり市東町花輪生まれ。父、彦作は幕府代官付の村吏(後に区長)。母、常子伊勢崎藩酒井氏藩医だった祖父原常益の遺志継ぎ12歳江戸浅田宗伯の門で学び17歳開業医となった。 嘉一郎花輪学校卒業後1883年明治16年16歳時に県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校入学同級生海軍大将鈴木貫太郎がいた。しかしすぐに退学し同年医者目指し上京独逸学協会学校第1期生として大倉喜三郎松井茂博士などと学び柳蔭家塾経て1884年明治17年)に一ツ橋大学予備門入学1886年明治19年)に第一高等中学校入学し水野錬太郎若槻礼次郎小川平吉などと寄宿生活を送ったこの頃まで医師目指していたが、ふと小学校卒業論文「志は大なる要す」を思い出し医術よりももっと広い殖産興業方面に進むことに改め1889年明治22年東京帝国大学工科入学した鉱害対策技術に深い関心寄せ在学中から別子銅山硫化鉄鉱理による煙害防止未利用資源開発などに先鞭をつけ、また、日本将来富源鉱山にありと鉱山重要性松山市海南新聞に「伊豫鉱山論」を投書した伊豫鉱山論では、伊豫の各銅山同業者間の組織作ることにより経営合理化を図ると同時に技術上にも、有用含有物の完全採取をもって冶金術を合理化すべきことを述べ従来いたずらに焼き棄てられていた硫黄分鉄分を完全に採取して化学工業および製鉄事業原料とすべきことを唱えて当事者並びに一般大衆向かって注意喚起をした。 帝国大学卒業論文の「別子銅山における湿式試験について」ではより具体的に銅鉱山から排出される硫黄化学品としての硫酸製造利用し従来乾式精錬法では採りきれない痕跡までも採取し最後に鉄分製鉄原料として利用する方法記した1892年明治25年)に帝国大学卒業後、農商務省入省卒業論文沿った検証試験を命ぜられ、後藤象二郎農商務大臣結果報告した後、政府案としてまとめられ1895年明治28年)に榎本武揚農商務大臣時に製鉄所設立案が提出され衆議院通過、翌1896年明治29年)に製鉄所官制発布された。 嘉一郎農商務省入省後、榎本武揚認められ1894年明治27年)から2年間、ドイツ・フライベルク鉱山大学留学し冶金学学んだ帰国後、良き理解者であり密接な関係にあった榎本武揚設立しようとしていた官営八幡製鉄所創業従事同所製鋼技術確立導き主席勅任技師進んだ技術面での自信示しながらも、八幡製鉄所経営不振陥る原因は、官業による弊害顕在化したため考え、「製鉄所処分案」を作成し民業への移管提案した政府却下された。鉄鋼業軍事でなく平和産業結び付いて発展するとの信念のもとに、1912年明治45年)に一橋大学予備以来友人白石元治郎日本鋼管株式会社(現、JFEスチール)を設立日本初め継目無鋼管製造を手がけたほか、1936年昭和11年)には念願高炉建設し銑鋼一貫製鉄所完成させた。当時日本主流製鋼法は平炉であったが、平炉鉄スクラップ使用前提としており、日本米国などからの鉄スクラップ輸入頼っていた。満州事変契機原料不足が深刻化する中、鉄スクラップ依存しない高効率製鋼法であるトーマス転炉着目し日本鉄鋼協会などでその必要性説いたものの受け入れられず、結局自ら創設した日本鋼管川崎製鉄所での導入決めたトーマス転炉リン分のい鉄鉱石原料とした時にその威力発揮するが、当時日本流通していた鉄鉱石リン分が少なかった。そこで高炉リン鉱石加えて調整するという、日本独自トーマス製鋼法を嘉一郎開発したまた、スラグ化したリン農業用肥料として活用した民間技術分野開拓尽くし1920年大正9年)には第14回衆議院議員総選挙群馬県から出馬して当選衆議院議員としてメートル度量衡採用法案通過させた。1922年大正11年)、ウィーン開催され第19回万国議員総会には議会代表議員団長として出席ルクセンブルク大公国名誉総領事工業品規格統一調査会委員日本鋼管南洋鉄鋼取締役などを兼務また日本鉄鋼協会会長日刊工業新聞社社長などを歴任大著鉄屑集』(てつくずしゅう、1930年)その他優れた著作残した

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カスパー・バルトリン」の記事における「人物・生涯」の解説

当時デンマーク領(現在はスウェーデン)のマルメ生まれた早熟な才能示し3歳で本を読み13歳ギリシア語ラテン語の文を作り公衆の前で披露した18歳コペンハーゲン大学入学しロストック大学ヴィッテンベルク大学でも学んだドイツオランダイギリスフランスイタリアなど各地旅し多く学者交流した1611年解剖学の著書、"Anatomicae Institutiones Corporis Humani"を出版し、これは当時解剖学の教科書として長く使われることになった1613年コペンハーゲン大学医学教授任じられ11年間その職を務めた重病にかかり、その回復後神学研究転じたコペンハーゲン大学神学教授ロスキレ律修司祭務めソーレ没した息子の、トーマス・バルトリン(デンマーク語版、英語版)(Thomas Bartholin)とラスムス・バルトリンRasmus Bartholin)も有名な学者である。孫にバルトリン腺発見した同名カスパー・バルトリンがいる。

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ファウスト・デ・エルヤル」の記事における「人物・生涯」の解説

スペイン北部ログローニョ生まれる。パリ教育受けたあと、ドイツフライベルク鉱山専門学校冶金学などを学んだスペインベルガラ神学校教授になった1783年ベルガラ鉄マンガン重石から分離したタングステン酸1781年カール・ヴィルヘルム・シェーレにより発見され新元素と発表されていた)を木炭いっしょに強熱してタングステン単離行ない鉄マンガン重石ドイツ名にちなみウォルフラムwolfram)と命名した。この名はドイツで今も用いられており、タングステン元素記号Wの元になっている。 国王命令メキシコ王立鉱山院の長官任命され1790年ころメキシコ渡った1821年までその職にあり新大陸での鉱山技術者教育などに尽力した

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アルテュール・フォルタン」の記事における「人物・生涯」の解説

慶応3年1867年)、彼はジュール・ブリュネ同伴しフランス軍事顧問団一員として日本にやって来た。彼は幕府伝習隊調練した。 戊辰戦争勃発すると、フォルタンはフランス陸軍の職を辞し幕府側で戦い続ける事を選んだ。彼はブリュネと共に箱館戦争参戦し、四列士満(レジマン、フランス語連隊意味する "régiment" をそのまま当て字にした)のうちの一隊隊長務めた明治2年4月9日1869年5月20日)、新政府軍北海道上陸5月11日6月20日五稜郭立て籠もる箱館政権軍に対し明治新政府軍の総攻撃開始され五稜郭陥落5月18日6月27日総裁榎本武揚らは新政府軍投降したフランス人らは、榎本勧め従い総攻撃前の5月1日6月10日)に箱館港停泊中のフランス船に逃れたその後、フォルタンは、マルラン、ブッフィエと共に明治3年1870年)、当時大阪にあった兵部省雇われた。さらにその後東京移った兵学寮に雇われた。

