人物・生涯
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若いころは寺院に籍を置き、鉦や太鼓を鳴らして、生計を立てていたようである。 『金史』によると、後に金に仕官し都統、提控使を経て、領太原府事を歴任した。1232年(天興元年)に、スブタイ率いるモンゴル軍が開封府に迫って来ると、平安都尉を兼ねて、その総指揮者となった。だが、哀宗が開封府を放棄して帰徳府に逃亡した。そのため、金の宗室である参知政事の完顔奴申と枢密副使の完顔斜捻阿不らが臨時的に開封府の留守となり、彼等は実力者の崔立を西面元帥に昇格させた。だが翌年の正月早々、崔立はクーデターを起こし、上司の完顔奴申・完顔斜捻阿不を殺害し、彼は実権を把握した。そこで、彼は20年間も監禁されていた衛紹王の皇太子であった梁王従恪を先帝であった宣宗未亡人の李氏を通じて擁立し、従恪を再び皇太子・監国とし、彼自身は太師・兵馬都元帥・尚書令・鄭王と称した。
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「ウィリアム・モーリス・ディヴィス」の記事における「人物・生涯」の解説
ペンシルベニア州フィラデルフィアにてクエーカーの家庭であるエドワード・モーリス・ディヴィスとマリア・モット・ディヴィスの間に生まれた。1869年にハーバード大学を卒業し、翌年工学修士(Master of Engineering)の学位を受けた。 3年間アルゼンチンのコルドバで働き、1879年より地質学者のナサニエル・シェーラーの助手となりハーバード大学の地質学の教員として働き始めたが、ディヴィスは終生Ph.D.を取得しなかった。同年、マサチューセッツ州スプリングフィールドのエレン・ワーナー(Ellen B. Warner)と結婚する。 ディヴィスの最も影響力の大きい科学的業績は、いかにして河川が地形を形成するかを示すモデルである地形輪廻(侵食輪廻)を提唱したことである。この概念は1889年に、 ペンシルベニアの河谷の発達を説明する文章で初めて言及され定義された。ディヴィスの地形輪廻は(大きな)河川は主に3つの部分、すなわち上流・中流・下流を持ち、それぞれが固有の地形や地形に関する特性を有することを示唆している。地形輪廻の概念は、チャールズ・ダーウィンの進化論の影響を受けている。一方で、人文地理学については自然環境の人間への影響を機械論的に論じ、環境決定論的な見方を示した。ディヴィスの弟子に環境決定論で知られるエルズワース・ハンティントンがいる。 地形学の草創期に重大な貢献をしたにもかかわらず、多くの地形変化に関するディヴィスの理論は、ディヴィス流地形学(Davisian geomorphology)と時折呼ばれ、現代の地形学者から激しい批判がなされてきた。またディヴィスの後を追う研究者や彼の説や方法に懐疑的な者へのディヴィスの対応についても批判されている。事実。ディヴィスは退官するまで地形変化の研究をほぼ独占していたのであった。現代、「ディヴィス流地形学」という語は他者の科学論文に対して懐疑的な説を試みる時に、批判するために使われる。 ディヴィスはアメリカ地理学会(AAG)を1904年に立ち上げ、設立初期にナショナルジオグラフィック協会の学会誌『ナショナルジオグラフィック』に多数の記事を投稿することで同協会を巻き込んだ。この頃ディヴィスは地理学を地質学から独立させようと努力していた。 1911年、ディヴィスはハーバード大学を退官する。最初の妻の死去後の1914年にマサチューセッツ州ケンブリッジのメアリー・ワイマン(Mary M. Wyman)と再婚、彼女が死去すると、マサチューセッツ州ミルトンのルーシー・テナント(Lucy L. Tennant)と結婚した。1934年、84歳の誕生日を目前にしてカリフォルニア州パサデナで死去した。
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「マルキャン・ボリシコ」の記事における「人物・生涯」の解説
サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは1885年か1888年、ウクライナ東部のハリコフ県ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれた。ロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植した。1917年にロシア革命が起こると、北樺太はアレクサンドル・クラスノシチョーコフの極東共和国に組み込まれた。1918年に北部の州都アレクサンドロフスク市のロシア移民の未亡人と結婚して一女をもうけた。その後、極東共和国が消滅し北樺太の社会主義化が進むと、革命政権を嫌って1925年にマルキャンは単身で日本治政下の南樺太の大泊(現:コルサコフ)へ亡命した。 1928年、洋裁店勤務の納谷キヨ(後志管内神恵内村出身)と結婚し、翌年から敷香で牧場を経営した。マルキャンは多くの日本人・白系ロシア人を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士だった。 1940年(昭和15年)5月29日に敷香郡敷香町で幸喜が生まれた。 南樺太にはロシア革命以来、白系とされたウクライナ系・ポーランド系の住民がソヴィエト政府による弾圧を逃れて居住していたが、1944年に戦況の悪化により樺太庁の指示でこれらの住民を美喜内村の外国人居留地に移送した。マルキャンも一人居留地に移され、1945年8月に船で北海道へ引き揚げた家族との連絡は絶たれた。陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2000人の民間人が死亡し、亡命していた白系ロシア人も多く死傷し犠牲となった。 第二次世界大戦終了間際にソ連対日参戦とともに赤軍が南樺太に侵攻(樺太の戦い)してソ連が南樺太を実効支配するようになってからは、外国とのつながりのあったマルキャンは大泊でソ連当局に逮捕され、1949年に反ソ宣伝を理由に自由剥奪10年の刑に処せられ強制収容された。1954年に恩赦を認められて出獄した。その後、サハリン州立博物館の守衛を務めたが、1960年11月15日、肺炎のためユジノサハリンスク(豊原市)で死去した。息子イヴァーン(日本名:幸喜、四股名:大鵬)が幕内、入幕6場所目、関脇の地位で、初優勝する昭和35年11月場所中のことだった。 1989年、スターリン時代に無実の罪でサハリンで捕らえられて強制収容された人々がゴルバチョフにより公式に名誉回復された。 2001年、サハリン州の日本研究家によってマルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、ウクライナのハルキウ市に大鵬記念館が建設された。息子の大鵬幸喜によるハルキウでの相撲大会の企画や、日本とウクライナの国際交流の舞台となっている。
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人物・生涯
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子供の頃はミッション系の学校で教育を受けた。ケニア国内での学歴は、この時の初等教育のみのようである。1913年に、キクユ族の成人の儀式を終えている。その後、農園労働者、商店の事務員、ナイロビ市の水道局職員等を掛け持ちで働き、白人の標準からしてもかなり裕福な暮らしぶりだったという。また、独学でかなりの教養を身につけ、キクユ人はもちろん、イギリス系住民からも「知識人」と見なされていた。1917年から1919年にかけて、最初の妻グレース・ワフ(英語版)(?-2007 死去時は110歳くらい)と結婚しており、二人の子を儲けた。この時、カソリックの洗礼を受けていたにもかかわらず、教会ではなくキクユ族の伝統に則って結婚式を挙げて婚姻無効ということになり、ケニヤッタは宣教師の活動に敬意を抱きつつも不信感を高めた。 1923年頃から居酒屋経営をはじめるが、そこが民族運動家の溜まり場となったことから政治活動にも興味を持つようになり、1926年にキクユ中央連盟(英語版)(Kikuyu Central Association, KCA)の書記として活動に参加しはじめる。1927年、組織の金を横領して姿を消した前任者の後をついで、仕事を辞めてKCAの活動に専念するようになった。 1929年と1931年にKCA代表として渡英し、植民地省との交渉にあたる。なお、1931年にはマハトマ・ガンディーと会見している。そしてそのまま帰国せず、当時は著名だった黒人革命家ジョージ・パドモア(George Padmore 1901-1959)の紹介でソ連へ渡り、モスクワ大学で経済学を学んだが、パドモアがスターリンに睨まれたこともあって、得たのは共産主義への不信感だけであり、1933年、改めてロンドン大学の聴講生となった。同時に、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの研究生となり、文化人類学者ブロニスワフ・マリノフスキに師事して、キクユ族の伝統文化について研究を行い、1938年、欧米で出版された最初のアフリカ人の著作と言われる名『ケニア山を望んで』("Facing mount Kenya")を出版。この時、初めて「ケニヤッタ」と言う名前を用いている。その後、人類学の研究書や、ケニアの伝説に範をとった小説などをいくつか出版した後、1939年からは、ロンドン大学の教員、イギリス軍の顧問などを務めた。そして1942年には、イギリス人女性エドナ・クラークと結婚して子供も儲けている(1946年に離婚)。 1946年、ケニアに帰国。キクユ族の長老の娘と結婚し(1950年に死別)、教員として働くが、1947年6月、ケニア・アフリカ人連合(英語版、スワヒリ語版)(Kenya African Union, KAU)党首に選ばれた。1951年、最後の妻となるキクユ族の長老の娘、エンジナ(英語版)と結婚。エンジナは、ケニア最初のファーストレディ、「ママ・エンジナ」として今も人気がある。 1952年にマウマウ団の乱に関係したとされ、またその一味であったとされ逮捕された。裁判官や通訳者などが不当にケニヤッタを扱ったとされる裁判は5ヶ月に及んだが、インド系およびインド本国からの有名弁護士が彼を支援し、さらには、ケニヤッタ自身が若い頃、ナイロビ地裁の通訳として働いていた経験もあった。結果として7年間の重度労役処分とされたが、ケニア北西の辺境地ロドワーに移送され保護観察下での執行猶予処置とされた。現在の研究でも、彼とマウマウとの関係はあったとされているが、他の説を唱える研究もある。ケニヤッタは教会から問題視されるほどの大酒飲みで、なおかつ居酒屋経営という仕事柄、付き合いがあった酒の密輸組織が、マウマウ団の母体の一つだったともいわれる。結果的に1959年まで刑務所で過ごすこととなった。 1963年にケニアが独立すると初代首相となり、1年後に大統領制に移行するとそのまま大統領となった。大統領としてのケニヤッタは一貫して西側寄りの資本主義体制を堅持し、外資を積極導入し西側寄りの政策を取った。このためケニア経済は発展し、東アフリカの地域大国となっていった。一方で国内では独裁政治を行い、1969年には完全に与党ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)による一党制を敷くこととなった。また、自らの出身民族であり、ケニア最大民族でもあるキクユ人の優遇を行い、後の民族対立の発端となった。 ケニアのみならず、アフリカ諸国の民族運動に大きな影響を与えた。自らの出身でもあるキクユ族の研究でも民俗学者として業績を残す。ナイロビにあるジョモ・ケニヤッタ国際空港は彼にちなんで名付けられた。建国の父として「ムゼー(Mzee、おじいさん)」という愛称がある。1966年から現在に至るまで、複数額面のケニア・シリング紙幣で肖像が使用されている。 エンジナ(英語版)との子にケニヤ第4第大統領を務めたウフル・ケニヤッタがいる。
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1948年、コルゲート大学在学中に朝鮮戦争に徴兵され、日本に駐在。このとき、アメリカ軍の爆撃訓練場となっていた三宅島の近くの大野原島(通称三本岳)に生息する希少種のカンムリウミスズメを、ハリー・S・トルーマン大統領の側近に手紙で訴えて爆撃訓練を阻止することで救った。 1954年に一旦帰国し、コルゲート大学を卒業。1957年、三宅島に中学校の英語教師として赴任。以降、三宅島に永住し、アカコッコや海洋生物などの生態研究を続ける。1984年、東京大学において「魚の繁殖生態」により博士号を取得する。 クマノミの性転換の発見、三宅島に生息する魚類のミヤケテグリ(ネズッポ科)の発見など、数多くの業績を残し、また同時に環境問題にも通じていた。 2000年に三宅島が噴火し、全島避難が行われると東京都北区の都営団地に居を移した。それと共にフィリピンに開いていた自然学校の経営が悪化し、資金繰りに苦しむようになる。その後、噴火活動の沈静化を受けて、三宅島周辺のサンゴ礁の調査に従事。ジャック・マイヨールの自殺に関しては「自殺は良くないね」と言っていたが、2004年に避難先の東京都北区赤羽の団地の一室で、妻への感謝を述べた遺書を残して自殺した2014年、かつての勤務先のアメリカンスクール・イン・ジャパンで1960年代から1990年代まで数十人の女子生徒に性的暴行を与えていたことが明るみに出た。2000年に、彼から性的暴行を受けた被害女性数人によりこの事実を突き付けられた挙句、被害女性が事を公にするとの連絡を受けた数日後に自殺したとされている。2014年に問題となった勤務先のアメリカンスクール・イン・ジャパンは、1970年代後半をはじめ1980年代、1990年など数回に渡り、この事実を告げられていた。その後も全く対処しなことに業を煮やした被害者女性と学校OBがジャパンタイムズにこの事実を告発した。その後、学校は全生徒及び学校関係者、卒業生に対して事実を初めて認識し、謝罪メールを送信した。2014年6月4日、アメリカンスクール・イン・ジャパン理事会は、1962年頃~2000年頃の期間アメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)と関係があった元教員兼コンサルタントのジャック・モイヤーによる性的虐待被害の申立に関する独立調査を発表しサイトで報告している。
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「マリア・ゲッパート=メイヤー」の記事における「人物・生涯」の解説
ドイツ帝国・オーバーシュレジエンのカトヴィッツ(現在のポーランド領カトヴィツェ)に生まれた。 1910年、父フリードリヒ・ゲッパート(ドイツ語版)が小児医科の教授になるため、家族はゲッティンゲンに移住した。マリアは大学の学生や講師、後のノーベル賞受賞者になる、フェルミやハイゼンベルク、ディラック、パウリらに囲まれて育った。彼女自身もゲッティンゲン大学に学びボルンらの教えを受けた。1930年にジョセフ・エドワード・メイヤー(英語版)と結婚して、夫の国のアメリカに移住した。夫も物理学者でその専門は統計力学、特に不完全気体の理論で知られる。 1931年から1939年までボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で働き、1940年から1946年までコロンビア大学の研究員となり、1946年シカゴ大学の講師-准教授となった。サラ・ローレンス大学で教鞭をとり、シカゴ大学で研究を行い、時にロスアラモス国立研究所も訪れた。この頃1963年にノーベル賞受賞することになる「魔法数」に関する研究など原子核モデルの研究をおこなった。また、アルゴンヌ国立研究所の研究員も務めた。同じ頃同じテーマで研究していたドイツの研究者たちの1人ハンス・イェンセンと"Elementary Theory of Nuclear Shell Structure"を出版した。1963年、2人はノーベル物理学賞を受賞した。 1953年には、国際理論物理学会 東京&京都で来日した。1960年にはカリフォルニア大学サンディエゴ校の物理学の専任教授に就任した。 1972年、死去。ゲッパート=メイヤーの死後、女性の物理学者に贈られるマリア・ゲッパート=メイヤー賞(英語版)がアメリカ物理学会によって創設された。
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天文・物理、オランダ語文法、地理誌・海外事情といった分野を中心に、蘭書を底本とした各種和訳書を成した。 本姓中野氏、通称忠次郎、字季飛。名をはじめは盈長、後に忠雄とし、柳圃と号した。長崎で三井の用達を業としていた三代中野用助の五男として生まれ、養父孫次郎の養子として阿蘭陀通詞志筑本家8代を継いだ。志筑の経歴については長年『長崎通詞由緒書』の情報をもとに、阿蘭陀通詞志筑家の養子となり、安永5年(1776年)には稽古通詞となったが、その翌年病身を理由に辞職し、阿蘭陀通詞で西洋天文学に精通していた本木良永に師事したと信じられてきた。近年の研究成果によって、志筑は少なくとも天明2年(1782年)まで稽古通詞を務めていたことが究明された。また、天明6年(1786年)5月まで同職を務めていた可能性も指摘されている。 その生涯は蘭書翻訳に身を捧げる一方、多病であったようである。大槻玄幹(1785年 - 1837年)、杉田玄白、新宮凉庭(1787年 - 1854年)らの諸著述において、志筑は若くして病気を理由に阿蘭陀稽古通詞を辞し、隠居して人との交わりをできるだけ絶ち、およそ政治や現実問題とは無縁な生き方をしながら蘭書に没頭する人物として描かれている。 大正5年(1916年)、従五位を追贈された。
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日本統治時代の朝鮮の全羅南道潭陽郡生まれ。中央普通学校を経て松山高等学校理科甲類を1928年3月に卒業した。その後、京都帝国大学工学部に進学して1931年3月に卒業し、その後、京都帝国大学化学研究所では助教授を務めた。1939年には桜田一郎、川上博(大日本紡績)らと共にビニロンを合成し、世界で2番目の合成繊維を作成した。しかし戦時中の日本の軍事政策に協力しなかったために治安維持法により拘束され、終戦を迎えるまでとらわれの身となった。 解放後は韓国へと渡り、ソウル大学校工科大学長(大学工学部長に相当)を務めるものの朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮へと逃れた(韓国側は拉致と主張)。その後は、北朝鮮でビナロン(ビニロンの北朝鮮名)などの繊維工業の発展に尽くしたほか、1962年~1990年には最高人民会議の代議員を務めた。1967年に寧辺原子力研究所が設立されると初代所長となり、核兵器開発にも携わるとともに多くの科学技術者を育てた。生前の功績により死後、愛国烈士陵に祀られている。
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1882年10月4日に、原田種紀・トエの四男として生まれ、父は黒田藩に仕える武士であったが明治維新を体験、県庁の役人、しかし失業と不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが戸籍係の間違いか「郎」が足され「志免太郎」になった。 高等小学校卒業後、親元を離れ福岡市大浜三丁目(現・博多区大博町)の原三信の医学生となり、独学。(後に原一族の女婿となる。)検定資格を取り京都府立医専(現・京都府立医科大学)に入り、卒業。九州帝国大学医学部で宮入慶之助教授及び大平得三教授の指導を受けながら「灸」(きゅう)の研究に取り組み、1929年、結核に感染したウサギに灸をすえたら抵抗力が増すことを突き止めた論文で日本初の「お灸博士」となる(ヒートショックプロテイン研究の嚆矢ともされる)。1929年開業、1943年香椎原病院設立、院長の椅子を長男に譲った後も104歳まで聴診器を持ち「生涯一医者」を貫いた。 104歳まで医師として患者をみたこと、灸の研究で博士号を取った最初の人物であること、ホタルが日本住血吸虫の宿主、宮入貝の天敵であると突き止めるなどのホタルの生態・飼育の研究、1961年6月には昭和天皇にホタルの卵、幼虫を献上したこと、静岡県の風土病の病原体を発見したことなど、業績は多岐に亘る。 亡くなる約2ヵ月前に男性長寿日本一となったが、原志免太郎の死去により、男性長寿日本一は岡儀平となった。
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「ジョン・ヘンリー・プラット」の記事における「人物・生涯」の解説
プラットはロンドンで生まれ、ケンブリッジ大学を数学者として卒業した。そして彼は一般的には「プラットの機械的思考」と呼ばれる、正式名称を「主に国際的重力に関する機械的思考による数学的原理、基礎機械工及び建築の応用方法」と言う600頁程の論文を残している。そして、彼はインドで副司教[訳語疑問点]をしている間に、インドの学問理論を取り入れた自らの理論を大成した。最終的には彼はインド北部のガーズィープルで死亡した。