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アンドレ・カズヌーヴ」の記事における「人物・生涯」の解説

来日前にクリミア戦争セバストポリの攻囲戦(1854~1855年)等で戦っている。1867年慶応3年5月幕府陸軍近代化支援するため派遣されフランス軍事顧問団より後、馬の輸送のためジュール・ブリュネらの本隊より遅れて来日した1868年明治元年8月軍籍離脱したブリュネとともに榎本武揚率い旧幕府軍に合流仙台大鳥圭介再会後、箱館戦争参戦蝦夷地上陸後は、松前江差攻略参加しその後松前守備隊軍事顧問任じられた。1869年明治2年4月松前での戦闘で脚踵を負傷5月1日軍艦コエトロンでブリュネとともに戦線離脱し横浜に戻るが駐日公使・マキシミリアン・ウートレーによりサイゴン追放される大鳥圭介は、「学術浅かったけれども篤実朴直性質で、戦地では鋭敏臨機の策に長じ頗る勇猛兵隊に先ちて進軍すると云ふ勢ひで、松前進軍の時も屡々勲功があった」と評している。 その後1871年明治4年)末までには再度来日し1873年明治6年3月ナポレオン3世幕府贈呈したアラビア馬活用明治政府進言している。元々このアラビア馬軍馬品種改良意図して送られたものであり、幕府はその価値をよく理解しカズヌーヴを飼育調教指導係とし、小金牧将軍乗馬育成する区画厩舎を建て、飼育する予定であったが、戊辰戦争計画頓挫明治政府首脳にはこの意図理解できる者がおらず、ほとんどが私物化されていた。カズヌーヴはこの時点26頭のうち種馬9頭の所在確認しており、残りについても捜索続けていた。同年4月明治政府出仕し、翌1874年明治7年)、6月末から90日程度で東北各県等をまわる予定だったが、帰路、病に倒れた10月23日から治療を受け、11月19日には、フランス人ハイブル、医師マツセイも到着したが、11月21日午後12時20分か22分、志半ば福島県浪江町逝去した。明治政府雇われ時のカズヌーヴ地位、リウーテナンもしくはリュトナンは、フランス陸軍では中尉指し陸軍省では中尉待遇であったカズヌーヴ遺体友人の「ハラフル氏」が引き受けた

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訥勒赫」の記事における「人物・生涯」の解説

光緒7年1881年)に生まれ第15代順承郡王(dahashūn giyūn wang)を継ぐ。光緒32年1906年)に陸軍貴冑学堂卒業する宣統3年1911年)に正白旗満州都統と禁大臣任じられる民国6年1月23日1917年2月13日)に死去した子供がいなかったため、再従兄弟長福(チャンフ)の第3子である文(ウェンクイ、1917年生、当時6歳)が第16代順承郡王継承した

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森澤信夫」の記事における「人物・生涯」の解説

兵庫県揖保郡生まれる。彼は中学校行っておらず学歴無かったが、幼少より利発聡明アイデアマンだったと伝えられる父親豊治郎が鉄工所経営していたため、その設備利用してさまざまなものを手作りしていた。 1923年星製薬入社社長星一星新一の父)が宣伝新聞印刷するためにと外国購入した高速度輪転機ドイツMAN社製)を組み立てて稼働させる仕事与えられる。この時、森澤印刷知識などまったくなかったが、参考朝日新聞大阪本社輪転機見学、その機能驚いた。彼は奮闘の末、その輪転機完成させるも、活版印刷がいかに大変なことかを知るに至る。これを機に印刷部主任命じられた。 またこの年海外イギリス)には写真植字というアイデアがあるが、なかなか実用化できずにいることを知る。欧文活字和文活字比較した森澤は、和文活字はすべて正方形であるという点に気づく欧文は文字毎に幅 (set) が異なるゆえに実用化できずにいたわけだが、和文ならば歯車一定量回すことで均等に動かして露光していくことで、実現可能ということひらめく。この大発見によって、森澤下宿先写真植字機構想をまとめ設計図をひいた。 1924年同じ星製薬技術者として勤めていた石井茂吉出会い意気投合同年7月24日装置特許出願モリサワ公式サイトでは、この年創業年としている)。1925年6月23日特許成立特許第64453号。石井との共同)。同年10月試作1号機完成1926年には、石井写真植字研究所(現・写研)を設立し1929年実用1号機完成大手印刷会社納品されるが、当時はほとんど使われなかったという。1933年には、開発方針違いから、事業では石井袂を分かつ。ただし、1963年石井死去するまで個人的な交流関係継続し戦災焼失した写植機開発再開では相互に協力した1948年大阪市西成区写真植字機製作株式会社設立1954年社名株式会社モリサワ写真植字機製作所改める。 1971年勲三等瑞宝章同年会社株式会社モリサワ改称森澤は、1975年社長の座を退いて会長に就き2000年死去した

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人物・生涯

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ウィルヘルム・プラーゲ」の記事における「人物・生涯」の解説

1888年明治21年)、オーストリア=ハンガリー帝国内のドイツ人居住地であったライヒェンベルク(現チェコ・リベレツ)で誕生父親プロイセン国籍の商人であった1908年ベルリン大学法律経済学日本語学び1910年日本語通訳試験合格1912年6月から1913年大正2年)まで東京ドイツ大使館に、1913年から1914年8月まで長崎ドイツ領事館勤務ワシントンD.C.勤務第一次世界大戦従軍陸軍中尉)を経て1920年には東京ドイツ大使館副領事となる。 1921年8月ドイツ外務省退職し1922年3月から1925年6月まで旧制松江高等学校(現島根大学)にドイツ語教師として勤務この間1922年6月結婚している。 1925年ドイツ帰国1927年昭和2年)にハンブルク大学博士号取得1928年3度目来日果たし旧制松山高等学校(現愛媛大学)に勤務1929年4月から1931年3月旧制第一高等学校(現東京大学)に、1930年3月から1933年12月旧制府立高等学校現東京都立大学)にドイツ語教師として勤務した1931年欧州著作権管理団体委託を受け、放送局など楽曲使用料請求開始。「プラーゲ旋風」と呼ばれた1937年には著作権管理団体大日本音楽作家出版者協会設立山田耕筰などの著作権管理を行う。しかし、1939年成立した著作権に関する仲介業務に関する法律仲介業務法)によって著作権管理団体許可制となり、大日本音楽作家出版者協会許可得られず、翌1940年10月解散した1941年奉天市(現瀋陽市)で開設した東亜コピライト事務所仲介業務違反罰金600円の判決を受け、ドイツ帰国1969年死去

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三宅榛名」の記事における「人物・生涯」の解説

東京出身アメリカジュリアード音楽院作曲科卒業フェリス女学院大学客員教授。夫は柴田翔ニューヨークのコンポーザーズ・フォーラムでデビューしリンカーン・センター内のホールこけら落し作品委嘱される。帰国後「ピアノ・ソナタ」を発表する既成の「現代音楽」に対す疑問子育て病気などで対外活動停止する自分面白いと思う音楽貫徹させる方針立て1977年昭和52年)から1985年昭和60年)までは自作中心としたシリーズコンサート現代音楽は私」を東京渋谷ジァン・ジァン毎年2回ずつ行い現代都市日常人々直接届く音楽提示したまた、ロッケン・ハウス国際音楽祭ハイデルベルク現代音楽祭などに招待出演ピアニスト即興演奏者としては、ウェイン・ショーター高橋悠治山下洋輔など、内外さまざまなジャンル音楽家共演している。作品に、「憂愁の時――ダブル・コンチェルト」、「プレイ・タイム――ウィンド・オーケストラのための」、「why not,my baby?」、「ミニマム・オーケストラ集」。CD作品集空気音楽』、『ほんの47分の地獄』など。著作に『アイヴス聴いてごらんよ』『音楽未来通信』など。

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ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第3代デヴォンシャー伯爵)」の記事における「人物・生涯」の解説

サー・ウィリアム・キャヴェンディッシュ(後の第2代デヴォンシャー伯爵)と、初代キンロス卿エドワード・ブルース英語版)の娘であるクリスチャン・キャヴェンディッシュ(英語版)の間に長男として生まれる。1626年チャールズ1世戴冠の際にバス勲章授けられた。同年父親襲爵したため以後キャヴェンディッシュ卿(Lord Cavendish)」の儀礼称号称した。 父の家庭教師でもあった哲学者トマス・ホッブズや、母クリスチャンから教育を受けるホッブズ1634年から1637年にかけての彼のグランドツアーにも同行し、後に翻訳したトゥキディデスの『戦史』をデヴォンシャー献呈している。 1626年父の死去により第3デヴォンシャー伯爵となる。1638年から1642年までダービーシャー統監[訳語疑問点](Lord Lieutenant of Derbyshire)に任じられた。デヴォンシャー有力な国王派騎士党)であり、初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワース私権剥奪反対し、1642年には議会で他の8人の貴族とともに弾劾された。貴族院裁判へ出廷拒否すると、除名の上ロンドン塔への収監命令出された。彼はイングランドから逃れ財産差し押さえられた。1645年大陸から帰国、翌1646年恩赦受けて£5,000罰金払ったバッキンガムシャー州ラティマー英語版)で母親と共に引退生活送った。なお1645年10月13日にはチャールズ1世同地訪問し一泊している。1660年王政復古が成るとデヴォンシャーダービーシャー統監復し終身でその職にあった。また1668年から1669年までCommissoner of Trade[訳語疑問点]に任じられていた。 1684年11月23日サリー州のローハンプトン・ハウスで死去しダービーシャー州エデンサー(英語版)に葬られた。 彼は科学文学興味持っており、ジョン・イーヴリン親しかったほか、1663年には設立されたばかり王立協会フェロー選出されている。

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ジェラルド・ダレル」の記事における「人物・生涯」の解説

鉄道技師だった父の任地インドジャムシェドプール生まれる。長兄ロレンス・ダレルで、4人兄弟末弟(ほか姉1人)。 1928年に父が死去ロンドンへ戻るが、1935年から1939年まで母や兄とギリシャコルフ島過ごしジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』に影響を受ける。第二次世界大戦起きてロンドンへ戻り病気のため兵役免れ、ホイップスネード・パーク動物園飼育係となる。 戦後英領カメルーン英領ギアナなどで動物狩りをし、1953年最初著書積みすぎた箱舟』を刊行1956年とけものと動物たち』で作家として名声確立夫人とともにアルゼンチン東南アジアにも行く。1959年チャネル諸島ジャージー島に「ジャージー動物園」を設立する1963年ジャージー野生動物保護財団設立する日本では浦松佐美太郎が『積みすぎた箱舟』を1960年訳し以後ぼつぼつ翻訳されてきたが、1974年池澤夏樹が『とけものと動物たち』を訳すと広く知られるようになり、以後主著池澤訳した

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アドルフ・クスマウル」の記事における「人物・生涯」の解説

ハイデルベルク医学学びルドルフ・ウィルヒョウのいたヴュルツブルク大学医学博士を得、1857年ハイデルベルク大学教授1859年エルランゲン大学内科部長1863年フライブルク大学内科部長1876年ストラスブルク大学内科部長ハイデルベルク市名市民1868年に、地球上ではじめて、長さ47cm、直径13mmの「硬性胃鏡」と呼んだ金属管使用して生きた人間胃の中を観察した医師。とはいってもその時代には現在の内視鏡のようなファイバーなどはなく、まっすぐの硬性胃鏡を、中国の呑剣士英語版)にまっすぐ飲み込んでもらい観察したという。また、胃内は当然まっくらで、現在なら内視鏡先から照明照らせばいいのだが、ろうそくの火でなんとか胃内明るく見たという。 そのほか1866年には自らの剖検例にて結節性動脈周囲炎(現在の結節性多発動脈炎)を発見した1874年には、糖尿病性ケトアシドーシス患者呼吸について詳細に記載しクスマウル呼吸命名大脳言語回路についても考察し、クスマウル脈の命名者でもあるなど19世紀医者多聞にもれず多彩な活躍をした医師である。

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ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト」の記事における「人物・生涯」の解説

オランダ国境に近いオルデンブルク生まれイェーナ大学で学ぶ。イェーナではフィヒテのもとで学び、そのサークルにはシェリングがいた。その後フィヒテ観念論疑念抱き決別する当初家庭教師をしていた時分に自ら教えていた子どもたち連れてペスタロッチ学校訪れその影響強く受けた1802年大学教授資格取得ゲッティンゲン大学私講師として教え、のちに員外教授になる。1809年、ヴィルヘルム・トラウゴット・クルーグ(ドイツ語版英語版)の後任として、かつてカント就いていたケーニヒスベルク大学哲学及び教育学講座教授として招聘され1833年ゲッティンゲン大学招聘されるまで、24年間にわたり大学では付設教育学ゼミナール教師育成努めとともに対外的には学校参事官としてプロイセン学校改革等に従事した1833年、再びゲッティンゲン大学呼び戻され、後に学部長務めることになるが、1837年ゲッティンゲン7教授事件起こり抗議した教授たちを擁護できなかったことで非難を受け、失意のまま1841年亡くなった墓所ゲッティンゲンにある。 教育の目的倫理学に、方法心理学求め教育学体系化した。教育の方法として「管理」「教授」「訓練」の3要素教育的教授)を提唱し教育の目標強固な道徳的品性興味多面性陶冶にあるとした。 「教授の無い教育などというものの存在認めないし、逆に教育の無いいかなる教授認めない」という名言残している。この「教授」こそが「陶冶」である。 ヘルバルト学説世界影響与えヘルバルト学派ツィラーラインなど)を形成した日本でも明治期ライン五段階教授法予備提示比較総括応用)が伝わり当時教育界大きな影響与えている。ただ、彼の没後彼の弟子たちのいう教授段階説は、形骸化しヘルバルト教育的教授から離れ、「悪しきヘルバルト主義」といわれ、その後20世紀初頭の新教育運動ドイツでは改革教育運動生まれてくるその原因となった