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1920年、兵庫県明石市大蔵町6丁目で生まれる。本籍地は兵庫県三木市口吉川町槙。小学校を卒業後は木綿問屋の丁稚奉公に出た。 1940年、徴兵検査に甲種合格。1941年3月に岡山連隊に入営(陸軍二等兵)し、後に九江の工兵隊へ転属。1943年1月、独立工兵第36連隊に配属され、4月に当時激戦地だった東部ニューギニア(ニューギニアの戦い)に派遣される。部隊は敗走を重ねながら飢えとマラリアに苦しみ、千数百名のうち生き残ったのはわずか30数名だった。奥崎は敗走の前からたびたび上官に暴行を働いて食料を奪っていたが、そのことが知れると上官の恥になるため露見しなかったという。また、奥崎は、この敗走の過程で右手と右足に敵の銃弾を受けた結果、右手の小指を失っている。最終階級は上等兵。1944年7月18日、西部ニューギニアのデンタにて連合軍の食料を盗んでいたところを「米兵よ、自分を撃て」の意で"GI, Come gun!"と叫び、投降。豪州軍の捕虜となる。捕虜番号148715。ヘイの第8捕虜収容所にて病院のコックをしていた。1946年3月に復員。豪州当局は引揚船に生鮮野菜や肉類を大量に積み込んだものの、船内の給食は極めて悪く、船員が復員者の食料を横領しているのだとのうわさが流れた。奥崎は噂を確かめるべく単身で船長室に乗り込み、船長に執拗な暴行を加え、腹部を携行した理髪用のハサミで刺した。しかし、被害者であるはずの船長が横領事件の発覚を恐れ、奥崎に「事件を内聞で済ませてもらいたい」と申し出たため、このときも刑罰を受けることはなかった。それ以降、引揚船では食べきれないほどの食料が出るようになり、それまで目立たぬ存在であった奥崎はたちまち船内の英雄となる。 1947年3月、三木市の共和製作所に就職。同年5月に製作所の寮母の石地シズミと結婚。1951年、神戸市兵庫区にサン電池工業所を開業し、バッテリー商・中古車販売・自動車修理を営む。1956年、店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年の刑に服する。 1969年、皇居の一般参賀で昭和天皇にパチンコ玉を発射し(次節参照)、暴行罪で懲役1年6か月の刑に服する。 1974年、残留日本兵救出の目的でグアムを訪問。1976年、『宇宙人の聖書!?』を自費出版。その宣伝のため、銀座、渋谷、新宿の歩行者天国で、ポルノ写真に天皇一家の顔写真をコラージュしたビラ約3,000枚をまいた(皇室ポルノビラ事件)。全国指名手配された直後、独立工兵36連隊の生き残りの元軍曹宅を訪れたところを埼玉県警察のパトカーに発見され、深谷警察署により逮捕、猥褻図画頒布で懲役1年2か月の刑に服する。 1977年、獄中から参院選全国区に出馬し、神軍新聞を発行した。1980年、ふたたび参院選全国区に立候補。2度にわたり選挙広告の掲載を拒否した朝日新聞社社長・渡辺誠毅の襲撃を計画するが、年末、偶然テレビで当時の自民党最大派閥「木曜会」の忘年会のニュースを観たことから、「天皇に通ずる社会の悪因」として、目標を田中角栄に変更。1981年、『田中角栄を殺すために記す』を自費出版。田中に対する殺人予備罪で書類送検されるが不起訴となった。その後は、自家用車2台(トヨタ・マークII・ダイハツ・ハイゼット)を使用し、街宣活動・自著の宣伝を行っていた。 1982年から記録映画『ゆきゆきて、神軍』の撮影が始まる。1983年3月、原一男監督らと西ニューギニアでロケを敢行。同年9月にはパプアニューギニアへ単独で慰霊におもむく。同年12月に行われた衆院選で当時の兵庫1区から立候補。終戦直後に独立工兵隊第36連隊内で「戦病死」した兵士の死の真相を追ううち、元中隊長ほか3名の殺害を決意する。元中隊長宅を訪れた際、応対に出た長男に改造拳銃を発砲し、殺人未遂罪等で懲役12年の刑に服する。広島拘置所に収監中だった1986年9月、妻を亡くす。刑の確定後、熊本刑務所を経て1993年6月、城野医療刑務所に移監。1997年8月、府中刑務所より満期出所。1998年、映画『神様の愛い奴』に主演。2005年、死去。入院していた神戸市内の病院で、死去寸前まで「馬鹿野郎」と周りに喚き散らしていたと報道されていた。しかし、奥崎の支援者によると、入院中に「みんな、良うしてくれます。」と漏らしていたという。奥崎の死後、程なくして自宅は解体され、現在は駐車場となっている。原一男によると、奥崎とシズミ、奥崎の母親の眠る墓(神戸市追谷墓園内)も撤去され、跡地は更地となっている。
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人物・生涯
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越前藩医の橋本家の四男に生まれる。父は長綱、母は梅尾。幼名は破魔五郎。安政2年(1855年)、兄橋本左内が藩医を辞して越前藩御書院番に任ぜられたことにより、代々藩医を家職とした橋本家は末弟の綱常が継いだ。 文久2年(1862年)、綱常は藩医筆頭の半井仲庵とその子澄とともに長崎に遊学。オランダの医師ポンペに師事して西欧医学を学ぶが、ポンペの帰国後は同人の弟子だった松本良順に蘭医学を学んだ。のち越前へ帰国して実家において勉学を続けた。慶応元年(1865年)、再び長崎に赴いてボードイン、兄綱維、半井澄、岩佐純、山本匡輔など共に勉学を重ねた。慶応3年(1867年)、再び江戸に出府し医学の研究を続けた。 維新後の明治3年(1870年)に軍事病院へ出仕し、越前藩剣術師範の鰐淵三郎兵衛の女操子と結婚。明治5年(1872年)、松本の推薦によりドイツ留学を命ぜられた。アメリカ横断の際には大倉喜八郎一行と一緒で、学資の乏しい綱常は尻切れズボンから下着が覗くのを見かねた大倉からズボンを借り与えられている。綱常はヴュルツブルク大学で外科をリンハルト(ドイツ語版、英語版)に、内科をカール・ゲーアハルト(ドイツ語版、英語版)に師事し、明治10年(1877年)に帰国した。 明治16年(1883年)、陸軍卿大山巌の随員として欧州に渡り、万国赤十字条約加盟のために奔走した。明治18年(1885年)、軍医総監、陸軍省医務局長となる。明治20年(1887年)、日本赤十字社病院の初代院長となる。後に医務局長は辞したが、病院長職は生涯その任を離れなかった。 明治21年(1888年)、昭宮猷仁親王薨去の折、宮中医療に西洋医学を導入することを建白した。 明治28年(1895年)10月31日、男爵を授爵し華族となる。また、院長職にある間、東京大学教授を兼任し、医学博士号を取得。1905年(明治38年)12月30日、後備役に編入。明治42年(1909年)心臓疾患のため逝去、享年65。近代医学の功労者として評価されるに至る。外孫に奥野信太郎がいる。
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人物・生涯
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ストックホルムで建築業を営む中流家庭に生まれ、小学校の同級生には経済学者のグスタフ・カッセルや数学者のイヴァル・フレドホルムなどがいた。1902年に貴族に列せられ、1909年にイギリスより“ナイト”の称号を得る。 1879年に出版されたロシア帝国の外交団が1876年から77年にカシュガル地域を訪れた際の報告書である『カシュガリア』に影響を受けて冒険家を志す。著者は外交団の一員であり、後にロシア満州軍総司令官として日露戦争で指揮を執ることになるアレクセイ・クロパトキンであった。ヘディン自身も1890年にクロパトキンの下を訪問している。『カシュガリア』の出版とほぼ同時期だったアドルフ・エリク・ノルデンショルドの北東航路の発見に感銘を受け、生涯師事した。ベルリン大学でシルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導をうけて中央アジア探検を決意し、ペルシア、メソポタミアに旅行(1885年-86年)。 スウェーデン王オスカル2世がペルシアに派遣した使節団の一員としてメルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを旅行(1890年-91年)。 ロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原、タクラマカン砂漠南辺、ツァイダム、青海からオルドスを横断、張家口を経て北京に到着(1893年-97年)。 1898年には、中央アジア探検の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた。 1899年から1902年にかけて、タリム盆地および中部チベット湖沼地方の北部を探検した。その間、1900年に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノールの湖床を発見し、よく知られている「さまよえる湖」説を唱えるに至った。多くの文書・遺物を取得してカラコルム山脈を越え、レー・カシュミールに出て、再びカラコルム峠を越えてカシュガルに至り、フェルガナのアンディジャンに到着、ロシア経由で帰国した。 1905年、ペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入、中央チベット湖沼地帯を探検してインダス川、サトレジ川(インダス川支流)、ブラマプトラ川(ガンジス川支流)の水源地方を調査。シガツェに至ってパンチェン・ラマの歓迎を受けた。サトレジ川の河源およびヒマラヤ山脈の北にあってこれと平行し、カラコルム山脈に連なる山脈を発見し、これをトランス・ヒマラヤ(英語版)と名づけた。カイラス山へも訪れたが、チベット人に入山を禁じられている。これらの成功は、パトロンであるロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成功はなしえなかった。また、ノーベル家の援助も受け、その関わりは生涯に渡った。他に大谷探検隊で知られ、浄土真宗本願寺派法主も務めた大谷光瑞からの援助も受けていた。 1908年に帰国。1927年に西北科学考査団 (The Sino-Swedish Expedition) を組織し、スウェーデン・ドイツ・中国の学者の協力による大規模な探検を行い、東は東蒙古の熱河地帯から西は新疆省(現:新疆ウイグル自治区、旧・東トルキスタン)を越えてペルシアにおよび、南はチベット北部から北は天山に至る地域について地理、考古、生物、民族、人類学など広範囲な部門について研究を行った。新疆省の政治上の悪化と第二次世界大戦の勃発によってその予定は完全には実現されなかった。 1934年にロプノールの復活を自らの目で確かめた後、1935年に帰国したが、途上立ち寄ったドイツでアドルフ・ヒトラーの歓待(ヘディンはナチス党員ではなかったが、チベットに興味を持ち、自分の偉業を正当に評価してくれるヒトラーと親密になった)を受け、その後数回にわたってナチス幹部と接触を持ち(金子民雄「秘められたベルリン使節」に詳しい)、自国に対するドイツの動向を探った。このコネクションを使い、ユダヤ人やナチス・ドイツに占領されたノルウェーのレジスタンス活動家を救い出したこともあった。なおヘディンは、16分の1でユダヤ人の血筋(ヘディンを貶める巧妙な告発であったが、自身はこれを誇りであると偏見誹謗を一蹴した)を引いていたが、新聞紙上で台頭期のナチスを礼賛したこともあった。 これらの行動が原因で、第二次世界大戦終結後にスウェーデン国内ではヘディンを「ナチス・ドイツに協力した」として大きく批判された。 1952年、ヘディンはストックホルムで没した。没する直前まで、探検に関する著述活動を行っていた。 ストックホルムの民族学博物館(スウェーデン語版、英語版)に、ヘディンに関するライブラリーが併設され、蔵書には彼の収集した古文書や彼自身の著作物が含まれている。また、ウプサラ大学とスウェーデン自然歴史博物館に於いても彼の探検に関する事績や採集した鉱石等が保存されている。
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人物・生涯
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「ハリー・マーシャル・ウォード」の記事における「人物・生涯」の解説
イングランド西部のヘレフォードに生まれた。トマス・ヘンリー・ハクスリーが教えていたサウスケンジントンの公立夜間学校、「学芸局」(Science and Art Department)で学んだ後、1875年にマンチェスター大学のオーウェン・カレッジ、1876年からケンブリッジ大学のクライスト・カレッジで学んだ。ケンブリッジ大学の学資は学芸局で共に学んだ裕福なユダヤ人のルイス・ルーカスが負担した。ウォードは当時イギリスよりも植物病理学で進んでいたドイツのユリウス・フォン・ザックスとアントン・ド・バリーからも教えを受けた。 指導を受けた、ウィリアム・ターナー・シセルトン=ダイアーの推薦によって、1880年から1882年まで、セイロンの植民地政府に雇われて、セイロンのコーヒー栽培に影響を与えていたコーヒーサビ病の研究を行った。コーヒーの品種の多様化や、農園間に森林を設けて、感染を防ぐことを進めようとしたが、農園主たちは、島の環境を破壊し、単一のコーヒー品種を植えていたため、サビ病を防ぐことはできなかった。 1883年にイギリスに戻り、オーウェン・カレッジの助講師となり、結婚した。1885年にロイヤル・インド工学カレッジ(Royal Indian. Engineering College、現在ではブリネル大学(英語版)の一部となった)の林学部の植物学の教授となった。 シセルトン=ダイアーの推薦で1886年にロンドン・リンネ協会のフェローに選ばれ、翌年には王立園芸協会のフェローにも選ばれた。1889年には王立協会フェローに選ばれ、同協会から1890年にクルーニアン・メダル、1893年にロイヤル・メダルを受賞。1900年から1901年の間、イギリス菌学会(英語版)の会長も務めた。 1895年にケンブリッジ大学の植物学の教授となり、植物学の教育環境の整備に貢献した。 息子のフランク・キングドン=ウォード(英語版)(英: Frank Kingdon-Ward)はチベット奥地やビルマ北部で多くの植物採集をおこなった植物学者となった。
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人物・生涯
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本名は野津和子。箏を中能島欣一と谷珠美に、さらに大学院を出てから、三絃を杵屋正邦に師事高校1年のときに箏を習い始め、大学入学の1年前から三味線の手ほどきを受けた。。NHK邦楽技能者育成会18期首席修了。東京芸術大学卒業。1976年(昭和51年)同大学院修了。1983年(昭和58年)より一柳慧、福士則夫、石井眞木らへの委嘱初演のリサイタルを重ね話題を呼ぶ。1990年(平成2年)4月に高橋悠治と出会い、以後共同で作品の制作を続ける。1991年(平成3年)9月、高橋・高田共作のコンピュータと三絃弾き語りのための『水……』を池袋電脳カフェにて初演。また、同年より海外各地で古典や現代の三絃曲を演奏。1993年(平成5年)岩城宏之指揮によるオーケストラ・アンサンブル金沢と、高橋悠治作曲三絃弾きうたいとオーケストラのための『鳥も使いか』を初演。1994年(平成6年)には、オーケストラアンサンブル金沢の海外公演にソリストとして同行し、シドニー・オペラハウス、メルボルン、シンガポールで再演、好評を博す。さらに日本フィル、大阪フィル、神奈川フィル、と共演。海外でのソロ公演も多数。1996年(平成8年)、米川裕枝と共同企画によるコンサート・シリーズ「闌声」をスタート、以後数回の公演を行う。1997年(平成9年)札幌コンサートホールKitara(キタラ)で開催された国際教育音楽祭パシフィック・サウンディング演奏会に出演。1999年(平成11年)和楽器の人材派遣・玉手箱を設立、代表となり、さらに同年、和楽器プロジェクト「糸」を結成、代表となる。2000年(平成12年)東京芸術大学非常勤講師をつとめる。また、アジアのダンサーとのコラボレーション、ジャズや即興系演奏家との共演を行い、三絃と歌のつくりだす新しい音楽を追求した。
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人物・生涯
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1870年、武蔵国八王子(現在の東京都八王子市)の八王子千人同心の家系に生まれた。三田村家は天保期に商人となり、機屋(織物買継商)を営んでいた。1952年に疎開先の山梨県下部温泉近くに所在する湯沢温泉の不二ホテルで没した。 自由民権運動に参加し日清戦争での従軍記者、報知新聞記者などを経て江戸風俗や文化を研究し、またそのための勉強会を主催した。参加者の一員の森銑三は、鳶魚・三村竹清・林若樹(林研海の子)を「江戸通の三大人」と評している。森の終生の友人で随筆家の柴田宵曲が、鳶魚の口述筆記を多く担当している(ですます調の著作は概ね口述筆記)。晩年に『鳶魚江戸ばなし』(全20冊、青蛙房)を編さんしている。 鳶魚の研究著述は、江戸時代の随筆や聞き書きを史料として、その時代を論じるというものであった。史料の出所がわからないために、当時の歴史学界ではさほどの評価はされなかったともいうが、鳶魚を再評価した山本博文によると、戦後歴史学のマルクス主義階級闘争史観で主に問題になっていた百姓一揆などについて論じなかったためにあまり引用されることがなかったのが低評価の原因だとしている。平成に入り山本博文らにより、他の在野の江戸学者と同様に再評価されている。 鳶魚の江戸学は、非常に広範で多岐に渡り、鳶魚江戸学と呼んでも差し支えないような個性的なものである。あまりにも膨大な業績のため、没後に考証史家の稲垣史生が、鳶魚の研究成果を事典形式にまとめた『三田村鳶魚 江戸武家事典』、『江戸生活事典』(青蛙房)を編纂しているほどである。 後年に下記の『三田村鳶魚全集』(全28巻、中央公論社/新編「鳶魚江戸文庫」中公文庫 全36巻)や『未刊随筆百種』(全12巻、同)に集成されている。
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人物・生涯
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千葉県佐倉出身。1901年東京帝国大学理科大学物理学科卒業。1909年に第一高等学校教授を経て、京都帝国大学理工科大学に着任。京都帝国大学理学博士。京都帝国大学名誉教授。 地震のP波初動が地表面を押し引きする向きの地理的な分布、初動分布が四象限分布することを発見した。また、和達清夫よりも早く、深発地震の存在を指摘した(観測結果から存在を完全に証明したのは和達)。また、月と太陽の引力による地球の弾性変形(地球潮汐)に関する研究でも世界の先端を走り、「志田数」にその名を残した。 1929年には「地球及地殻の剛性並に地震動に関する研究」で帝国学士院恩賜賞を受賞している。
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「ジャン・フランシスク・コワニエ」の記事における「人物・生涯」の解説
コワニェは、フランスのサン=テティエンヌの鉱山学校(後のサンテティエンヌ国立高等鉱業学校)を卒業したのち、メキシコ・マダガスカルなど世界各地の鉱山を視察し、1867年(慶應3年)より鉱業資源調査のために薩摩藩によって招聘されていた。 明治新政府は官営鉱山体制を確立すべく、明治元年、江戸幕府から受け継いだ産業資産のひとつである但馬国の生野鉱山(現・兵庫県朝来市生野町)の鉱山経営を近代化するため、コワニェは帝国主任鉱山技師として現地に派遣された。鉱山長・朝倉盛明の元、政府直轄となったこの鉱山を再興するため、鉱山学校(鉱山学伝習学校)を開設し新政府の技術者らを鉱山士として指導、近代的鉱山学の手法により当時の欧米先進技術を施し成果を挙げる。 坑口の補強にフランス式組石技術を採用し、鑿(のみ)と鏨(たがね)だけの人力のみに頼っていた採掘作業に火薬発破を導入、運搬作業の効率化を図り機械化を推進、軌道や巻揚機を新設した。また、より金品位の高い鉱石脈に眼をつけ、採掘の対象をそれまでの銅中心から金銀に変更するよう進言した。さらに、製錬した鉱石その他の物資輸送のための搬路整備を提案し、生野〜飾磨間に幅員6m・全長約49kmの、当時としては最新鋭のマカダム式舗装道路「生野鉱山寮馬車道」として1876年(明治9年)結実する。大阪の造幣寮(現・造幣局)への積出し港である飾磨港(現・姫路港)の改修なども指導し、発掘から積み出しまでの工程を整備した。 着任当初の鉱山の混乱(播但一揆に伴う鉱山支庁焼打ち事件:明治4年)もあり一時離日するが、その後再任し上記事業に本格的に取り組んだ。大蔵卿・大隈重信の官営鉱山抜本的改革についての諮問により、日本滞在中に各地の鉱山調査もあわせて行い、1874年(明治7年)『日本鉱物資源に関する覚書』(Note sur la richesse minérale du Japon)を著した。1877年(明治10年)1月に任を解かれ帰国、1902年、郷里のサンテティエンヌにて67歳で死去。 銀山現地にはコワニェの業績を称え、彼のブロンズ胸像が建つ。当時、生野の鉱山にはフランスから地質家・鉱山技師・冶金技師・坑夫・医師らが呼ばれ、その総数は24名に達したという。