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蔡世昌」の記事における「人物・生涯」の解説

久米村の蔡氏13世目にあたり三司官務めた蔡温親戚あたった1758年官生選ばれ蔡温の許に挨拶行った際、若いころ官生選ばれることがなかった蔡温は「詞章の学を専らとせず、治国平天下の道を学ぶよう」に諭した北京国子監留学した蔡世昌官生始まって以来とされる優れた成績修め1762年には卒業認められ帰国許された。 その後進貢使として度々清国渡り、また琉球科律編纂にも参加したこうした功績認められ1782年には紫金太夫任じられ高島親方称号許された。尚温王即位する国師任じられ国学設置官生久米村出身者独占廃止などの教育改革進めた。だが、それは故郷である久米村人々との対立招いた蔡世昌久米村人々から改革反対建議書への署名求められた際にこれを拒否して人々反感を買い、やがて改革主導者蔡世昌であることが明らかになると彼は故郷の裏切者として糾弾され久米村自宅襲われたり、自身家族攻撃受けたりした。その結果1798年8月には官生騒動呼ばれる久米村関係者対す粛清が行われるに至った。このことに心を痛めた蔡世昌は病に倒れ同年9月国学開学に際して初代の学師に任命されたものの、開学直前病没してしまった。

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愛新覚羅善耆」の記事における「人物・生涯」の解説

同治5年1866年)、北京生まれる。 光緒24年1898年)、父の死により粛親王の位を継いだ光緒26年1900年)、義和団の乱際し御前大臣として光緒帝西太后西安逃避随行義和団の乱から辛亥革命勃発まで10年間のいわゆる光緒新政時期民政部尚書民政大臣・理藩大臣歴任し近代化改革促進した日本より招聘した川島浪速北京警務学堂創設にあたらせるなど親日家であった立憲制への移行支持し革命派に対して理解があり、開明皇族知られる摂政醇親王暗殺未遂事件逮捕され汪兆銘人物見込み、汪の助命をしたのは粛親王であるといわれている。 宣統3年1911年)の辛亥革命勃発時には恭親王溥偉とともに宣統帝の退位反対した。12月1912年2月)、清朝皇帝退位避けられなくなると、川島浪速の手引きによって日本租借地旅順逃れた清朝滅亡後は、復辟をめざす清朝遺臣宗社党中心人物として蒙古旗人升允(シェンユン)らとともに活動行っている。 1912年第1次満蒙独立運動中国語版)では日本参謀本部と、いわゆる大陸浪人後押し挙兵準備をするも、日本政府命令計画中止された。 1916年第2次満蒙独立運動では袁世凱帝政反対する大隈重信内閣方針のもと、男爵大倉喜八郎等の資金援助を受け、宣統帝復辟のための勤王軍を組織し内蒙古バボージャブ巴布扎布)と結んで挙兵した。しかし袁世凱急死により大隈内閣方針変更され援助打ち切られ満蒙地方軍反撃受けてバボージャブ戦死するという事態に及んで、再び失敗した1922年旅順死去溥儀から忠の諡を贈られ、粛忠親王称される北京郊外粛親王家墓所に葬られた。

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マトベイ・ブロンスタイン」の記事における「人物・生涯」の解説

1906年ロシア帝国ポドリエ県(ロシア語版ウクライナ語版、英語版ヴィーンヌィツャ生まれる。 1930年レニングラード大学物理学科卒業相対性理論研究と共に子供向け物理学解説書執筆した大粛清始まっていた1937年8月、ブロンスタインはキエフ両親の家で逮捕されレニングラード連行された。容疑友人レフ・ランダウとともにスターリン批判する文章書いたことである。翌1938年2月3日スターリンクリメント・ヴォロシーロフヴャチェスラフ・モロトフラーザリ・カガノーヴィチ承認署名した"レニングラード地域"の囚人処刑命令書にブロンスタインも含まれていた。彼は2月18日有罪判決を受け、レニングラード刑務所その日のうちに処刑された。彼の妻は、通信権利のない10年間の労働刑に処せられた、という虚偽通告当局から受け取ったが、翌1940年処刑されたことを伝えられた。 1957年に名誉回復されたのに伴い著作復刻された。

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アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ」の記事における「人物・生涯」の解説

エダンフランス語版)にて弁護士の子として生まれたイエズス会学校学び幾度か聖職離れて軍に入隊したり、逃亡し外国行った経験が、高名な小説マノン・レスコー』の土台となった

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工藤忠」の記事における「人物・生涯」の解説

青森県北津軽郡板柳町小幡富農、文右衛門三男生まれる。東京出てから陸羯南影響強く受け、大陸問題関心持ち東京順天中学校卒業前に一度大陸へ渡る。1905年明治38年専修学校中退後、山田良政慕ってサハリン経由大陸渡り中国における活動行い第二革命のとき革命運動身を投じその後升允に出会ってから復辟派となり、清朝復活運動甘粛省方面などで行い東亜同文会辺境通信員として膨大な記録残している。1928年昭和3年)6月張作霖爆殺事件ではいち早く詳細な情報日本政府首脳伝えた1931年昭和6年)11月10日溥儀天津脱出の際、溥儀説得役になり、満洲まで随従した。軍歴が無いにも関わらず1932年昭和7年)に満州国侍従武官」(中将)に就任し、ついで「侍衛長」(「侍衛官長」「侍衛処長」)となる。関東軍軍人でない工藤排除しようとしたので、執政(のち皇帝溥儀工藤護り、かつ工藤自分側から離さないという意向強く示すため、昭和7年「忠」の名を賜った工藤三郎1935年昭和10年)に戸籍上も工藤忠改名した同郷青森県出身者対す面倒見がよく、新京現在の長春)の自宅浪人長屋とも呼ばれていた。1942年昭和17年5月には、著名人多数署名集めて中国国民党との停戦目的とした建白書東条英機内閣提出した戦後東京裁判溥儀証言した際、工藤傍聴し、さらに溥儀擁護するため『皇帝溥儀』を出した。また晩年にはアジアへの謝罪のため台湾行った溥儀関東軍事実上指揮下にあり、とくに関東軍現役将校皇帝御用掛だった吉岡安直は、その行動発言対し助言」するなど、溥儀皇帝称号こそあるにしろ事実上日本及び関東軍傀儡政権であったその中で工藤忠は常に溥儀意向受けて活動し溥儀忠誠尽くした(以上は主として山田勝芳溥儀忠臣工藤忠』による)。 溥儀からはは絶大な信頼受けていたらしく、その著書「わが半生下巻」では「(工藤は)どこでも私の側に立って発言したひそかに関東軍にたいする不満をもらしたことさえあった。あるとき私は茶碗お茶の色がおかしいよう思い何者かが毒を入れたではないか考えて持って行って検査させようとした。このとき工藤はすぐに茶碗とりあげるとお茶一気飲んでしまった。私が執政になったのち、彼は私を「皇上陛下」と呼ぶ唯一の日本人であり、しかも常に関東軍横暴に不満をもらし、私がきっと「大清皇帝」の名と位を回復することが出来る、信ずと言っていた。彼の示した忠心は、もっとも典型的な遺臣たちにも決して劣るものではなかったので、私は彼に「忠」の名を賜って改名させ身内として扱ったのである。彼も感激の涙を流し、死をもって忠を尽くし永世変らないことを誓った。」とある。

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アインハルト」の記事における「人物・生涯」の解説

アインハルトカール大帝側近かつ『カール大帝伝』の著者で、カロリング・ルネサンスの主要文筆家の一人生年不詳770年ごろのドイツマイン川地方(当時フランク王国東部マインガウ(Maingau))の貴族階級生まれ推察されている。幼くして教育を受けるためにフルダ修道院預けられ20歳頃には書記(Urkundenschreiber)を務めている。修道院長注目するところとなり、教育完成のためにカール大帝宮廷送られる。まず、アルクイン弟子になり、796年/797年にはカール大帝側近となっている。師がトゥールTours)に移ると、彼は宮廷学校(Hofschule)の中心人物となる。背丈低く、その豊かな学識(prudentia)と誠実な人柄(probitas)ゆえに王や側近信頼厚く幾つかの司教座与えられていた。王宮関わる建築においても指導的役割演じ皇帝教皇へ使者役割果たしている。大帝遺言書作成に関わったと思われるカール死後、その息子ルートヴィヒ1世にも仕え王の書簡を作成している。王子ロタールロタール1世)の教育係にもなった。815年オーデンヴァルトミヒェルシュタットMichelstadt)と生まれ故郷マイン川河畔ミュールハイムMühlheim)(今日ゼーリゲンシュタットSeligenstadt)にある王領をもらい受け、晩年をそこで過ごしたその間ディオクレティアヌス治下殉教した聖人聖遺物手に入れたが、その経緯を『聖マルケリヌスペトルスの移葬と奇蹟』("Translatio et miracula SS. Marcellini et Petri " ; 830)として詳細に記録している。後世『カロルス大帝伝』("Vita Karoli Magni ")の著者としてよく知られている。ヴォルムス司教ベルンハルト姉妹インマ(Imma)を娶っていたが、彼女を836年亡くしている。彼は840年3月14日隠遁の地で没した建築家として優れた彼はミヒェルシュタット遺構の残るアインハルトバシリカ聖堂、オーバーミュールハイムの聖マルケリヌスペトルス教会などの建築行っている。 グリム兄弟による『ドイツ伝説集』457番「エギンハルトとエンマ」(Eginhart und Emma)等には、若きアインハルトが、ギリシア王と婚約していたカール大帝の娘エンマEmma)と密かに愛し合っていた。ある日逢瀬後の朝かれが住居戻ろうとすると道には積もっている。彼女は彼を背負ってその住まいまで届け帰りは同じ所に足跡をつけながら戻った。この夜眠れないでいた大帝はこれを見て驚き苦しんだが、最終的に二人赦し結婚させたとある。フュルステナウ城(Schloss Fürstenau)には、「アインハルトとその妃であるカール大帝の娘・・・」と記された、1622 (?) 年制作夫妻の絵がある。

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チャールズ・ライエル」の記事における「人物・生涯」の解説

1797年スコットランドアンガス、Kinnordy で、10兄弟長男として生まれたライエルの父(同じく"チャールズ"という名である)は、植物学たしなんでおり、幼きライエル最初に自然の研究というものを示してみせた。ライエル少年期イングランドニューフォレスト (New Forest) のバートリー・ロッジ(英語版)(Bartley Lodge) で過ごし自然界に対して大い興味を抱くことになったオクスフォード大学エクセター・カレッジ(Exeter College)に通い地質学出会いウィリアム・バックランド指導のもと、熱心に打ち込んだ1816年卒業し法律へと仕事変えたものの、地質学との "二足のわらじ" を履くことになった1822年ライエル最初論文 On a Recent Formation of Freshwater Limestone in Forfarshire を発表結局1827年ごろには法律仕事には見切りをつけ、地質学キャリア長い道のりへと足を踏み出したであった1826年王立協会フェロー選出1830年ロンドンキングズ・カレッジ地質学教授の職に就いた1830年 - 1833年、『地質学原理英語版)』 Principles of Geology初版3巻計約1200ページ大著)を出版した。これはライエル最初の出版物であると同時に最も知られ出版物でもあり、ライエル地質学理論家として地位確立したのであるライエルは、地質学とは迷信排除して大自然の中で起きた変化研究する科学であると宣言している。 この『地質学原理』が、「斉一説uniformitarianism学説、すなわち、その数十年前ジェームズ・ハットンによって提唱されていたアイディアを、広く世に知らしめることにつながったのである1840年代ライエルアメリカ合衆国とカナダへと旅した。この体験彼の有名な、"旅行地質学" 本、を生むことになった1845年Travels in North America1849年以降の A Second Visit to the United States である)。 1875年他界ウェストミンスター寺院埋葬された。 月と火星にあるライエルクレーターの名は、チャールズ・ライエルへの尊敬の念込めてつけられたものであるまた、カナダノバスコシア州で発見され化石爬虫類ヒロノムス種小名 lyelli(リュエリまたはライエリ)も彼にちなむ名である。命名者は、友人であったカナダ地質学者ジョン・ウィリアム・ドーソン(英語版) (John William Dawson)。

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トーマス・ヘンダーソン」の記事における「人物・生涯」の解説