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人物・生涯
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「グスタフ・ツォイナー」の記事における「人物・生涯」の解説
ザクセン州のケムニッツに生まれた。ケムニッツの王立職業学校(Chemnitz Konigliche Gewerbeschule、現在のケムニッツ工科大学)で工学を学んだ。1848年からフライベルク鉱山学校で、鉱物学者ユリウス・ワイスバッハ(Albin Julius Weisbach)のもとで鉱物学と金属学を学んだ。 ドイツ各地で広がった1848年革命がドレスデンに波及した時に革命に参加し、多くの仲間が死刑になり、刑務所に送られたのに対して、ツォイナーは釈放された。卒業し、1853年にライプツィヒ大学で博士号をとることはできたが、ザクソンで教職につくことは禁止された。 1853年に力学の工学雑誌"Der Civilenginieur. Zeitschrift fur das Ingenieurwesen"の編集者となりチューリッヒに移住した後の1857年まで編集者を続けた。1855年にチューリッヒ工科大学の教授となり、有名な工学者フランツ・リューロー(Franz Reuleaux)と働いた。リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)らのドレスデンの革命家たちもチューリッヒに亡命していた。 ツォイナーはチューリッヒで1858年に蒸気機関車の模型をつくったが、理論に興味を移し、設計の改善を行うことはなかった。1869年に人口を表すのに、ツォイナー図と呼ばれる3次元グラフを作った。これはヴィルヘルム・レキシスが改良を加え、レキシス図とよばれる事となった。 1865年にチューリッヒ工科大学の学長となった。1862年に革命の参加者に恩赦が与えられ、1871年にドイツに戻り、1875年にフライベルク鉱山学校の力学の教授となり、鉱山機械の研究をおこなった。フライベルク鉱山学校の学長を務めるかたわら、ドレスデン王立工科大学(現在のドレスデン工科大学)の学長を務めた。 1897年に創立されたドイツ技術者協会のドレスデン支部を後援し、ドイツ技術者協会は1993年にドイツでの工学分野の学生の最もすぐれた研究に対して贈る、グスタフ・ツォイナー賞を設けた。 Albin Weisbachによって鉱物、Zeuneriteの名前が命名された。
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北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。 1910年(明治43年)の有珠山噴火により、8月1日以降山麓に側火山となる明治新山(1910年(明治43年)に隆起したことから四十三山と命名された)が誕生する。群発地震が多発し、住民に避難が指示されたが、当時は壮瞥郵便局の局長代理を務めていた三松には通信確保のため退避の許可が下りず、地面に畳を敷いて徹夜で勤務していた。当時、凶兆などと騒がれていたハレー彗星が地球に接近していたが、彼は空に尾を引く彗星を眺め「やはりこの彗星は不吉なのだ」と思ったという。11月上旬、現地調査に訪れた火山学者・大森房吉、今村明恒、田中館秀三らの案内役を務め火山学への造詣を深めた。 1917年(大正6年)6月、杉山春己、安西岩吉、そして壮瞥郵便局長であった三松の3人が鉱山見学の帰り、西丸山山麓の洞爺湖畔で熱い湯が沸く現場を発見する。地面を掘り下げて湯を溜め、温度を測ったところ43度を記録。温泉として立派に成り立つことを確認し、道庁に発見者3人の名義で温泉利用の出願を提出する。同年秋には、温泉旅館「竜湖館」が建設された。これが、現在に続く温泉の開基である。 1943年(昭和18年)12月末の有感地震を契機に、有珠山麓の麦畑から突如として溶岩ドーム(昭和新山)が隆起し始めた。翌年初頭から翌々年まで続いたこの山が産まれるプロセスを、三松は私的に定点観測を続ける。その手法は地震の回数を皿に置いた豆で記録、台に顎を乗せ視点を固定し、水平に張った糸で日々の形状の変化を計測するという独創的なハンドトレスの手法で作成された。この図はのちに「ミマツダイヤグラム」と命名され、世界でも貴重な火山活動の記録となった。 その後、荒廃から守るために1946年(昭和21年)に私財を投じて土地ごと購入し天然記念物への申請などの保護に努めた。土地ごと買い取りの理由を本人は著書で「硫黄が採取できるということでの採掘を阻止するため」と記したほか、娘婿で「三松正夫記念館」館長の三松三朗の著書では「新山への愛着で所有したかったから」とされている。別の記事では「三松はこの世界的に貴重な火山の保護と家や農場を失った住民の生活の支援のために、山になってしまった土地を買い取った」とされている。ともあれ、昭和新山は現在、三松家の私有地であり、ニュージーランドのホワイト島等と同じく世界でも珍しい“私有地にある火山”となっている。1951年(昭和26年)国の「天然記念物」に指定され、1957年(昭和32年)には「特別天然記念物」に指定された。
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1833年6月15日(天保4年4月28日)、美作国久米北条郡垪和村大字中垪和字谷大瀬毘に大百姓、岸田修治郎の子として生まれた。1852年(嘉永5年)19歳、江戸に入り、翌年、津山藩儒昌谷精渓の赤松塾に入門。その紹介で同年、林図書頭に入門。しばらく後に三河挙母藩召し抱えの中小姓として奉公するも、脚気をわずらい郷里へ戻る。1856年(安政3年)、23歳で大坂へ出て藤沢東畡の泊園書院(現・ 関西大学)で漢学を学び、翌年には江戸の藤森天山に入門する。しかし、1858年(安政5年)25歳のときに天山が幕府に追われる身となり、翌年には係わりを疑われ上州伊香保へ逃れた。 その後、三河挙母藩に戻り儒官に昇任するが、まもなく脱藩し上州を経て江戸に入り、深川の妓楼の箱屋、湯屋の三助など下男として糊口をしのぐ。ほどなく妓楼の主人となり吉原に住むようになり、このころ、きままに暮らすをもじり「ままよのぎん」と名乗っていたが、転じて「銀次」となり、仲間内で「銀公」と呼ばれるようになったことから「吟香」と称するようになったという。また、その字面は陸游の詩の一節、「吟到梅花句亦香」からとったものであるともいう。 1863年(文久3年)4月、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねる。その後、ヘボンが当時手がけていた『和英語林集成』の編纂を手伝うようになる(ちなみに『和英語林集成』という題名は吟香が命名したとされる)。同時期、ジョセフ・ヒコの元で英語を学び、外国新聞を飜訳する『海外新聞』を発行する。 1866年(慶応2年)、『和英語林集成』の印刷刊行のためにヘボンと上海へ渡航、翌年5月までの9カ月を美華書館で印刷、校訂につとめた。この美華書館は、アメリカ長老会が1860年に上海に進出・設立した印刷所で、第6代館長ウィリアム・ギャンブル (William Gamble) のもと、当時アジア最高の印刷所であったが、片仮名の活字がなかったために吟香の版下に基いて鑄造しなければならなかった。1867年(慶応3年)5月、辞書は完成し、7月に横浜の居留地で発売された。同年日本へ帰国すると、まもなくヘボンより処方を教授された眼薬「精錡水」の販売をはじめた。 1873年、東京日日新聞に迎えられ主筆として活躍する。台湾出兵の際には初の従軍記者として1874年4月13日赴き『台湾従軍記』を連載、読者の好評を博した。文筆活動の傍ら、諸事業を拡大し実業家としても活躍。「精錡水」では、東京日日新聞の紙面に新聞広告をうち、売り上げ向上に活用しており、これは新聞広告の商業的活用の嚆矢となった。 1877年8月18日に東京日日新聞発行所である日報社を退社して9月銀座に楽善堂を開き売薬業に専念する。1880年、中国に上海に渡り楽善堂支店を開くと販路を各地に拡げる成功を収めた。 商業面で成功を収める傍ら、岸田は日中間の将来を考え始める。当時、中国各地に販路を拡大していた楽善堂には、大陸で活動することを志す人々が集まっており、岸田は彼らの活動を支援した。支援した人物の中には荒尾精がおり、日清貿易研究所や東亜同文書院の設立に中心的な役割を果たすようになる。 岸田自身も日清の友好・貿易の為に、1880年2月に榎本武揚・長岡護美・曽根俊虎らと興亜会(亜細亜協会)を組織している。 中国については、商業的な活動だけでなく欧米の医療技術普及についても活動を行い、中国各地に病院を設けた同仁会(1902年設立)にも積極的に参加した。一方的に欧米式の医療を広めるだけではなく、漢方薬にも注目し日本に普及させてもいる。また、現在でいう福祉活動にも積極的であり、盲人教育への関心も強く、前島密・中村正直・山尾庸三らと、1880年に授業を開始した楽善会訓盲院(現筑波大学附属盲学校)を創設している。 晩年は『清国地誌』の編纂に努めたが完成を待たず、1905年6月7日に心臓病と肺炎のため亡くなった。墓は東京の谷中墓地にある。 妻勝子とは子宝に恵まれ、7男5女をもうけた。長男銀次は吟香より先に没し、次男の艾生が吟香の名を継いだ。第9子、四男劉生は洋画家であり、その下の弟岸田辰彌は宝塚歌劇団創設期の演出家である。
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人物・生涯
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「ジョエル・ロブション」の記事における「人物・生涯」の解説
ポワチエ出身。15歳で、ホテル「ルレ・ド・ポワチエ」の見習いシェフとしてキャリアをスタートさせた。その後セーヌ川の船上シェフを務めた。28歳で「コンコルド・ラファエットホテル」の総料理長に就任、1976年にフランスの国家最優秀職人章(Meilleur Ouvrier de France, 略称MOF)の資格を取得。同年来日し、レストラン「ラ・ベル・エポック」で働く。 1981年には独立してレストラン「ジャマン」を開店。1982年にミシュラン1つ星、1983年にミシュラン2つ星、そして1984年には史上最短でミシュラン3つ星を獲得した。1994年に店名を「ジョエル・ロブション」へと改め、現在に至る。ロブションは、レストランガイド「ゴー・ミヨ」に「世紀のシェフ」として紹介された事でも知られている。1990年代以降はフランス国外とりわけ日本での活動が豊富で、日本のフレンチ業界に与えた影響も大きく、日本のメディアでは「フレンチの神様」や 「フレンチの皇帝」と称されることも多い。 1996年に現役を退くも、その味を愛してやまない人達からの熱烈な声に後押しされる形で2003年に料理人として現役復帰する。 2020年現在世界10カ国に店舗を持ち、ミシュランガイドにて総数33個の星を獲得しており、「世界一星を持つシェフ」としても知られている。日本国内では東京に9つの店舗を持ち、そのうちの「ガストロノミー ジョエル・ロブション(恵比寿ガーデンプレイス)」が三つ星、「ラ ターブル ドゥ ジョエル・ロブション(恵比寿ガーデンプレイス)」が二つ星、「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション(六本木ヒルズ)」が二つ星を獲得している。 日本国内でのロブション・グループの経営母体は、ピザーラの親会社としても知られる株式会社フォーシーズが受け持っている。世界的には、東京、香港、マカオとミシュラン3つ星レストラン3軒の総料理長で、世界最多3つ星シェフ。 ドルドーニュ県でレストランを夫婦で経営する娘・ソフィーと、福岡在住の日本女性との息子・ルイ(龍依)・ロブション・安部がいる。ルイは日仏産品の輸出入会社を経営している。
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人物・生涯
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釧路でアイヌの家族に生まれる。伯父に、エカシとして有名な山本多助がいる。幼少期より、母の伊賀ふでより、アイヌ文様刺繡とアイヌ歌舞ウポポを習う。兄に、アイヌ民族活動家の山本一昭がいる。少女時代に映画にも出演したことがある。このときの写真が無断使用された学術書が出版され、「アイヌ民族肖像権裁判」となる。 首都圏で、アニメーション彩色の仕事につく。その後、1983年に首都圏在住のアイヌの民族団体「アイヌ民族の現在を考えるレラの会」の立ち上げに関わり、アイヌの復権運動に大きく関わるようになる。その一方、アイヌ文様刺繡家として生計を立て、知名度を上げる。その後、札幌に移り住む。 また、1985年のアイヌ民族肖像権裁判でマスメディアに登場する。1969年に出版された『アイヌ民族誌』(第一法規出版)で、少女時代に映画撮影でとられたアイヌ民族衣装のいでたちの顔つき写真が無断で使われ、見出しに「滅び行く民族」という語句がつけられた。このことを知ったチカップ美恵子は、そのページの著者の更科源蔵らに抗議する。満足する謝罪は得られず1985年に札幌地方裁判所に提訴、「アイヌ民族肖像権裁判」として知られるようになる。その年に、更科源蔵は死去するが、出版社と監修者を相手に、裁判を継続する。1988年に、チカップ美恵子への謝罪、その他の条件で和解となる。この事件は、波紋を呼び、その後、日本における、アイヌを対象とする人類学・民族学の研究にあり方について一石を投じることになった。 その後もアイヌの尊厳、先住民族としてのアイヌ民族の地位の確立、その他アイヌ民族の立場として、著書を出版し発言する。アイヌ文様刺繡を初めとしたアイヌ文化の奥行きの深さについて、説いている内容の文章が多い。その一方で、アイヌを搾取・収奪してきた近代日本に対して、アイヌの立場として告発するような表現が多くあった。北方領土問題については、北海道ウタリ協会の立場と異なり、19世紀にアイヌを「北方領土」から追い出した日本が返還を要求することを非難するという立場をとっていた。ピースボートに、積極的に参加している。また、最近の著書では、日本の一般市民との対話を大切にした雰囲気の表現となっていて、NHK出版から、『アイヌ・モシリの風』を出している。 2002年、第6回女性文化賞受賞。 2006年に急性骨髄性白血病を患い入院。その後講演活動を再開した。2009年9月に再入院し、2010年2月5日午前11時22分(JST)、入院先の札幌市内の病院で死去した。61歳没。 2012年にはチカップ美恵子の故郷である釧路市の北海道立釧路芸術館で「チカップ美恵子展~アイヌ文様刺繡と詩の世界から~」と題された作品展が4月13日から6月27日まで開催された。
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人物・生涯
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「ジョージ・ビドル・エアリー」の記事における「人物・生涯」の解説
イングランドのノーサンバーランド州アニックで生まれる。1819年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。1836年に王立協会のフェローに選出された。グリニッジ天文台長時代に同天文台の設備・機構を大幅に整備し、エアリー自身も観測機械を発明・改良した。位置天文学に貢献する一方、光の回折・干渉等光学の研究にも従事し、円形開口を通過した光の回折によって生じる光学現象エアリーディスクにその名を残している。アイソスタシー説の提唱者でもある。1871年にバス勲章コンパニオンを受勲し、翌1872年にバス勲章ナイト・コンパニオンに昇叙されサーとなっている。
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人物・生涯
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ポルトガル中部大西洋岸のアヴェイロ県エスタレージャ(ポルトガル語版)北郊のアヴァンカ(ポルトガル語版)に生まれた。モニスは医学を故郷に近いコインブラ大学で学び、神経学をフランスのボルドーとパリで学んだ。1902年コインブラ大学に神経学科の主任教授として戻る。リスボン大学教授となり、20年以上務めた。その間、政治の世界に入る。政治家としてはポルトガルの国会議員を1903年から1917年の間務め、1917年外務大臣となる。1918年から1919年まで第一次世界大戦後に開かれたパリ講和会議の首席代表となった。スペイン大使を1917年から1919年まで(第一次共和制)務める。 その後、政治家を辞めて、1944年までの間はリスボン大学で神経学の教授となる。その間、1927年にX線を利用した脳血管造影法を開発する。像の陰影で脳の腫瘍や動静脈奇形などの神経性の病気の原因を診断する方法を考案する。
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人物・生涯
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「ピエール・ガッサンディ」の記事における「人物・生涯」の解説
プロヴァンス地方でディーニュ=レ=バン近郊シャンテルシェ(Champtercier)で貧しい農夫の子として生まれディーニュ大学に聴講し、言語学と数学に才能を示す。エクサンプロヴァンス大学で哲学を学び16歳で修辞学の教師となり、3年後に神学と哲学の教授となった。翌年の1612年に神学を講義するためにディーニュ大学に招聘され、1616年にアヴィニョンで神学の学位を授与され翌年に僧職に就いた。同年、エクサンプロヴァンス大学で哲学教授となり、徐々に神学研究から遠のくことになる。1628年から1633年までフランドルとオランダへ旅行。1633年に元老員議員のベイレスシウスに推挙され、聖堂参事会員となりディーニュ聖堂学院の学長となる。1645年にパリのコレージュ・ロアイヤルの数学教授となり、1648年に体調を崩すまで講義を行った。パリで没する。
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人物・生涯
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神戸市灘区生まれ。旧制神戸市立第一中学校(現神戸市立葺合高等学校)、神戸大学予科1953年に神戸経済大学(現神戸大学)経済学部を卒業。新庄博ゼミ出身。1954年に神戸大学経済学部助手、1957年神戸商科大学講師を経て、1959年同助教授となった。フルブライト・プログラムでハーバード大学に留学し、スタンフォード大学を経て、1966年に神戸商科大学教授に就任。1969年神戸大学経済学部助教授、1972年同教授となった。 イェール大学、オックスフォード大学、ミュンスター大学などを経て、1993年に神戸大学名誉教授となった。1993年から2002年まで神戸学院大学経済学部教授を務めた。 2013年11月9日、膵臓癌のため死去。享年83。
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人物・生涯
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「ファイズッラ・ホジャエフ」の記事における「人物・生涯」の解説
ホジャエフは、ブハラの裕福な商家に生まれ、1907年にモスクワに留学した。モスクワでの生活を経て、ブハラの伝統的社会の後進性を痛感し、改革の必要性を認識するようになったとされる。1912年にブハラへ帰国した後、叔父のオスマン・ホジャエフやアブドゥラウフ・フィトラトらとともに、改革派ムスリム知識人(ジャディード)らで構成された青年ブハラ人グループに参加した。 1917年のロシア2月革命の勃発を受け、ブハラ・アミール国君主のアーリム・ハーンは改革勅令を発布して、ロシア臨時政府への恭順を示した。これを不十分とするホジャエフら青年ブハラ人グループは、ブハラにて反アミールの示威行動を行ったが、アミール当局の弾圧を受けて、ブハラに隣接するロシア租界(カガン市)に亡命することとなった。 ホジャエフは、その後ボリシェヴィキに接近し、ロシア10月革命の勃発後には、タシュケントのトルキスタン人民委員会議議長コレソフに対して、ブハラへの軍事介入を要請した。1918年3月に、コレソフ率いる赤軍部隊と青年ブハラ人勢力は、ブハラに侵攻してアミール政権の転覆を図ったが失敗。軍事クーデタに失敗したホジャエフはタシケントに亡命した。 ホジャエフは、タシケントで反アミール勢力の糾合に努め、1920年には、ブハラ共産党組織と、傘下の青年ブハラ人勢力の合同を行った。同年9月、青年ブハラ人勢力は赤軍と共にブハラ市に侵攻し、アミール政府を打倒、ブハラ人民ソビエト共和国を樹立した。ホジャエフは新政権の人民委員会議議長に選出された。 ブハラ革命により追放されたアミールのアーリム・ハーンは、その後も旧勢力を糾合して抵抗運動(バスマチ運動)を続けたため、自前の軍事力を持たないブハラの新政権は、赤軍の軍事力に依存する存在であった。ブハラ指導部は、ロシア共産党の影響下に置かれ、1922年にブハラ共産党はロシア共産党に合流し、ホジャエフもロシア共産党に入党した。1923年6月のロシア共産党中央委員会での協議にて、ブハラ指導部の民族主義的偏向性が批判され、多くの青年ブハラ人活動家が政権から追放された。 その一方、ホジャエフは粛清を免れ、その後もブハラ指導部に留まった。1924年の民族境界画定工作では、ホジャエフはフェルガナ、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァに居住するムスリム定住民を、「ウズベク人」として識別することを主張し、中央アジアの政治単位の再編に中心的な役割を果たした。民族境界画定の結果、ブハラ人民ソビエト共和国は廃止され、ホジャエフは、新設のウズベク・ソビエト社会主義共和国の人民委員会議議長に就任した。 1930年代に入り、スターリンの大粛清が始まると、1937年にホジャエフは政府の全役職から解任、逮捕され、ブハーリン、ルイコフらと共に、「トロツキスト」「右派修正主義」の罪状で、1938年3月13日に処刑された。 1956年のスターリン批判を機に名誉回復がなされた。独立後のウズベキスタンでは、ソビエト政権への協力が批判される一方、ウズベク人の独立のための貢献が再評価されるなど、評価は賛否両論とされる。
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人物・生涯
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福井県福井市宝永上町に開業医の四男として生まれ、兄に榊原亨がいる。幕臣・榊原職直の後裔である。 旧制福井中学(現福井県立藤島高等学校)を経て、第六高等学校時代の1930年(昭和5年)、帝大生であった次兄・周と上京中の母が和田倉門辺りでタクシー乗車中に交通事故に遭い、母は頸髄損傷が元で、周も間もなく亡くなった。その後東京帝国大学に進み医学部を卒業。都築正男教授の医学部第二外科講座に入局。大学同期に、若月俊一、津川武一、近藤宏二など。 第二次世界大戦中は軍医としてフィリピン戦線に従軍し、1943年(昭和18年)には東京帝大医学部の支援で同仁会が設立した上海同仁大学の教授として赴任するが、日本の降伏後に同大は接収されたため、46年に帰国し東京帝大医学部第二外科講座で医局長を担う。50年に東京女子医科大学外科主任教授に就任し、56年には執刀した心臓手術がTBSラジオで史上初の実況中継が行われた。 1967年(昭和42年)6月、自らが発起人となり財団法人日本心臓血圧研究振興会を設立し、日本心臓血管外科学会会長も務めた。73年から76年まで筑波大学副学長。77年に東京・代々木(新宿駅南口)に心臓病専門の榊原記念病院を創設した。 俳優の田宮二郎と交友があり、この縁で田宮は東京女子医大にある学生用の手術見学室に通って榊原の手術を見学した。当時、フジテレビ本社が東京女子医大の隣にあった事もあり、テレビドラマ『白い巨塔』の収録中も田宮は頻繁に同見学室に通った。この経験が財前五郎の役作りに大きく役立ったという。
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人物・生涯
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アルジェリア西部の小都市マグニア(アラビア語版、フランス語版、英語版)の農家に生まれた。スーフィー信仰の家系。1936年より宗主国フランスの軍隊に志願兵として加わった。第二次世界大戦でも自由フランス軍兵士としてイタリア戦線で活躍し、幾度か勲章を受けた。 大戦後は、母国アルジェリアにて地方警察官に応募するも、登録を拒否される。同じ時期、ベン・ベラの母がタバコ店を開く許可を当局が与えなかったこともあって、フランスの植民地支配に反発。反植民地主義勢力「民主主義と自由の勝利運動」に加わり、地方議員に選出された。しかし、同運動が当局によって解散させられると、地下活動に身を寄せ、1949年にオランにあるフランス軍士官の詰め所の急襲を組織した。1950年に逮捕されてブリダ近郊の刑務所に収監されるが、1952年に脱獄を果たした。 1954年よりアルジェリア戦争が勃発すると、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の中心人物としてエジプトのカイロ、リビアに逃れつつ独立戦争を展開した。1956年10月22日、チュニス発ラバト行きの航空機をハイジャックし、アルジェリアのメイスン・ブランチ空港に強制着陸させた。すぐにフランス軍によって再び捕らえられ、1962年までフランス国内の獄中で過ごした。この間にアルジェリア共和国臨時政府の副首相に選ばれた。 独立後、社会主義的政策の是非などをめぐってベン・ヘッダ(アラビア語版、フランス語版、英語版)と対立したが、彼を抑えて翌1963年に初代大統領になった。大統領に就任した後、非同盟運動を積極的に主導し、アルジェリアはキューバ革命後のキューバと共に第三世界の中心的国家となった。 1964年、ソ連邦英雄称号をソ連政府から授与されたが、このような姿勢から、1965年2月27日にアルジェで開催された第二回アジア・アフリカ経済会議でキューバの閣僚チェ・ゲバラがソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」と批判する演説を行った際に、ゲバラと共同で演説を起草したのはベン・ベラだった。 しかし、同年アルジェで開催される予定だった非同盟諸国首脳会議の直前にウアリ・ブーメディエン(アラビア語版、フランス語版、英語版)国防相による軍事クーデターで失脚すると、1980年まで自宅軟禁下に置かれた。ブーメディエン政権下では、ベン・ベラの存在はタブーとされ、公の場で彼の名前に言及することは厳しく規制された。 1978年、ブーメディエンが死去すると、後任のシャドリ・ベンジャディード(アラビア語版、フランス語版、英語版)大統領によって自宅軟禁が解除され、10年間家族と共にスイスのローザンヌで暮らした。1990年に祖国への帰国を許された。 1991年に行われた議会選挙では、自ら「アルジェリア民主主義運動党」(Movement for the Democracy in Algeria Party MDAP)を結党し、選挙に臨んだものの、わずか2パーセントの票しか獲得できなかった。1997年にはMDAPは当局によって解党させられた。晩年は、政治の表舞台からは去ったものの、一貫してアブデルアズィーズ・ブーテフリカ大統領の政策を批判し続けた。 2012年4月11日、病気のためにアルジェにある家族宅で死去。93歳没。
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人物・生涯
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北洋武備学堂を卒業して歩兵学堂の監督官になった。1903年に錬兵所ができると軍学司の正使に任じられる。辛亥革命が起こると、北洋軍第1軍を率いて武昌蜂起の鎮圧に向かった。10月27日に漢口への攻撃を開始し、市街地を焼き討ちにしてあぶりだす戦術で11月1日に漢口を陥落、27日には漢陽も陥落させ、そのまま破竹の勢いで武昌に迫ろうとしていた。しかし、革命派と手打ちにしようとしていた袁世凱の命で急遽段祺瑞と交代させられ、第2軍総統官兼禁衛軍司令官に転属した。 1913年に袁世凱に対する反乱が南方で起こると、軍を進めて南京に進攻して鎮圧している。 1916年に袁世凱が亡くなると、馮国璋は中華民国の副総統に選ばれる。翌年、袁世凱の後を継いで大総統になっていた黎元洪と国務総理の段祺瑞の政争(府院の争い)が起こり、7月の張勲復辟で黎元洪は大総統から引きずり下ろされると、馮国璋が代理総統に選ばれる。 ここに至って北洋軍閥は直隷派(馮国璋)・安徽派(段祺瑞)・奉天派(張作霖)に分かれて政争を繰り広げる。馮国璋は直隷派の首魁として湖北督軍王占元や江西督軍李純と組んで、北洋政府の中心となっていた安徽派の段祺瑞に対抗した。1917年9月、孫文が広東軍政府を組織して事実上中華民国が分裂状態になると、南征による武力統一を主張する段祺瑞に対抗して和平統一を主張した。だが奉天派と連合した段祺瑞は南征を強行、加えて新国会での安徽派の多数派工作によって1918年に馮国璋政権は瓦解する。 1919年12月28日、北京で病死。
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人物・生涯
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1882年5月15日、京都府峰山町(後の京丹後市)に生まれる。 内藤湖南・桑原隲藏らと共に京大東洋史学の黄金期を築き、「塞外史」の「西域史」の研究においてユーラシア大陸各地の遺文を解明するなど、日本の西域史学の確立に貢献した。内藤・桑原の亡き後は、宮崎市定や田村實造らを率い、世界的な東洋史研究の拠点としての京大の立場を確固たるものとした。 1938年には、同じ文学部教授であった濱田耕作京都帝国大学総長の急逝に伴い後任総長に任ぜられ、厳しい時局の中で人文科学研究所・結核研究所・木材研究所などの設立に尽力した。また、広い学識と知見を持った羽田の弁舌は、しばしば他大学の総長を圧倒した。その弁舌をもって、1943年には大学院学生の特別研究制度を実現させた。京大農学部グラウンドで行われた学徒出陣式の際には「諸君、行き給え。そして帰り給え。大学は門を開いて諸君を待っている」という訓示を行い、多くの学生が涙したと言われる。なお京都帝国大学・京都大学では、羽田を最後に文学部から総長に選ばれた者はいない。 1955年4月13日、膵臓癌に肺炎を併発して京都大学医学部附属病院で死去した。 内陸アジア研究の発展に寄与した功績を顕彰するため、1966年に旧自宅付近がユーラシア文化研究センターになっている。 主著の一つである『西域文明史概論・西域文化史』が、1992年平凡社東洋文庫から復刊された。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 16:20 UTC 版)
東京府にて大蔵省専売局の官吏の第5子(末子)として生まれた。小学校に入学して間もなく父の転任で京都に転居、9歳で木琴を始める。小学4年生の3学期で東京に戻る。当時は病弱で、小学5年生と6年生の2年間に10か月間病欠し、骨膜炎で片脚切断の寸前まで行ったことがある。 1945年5月、旧制中学1年生のとき空襲で罹災したため、親類を頼って金沢市に疎開、2学期間を旧制金沢第一中学校(現:石川県立金沢泉丘高等学校)に学ぶ。敗戦後、父の勤めの関係で岐阜県瑞浪に転居、ここで1年半を過ごし、旧制多治見中学校(現:岐阜県立多治見高等学校)に通学する。 1947年、旧制東京都立第一中学校(現:東京都立日比谷高等学校)の編入試験に失敗して学習院中等科に編入学する。学習院高等科2年の時、映画『オーケストラの少女』を観て感動し、音楽家を志すに至る。同校在学中から放送局で木琴を独奏する。 1951年、学習院高等科を卒業する。東京大学独文学科への進学を志していたが、第二次試験の前の晩に高熱を発して受験を断念する。現役で東京芸術大学音楽学部器楽科打楽器部に進んだが、1年生の終わり頃から学内規則を破って近衛秀麿のオーケストラでティンパニを演奏し始め、授業に出ることなく1年分の単位も取得しないまま、6年間在学ののち中退。学校には、1年後輩の友人山本直純と後輩たちに声を掛け合って集めた学生オーケストラを指揮するために顔を出す一方で、山本とともに東京芸大指揮科教員渡邉暁雄の音羽の自宅や目白の齋藤秀雄指揮教室にたびたび通って指揮のレッスンを受けた。 当時の東京芸大音楽学部には専攻によって根強い差別が存在し、作曲科と指揮科が階級の最上位に属し、次いでピアノ科、その下が弦楽器科、残りは全て「被差別民族」であり、その中で最下位に属するのが管・打楽器部で、特に「タイコは管・打というように、順番からして管の次なのだから、タイコ屋は、下層中の下層、少数中の少数で年中差別を感じているような状態だった」「ピアノ科の女の子とつきあおうとして、『お父さまにタイコの人なんかと友達になっちゃいけないっていわれたのヨ』なんて追っ払われたことが何度もある」と語っている。学生時代から、各所の音楽ホールに忍び込み、観客席ではなく舞台裏などで音楽を聴くことを繰り返していてブラックリスト扱いになっていた。指揮者を正面から見るために、舞台上の管楽器用のヒナ段の中に忍び込んでコンサートを聴くこともたびたびであった。数々の悪行から、後年、岩城が指揮者に就任したのちも、舞台関係者に誤って不法侵入者扱いされたことがある。 NHK交響楽団初代事務長有馬大五郎からの誘いと推薦により、1954年(芸大4年)の9月から同楽団指揮研究員として副指揮やライブラリアンの仕事を始め、1960年の同楽団世界一周演奏旅行では常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター、指揮研究員同僚の外山雄三とともに指揮者陣の一人として同行、ヨーロッパ・デビューを果たす。これが機縁となり、1963年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に招かれてオール・チャイコフスキー・プログラムを指揮した。1970年の日本万国博覧会開会式では、NHK交響楽団が当日の式典での楽曲演奏を担当したが、その指揮をしている。 1977年、急病のベルナルト・ハイティンクの代役として、日本人として初めてウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会の指揮台に登り、ベルリオーズの幻想交響曲他を指揮した。翌シーズンのウィーン・フィル定期にも登場、バルトークの管弦楽のための協奏曲他を指揮した。そのほか、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮台にも立った。 晩年の顕著な活動としては、2004年12月31日の昼から翌2005年1月1日の未明にかけて、東京文化会館でベートーヴェンの全交響曲を1人で指揮したことが知られている(ベートーヴェンは凄い! 全交響曲連続演奏会)。同様の公演は、翌2005年12月31日にも東京芸術劇場で行われた。なお、2回目の公演では健康面に配慮して途中1時間の休憩時間を設けたり、医師の日野原重明を聴衆として立ち会わせ、休憩時間に体調チェックを行ってプログラムを消化していった。この演奏会はインターネットでもストリーミング中継された。 1987年、頸椎後縦靭帯骨化症を患ったのを皮切りに、1989年胃がん、2001年喉頭腫瘍、2005年には肺がんと立て続けに病魔に襲われたものの、そのたびに復活し力強い指揮姿を披露した。しかし、2006年5月24日、東京・紀尾井ホールで東京混声合唱団の指揮後に体調を崩して入院し、同年6月13日午前0時20分、心不全のため都内の病院にて没した。73歳没。 「初演魔」として知られ、特に自身が音楽監督を務めたオーケストラ・アンサンブル金沢では、コンポーザー・イン・レジデンス(専属作曲家)制を敷き、委嘱曲を世界初演することに意欲を燃やした。また、黛敏郎の作品を精力的に指揮した。 名古屋フィルハーモニー交響楽団初代音楽総監督、NHK交響楽団正指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督、東京混声合唱団音楽監督、京都市交響楽団首席客演指揮者、札幌交響楽団桂冠指揮者、メルボルン交響楽団終身桂冠指揮者を務めた。ピアニストの木村かをりは妻。指揮活動のほかにも、打楽器奏者としての演奏活動、テレビ・ラジオへの出演、プロデューサー、音楽アドバイザー、執筆など多彩な活動を行った。また、東京芸術大学指揮科客員教授として後進の育成にも当たった。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 18:36 UTC 版)
「セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー」の記事における「人物・生涯」の解説
ムーロムに生まれ、家族とともにサンクトペテルブルクに移ると、サンクトペテルブルク国立工業大学でドミトリ・メンデレーエフのもとで化学を学び、帝国芸術アカデミーで音楽と絵画を学んだ。 赤・青・緑のフィルターを通して3枚のモノクロ乾板を素早く連続撮影することによりカラー写真を撮る方法を開発(三色合成)。ニコライ2世の援助によりロシア各地を撮影して数千枚のカラー写真を残した。これらの写真はロシア革命により失われたものが多い帝政ロシア末期の貴重な記録として現在も評価が高い。これらの写真を基にした印刷物も残した。 ロシア革命後にパリへ逃れ、同地で没した。彼が撮影した膨大な写真乾板は戦火を避けてパリの地下室に秘匿され、第二次世界大戦後にアメリカ議会図書館に買い取られた。現在では、デジタル合成により復元されたカラー画像がインターネットにより広く知られるようになった。
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人物・生涯
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「エリーネ・エリクセン」の記事における「人物・生涯」の解説
仕立て職人の娘として生まれる。1900年、エドヴァルドと結婚。人魚姫の像以前にもThe First Grief や The Suffererなどの夫の作品のモデルをつとめる。 1963年9月24日、死去。夫と共にコペンハーゲンのヴェストル墓地(デンマーク語版、英語版)に埋葬される。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 19:37 UTC 版)
祖父田中玄淵の薫陶を受け、天保10年(1839年)造士館に入学。弘化2年(1845年)江戸に遊学して昌平黌に入るが、留学中藤田東湖、また特に箕作阮甫から蘭学を学んで西洋兵学に精通する。嘉永元年(1848年)蝦夷地・樺太に渡って見聞を広める。嘉永6年(1853年)黒船が来航すると水夫や鍛冶師に扮して蒸気船や大砲の視察を行った。安政2年(1855年)徳川斉昭の求めに応じて軍艦や海防について論じて称された。しかし同年に志士を糾合する謀略が明るみになったことから江戸町奉行に捕らえられ、薩摩に送られる。 文久3年(1863年)薩英戦争が起こると砲術に精通していたことを買われ、砲台の建造と大砲製造の主事を務めた。同年、島津久光の上京に従軍。元治元年(1864年)摂津沖の防備を急務と考える島津久光の命を受けて湾岸防備設備の設計を行って久光に提出した。久光から献策を受けた幕府より台場造営を命じられ、100人扶持。なおこのとき、一橋家家臣だった渋沢栄一が内偵のために一時期内弟子となっている。また久光に建言して楠木正成ら南朝の忠臣らの顕彰のため、湊川の戦いの跡地に英霊を祀ることを上奏させている。慶応4年(1868年)山陰道鎮撫総督参謀書記として山陰道を西進し、生野代官所が抵抗を見せたため黒田清綱とともにこれを破り、代官横田新之丞を追放。総督西園寺公望から代官所の占領を命じられ、直後に発生した一揆への対応に苦慮するが、鉄砲隊を駆使して鎮圧に成功した。同年、府中裁判所が設置されると判事に就任。 明治3年(1870年)官を辞し、三国屋要七と名乗って京都で武器商人に転身した。明治6年(1873年)かねてより建立を建言していた湊川神社の初代宮司に任じられる。明治10年(1877年)廣田神社宮司に転任を命じられたものの、これを辞退し引き続き湊川神社宮司を務めた。明治30年(1897年)湊川菊水文庫の官舎で没。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:36 UTC 版)
京都府福知山市の生まれ。京都三中(現 京都府立福知山高等学校)を卒業し、早稲田大学文学部の英文学科に入学するも中退、1909年に東京毎日新聞社に入社した。1909年に、やまと新聞に移籍し、1915年には、朝日新聞社に移る。1916年に、特派員として東久邇宮の槍ヶ岳登山に随行する。1919年、神戸支局長となる。西宮市甲子園に住み、六甲山の岩場をロック・ガーデンと命名する。また甲子園球場にあるアルプススタンドを最初にアルプスと形容したという説がある。 1928年には、日本初のロック・クライミングを目的とした山岳会であるRCC同人を、水野祥太郎や西岡一雄とともに発足させる。1929年、やはり日本初の岩登りの理論書である『岩登り術』を刊行するとともに、8月には、案内人の松井憲三とともに、北穂高岳滝谷の初登攀に成功した。 1930年5月、日本を離れ、パリに滞在。6月から9月の間に、モンブラン・マッターホルンなどの岩場を登攀した。1932年に、樺太の突岨山を登攀した。1935年、京都大学山岳部の白頭山への冬季遠征に記者として参加した。1936年には、1月に石鎚山の冬季初登を成し遂げた。 1959年、日本山岳会顧問。第2次RCCの創設時には奥山章に請われて顧問に就任した。