ダンディー生まれる。法律学んだ趣味天文観測数学研究した。 月の掩蔽使って経度求め方法考案したことで、当時イギリス海軍の『天文年鑑発行監督官をしていたトーマス・ヤング注目され天文学の職を得ることができた。ヤング自分死後ヤングの職をヘンダーソン継がせることを推薦した手紙残した南アフリカ喜望峰天文台観測者になり、そこで1832年4月から1833年5月まで多くの星の観測行い、その中にはケンタウルス座α星があった。 1830年代天文学関心事年周視差観測して恒星までの距離を誰が最初に求めるかということで、ヘンダーソンは最も太陽系に近い星であるケンタウルス座α星測定したことにより有利な立場にあったイギリス戻り測定結果整理して、3.25光年にあると結論したがこれは実際の距離より30%ほど小さいものであった測定装置自信がなかったので発表ためらっているうちに、1838年フリードリッヒ・ベッセルはくちょう座61番星年周視差測定しその距離を10.4光年(約10%ほど小さい)であることを発表したため、最初の年視差発見者栄誉ベッセルのものとなったヘンダーソンは自らの結果1839年発表した1834年最初スコットランド王室天文官任じられた。

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ジェームズ・ハットン」の記事における「人物・生涯」の解説

商人の子としてスコットランドエディンバラ生まれ1736年10歳の時エディンバラ高等学校入学しラテン語ギリシャ語数学学んだ1740年11月14歳大学入学しエディンバラ大学法律学び1743年の春卒業し母親縁故弁護士事務所就職するが、彼に適していなかった。1744年秋にパリ大学ライデン大学医学化学を学ぶ。1745年8月、秋の授業再開待っていたとき、チャールズ・エドワード・ステュアートジェームズ2世の孫、国外追放されたジェームズ3世息子)が反乱起こしたハットン勉学の邪魔になったばかりでなく、エディンバラ市民多大な影響及ぼした1747年の末、パリ移りパリ大学で、医学勉強続けた1749年9月には、ライデン大学医学学位得た。この時の論文は「マイクロコスモスの血液循環」と題するもので、のちに地球についても「循環」という考え方適用したハットンは、コリン・マクローリン自然哲学講座においてアイザック・ニュートン考え初め触れた。それが後のハットン考え重要な作用することとなった一時期父の残した農場経営に当たるが、1768年末、20年ぶりでエディンバラ戻った独身であった1770年にセント・ジョンズ・ヒルに家を建て、いずれも未婚の3人の姉妹一生生活したエディンバラ研究生活入りスコットランドイングランド北部フランスオランダ旅行各地地質観察するジェイムズ・ハットン地球についての学説発表のための第一回目の講演会1785年3月7日エディンバラ王立協会主催大学図書館開かれた。二回目は4週間後の4月4日行われた1795年地球理論』(The Theory of Earth)を出版。しかし難解であったため、当時評価されなかった。1802年に、ハットン友人であるエディンバラ大学数学教授ジョン・プレイフェアJohn Playfair)が『ハットン地球理論解説』(Illustrations of the Hattonian Theory of Earth)を1802年出版一般に理解されるハットン4年前から病に冒されており、1797年3月26日土曜日夕刻70歳生涯閉じたエディンバラ城の南にある町中で一番広いグレイフライアの墓地葬られた。 ハットン現在の自然現象元に過去地質現象合理的に説明することに努め地下の火の作用重視して、熱の膨張力が大地隆起させ、地層変化させ、この過程地殻割れ目生じマグマ進入する考えたまた、火山広域的な大地の上昇の安全弁みなしたA・Gウェルナー水成起源とした花崗岩火成起源とみなし、火成論者の代表とされたが、二次岩層の形成など水の作用重視したハットンの説はライエルより高く評価され、かれの著書地質学原理』によって広く普及することになったジョゼフ・ブラックジェームズ・ワットアダム・スミスらと交流があった。

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人物・生涯

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ハンス・シュワルベ」の記事における「人物・生涯」の解説

1910年誕生[どこ?]。ベルリンゲルマン文化芸術史哲学新聞学学び1939年以前ハンブルクキーン新聞編集の職にあった1939年来日する旧制松江高校ドイツ語教え在職中1939年11月1日より1945年8月6日まで、島根大学旧奥谷宿舎旧制松江高等学校外国人宿舎)に夫人暮らし子どもが生まれた帰国後[いつ?]、ジャーナリストとして活躍する1960年再来日ドイツ大使館広報担当官として1975年まで東京在住した。この間1969年から1974年にわたり、東京オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会OAG会長務める。1975年日本ドイツ文化交流寄与した顕著な貢献認められて、勲三等旭日中綬章受賞帰国後はベルリン独日協会事務局長務め茶道に関する著書がある。 2018年ドイツから訪問した遺族迎えた島根大学は、在職中に旧宿舎撮影した写真博士夫人書簡ほかを受贈した。旧宿舎2009年同学募金事業により修復して大学博物館分館転用しており、贈られ資料展示検討している(2018年10月時点)。

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ユリウス・ワイスバッハ」の記事における「人物・生涯」の解説

1822年から1826年までフライベルク工科大学在籍しその後ゲッティンゲンにてカール・フリードリヒ・ガウスと、ウィーンフリードリッヒ・モースと共に学んだ1831年フライベルク戻って地元ギムナジウム数学教師勤め1833年にはフライベルク鉱山大学数学山岳機械理論教師となった1836年には応用数学力学山岳機械理論などいわゆる鉱山測量」で教授となった。 『Lehrbuch der Ingenieur- und Maschinenmechanik』という本を執筆し1845年から1863年までの間に何度も出版され機械工学を学ぶ学生影響与えたまた、ヘンリー・ダルシー作った公式を改良し、これは現在、ダルシー・ワイスバッハの式として広く利用されている。 ドイツ鉱物学者アルビン・ワイスバッハ(ドイツ語版)(アルビン・ユリウス・ワイスバッハ、1833年12月6日 - 1901年2月26日)はワイスバッハ息子に当たる。

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ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン」の記事における「人物・生涯」の解説

ビュフォンモンバールコート・ドール生まれた父親ディジョンモンバール領主であった。 彼ははじめ数学分野有名になり、確率論分野に、微分積分概念導入したスイス数学者ガブリエル・クラメール手紙やり取りをした。モンテカルロ法ルーツとなったビュフォンの針」の問題知られるパリ出てヴォルテールらの知識人交流し27歳フランス科学アカデミー入会した1739年からパリ植物園管理者になったビュフォン園長務める間に、パリ植物園は王の庭園から研究機関博物館公園変え多く世界中植物集めた1740年ロンドン王立協会フェロー選出された。 ビュフォンは、1749年から1778年までに36巻が刊行されビュフォン没後ラセペードによって8巻追加された『一般個別博物誌 Histoire naturelle, generale et particuliere』の著者としても著名である。これはベストセラーとなり、博物学科学思想発展影響を及ばした。 『博物誌』の中の1778年刊行された『自然の諸時期 Les Epoques la Nature』の巻では、太陽系の起源について考察しビュフォン惑星は、太陽彗星衝突して形成されたという説を述べた。また地球の年齢冷却率から75,000年だと推定した。これは、17世紀アイルランド司教ジェームズ・アッシャーが、聖書の記述をもとに天地創造までの時間計算して求めた地球起源紀元前4004年に始まるという説を否定するものであったノアの洪水伝説があったことも否定したが、自らが無神論者であることは否定した