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人物・生涯
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岡山県勝田郡勝間田町(現:勝田郡勝央町)に生まれる。京都帝国大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。「河川形態型」が発表された同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。
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人物・生涯
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「セオドア・フォン・カルマン」の記事における「人物・生涯」の解説
ブダペスト生まれのユダヤ人で、1902年にブダペスト工科経済大学を卒業。父は教師・教育学者のカールマーン・モール(ハンガリー語版)(ハンガリー語: Kármán Mór)。1906年、ゲッティンゲン大学でルートヴィヒ・プラントルのもとに留学。 4年間ゲッティンゲン大学で教えた後、1912年にアーヘン工科大学の新設の航空研究所の所長になり、1915年から1918年までオーストリア・ハンガリー軍のためにヘリコプターの研究で中断し、1918年にはハンガリー民主共和国のクン・ベーラ政権下で教育副大臣を務めるも、政権崩壊後はドイツに戻った。 1928年頃、日本・神戸の航空機メーカー川西航空機に招聘され、川西試験風洞を設計。 1930年、カリフォルニア工科大学に移り、グッゲンハイム航空研究所(英語版)所長になった。1946年にロンドン王立協会のフェローに選出された。また彼は、中国の宇宙開発を主導した銭学森の師であった。 空気力学の研究に大きな業績を残し、また航空機開発の分野においても活躍した。カルマン渦列に名前を残している。1958年ティモシェンコ・メダル受賞。ヘンリー・アーノルドと科学諮問委員会(英語版)を立ち上げてこれは多くの科学委員会のモデルとなり、1962年アメリカ国家科学賞の最初の受賞者となった。同年ヴィルヘルム・エクスナー・メダル受賞。 国際宇宙航行アカデミーによってその名を記念した「フォン・カルマン賞(英: von Karman Award)」が設けられ、航空・宇宙工学の分野において大きな貢献をなした研究者や団体に贈られている。カルマンの名を冠した賞としては他に米国土木学会の「セオドア・フォン・カルマン・メダル(英語版)」とアメリカ応用数理学会の「セオドア・フォン・カルマン賞(英語版)」が設けられている。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 06:33 UTC 版)
彼は紀元前4世紀ごろに天動説を唱えた。円錐の体積は、同じ半径、同じ高さの円柱の体積の3分の1になることを証明した。これらの成果は、ユークリッドの著書に記載された。 天文学者としては、地球球体説を採用し、また地球を中心に他の天体がその周りを回る天動説の立場に立った。彼によると、他の星々は各々個別の透明な球にはりついており、その球は地球を中心に速さをかえることなく回転しつづける(同心球モデル)。これによって、惑星の逆行を大雑把に説明することに成功したが、定量的な予測には至らなかった。彼の説明はアリストテレスの宇宙論に取り入れられる。 ヒッパルコスやプトレマイオスは同じ天動説に立ちながら、惑星や月、太陽の軌道の説明には、周転円やエカントに基づいた全く別の理論を用い、数値的に精度のよい予測に成功した。しかし、これらの新しいモデルはアリストテレスの自然学の原理に必ずしも充実でなく、特にエカントを実現する物理的な仕組みは誰にも想像がつかなかった。そのため、エウドクソスの同心球モデルを改良してプトレマイオスの理論を置き換えようとする動きは、一度ならずあった。特に、12世紀にイスラム圏だったスペインで起こった一連の研究は、ヘブライ語やラテン語にも翻訳され、プトレマイオス理論からの脱却を目指す動きのきっかけを与えることになる。
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人物・生涯
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代々、宮廷学者の地位を世襲しており、バースカラの息子やその子孫もその地位を継承していることが記録に残っている。父マヘーシュヴァラ(Mahesvara)は占星術師で、バースカラに数学を教え、バースカラはそれを息子 Loksamudra に継承させた。Loksamudra の息子は1207年に学校設立を助け、そこでバースカラの書いた文書の研究を行った。 バースカラは、12世紀の数学および天文学の発展に大きな業績を残した。主な著書として、『リーラーヴァティ』 (Lilavati) (主に算術を扱っている)、『ビージャガニタ』 (Bijaganita) (代数学)、『シッダーンタ・シローマニ』 (Siddhānta Shiromani) (1150年)がある。『シッダーンタ・シローマニ』は Goladhyaya(球面)と Grahaganita(惑星の数学)の2部構成になっている。
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人物・生涯
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「渡辺渡 (冶金学者)」の記事における「人物・生涯」の解説
長崎県出身。大学南校を経て、1879年(明治12年)、東京大学理学部を卒業し、東京大学校助教授となった。1882年(明治15年)から1885年(明治18年)まで冶金鉱山学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学ぶ。1886年(明治19年)、東京帝国大学工科大学教授に就任し、農商務省技師を兼ね佐渡鉱山局に勤務した。また宮内省で御料鉱山設置の構想が進むと、御料局技師・理事・佐渡支庁長に任命された。1891年(明治24年)には工学博士の学位を得た。しかし1896年(明治29年)に御料鉱山構想が中止になると退官した。しかし翌年に再び工科大学教授に任命され、農商務省鉱山局長を兼ねた。1899年(明治32年)、局長を辞し欧米に出張した。1902年(明治35年)から工科大学長を務めた。
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人物・生涯
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1938年、愛知県名古屋市に生まれる。湘南学園中学校、東京都立小山台高等学校を経て、1956年東京大学に入学。学生時代は共産主義者同盟(ブント)の指導部の一人であり、東大在学中に姫岡玲治の筆名で執筆した論文「民主主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判」は、共産主義者同盟の理論的支柱となり、「姫岡国独資」と略称された。[要出典]1960年1月16日には、日米安保条約改定のための岸信介首相訪米阻止の為に羽田空港ロビーを占拠した学生一味に加わり、現行犯逮捕されている。 1962年 東京大学経済学部を卒業し、学生運動から離脱後、東京大学大学院に進学して近代経済学に転じた。同じブントの仲間であった西部邁を経済学研究に誘ったのも青木である。1964年に東京大学大学院経済学研究科修士課程を修了すると渡米しミネソタ大学に留学。ジョン・チップマン教授の指導を受け、 1967年に同大博士課程修了(Ph.D.)。その後、スタンフォード大学助教授(1967年)、 ハーバード大学助教授(1968年)、京都大学助教授(1969-1977年)、同教授(1977-1984年)を経て、1984年にはスタンフォード大学教授に就任した。1990年には日本学士院賞を受賞した。また、2001年度からの約4年間、独立行政法人経済産業研究所所長を兼任した。2004年にスタンフォード大学教授を退職すると、一橋大学大学院国際企業戦略研究科客員教授に就任、2008年には同大学特任教授となった。また、名誉職としては2001年に京都大学名誉教授、2004年にスタンフォード大学タカハシ席名誉教授に就いた。[要出典]晩年の日本での活動拠点は、2008年から自ら主宰を務めた東京財団仮想制度研究所(VCASI)であり、スタンフォード大学経済政策研究所上級研究員、スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究所上級研究員、東京財団特別上席研究員として活動した。2015年7月、肺疾患のため死去。
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人物・生涯
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東京外国語学校でフランス語を学び、軍人であり欧州経験の豊富な父親とその知り合いであるドイツ人武器商人マイケル・ベアの勧めで、14歳にして1874年(明治7年)ドイツへ留学。ハンブルク近郊シュターデの中高一貫教育校(ギムナジウム)で3年学んだのち、フライベルク鉱山学校を卒業。ハイデルベルク大学で地質学、ミュンヘン大学で古生物学を学び、ベルリン大学から博士号を取得し、ウィーン地質調査所に勤務した。 1883年(明治16年)帰国し、農商務省御用掛権少書記官として地質調査所に奉職した。1884年(明治17年)東京帝国大学理科大学の地質学教授を兼任し、初の日本人地質学教授となった。ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが帰国した1885年(明治18年)以降は局に昇格した地質局の中心となり、1886年(明治19年)地質局次長となる。1888年(明治21年)に『日本地質構造論』を発表しナウマンの、フォッサマグナによる日本分断説に反対、原田・ナウマン論争を引き起こした。原田の主張では、日本列島は日本北弧(樺太山系)と日本南弧(支那山系)の二つからなり,両弧が衝突した接合部は関東付近にありフォッサマグナのような大地溝帯は存在しないとした。現代の知見ではナウマンの主張が正しかったと考えられている。 肺結核のため1889年(明治22年)大学を辞職し、翌年地質局も休職。1891年(明治24年)肺結核治療のために、ツベルクリン研究で赴く親友の佐々木政吉と共にドイツに渡りロベルト・コッホの治療を受けるが、帰国後1894年(明治27年)に33歳で死去した。 14歳から留学したため帰国したときに日本語を忘れ通訳が必要であったというエピソードがある。
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人物・生涯
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「エドワード・G・サイデンステッカー」の記事における「人物・生涯」の解説
コロラド州デンバー近郊にあるキャッスルロック の農家に生まれる。父方はドイツ系プロテスタント、母方はアイルランド系カトリックの出自。 コロラド大学で経済学を専攻したが、中途で英文学専攻に変更。海軍日本語学校で日本語を学んだ後、第二次世界大戦に従軍。海兵隊師団の語学将校として硫黄島作戦に参加、没収した日本軍の書類の解読・翻訳にあたる。ハワイを経て、戦後は佐世保に勤務。闇市の取り締まりなど占領政策にかかわる勤務だった。1946年、終戦処理の任務を終えて帰国。帰米後、コロンビア大学で公法及び行政学の修士号を取得。テーマは「近衛文麿日記」だった。 外交官試験に合格して、1947年に国務省外交局へ入り、イェール大学とハーヴァード大学に出向して日本語の訓練を重ねる。当時まだ日本にアメリカ大使館が存在しなかったため、連合軍最高司令長官付外交部局の一員として、1948年に再来日する。日本財閥の現状調査を1950年まで担当した。 1950年に退官すると、5年間東京大学に籍を置いて吉田精一のもとで日本文学を勉強した。その時の友人が直木賞作家の高橋治。池田亀鑑の「源氏物語」の読書会にも参加、同会には歌人の五島美代子も参加していた。 卒業後は上智大学で教鞭をとりながら翻訳家として活躍した。 1958年、ソ連政府がボリス・パステルナークのノーベル文学賞授与を辞退させた際の、日本ペンクラブのソ連政府寄りの姿勢を、1959年2月にアイヴァン・モリス、ヨゼフ・ロゲンドルフとの3名で、批判するコメントを発表した。日本人作家では平林たい子がそれに同調した。また、来日してペンクラブの会合に出席することを予定していたアーサー・ケストラーは、日本ペンクラブの姿勢を批判して、訪日後の会合への出席をことわった。 1962年の帰国後、スタンフォード大学の教員となり、1964年から教授。1966年からミシガン大学極東言語・文学部教授。1977年コロンビア大学教授として日本文学を講じ、アンソニー・チェンバースのような後進を育てた。1986年からコロンビア大学名誉教授。1991年、メリーランド大学名誉文学博士。 また、1950年代から谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫ら日本の文学作品を英訳し、結果的に3人をノーベル文学賞の選考過程の場に引きあげることに貢献。さらにアーサー・ウェイリーに続く二度目の『源氏物語』の英語完訳も行った。 英訳された『雪国』などにより、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端は、日本語で書いた自作が世界で読まれ評価されたのは訳者であるサイデンステッカーの貢献が大きいとし、「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と賞金を半分渡している。また、川端からストックホルムでの授賞式に一緒に行ってくれるよう頼まれ同伴している。2010年代以降に公開された1960年代のノーベル文学賞の選考資料では、サイデンステッカーは、同じく日本文学研究者であるドナルド・キーンとともに、選考委員から日本人文学者についての参考意見を求められていたことが明らかになっている。キーンとは個人的にも親交が深く、東大在学中は彼を家に宿泊させており、コロンビア大学で、春学期はキーンが、秋学期はサイデンステッカーが教鞭を取っていたとされる。 1971年、『山の音』の翻訳で第22回全米図書賞翻訳部門受賞。同1971年、文部大臣表彰。1975年、勲三等旭日中綬章受章。1977年、「源氏物語」の全訳により菊池寛賞受賞。1981年、五島美代子賞受賞。1985年、東京都文化賞受賞。1991年、第10回山片蟠桃賞受賞。 2006年、日本への永住を決意して東京の湯島を生活の拠点とする。だが、翌2007年4月26日、不忍池を散歩中に転倒して頭部を強打、そのまま意識を失って入院し、4カ月間の療養の甲斐もなく8月26日に死去した。86歳没。 没後、終戦直後に赴任した佐世保に近く、思い出の地の一つである伊万里市の伊万里市民図書館に、遺品約500点が寄贈された。
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人物・生涯
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「エドヴァルド・エリクセン」の記事における「人物・生涯」の解説
コペンハーゲン出身。1895年から1899年、デンマーク王立美術院に学ぶ。 1902年、シャルロッテンボー宮殿(デンマーク語版、英語版)に作品「The Sufferer」が展示される。彼にとって本格的なキャリアの開始であるが、シャルロッテンボー宮殿には以後何回も作品が展示されている。1904年、州立美術館が作品「Hope」を購入。1905年、作品「Doom」で賞を受ける。 1913年8月23日、人魚姫の像が現在の場所に恒久的に設置される。この像の体部分は妻のエリーネ・エリクセンがモデルを務めた。 1916年、カッラーラ美術アカデミア(イタリア語版、英語版)の名誉教授に推挙される。1910年 - 1918年、クリスチャン9世と王妃ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセルの大理石の石棺のために3体の女性像(Grief, Memory and Love)を制作。ロスキレ大聖堂に奉納。 1914年、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館の外壁を飾る砂岩のレリーフを制作、設置 1930年、トーヴァルセン美術館の文化財修復士に就任(1953年まで)。1932年、ダンネブロ勲章を授与される。
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「ミールサイト・スルタンガリエフ」の記事における「人物・生涯」の解説
現在のバシコルトスタン共和国のウファ県ステルリタマク郡にて生まれた。 1907年からカザンのタタール師範学校(タタール語版、ロシア語版)に在籍し卒業後、ウファ市立図書館で勤務する。新聞社での記者活動を経て、1917年にロシア共産党に入党。入党後は、カフカース派で共感を覚えていたヨシフ・スターリンに大抜擢され、中央ムスリム人民委員部委員、ムスリム軍事参与会議長、民族問題人民委員部(露: Наркомнац、英: Narkomnats)の機関紙『民族生活』(露: Жизнь Национальностей、英: The Life of nationalities)の編集長を務め、ムスリム出身の党員では党内の最高位まで登りつめた。 スルタンガリエフは、ソ連のタタール人社会を、資本主義の前段階にあるものとして位置づけ、すでに資本主義化したロシア人社会とは異なるアプローチで社会主義システムを建設する必要があると主張した。また、西洋の帝国主義から植民地を解放する上で、民族主義や宗教の役割を高く評価した。 スルタンガリエフは、著作『ムスリムに対する反宗教宣伝の方法』において、党内で一般的であったイスラームを反動的宗教とする考えを否定し、人間と社会の間のバランスを取る存在としてイスラームを評価している。また、帝国主義諸国に植民地化されたイスラーム世界において、イスラームは反帝国主義の思想になり得ると主張した。 こうした思想を背景として、スルタンガリエフは、ソ連領内のテュルク系諸民族による統一した自治政府の必要性を主張し、ヴォルガ川中流域の「タタール共和国」・「バシキール共和国」、トルキスタンの「トルキスタン共和国」の設立活動を行った。エンヴェル・パシャの裏切り(バスマチ蜂起)によって汎テュルク主義が奨励されなくなり、その同年1923年に反ソ運動を行ったということで逮捕され失脚。1940年に処刑された。 ペレストロイカ期の歴史の見直しの過程で、1990年にソ連邦最高裁の決定により名誉回復がなされた。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:15 UTC 版)
「ミルティン・ミランコビッチ」の記事における「人物・生涯」の解説
オーストリア=ハンガリー帝国のオシエクの近郊のDaljに生まれた。ウィーン工科大学で土木工学を学び、ウィーンの Adolf Baron Pittel Betonbau-Unternehmung の工場で働き、多くの建物の建築にたずさわったが、1909年にベオグラード大学の応用数学の教授の職についた。 1912年の初め、惑星の気候と温度に対する太陽の寄与に興味を持ち、研究の成果は1920年に『太陽の放射による熱現象の数学理論 (Théorie mathématique des phénomènes thermiques produits par la radiation solaire)』として発表された。この結果は科学の世界で評判になったが、1924年にウラジミール・ペーター・ケッペンとアルフレート・ヴェーゲナーが、『地質学的過去の気候 (Die Klimate der Geologischen Vorzeit)』を発表して、ミランコビッチの理論を支持するまで、必ずしも受け入れられなかった。 『気候学ハンドブック (Handbuch der Klimatologie)』の執筆に加わり、1930年には『気候の数理科学と季候変動に対する天文理論 (Mathematische Klimalehre und astronomische Theorie der Klimaschwankungen)』を発表した。19世紀にジェームズ・クロール(英語版)によって仮定された理論を基に、地球の自転軸の歳差運動の理論を改良し、氷期の周期の理論を確立した。 セルビアで発行されている2000ディナール紙幣に肖像が使用されている。
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「ファン・ボイ・チャウ」の記事における「人物・生涯」の解説
ベトナムは19世紀後半、フランスの植民地(フランス領インドシナ)となった。ファン・ボイ・チャウは10代の頃から反仏独立運動に参加。1904年、阮朝皇族のクォン・デを盟主として「維新会」を結成し、武器援助を求めるべく1905年に来日した。 亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから、人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を大日本帝国に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興した。医師の浅羽佐喜太郎に支援されて活動した が、危機感を抱いたフランスが日仏協約で日本政府に働き掛け、1909年に国外退去にさせられる。 後に中国へ渡り、1912年に広東でベトナム光復会を結成した。武力によるベトナムの解放を目指したが、大きな成果は得られなかった。 浅羽の訃報を知ったファンは、1917年5月に偽名を使って日本に密入国した。1918年に3度目の訪日をし、東浅羽村の村長と村民による金銭的援助もあり、浅羽佐喜太郎への「報恩の記念碑」を現在の静岡県袋井市に存する常林寺に建立した。碑は高さ2.7メートル、幅0.87メートルの大掛かりな石碑で漢文で以下のように刻まれている。 予等以國難奔扶桑公哀其志拯於困弗冀所酬蓋古之奇俠也嗚呼今竟無公矣蒼茫天海俯仰誰訴爰泐所感于石銘曰 豪空古今義亘中外公施以天我受以海 我志未成公不我待悠悠此心其億萬載 — 戊午春、越南光復会同人謹誌 現代語訳は以下のとおりである。 われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公はわれらの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。 豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。 — 大正七年三月 1925年に上海でフランスの官憲によって逮捕されハノイで終身刑を宣告されるが、ベトナム国内の世論の反発を受けて恩赦された後、フエに軟禁されたまま没した。
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人物・生涯
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大分県で生まれる。1901年に大分県立農学校を卒業して代用教員となり、数年後には日露戦争に従軍する。1906年に上京し、農商務省に勤務しながら、1912年7月に法政大学専門部政治学科を卒業する。 1913年に帝国農会に入り、次いで1920年に農商務省に移って永小作慣行の本格的な調査を行なう。その調査結果は1924年に「永小作論」として刊行され、その精緻な研究は当時の学界から高く評価された。1925年に「郷士制度史論」によって農学博士(東京帝国大学)。 1925年に東京商科大学の講師となり、1931年法政大学教授に就任。また、社会経済史学会創立の発起人の一人でもある。
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人物・生涯
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ノルマンディー地方のオーブ(Aube)に生まれ、「Le Patron」(父)の通称で知られた。彼は偉大なクラシック・サクソフォーン奏者として世界的に知られ、彼のために多くの曲が作曲され、また彼によって初演・編曲された。これらの曲の多くが今日のクラシック・サクソフォーンのレパートリーの中心をなしている。また、サクソフォーンに初めてビブラート奏法を導入した人物でもある。 サクソフォーンは父親から学んだ。また、1935年にはナディア・ブーランジェに師事し、その縁で多くの作曲家と知り合うこととなった。 休止状態にあったパリ音楽院のサクソフォーン科を1942年に復活させた。当時すでにサクソフォーン奏者および教師として評価されていたミュールは、同科の指導者に選ばれた。パリ音楽院の教授として、ミュールは300人以上の熱心な学生を教え、その多くが自らの力で有名なサクソフォーン奏者や教師となっていった。またミュールは、当時第一級のサクソフォーン・アンサンブルといわれた「パリ・サクソフォーン四重奏団」を結成し、自らもそこでソプラノ・サクソフォーンを演奏した。 ミュールは1968年にパリ音楽院の教授を引退した。彼の地位は、かつての教え子のひとりであったダニエル・デファイエに引き継がれた。引退後、ミュールは南フランスのイェールに隠棲し、2001年12月19日、睡眠中に死去した。100歳没。 ミュールがパリ音楽院で教鞭を執った時期は、現在ではクラシック・サクソフォーンの開花期であったとも見なされており、そのような意味でミュールはサクソフォーンの歴史に大きな影響を与えた人物である。
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人物・生涯
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「ロン・リチャードソン」の記事における「人物・生涯」の解説
ペンシルベニア州フィラデルフィア出身。フィラデルフィア芸術大学(en:University of the Arts (Philadelphia))で声楽を学び、ショーボート、キャメロット、ラ・マンチャの男といった古典的ミュージカルに出演する。 1977年、ヒューストン・グランド・オペラのフォーク・オペラ『ポーギーとベス』(Porgy and Bess)にてスポーティング・ライフ役を演じる。 1978年にはミュージカル『Timbuktu!』でブロードウェイの舞台に立ち、以降数年間はアメリカ国内各地の舞台をこのミュージカルでまわる。 1985年、ブロードウェー・ミュージカル『ビッグ・リバー』でジム役を演じる。『ビッグ・リバー』はアメリカの演劇界において最も権威ある賞であるトニー賞の最優秀ミュージカル作品賞等を受賞する。 『ビッグ・リバー』は1987年まで上演され、その後は世界各地の舞台やコンサートに出演する。 1989年と1993年には、さだまさしのコンサート『夏 長崎から さだまさし』にも出演。コンサートの目的である「広島原爆の日の8月6日に、長崎から広島に向かって平和について歌う」という主旨に理解を示し、ボランティア出演だったという。なお、1989年に出演した模様はさだまさしのライヴ・アルバムおよびビデオ『夏・長崎から'89』に収録されている。 1990年にミュージカル『Oh, Kay!』、1993年にはミュージカル『The Boys Choir of Harlem and Friends』に出演する。 1995年4月5日、エイズのためニューヨーク郊外のニューヨーク州ウエストチェスター郡ブロンクスビルで死去。43歳没。
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人物・生涯
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1918年5月15日、京城府鐘路(チョンノ)にて金佐鎮(キム・ジャジン)の息子として生まれたとされる。1924年に7歳で祖母と一緒に満州で1回だけ金佐鎮と対面した。朝鮮総督府から不逞鮮人として監視される一方、家庭内の事情も良くなく、梶童(キョドン)国民学校(現 キョドン小学校)を2年生で中退。開城に移ったが、10歳の時、1人で京城にきた際に乞食たちに捕まり路上生活者となり、袁氏を名乗る老人に「日帝の勉強はする必要がない。すぐに独立するのでその時勉強しなさい」と言われ、学校には通わずに水標橋(朝鮮語版)の下や路頭で17歳まで過ごした。 18歳にして朝鮮全土に約3万人の構成員を抱える暴力団、鐘路派(チョンノ・パ)の頭目に就任。日本統治時代の末期にはソウルの繁華街、鐘路(チョンノ)を中心に朝鮮のチュモッケの王(げんこつ界の王、拳の皇帝、最強の腕っぷし)となった。 不良愚連隊や暴力団のごとく一般市民に対し悪行を働くのではなく、金佐鎮の息子であることを誇りに、強い抗日の姿勢から、日本軍の武器庫を爆破。日本系暴力団(商業権を狙って縄張りを拡大していた)と抗争を繰り広げ、朝鮮人商人を保護する侠客として活動したとされる。 後の自由党政権下で政治暴力団の頭目として急成長した李丁載(イ・ジョンジェ)は、金斗漢(キム・ドゥハン)が組織する鐘路派の下位団体の準構成員出身である。 戦中に満州や朝鮮半島北部で優勢を誇った朝鮮半島北部の愚連隊の頭目であるシラソニこと李聖淳(イ・ソンスン)とは私的に義兄弟として呼び合う仲だった。 1944年、李載熙(朝鮮語版)(本貫は全州李氏)と結婚。1945年9月5日、のちに国会議員となるキム・ウルドンが生まれる。
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人物・生涯
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先祖代々蘆名家の庇護を受けた特権商人。会津地方の商人司(商人頭)に任じられ、特産品の独占販売を許可される一方で、他国商人の統制や徴税の請負などに活躍した。蘆名家に変わって伊達政宗が会津に入ったのちも特権は認められ、地位を守った。
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人物・生涯
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1927年に千葉県で生まれ、1948年、北海道帝国大学農学部農業生物学科卒業、1954年、北海道大学大学院理学研究科博士課程修了。 1954年、北大理学部講師。1955年、「ミツバチに於ける視覚学習の知覚心理学的研究」で北海道大学理学博士。1955年、助教授。1961年-1963年ブラジル、パラナ大学研究員、リオクラーロ大学客員教授。1971-72年ブラジル、リベラン・プレト大学客員教授。1976年、ブラジル科学アカデミー(ポルトガル語版、英語版)会員。1978年北海道大学低温科学研究所教授。 ハナバチ類の比較社会学的研究をし、その進化を論じた。1967年、日本動物学会賞、1992年、朝日賞を受賞。1990年に北海道大学を退官、名誉教授。以後も自宅で研究を続けたが、1996年に自宅で研究中、心筋梗塞で死去。ハチについて数多くの論文、著書を残す。
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人物・生涯
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「マニ・シン・ラワット」の記事における「人物・生涯」の解説
マニ・シンは、英領インドのクマーウーン北部(現在のピトーラーガル県(ヒンディー語版、英語版))のチベットとの国境に近いミラム村のデブ・シン・ラワット(Deb Singh Rawat)という名の商人の家に生まれた。 従弟のナイン・シン・ラワット(ヒンディー語版、英語版)、弟のキシェン・シン(英語版)も、同じくインド測量局(英語版)の大三角測量に伴う秘密裏の測量調査による地図製作に携わった著名なパンディットであった。
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人物・生涯
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上総国長柄郡長谷村(現:千葉県茂原市)出身。父の名は嘉一郎、本名は倉吉。 邪馬台国北九州説の提唱者として有名。師に那珂通世、弟子に津田左右吉など。外交官、政治家の白鳥敏夫は甥。 千葉中学、一高、東京大学文科大学史学科(のち東京帝国大学、現在の東京大学)卒業(1886年)。東大在学中はルートヴィヒ・リースに師事。 その後、学習院教授(1886年 - 1921年)、東京帝国大学文科大学史学科教授(1904年 - 1925年)を歴任。さらに東宮御学問所御用掛として東宮時代の昭和天皇の教育にも携わる(1914年 - 1920年)。 1900年、文学博士。1919年、帝国学士院会員。2度、渡欧して資料の蒐集と研究発表を行った(1901年 - 1903年、1922年 - 1923年)。 日本や朝鮮に始まり、アジア全土の歴史、民俗、神話、伝説、言語、宗教、考古学など広範な分野の研究を行う。1910年に「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張。時を同じくして同時期の著名な東洋学者で「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた京都帝国大学の内藤湖南教授が「卑弥呼考」を著し畿内説を主張。後に東大派と京大派に分かれ激しい論争(邪馬台国論争)を戦わせることとなる。 1907年、東洋協会学術調査部を設立し、『東洋学報』の創刊、『満鮮地理歴史研究報告』の刊行、1924年の東洋文庫の設立などに尽力した。
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「フェルディナント・ライヒ」の記事における「人物・生涯」の解説
ライヒは、ベルンブルクで生まれ、フライベルクで死去した。色盲であるかまたは白と黒のみ識別可能であったため、リヒターをパートナーとしていた。リヒターは、彼らの実験の生成物の色を確認する役割だった。 ライヒとリヒターは、フライベルク鉱山大学でインジウムを単離した。
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人物・生涯
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「エミール・バールセン」の記事における「人物・生涯」の解説
南アメリカのチリに生まれる。後にドイツに渡りフライベルク鉱山学校で学ぶ。 卒業後の1897年(明治30年)に日本政府の招聘により来日した。東京帝国大学(現在の東京大学)で鉱山学や冶金学等、鉱山に関する工学の教鞭を執った。1900年(明治33年)に任期満了となり、帰国した。
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人物・生涯
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1953年(昭和28年)に東京芸術大学音楽学部ピアノ専攻を卒業。徳島県で初めて東京芸術大学を卒業した人物である。卒業後は徳島大学教育学部教授、鳴門教育大学教授を歴任。1995年(平成7年)に鳴門教育大学教授を定年退職し、名誉教授となる。 1997年(平成9年)8月に徳島県教育委員会委員に就任。その後、2000年(平成12年)9月から2001年(平成13年)8月まで徳島県教育委員会委員長。 2006年(平成18年)7月に徳島西ロータリークラブ会長に就任。1年間会長を務めた。 2009年(平成21年)4月23日に、脳梗塞のため徳島市内の病院で死去(79歳)。葬儀は徳島市寺町のイマデヤ葵会館で行われた。 弟子には藤井睦子(藤井学園理事長)等がいる。
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人物・生涯
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岡山県小田郡北川村(現在の岡山県笠岡市)出身。旧制金光中学校卒業。 ロシア革命時、800名程の子供がサンクトペテルブルクからウラル地方を経てウラジオストクへ逃れ難民状態にあった。その子供たちを太平洋から大西洋を横断してフィンランドまで茅原が船長を務める陽明丸で送り届けた。 墓は岡山県笠岡市にあり、岡山県に親戚がいる。 難民の子孫に出会った篆刻家の北室南苑の尽力により、茅原基治の親戚と難民の子孫とを結ぶことができ、墓参りが実現されるとともに茅原基治らの功績が広く知られるようになった。
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人物・生涯
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「マリアーノ・メルガレホ」の記事における「人物・生涯」の解説
メスティーソの非嫡出子としてコチャバンバで生まれ、17歳で軍隊に入りラ・パスの軍司令官となった。1864年にそれまで影で権力を握っていた前大統領マヌエル・イシドロ・ベルスを暗殺し政権についた。大統領に就任するとメートル法の採用や蒸気機関の導入など近代化政策をとったこともあるが議会および地方の行政機関を解散させ政敵を弾圧。特にインディオは共有地を解体されて奪われ、反乱をおこした住民は虐殺された。鉱業寡頭支配層に支持され自由貿易政策を取り、それまで保護されていた手工業を崩壊させた。 また奢侈と放蕩に耽るために自分の名を冠した紙幣を乱発し、アタカマ砂漠の硝石採掘権もチリに売ってしまった(このことは後に太平洋戦争の原因となる)。 こうしたことから1871年にアグスティン・モラレスによりクーデターを起こされ失脚する。追放され同年、亡命先のリマで愛人の弟に暗殺された。
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人物・生涯
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1899年(明治32年)7月5日に、佐賀県にて、長崎の県立病院に勤める医師だった父と、同じ病院の看護婦だった母の間に生まれた。 早くに母を亡くしたこともあって、大阪で、厳格な祖父の下で育てられた。 祖父が亡くなった15・6歳の頃に家を出て、人夫・沖仲仕・鉄工所などを渡り歩いて肉体労働に明け暮れる放浪生活を経験した後、徴兵検査で一旦故郷に帰ったものの、20歳で上京。一時は北一輝の食客となり、これを契機に労働運動の渦中に身を投じることになる。 1921年(大正10年)に、田澤義鋪(たざわよしはる)の勧めで協調会に入り、1924年(大正13年)に退会し、独立。 1925年(大正14年)に、労働事情調査所を創立して労働週報を発刊。野田醤油争議、共同印刷争議、日本楽器争議などの大争議の調停にあたり、辣腕を振るう。調停の過程で、無産運動家から軍人まで幅広い人脈をつかみ、その能力を買われ、陸軍との繋がりを持つ。 1933年(昭和8年)、陸軍省から依頼され、統制派の幕僚・池田純久少佐と結んで、国策の立案に着手。総合的な政策研究組織の必要を感じ、同年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。 1936年(昭和11年)の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年(昭和12年)に再組織。1938年(昭和13年)に国策研究会に改称。戦時国策の立案に従事。組織の拡大を図る。 戦時中は、福家俊一と共同で上海で「大陸新報」の発行に関与(当時、国策研究会常任幹事)する傍ら企画院委員、大政翼賛会参与、翼賛政治会理事などを歴任、戦時内閣の組閣や倒閣にも深く関与した。田中隆吉によれば、矢次は大政翼賛会を操っていた人物として名指しされている。 終戦後は公職追放されたが、1951年(昭和26年)、追放解除となる。サンフランシスコ講和条約発効後の1953年6月に国策研究会を再建。 1956年(昭和31年)、矢次は台湾を訪問して蔣介石総統と会談。日台韓の反共連盟の強化を目指していたことで蒋と意見が一致し、以降日韓関係の改善を求める様になる。1957年(昭和32年)に日韓会談再開のため、矢次は柳泰夏駐日韓国代表部参事官と李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介で金東祚韓国外務部長官・駐日韓国大使が岸信介首相と接触。1958年(昭和33年)5月に岸信介の個人特使として韓国を訪問して李承晩韓国大統領と会談。日韓併合について謝罪し、国交回復を打診している。日韓国交正常化後の1970年(昭和45年)10月には朴正煕韓国大統領によって一等樹交勲章を受章した。 その一方で1972年(昭和47年)には福家の仲介で矢次と金炳植朝鮮総連副議長が会談。日朝経済関係の促進に乗り出し、自ら日朝貿易を取りまとめる協和物産を設立している。金大中事件で日韓関係が拗れた際にも1973年(昭和48年)9月に岸と共に訪韓し、事件処理と経済関係を切り離すことで朴大統領と合意を取りつけた。1980年(昭和55年)5月には岸の個人特使として訪中し、中華人民共和国の最高指導者である鄧小平と会談。中台統一に向けた台湾の蔣経国総統との仲介役を鄧から要請を受けると共に、中韓経済交流についても交渉した。岸も廖承志によって訪中の打診を1970年代から受けていたとされる。同年9月には岸の訪韓に同道して全斗煥韓国大統領と金大中問題について会談するが目立った進展はなかった。旧朴正煕政権の対日人脈に不信感を持っていたとされる。 1983年(昭和58年)3月22日に、80歳でこの世を去るまで、その広い人脈を生かして韓国・台湾の政財界とのパイプ役として力を発揮した。 元読売新聞記者の橋本文夫は、矢次をこう評している。 『黒幕と言われる他の人々、例えば児玉誉士夫や小佐野賢治らは利害関係にある人達としか交際はなく、彼等の知り得る情報は彼らの企業の利益に必要なものに限られている。小林中・荻原朔太郎・笹川良一にして然りである。一方、矢次の持つ情報は多方面にわたり、かつ正確なのだ。会った人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大なる情報屋であり、それが怪物の本質である。』