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アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー」の記事における「人物・生涯」の解説

300年鉄鋼業関係してきた家に生まれる。父は鋳鉄工場管理をしていたが、ウェルナー幼い頃からその仕事手伝い、父の鉱物標本興味抱いていた。 1769年フライベルク鉱山学校鉱山技術学び1771年ライプツィヒ大学鉱山法を学んだ1774年在学中出した最初論文鉱物外部の特徴について」が認められ1775年から1817年にかけて、ドイツザクセン州の町フライベルクにあるフライベルク鉱山学校教授勤める。彼は、鉱物あらゆる経済的利用やその医学への応用、土の資源や富、それの人間文化への影響などについて講義し学生たちを引きつけた。歴史的な地質学講義は、1779年から始めた地球の歴史についての講義ヨーロッパで最初のもので、ウェルナー見方学界多くの人に受け入れられていた。 ウェルナー鉱物分類化学構成によるべきだということは認めながら、当時分析精密さ期待することはできなかったため、外部特長による分類方法地理的分布研究した。彼は、これらの研究のことをゲオグノジー(geognosy:地球知識の意)といった。鉱物学などに厳密な学術用語取り入れたのも彼である。また、地表堅い岩石火成岩起源のものであるという層序学基づいた考えに対してウェルナー岩石全て海洋の底に堆積して出来たのであるとする水成岩起源説水成論)を主張した。 なお教育者としても優れていたとされ、ウェルナー学派といわれる一派ができた。レオポルド・フォン・ブーフアレクサンダー・フォン・フンボルトらは彼の弟子である。

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大石和三郎」の記事における「人物・生涯」の解説

1899年中央気象台入り地磁気空中電気観測担当する1911年ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台留学した帰国後の1920年高層気象台初代台長就任1926年刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石測風気球による高層気流観測結果エスペラント世界公表した。しかしジェット気流命名概念確立する20年前のことであり、世界反響もなく、注目を集めることもなかった。

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蜷川式胤」の記事における「人物・生涯」の解説

東寺坊官蜷川子賢の長男として京都生まれた幼名与三郎、また親胤。祖先丹波船井郡高屋村現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢し明智光秀敗亡のため、京都移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々境内東北隅の屋敷住んだ。 父に学びまた、若い頃から古美術研究し、すでに1858年安政4年)、正倉院宝物模写図に奥書残している。 1869年明治2年)(35歳7月東京丸内道三丁現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ次の職歴経た1869年7月太政官制取調御用掛、少史から少史進み、従7位。 1871年少史廃官となり、外務省外務大録として編輯御用書類下調掛。 1872年文部省博物御用兼務兼務して、八等出仕1875年内務省博物館掛。 1877年1月、病を理由退職在任中の業績に、次があった。 1869年 - 1871年民法編纂会議列してフランス民法典翻訳協同した。海軍軍艦旗短剣陸海軍軍服制定関係した1871年2月太政官許可願い3月写真師横山松三郎洋画家高橋由一と、『旧江戸城写真帖』を作った常設博物館上野開設するよう、町田久成らと建議した5月田中芳男らと九段坂上物産会を開いた10月京都博覧会開催尽力した岩倉使節団のための、書類準備携わった1872年3月 - 4月一杯町田久成当時オーストリア=ハンガリー帝国公使館勤めハインリヒ・フォン・シーボルトらと湯島聖堂大成殿で、文部省博物主催としては初の博覧会湯島聖堂博覧会)を開いた東京国立博物館始まりとされている。これは翌年ウィーン万国博覧会準備でもあった。5月から10月まで、(太政官前年5月布告古器旧物保存方に基づき)、町田久成従い高橋由一横山松三郎らと、伊勢名古屋奈良・京都の古社寺華族宝物調査し、さらに正倉院調査行った。『壬申検査』と呼ばれる。この調査のうちの正倉院開封状況を、日記奈良筋道』に残した1875年4月1日からの奈良博覧会に出展のため、再び正倉院出張した道三町自宅には多く陶器所蔵した。退職前の1876年1月屋敷一部出版所『楽古舎』に改め川端玉章高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』の第1 - 第5冊を、1876年から1878年にかけて刊行し、さらに1869年秋、関西調査の旅をした上で、第6冊を1879年に、第7冊を1880年刊行した石版刷り彩色施した画集である。京都玄々堂松田敦朝が刷った仏文あるいは英文解説付けられ、殆どが輸出され海外コレクター指標になった。 『楽古舎』では、同好集めて陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルトエドワード・S・モース訪れた。式胤は1879年初から、モース繁く交わって日本陶器鑑識について教え1000点以上と推測される陶器を、贈り或いは共に町に出て集めた今日ボストン美術館所蔵するモース日本陶器コレクション』の発祥である。またシーボルト帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物をおくり、これらは現在ケンブリッジ大学図書館所蔵されている。 1882年明治15年8月21日没した享年47谷中葬儀参列したモースは、死因コレラ記している。 1902年明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部』、『観古図説瓦之部』を刊行した正倉院所蔵品散逸に式胤が関わる、との推論が行われている。

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千野栄一」の記事における「人物・生涯」の解説

東京府豊多摩郡渋谷町現・東京都渋谷区栄通1丁目生まれ1948年東京都立高校旧制尋常科現東京都桜修館中等教育学校修了当時からの友人地理学者江波戸昭がいる。 1949年東京都立高校高等科現・東京都立大学)修了1955年東京外国語大学第四部ロシア語卒業1958年東京大学文学部言語学専攻卒業同年チェコスロヴァキア政府奨学生としてプラハカレル大学入学。ヨーゼフ・クルツ(チェコ語版)のもとで古代教会スラヴ語ならびにプラーグ学派研究すると共に1959年から同大日本語科講師務める(1967年まで)。1964年カレル大学文学部スラヴ語修了1967年12月帰国した1969年東京教育大学文学部助教授として着任し教授だった河野六郎親交深める1976年東京外国語大学外国語学部助教授1977年教授1988年チェコスロヴァキア国際交流協会金賞受賞1989年ヨゼフ・チャペックカレル・チャペック研究する日本チャペック兄弟協会設立会長となる。1991年ポーランド語科およびチェコ語科の新設に伴い東京外国語大学ロシア東欧語学教授着任1992年12月、『言語学大辞典』の業績により第46回毎日出版文化賞特別賞受賞1993年東京外国語大学名誉教授1994年同大学を定年退官同年和光大学人文学部文学教授着任同年11月東京外国語大学ポーランド語科およびチェコ語科の創設功績により、原卓也と共にポーランド功労十字受章1997年和光大学学長就任2001年まで)。 2000年9月日本におけるチェコ語普及ならびにチェコ文学チェコ文化紹介によりチェコ文化功労賞を受ける。 2002年3月19日国立病院東京医療センター死去2002年4月9日朝日新聞惜別」に学芸部・伊左恭子追悼文がある。 元妻千野ズデンカ再婚相手チェコ語研究者保川亜矢子千野亜矢子)、ズデンカとの間の娘の千野花江は共にチェコ語講師