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「オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)」の記事における「人物・生涯」の解説
オマル・アブドッラフマーンは、エジプトのダカリーヤ県に生まれ、幼くして糖尿病から盲目になった。幼児期からイブン・タイミーヤのサラフィー主義やサイイド・クトゥブのクトゥブ主義(Qutbism)に傾倒した。カイロのアル=アズハル大学入学後は注目されるようになり、反体制であるとして投獄を経験する。 オマル・アブドッラフマーンは3年間、エジプトの獄中で過ごすが、この間、酷い拷問を受ける。その報復が、1981年のジハード団によるサダトエジプト大統領暗殺となった。アブドッラフマーンの関与は実証されなかったが、アブドッラフマーンは国外追放となり、アフガニスタンに向った。パキスタンのペシャーワルでは師であるアブドゥッラー・アッザームがビン・ラーディンを従えて「マクタブ・アル=ヒダマト」(MAK)を組織していた。ここで、アブドッラフマーンはビン・ラーディンと緊密な関係を結んだ。MAKがアルカーイダに改組され、アブドゥッラー・アッザームが暗殺されると、アブドッラフマーンはアルカーイダの思想上の指導者となった。 1970年代にはエジプトの2つの主要なイスラム主義組織であるジハード団(EIJ)とイスラム集団(GI)の双方で頭角を表し、両者の接近が実現する。1980年代にはジハード団は、その後アルカーイダをビン・ラーディンとともに指導することになるアイマン・ザワーヒリーが率いていく。 1990年、アブドッラフマーンは、アル・カーイダのアメリカでの拠点構築と財政面での基盤作りのためにニューヨークに移った。アブドッラフマーンは旅行者用のビザでサウジアラビア、ペシャーワルやスーダン経由でニューヨークに入り、アメリカ・カナダで精力的に活動、ニューヨークでは3つのモスクで説教を行った。アメリカのイスラエル人極右のメイル・カハネを暗殺したエル=サイード・ノサイルなどと交友を持った。エル=サイード・ノサイルらは、世界貿易センター爆破事件を引き起こす。ノサイルらにはビン=ラーディンから資金が提供されていた。この事件後、FBIは、アブドッラフマーンやノサイル周辺を捜査、アブドッラフマーンらが国連本部やリンカーン・トンネル、ジョージ・ワシントン・ブリッジなど5箇所を同時に爆破する「ニューヨーク・ランドマーク同時爆破計画」を進めていることが発覚した。1993年、アブドッラフマーンや9人のテロリストはFBIに逮捕された。1995年10月1日に有罪宣告がなされ、1996年に終身刑が確定した。2017年2月18日にアメリカ・ノースカロライナ州の連邦刑務所の医療施設で自然死した。
※この「人物・生涯」の解説は、「オマル・アブドッラフマーン (テロリスト)」の解説の一部です。
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人物・生涯
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宇和島水産高校を卒業後上京して就職。その後、赤軍派に入り、中央軍の小隊長となる。 1969年に大菩薩峠事件で逮捕される。保釈後には釜ヶ崎へ向かい、1972年の「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議」(釜共 /釜共闘)結成に参加。またラーメン屋を開業。 1972年9月4日に水崎町派出所爆弾事件を起こす。1972年12月26日に逮捕される。獄中で獄中者組合を結成。 1979年4月、増淵利行ら18人が土田・日石・ピース缶爆弾事件で起訴されて公判中に、1969年10月24日の警視庁機動隊庁舎爆破未遂事件の実行犯は自分であると証言した。 83年3月に上告を取り下げ、京都刑務所に下獄。 1986年5月、懲役10年の刑期を終え、京都刑務所を出所。親族への挨拶回り・帰郷を終えて釜ヶ崎に戻った若宮は同年8月、獄中者組合の活動で交流のあった元獄中者、そして新たに出会った「トミさん」と親称された釜ヶ崎住人を協力者として得て「労働者食堂」を開く。店の入り口には若宮の理念であり、アナキズムの命題の一つ「相互扶助」と書かれた黒旗が掲げられており、黒旗は古豪アナキストの大島英三郎から寄贈されたものであった。又同年10月には、旧知の元赤軍派の仲間、労働戦線の友人たちなどからのカンパを得て、食堂から程近くに中古住宅を購入。その住宅を労働者が自由に出入りでき、宿泊が出来る「労働者の家」と名付けて自主管理空間の運営に着手する。 1989年、若宮は食堂や労働者の家を維持するべく、肉体労働で稼いだ金を注ぐなど自己犠牲的に取り組んだにもかかわらず、釜ヶ崎での種々の試みは企図した成果もほとんど得られることがなかった。理想が結実することなく疲れと行き詰まりを感じていた。運動から距離を取り始めていた若宮は、同年9月より釜ヶ崎を離れ、一時帰郷したり全国を放浪して、自然豊かな環境での暮らしを志向するようになっていった。その過程で南米での新たな人生を模索し始める。横浜・寿町のドヤ街で仕事を取り、仕事のない日には図書館で南米に関する文献を読み、南米に関する様々な側面を学習して知識を豊かにしていった。日雇い労働で渡航と滞在資金を貯めて、1990年10月にペルーに渡る。同年11月14日、彼の地で激烈な武装闘争を展開していた、毛沢東主義組織「センデロ・ルミノソ」のゲリラ兵士達に胸部をナイフで刺され、滞在先家庭のペルー人2名(宿泊場所を提供した村長の妻とその母)とともに落命。享年45。
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人物・生涯
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「クラレンス・エドワード・ダットン」の記事における「人物・生涯」の解説
コネチカット州ウォーリングフォード (Wallingford) で生まれた。 1860年にイェール大学を卒業した後、南北戦争に参加した。 1875年にアメリカ地質調査所で地質学者として働き、コロラド高原などを調査し、ユタ州の地質、グランド・キャニオンの地史、1886年のサウスカロライナ州チャールストンで起きた地震に関する研究などを発表した。アメリカ地質調査所の火山部門を率いて、ハワイ諸島やカリフォルニア州やオレゴン州の火山の研究を行った。1887年にメキシコのソノラ地震の調査隊の支援をおこなった。1884年にアメリカ科学アカデミーの会員に選ばれた。1886年にアメリカ地質調査所の調査隊を率いオレゴン州のクレーターレイクを調査し、その水深を608mと測定した。 1889年に1850年代にジョン・ヘンリー・プラットとジョージ・エアリーが提案した、地殻内のバランスに関する仮説にアイソスタシーの用語を提案したことで知られる。1891年にアメリカ地質調査所を退職し、陸軍で10年ほど働いた。その後地質学の研究に戻った。
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人物・生涯
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群馬県佐位郡殖蓮村大字上植木(現・伊勢崎市本関町)の裕福な農家の三男に生まれる。群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を中退後、日露戦争に従軍。乃木希典率いる第三軍で旅順攻囲戦に参加し、突撃隊である白襷隊にも志願した。この戦功で軍曹に昇進し、また功七級の金鵄勲章を授与されている。 1906年(明治39年)、剣術に秀でていたことから陸軍戸山学校(戦術や体操、剣術などの指導者養成を目的とする)へ入学を命じられる。しかしこの頃になると矢島は、当時ベストセラーとなっていた河口慧海『西蔵旅行記』に大きく刺激され、アジア横断無銭旅行を志すようになっていた。そこで、チベット人に変装できるようになるため髪を伸ばし始め(チベット人は男でも長髪にする風習があった)、同時に、長髪は規律違反だとして切るように言う同僚や上官に対し「神武天皇だって長い髪をしているではないか。俺は神武天皇の従者になってロシア征伐に行くんだ」などと抗弁するなど狂人のふりをするようになる。これが功を奏し、1907年(明治40年)12月に除隊。 翌1908年(明治41年)、上京し、キリスト教伝道師島貫兵太夫が設立した渡米支援団体「日本力行会」に入会。会の中に「冒険倶楽部」という部を設けて、アジア横断無銭旅行の同志を募った。当時は寺本婉雅のチベット入国が話題になっていた時期であり、矢島の計画は好意を持って迎えられ、賛同者は30名に達した。また、冒険小説家・押川春浪からは、当時貴重品であったコダックのカメラを贈られている(島貫が春浪の父・押川方義の教え子だったことが縁で、矢島は春浪の家に出入りしていた)。 当初は30人いた賛同者も、計画が進むにつれ脱落していき、結局矢島は単身で横浜港から出発することになる。1909年(明治42年)2月3日のことであった。
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人物・生涯
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豊後国杵築藩南台西(現在の大分県杵築市)出身。元々は綾部(あやべ)姓であったという。儒学者綾部安正(絅斎)の四男。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)。初め璋菴(しょうあん、表記は「正庵」とも)、後に剛立と号した。 幼少期から天体に興味を持ち、二十歳くらいから本格的な天体観測を行う。『傷寒論』などを読み、独学で天文学・医学を学んだ。 ケプラーの第3法則を独自に発見したとされ、その内容は『五星距地之奇法』に記されている。既にケプラーの(第1・第2)法則については漢籍によって日本にも伝来している時代であり、後述の通りケプラーの法則を使っての研究もしていることから、この麻田の独創については疑問視する意見もある。ただ、麻田は惑星の軌道を円と考えて「惑星の公転周期の2乗が軌道の半径の3乗に比例する」としており、つまりこの時点でケプラーの第1法則を知らなかったため、事実誤認が含まれているとはいえ、麻田の独創性については間違いは無い。 宝暦13年(1763年)に、ケプラーの法則を用いて、官暦にはない同年9月1日(旧暦)の日食を予言し的中。この日食は当時使用されていた宝暦暦に記されていなかったこともあり、麻田の名声を高めた。 明和8年(1771年)頃に豊後を離れて(この時に脱藩したため、追っ手の目を眩まそうと改名した)大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文学の研究を続けた。『崇禎暦書』を基盤に研究し、望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認、そして家暦である『時中法』を設けるなど、その手法は近代的であった。 オランダから輸入した初の高倍率グレゴリー式望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。安永7年(1778年)8年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。この手紙は所在不明とされていたが、鹿毛敏夫が『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』を書くにあたり資料を収集した際、現所蔵者と現物を発見した。 弟子に高橋至時・山片蟠桃・間重富らがいる。また中井竹山・中井履軒兄弟・三浦梅園とも交流した。 大正5年(1916年)、従四位を追贈された。 月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。
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人物・生涯
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山東省の故郷に家族と共に暮らしていたが、1944年9月、大東亜省によって華人労務者として雇用され、北海道雨竜郡沼田町の明治鉱業昭和鉱業所へ炭鉱労働者として送り込まれた。1945年7月、仲間の労働者4人と共に脱走を図る。直後に仲間は次々と脱落していったが、以後13年間、ただ一人終戦を知らないまま山中を逃避行し続けた。 1958年2月8日、当別町の山中で穴ぐらの中に潜んでいる姿を農民が発見、保護された。その後、故郷へ帰国。 1996年、東京地裁に強制連行であったとして日本国を相手取り提訴したが、2000年、判決を聞かないまま本人が死去。裁判は劉の息子を原告として継続され、2001年に地裁では勝訴するが、日本国は控訴。 2005年、東京高裁は訴えを棄却。
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人物・生涯
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「ウィリアム・スミス (地質学者)」の記事における「人物・生涯」の解説
スミスはオックスフォードシャーのチャーチルという農村の鍛冶屋で、長男として生まれた。8歳で父親を失い、母親のアン・ウィリアムが再婚するまでの二年間、弟二人と妹の4人が伯父の家で育てられた。学校の成績はかなり良かったが、家が貧しいため、大学へ進学できなかった。しかし、学校を出るころには、農村の若者にしては珍しくあちこちを旅してまわっていた。イングランドでは、道路が建設され、運河が彫られたり、また、領地の測量したりする測量の技術が職業として成り立った。1787年に測量士エドワード・ウェッブの助手として働き始め、短期間で仕事を覚えて独立した。この時は18歳だった。この後、チャーチルの伯父の家を出て、ウェッブと仕事し、一緒に旅行もした。19歳の時、チャーチル出身の元インド総督ウォーレン・ヘースティングズの領地(耕作洋貸付地)の測量をウェッブから任され、正確な測量で成功を収めた。。しかし、着実な儲けを求めて1807年にクーム・ダウンの古い石切場を買い上質なバース・ストーンを切り出す計画をたて、1814年に稼働したが、ワーテルローの戦い後のイギリスは戦後不況に陥り、スミスの事業も打ち切らざるをえない羽目になった。 炭鉱の鉱脈調査、石炭を運ぶための運河の建設や農地の改良といった仕事を手がけながら、様々な地層やそこに埋まっている化石を観察した結果、スミスは地層累重の法則と示準化石による年代決定法(地層同定の法則)を編み出した。また、1799年にパース周辺の地層分布を記した世界最初の地質図を作成、更に1815年(46歳)には、彼がこれまでの仕事を通じて観察してきた事象の集大成でもあるイギリス本土全域(イングランド、ウェールズ及びスコットランドの一部)の本格的な地質図を完成させた。そこでは、様々な地層区分の分布が、手作業で色分け(これは当時画期的なことだった)されて示されていた。 しかし、当時発足したばかりのロンドン地質学協会は下層階級の出身であるスミスの入会を認めなかったばかりか、彼の集めたデータを盗用して別の地質図を作る者までいた。スミスは次第に困窮し、1816年には長年かけて集めた化石のコレクションを大英博物館に売り渡した。1819年には不動産のローンが返済できなくなってロンドンのキングズベンチ債務者監獄に3か月近く収監され、同年8月の最後の日の早朝釈放された。50歳だった。ロンドンをさろうと決心した。そして、ヨークシャーの小さな町ノーサラトンに引きこもった。 1820年代後半になるとようやくスミスは正当に評価されるようになった。彼自身は既に地質学の急速な発展から取り残されかけていたが、その発展の基礎を築いた業績によって1831年にウォラストン・メダルの第1回受賞者はアダム・セジウィック、ロデリック・マーチソン、ウィリアム・バックランドの三人がウィリアム・スミスがふさわしいと判断し選んだ。「英国地質学の父」と称えられた。 1839年、スミスはバーミンガムで学会に出席した帰りに肺炎を患い、ノーサンプトンの友人の家で亡くなった。1808年頃に(正確な日時は不明)結婚したが子供はいなかった。甥のジョン・フィリップスを親代わりになって育て、彼も後に地質学者となった。 スミスが設計に関与した、大きな円筒形の展示棟を持つ旧スカーブラ市立博物館は、2007年9月にウィリアム・スミス地質学博物館としてリニューアルされた。
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人物・生涯
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江渡は1881年(明治14年)に青森県五戸で生まれた。造り酒屋の長男であり、とうぜん家業を継ぐことを期待されていた。しかし江渡は中学生のときに、東京の中学で学びたいと父に告げた。帝国海軍に生涯を捧げようとしたのだ。3日がかりで頑固な父親を説得したといわれる。海軍予備校として知られた海城中学を経て、1900年(明治33年)に海軍兵学校(28期)を卒業した。 1905年(明治38年)には、17年間におよぶ江渡の軍歴のなかでも重要な功績である日本海海戦に参戦する。このとき江渡はまだ24歳であった。巡洋艦「吾妻」の後部8インチ砲塔を指揮し、金鵄勲章(功四級)を授けられた。戦後、海軍大学校甲種学生(8期)を卒業した。永野修身(のちに元帥海軍大将)は、江渡と海兵・海大ともに同期生である。 第一次世界大戦の初期には軍令部の士官となり、またドイツを相手どった青島の戦いで重砲を預かり功績を挙げた。1916年(大正5年)5月、江渡はイギリス大使館附駐在武官に任じられる。シベリアを横断しヨーロッパへの旅路を経験した。日英同盟のもと、江渡は1916年(大正5年)8月15日からイギリス本国艦隊の戦艦「ヴァンガード」乗組の観戦武官の一員となった。 1917年(大正6年)7月9日は月曜であった。日付のかわる直前に、スコットランド、スカパ・フローに停泊していたヴァンガードは爆発した。これはおそらく、数箇所の弾薬庫の向かいにたくわえられたコルダイトが、そばにある無人のボイラー室で燃え上がったものだといわれる。ヴァンガードはほとんど瞬時に沈没し、江渡を含めたおよそ843名がそのまま溺死した。救命されたのは2人だけだった。現在この地は軍事遺産保護法(1986年制定)が扱う対象となっている。1984年(昭和59年)、江渡の親族がオークニーを訪れ、ヴァンガードの難破物まで案内されている。 江渡は戦死後同日付で大佐に昇進し、功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章を受章した。さらにイギリス政府によるバス勲章も与えられている。 郷里・五戸町の博物館には、ささやかながら江渡についての展示品があり、また同町には「江渡恭助人材育成基金条例」が設けられている。
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人物・生涯
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「トゥイスコン・ツィラー」の記事における「人物・生涯」の解説
ツィラーは、ライプツィヒ大学で文献学を学び、当初数年ギムナジウムの教師として教鞭をとった後、再度大学に戻り、法学を学んで1853年に大学教授資格を取得。そのままライプツィヒ大学で法学の私講師となった。しかし、1854年に教育学の講義を始め、その後は専ら教育学に専念することになる。1861年、彼は学生時代の友人の援助を得て、補修学校の校舎を利用できることになり、教育学ゼミナールを新設。ツィラーはヘルバルト派の代表的な理論家の1人であり、1868年以降、科学的教育学協会(Vereins für Wissenschaftliche Pädagogik)の創立者にして、代表を務めた。彼はライプツィヒで亡くなった。
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人物・生涯