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光元東伯」の記事における「人物・生涯」の解説

美作国久米南条郡中籾外3ヶ戸長光元東伯氏は、年来戸長加えて部内において貧民困苦すれば私財から貸与し返金して利子を受けとらず、返済期限延長することも度々あった。いろいろとあるが中でも、米、穀物金銭労務などの訴訟について大概同氏説諭話して聞かせること)でまとまるから、いわゆる公事費(裁判費用)なども大い省けるので、部内の民の人望少なくなかった。(明治22年1889年1月26日

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深谷義治」の記事における「人物・生涯」の解説

1915年6月20日島根県大田市農家長男として生まれる。 1937年浜田歩兵第21連隊入隊訓練後、中国戦場戦闘中負傷1939年憲兵志願試験合格日本憲兵教習隊の第二中隊配属され中国言語歴史・地理などを学び優秀な成績卒業1940年末、極秘特殊任務受けて中国人装い諜報員として活動始める。敵国紙幣偽造し貨幣市場混乱させるなどの任務成功させ、27歳瑞宝章受けた終戦後任務続行という命令を受け、中国13年潜伏1958年スパイ容疑中国当局逮捕され上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監その間拷問を含む厳し追及を受けるも、戦後スパイ活動については完全黙秘貫いた1978年日中平和友好条約締結に伴う特赦を受け、家族と共に帰国したが、戦後何者かが軍人恩給虚偽申請して横領していたため、本来の支給額大きく下回り一家困窮した。国からは元軍人ではなく亡命者として扱われた。度重なる見直し要求認められ2015年4月21日肺炎のため広島市内の病院死去2014年には次男である深谷敏雄が獄中記録などを基にした著書日本国最後帰還兵 深谷義治とその家族』 を出版した

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屋井先蔵」の記事における「人物・生涯」の解説

文久3年12月5日1864年1月13日)に越後長岡藩屋井家(現在の新潟県長岡市)に生まれる。屋井家は代々300余りの禄を奉じる上級武士の家だったが、6歳で父が死去して没落し母親ともども叔父引き取られた。 明治8年1875年)に13歳東京時計店の丁稚となる も、病気のため帰郷長岡時計店「矢島」で修理工として7年年季奉公した後、東京高等工業学校(現:東京工業大学入学志望したが受験2度失敗年齢制限もあって進学断念し叔父工場働きながら、それからの3年間は独力で永久自動機等の研究続けた明治18年1885年)、21歳のときに電池湿電池)で動作する連続電気時計発明する電気使った時計はすでに存在したが、それらは動力源ゼンマイ電気で巻くというものであり、先のそれは自作電池組み込んですべてを電気で動かすという画期的なのだった。この連続電気時計は、明治24年1891年)に日本では初めてとなる電気に関する特許として認められる連続電気時計用いられていたのはダニエル電池など液体入った湿電池であり、電池の手入れ必要なことと、冬場電池の液が凍結するため使用できなくなるといった問題があった。屋井は、これら問題解決する電池開発取り掛かる東京物理学校(現:東京理科大学)の付属職工となっていた屋井東京物理学校学者ともよく相談していたようであり、産学協同先駆者であるとも言える湿電池問題に、薬品沁み出して正極金具腐食するということがあったが、屋井炭素棒にパラフィン含浸することで解決し明治20年1887年)に「乾電池」の発明成功する。しかし、屋井特許申請費用用意できなくてすぐには出願できず、日本における最初乾電池特許通信省の電気技師高橋三郎によって取得された。1888年ドイツではカール・ガスナー(ドイツ語版)が、デンマークではヘレンセンが乾電池特許取得している。 屋井乾電池は、乾電池用い製品そのもの普及していなかったこともあって、しばらくは売れなかった。 1891年に、繁(しげ)と結婚1893年シカゴ万国博覧会 (1893年)帝国大学地震計出品され、それに使用された先乾電池来場者驚かせた。 1894年明治27年)に日清戦争勃発し陸軍から大口発注があり、満州において使用されていた軍用乾電池大成功に関する号外記事掲載されることになる。従来湿電池では液が凍結したため満州では使用できなくなったが、屋井乾電池だけは使用できたのだった1895年、妻のいさ(青森県士族の娘)との間に、のちに家督を継ぐ三郎生まれる。 1910年明治43年)には、合資会社屋井乾電池設立し東京府東京市神田区錦町一丁目販売部を新築するとともに浅草神吉町乾電池製造工場設け乾電池本格量産とりかかった。筒型の金属ケース用い現在の乾電池スタイル確立している。屋井乾電池海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電池界のシェア掌握し屋井乾電池王とまで謳われるようになった1927年昭和2年)、胃がん侵され急性肺炎併発し急逝享年63後継者が育たなかったのか、昭和25年には屋井乾電池の名は乾電池工業会の名簿から消えてしまっている。 2014年平成26年)、IEEE関西支部推薦による「日本一次二次電池産業誕生と成長1893」がIEEEマイルストーンとして正式に認定され屋井出身地長岡市出身校東京理科大学近代科学資料館(以上は屋井乾電池現存しないため)、ジーエス・ユアサコーポレーションパナソニックの4者に銘板贈呈された。

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人物・生涯

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洪一茜」の記事における「人物・生涯」の解説

金日成総合大学露西亜文学卒業。 父は兵士であったが、朝鮮戦争戦死した金日成主席正日紹介したことがでキッカケ1966年結婚し一女である金恵敬(現在の最高指導者金正恩長姉)をもうけた1969年離婚した後、1977年から1991年まで最高人民会議メンバー務めていた。 議会から退いた後には、1991年9月金亨稷師範大学学長任命されたが、2012年6月に、70代を目前にして退任した

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人物・生涯

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浅井タケ」の記事における「人物・生涯」の解説

父・山田チクユピ(アイヌ名:Sahpo)、母・テツ子(アイヌ名:Tekakunkemah)との間に、当時ロシアであった樺太西海岸アイヌコタン、オタスフ(Otasuh/小田洲。終戦時恵須取郡珍内町)で生まれるが、生後まもなく失明する父親1902年病死母親タケ18歳のときに亡くなる。幼少期より、子守生計立てた樺太真岡郡真岡町出身アイヌ浅井政治と結婚し、太平洋戦争後は北海道沙流郡平取町振内に移住した1961年に夫と死別し1974年門別町特別養護老人ホーム「得陽園」で暮らし始める。1983年に、言語学者村崎恭子面会した際、樺太アイヌ語完璧であったことが確認されている。1993年5月札幌の東札幌病院入院し1994年4月30日同病院にて92歳で死去

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