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承久3年(1221年)に起こった承久の乱で阿波国内の兵六百人を率いて撫養の港(現徳島県鳴門市)から上京し、父経高の率いていた淡路の兵らと合流したという。しかし圧倒的な鎌倉の大軍を支えることができず、わずかとなった後鳥羽上皇方は京都へ敗走し、それぞれの国もとへ逃げ帰ったという。この戦いで阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、六百余の阿波の兵もほとんど帰らなかったという。 しかし、高重の死については、『大日本史料』五編所収の「承久三年四年日次記」貞応元年(1222年)5月10日条に、熊野山住の僧侶「岩田法眼行盛」(熊野別当家庶子家)が同年5月6日に左衛門尉源(佐々木)高重とその猶子・渋野四郎を「岩田辺」(現・和歌山県上富田町上岩田付近)で誅し六波羅探題にその頸を送り届けてきたと書かれているので、高重は承久3年(1221年)6月16日の時点では死なず、翌年、熊野に逃亡する途中で死去したことがわかる。 乱後、阿波国に対して幕府は佐々木氏に代わり小笠原長清を守護職に任じた。長清は阿波へ入ると佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城(現・徳島県石井町鳥坂)を攻めたという。ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、城を守っていた経高の二男高兼は、一族や老臣の平岡利清らと城を捨てて、名西郡の山中の鬼籠野村へ逃げたという。しかし小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、高兼は一族と家臣達が百姓となってこの地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害したという。 現在、神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地区に多い苗字・佐々木はかつての阿波守護職、近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。
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「サミュエル・ゴーズミット」の記事における「人物・生涯」の解説
オランダのハーグにユダヤ系の家庭に生まれた。 ライデン大学、アムステルダム大学で学んだ。仲間の学生のジョージ・ウーレンベックと電子のスピンを発見した。1927年にアメリカに帰化し、ミシガン大学に勤めた。第二次世界大戦中はマサチューセッツ工科大学の技術研究所でレーダーの研究をしたほか、1944年からドイツの原子爆弾開発状況を調査するためアメリカ軍アルソス・ミッション(英語版) (ALSOS) の技術顧問としてヨーロッパに滞在した。戦後はノースウェスタン大学、ネバダ大学リノ校の教授となった。スペクトルの微細構造の研究を行った。 マックス・プランク・メダル他多くの賞を受賞している。
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人物・生涯
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現在の大分県杵築市に生まれる。関西学院に進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃は浪費癖がひどく、教会も除名された。日本の妻の他に愛人もいたといわれる。大借金を残してカナダへ渡り、白人女性と結婚する。後にアメリカのタコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻し、再び借金を残して失踪する。 1932年に白人に比して差別され不利な立場にある有色人種を糾合する組織として東方世界平和運動(英語版)がシカゴで結成されると中根もこれに加わり、翌1933年にデトロイトへ移り黒人街で活動を始める。中根は日本陸軍から秘密裏に派遣された軍人であると名乗り「日本人は黒人と同じく有色人種であり、白人社会で抑圧されてきた同胞である。そして、日本は白人と戦っている」として黒人を扇動して、白人社会の打倒を訴えた。中根の弁舌はカリスマ的であり、一時は10万人をも動員して黒人暴動を多発させた。中根は多くの黒人から「小さな少佐」と呼ばれ、救世主と崇める者さえいたとされる。 この間に黒人女性と結婚する。さらに立て続けに組織を設立して活動していたためにFBIによって国外退去を命じられ、日本へ帰国するもすぐにカナダへ渡り、そこから代理としての妻を通してアメリカの組織を遠隔的に運営していった。 中根らの運動は一見順調に思われたが、組織の中心で中根を支えた妻が活動資金を使い込んで放蕩に明け暮れるようになりその活動が行き詰るようになる。中根は組織を立て直すためにアメリカに再び入国するが、1939年に逮捕される。FBIの取調べでは「サトハタ・タカハシ」他複数の偽名を使い、嘘を並べ立てたといわれる。 こうして、中根の野望は一見して瓦解したようだったが、中根が獄中にいる1943年、デトロイトで黒人の大暴動が発生している(デトロイト人種暴動 (1943年)(英語版))。これは中根の活動に起因すると言われており、アメリカの兵器生産拠点であったデトロイトを3日間、機能停止状態に陥れた。 中根は第二次世界大戦中に釈放され、後半生愛したデトロイトに戻り、同地で没した。また、上述の妻らとは別にさらにもう1人の黒人女性と愛人関係にあったとされる。
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「アドルフ・ワーグナー (経済学者)」の記事における「人物・生涯」の解説
エアランゲンにて哲学教授の息子として生を受ける。ゲッティンゲン大学に学び、1857年に博士号を取得。 ウィーンで中学教師の傍らウィーン大学への奉職を志すも、ローレンツ・フォン・シュタインの財政政策に反対したことからハンブルクに赴き商業学校の教師となる。1865年にタルトゥ大学へ招かれ、民族誌・地理学・統計学の主任教官となって本格的な経済学の研究が可能となった。 その後、フライブルク大学・ベルリン大学で教鞭を取り、グスタフ・フォン・シュモラーとともに社会政策学会、アドルフ・シュテッカー(de)とともにキリスト教社会党(de)の創設に関与。ヴェルナー・ゾンバルトなどを教えた。 ベルリンで死去。
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人物・生涯
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1895年5月26日、煙草の元売りの店を営む谷川米太郎の三男として愛知県知多郡常滑町(現:常滑市保示町)に生まれた。旧制愛知県立第五中学校(現:愛知県立瑞陵高等学校)卒業。1913年、第一高等学校(のち東京大学教養学部)に入り、在学中は真宗大谷派僧侶の近角常観が主宰していた求道学舎に寄宿する。西田幾多郎に影響され、1918年に京都帝国大学文学部哲学科へ入学して師事する。1922年に卒業し、同志社大学講師などを経て、1928年に法政大学文学部哲学科教授となる。その後、文学部長、能楽研究所長を経て、1963年に法政大学総長に選出され、1965年まで務めた。大学で同僚だった野上豊一郎、弥生子夫妻とは深い交流が続いた。文部省の国民芸能文化専門会(1942年設置)の委員も務めた。 論壇には1929年『改造』に発表した論文で登場した。『思想』の編集に関わったのち、戦時中は海軍の思想懇談会に参加し、戦後は三年会、世界連邦運動に加わる。『婦人公論』主幹、帝室博物館(現・東京国立博物館)次長、『心』編集代理委員を務めた。大正教養主義の流れに立った知識人で、旧制高校出身の学歴貴族たちに大きな影響があった。その流れで、作家阿川弘之とは志賀直哉ら白樺派関係で、平岩外四とは同郷でもあり終生交流があった。 また宮沢賢治の研究家でもあり、自ら詩も書いた。賢治については「雨ニモマケズ」を高く評価し、同作に否定的な見解を表明した中村稔の評論に批判をおこなって、中村から反論を受けた(雨ニモマケズ#「雨ニモマケズ」論争を参照)。柳宗悦とも交流があり、終生民藝運動を支えた。晩年に終生の座右の書は『論語』『正法眼蔵』『ファウスト』と述べている。草野牛郎のペンネームを用いて自由律短歌も書いた。 戦後短期間、博物館次長に在任中に館長の安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎らと昭和天皇の話し相手をしたことをたびたび述べることで、象徴天皇制を擁護している。『世界』の創立メンバーの一人でもあり、昭和天皇崩御に際しての『世界』の特集号では、ただ一人天皇を称える文章を載せている。 1960年、法政大学文学博士。「茶の美学序説 芸術としての茶の構造」。1967年、叙勲二等授瑞宝章。1970年、宮沢賢治像を制作するよう高田博厚に依頼する。1987年、文化功労者。 1989年9月27日未明、虚血性心不全により自宅で死去。94歳没。前日まで職務を行っていた。叙従三位、叙勲一等授瑞宝章。弔辞は阿川弘之が読んだ。墓所は鎌倉市山ノ内の東慶寺にある。 妻・多喜子は立憲政友会の議員だった長田桃蔵の娘。京都帝大時代に音楽会で出会ったことがきっかけで交際に発展し、結婚するまでの2年間に多くの恋文が交わされた。多喜子は徹三より5年早く世を去ったが、没して10年後の1994年、息子の俊太郎は、多喜子が残した恋文の一部を『母の恋文』(新潮社)として出版した。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 06:10 UTC 版)
突厥とソグド人の混血出身で、安禄山と同世代で同郷だったため親しい仲にあった。また、自身も6つの言語を解し教養に通じる人物であったため、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、天宝11載(752年)には安禄山の配下となった。 至徳元載(756年)に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った(安史の乱)。しかし、聖武2年(757年)に安禄山の次子の安慶緒が、父を殺害するとその後を継いで燕の皇帝と称した。史思明はこれに反発し、范陽に帰って自立。やがて唐に降伏するも、粛宗や彼に近い要人達が自分の殺害を計画していることを知ると降伏を撤回し、天成3年(759年)3月、洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。だが、順天3年(761年)、末子の史朝清を後継ぎにしようとしたために長男の史朝義によって殺された。
※この「人物・生涯」の解説は、「史思明」の解説の一部です。
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人物・生涯
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当初興福寺に住し、天平5年(733年)に出家者に正しい戒を授けるための伝戒師を招請するため栄叡とともに唐に渡った。洛陽大福先寺で具足戒を授けられ、道璿に来日を促した。唐に滞在すること10年目にして揚州大明寺の鑑真に拝謁して日本への渡航を要請し、天平勝宝6年(754年)、鑑真に従って日本へ戻った後、東大寺に住し、天平宝字3年(759年)には意見封事として旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上した。苦楽を共にした栄叡とは親友同士であり、栄叡を看取ったのも普照である。栄叡が亡くなった時酷く号泣したと伝わる。その後、奈良西大寺の大鎮を務めた。没年は不明。 なお、平間寺の第31世貫主を「普照」という僧が務めているが、活動した時代が全く異なり、別人である。
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人物・生涯
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元治元年(1864年)4月14日(4月10日との説もある)、越後国蒲原郡保田村(現:阿賀野市安田村)の豪農旗野家の子(三男)としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、1884年(明治17年)12月から名乗った。1874年(明治7年)に小学校を出たのち、近所の英国人について英語を4年間学び、村で英学者ともてはやされる。1875年(明治8年)、11歳の時から新潟学校(後の新潟英語学校)中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で小学校教員となる。1884年(明治17年)、中蒲原大鹿新田(新潟市秋葉区)の吉田家の養子となり結婚する。1885年(明治18年)、1年志願兵として仙台兵学校に入営する。休日には仙台師範学校の図書館(旧仙台藩の図書を収蔵)に通う。翌年、帰郷する。1887年(明治20年)、24歳の時、小学校正教員の検定に合格し、北蒲原郡水原小学校訓導となった。この頃、歴史・地理・天文のほか考古学・人類学に関心をもつ。1889年(明治22年)水原小学校を辞職。 1890年(明治23年)、27歳での結婚後に単身北海道に渡る。大富源開拓の夢は破れたが、そこから『史学雑誌』に寄稿した「古代半島興廃概考」が学者の注意を引き、落後生という筆名で続々史論を発表し注目された。特に『史海』への投書論考が主筆田口卯吉らの注目をひき、学界への登竜門となった。1891年(明治24年)郷土に帰り、親戚の市島謙吉を頼って上京し、市島が主筆を務める読売新聞社に入社し、「徳川政教考」を『読売新聞』に連載。また、2年足らずで膨大な『日韓古史断』(1893年、30歳)を書き上げ、翌年『徳川政教考』を出版し、歴史家としての地位を固めた。 1895年、日清戦争に記者として従軍した頃から、1893年に官撰日本地誌の編纂事業が中止されており、その事業を独力で継ごうという意思の表れでもあり、また、日本の地名の変遷を記した研究がないことに気付き、13年かかって『大日本地名辞書』11冊を完成した。原稿の厚さ5mに及ぶ質量とも古今未曾有の大地誌で、今日でも刊行されている。 歴史地理学のほか日本音楽史の造詣も深く、とくに能楽研究に意を注ぎ、『世子六十以後申楽談儀』(『申楽談儀』)を校訂、これが世阿弥伝書の発見につながる契機となった。その後、吉田が『花伝書』と命名した『風姿花伝』をはじめ,当時発見された世阿弥の著書16部を収めた『世阿弥十六部集』を校注し、従来の観阿弥・世阿弥像を一新させ、近代能楽研究の出発点となった。 晩年は宴曲(早歌)研究に努め、東儀鉄笛(とうぎてつてき)の協力で宴曲再興を試み、私財を投じて『宴曲全集』を公刊して研究の基礎を築いた。 他にも、社会経済史の分野では『庄園制度之大要』が、近代史の分野では『維新史八講』があり、現代より過去にさかのぼるという歴史的視野の問題を含む通史『倒叙日本史』(全12巻)もある。 東京専門学校(早稲田大学の前身)文学部史学科講師となり、以後、国史、日本地誌、明治史、日本地理を担当、のちに教授となり、さらに維持員、理事に就任した。1918年(大正7年)尿毒症のため急死した。
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人物・生涯
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「ファン・ホセ・デ・エルヤル」の記事における「人物・生涯」の解説
スペイン北部のログローニョに生まれる。パリで教育を受けたあと、ドイツのフライベルク鉱山専門学校で冶金学などを学び、1781年から82年にかけてスウェーデン・ウプサラのトルビョルン・ベリマンに学ぶ。その後、ファウストと共にスペインのベルガラの神学校の教授になった。1783年、ベルガラでファウストと共同でタングステンの分離に成功し、ウォルフラムと命名。 その後、コロンビアのヌエバ・グラナダ(Nueva Granada)鉱山の校長に任ぜられ、同地で没した。
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人物・生涯
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「マーカントニオ・コロンナ」の記事における「人物・生涯」の解説
1571年のレパントの海戦時に、教皇庁艦隊司令官を務める。神聖同盟艦隊全体としては、副司令官であった。軍人というより宮廷人である。 海戦の前年1570年にも神聖同盟艦隊の編成があったが、その当時海上戦闘の経験がないということでローマ教皇ピウス5世からの提言にもかかわらず、ヴェネツィア・スペイン両国から同盟艦隊全体の指揮官への任命は難色がしめされた人物である。オスマン帝国がキプロス島の首都ニコシアを包囲を開始したため、とりあえず神聖同盟艦隊司令官に任命される。 キプロス救援を急ぐヴェネツィアと、ヴェネツィアのためには戦う気のないスペイン勢の間で調停役となるが、決断力を欠き、1570年は戦うことなく艦隊は解体される。 1571年も継続して法王庁艦隊司令官を務め、神聖同盟艦隊総司令官職はスペイン王フェリペ2世の庶弟ドン・フアン・デ・アウストリアに譲り、副司令官となるが、神聖同盟内で意見が割れた場合の妥協案を示すなど調停役として重要な役割を果たす。 1584年にスペインで客死した。49歳。
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肥後国熊本(現熊本県熊本市)生まれ。父池辺吉十郎、母世喜の長男として生まれる。吉十郎は熊本藩士として秀でた武人であり、西南戦争の時、熊本隊を率いて西郷隆盛軍に参加するが、敗戦時に処刑されるという非運に見舞われた。吉太郎が14歳の時であり、これからつぶさに辛酸をなめ、そのために老成重厚の風格を長じるようになった。慶應義塾に学んだが、中退して佐賀県の役人となる。 大阪朝日新聞、東京朝日新聞の主筆を歴任。朝日新聞隆盛の礎を築いたひとり。公明正大で高い識見の言論は、政治や思想、文芸など多方面に影響を与えた。陸羯南、徳富蘇峰とともに明治の三大記者とも称された。二葉亭四迷や夏目漱石を入社させ、朝日新聞の権威を高めるとともに、今日文豪と言われる作家の長編小説を新聞連載に尽力した。 父が殉じた西郷を思わせる巨漢で、東京朝日新聞時代の部下だった石川啄木に「大いなる彼の身体が/憎かりき/その前にゆきて物を言ふ時」(『一握の砂』)と歌に詠まれた。
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人物・生涯
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ステノはコペンハーゲンの金細工職人の息子として生まれた。コペンハーゲン大学に学んだが、スウェーデンとデンマークの間で戦争がおこり、学業を続けるためにアムステルダムに移らざるをえなくなった。ライデン大学で医学の学位をえた後、解剖術の才能を示し、有名な解剖学者となった。解剖学の著書『脳の解剖についての講義』がある。その後1年ほどパリに滞在した。 1665年フィレンツェに移り、アカデミア・デル・チメントのメンバーになりフェルディナンド・デ・メディチの保護をうけて、自然科学の研究をおこなった。自らの解剖学的知識と化石の類似とトスカーナ地方を中心とするイタリアの地形、地層の観察から、地層の生成に関する研究の成果『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を出版した。 その後、1667年、それまで信仰していたルーター主義からカトリックに改宗。フィレンツェで神学の勉強を始め、1675年、司祭に叙階され、1677年、司教となり、ドイツ北部にて、数少ないカトリック教徒のために尽力した。晩年は、科学的研究から離れていた。1988年、教皇ヨハネ・パウロ2世の手によって福者の位にあげられている。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/04 05:38 UTC 版)
「ケーテ・コルヴィッツ」の記事における「人物・生涯」の解説
彼女は1867年、東プロイセンのケーニヒスベルク(現在のロシア領カリーニングラード)で、左官屋の親方である父カール・シュミット、母ケーテ・ループの間に生まれた。彼女は父の仕事場にいた職人から絵や銅版画を学び、父は17歳になった彼女をベルリンへ絵の勉強に行かせた。この時期、彼女はマックス・クリンガーなどベルリン分離派の画家・版画家たちの影響を強く受けた。彼女は学業を終えケーニヒスベルクに戻ったが、再びより芸術的な環境を求めミュンヘンに向かい、フランス印象派絵画などの影響を受ける一方、版画やスケッチが自分に向いていると考えるようになる。1890年、彼女はケーニヒスベルクに戻り、港で働く女性たちの活動的な姿を版画に描くようになった。 1891年、兄の友人で健康保険医のカール・コルヴィッツと結婚した彼女はベルリンの貧民街に移った。彼女は生涯描き続けた自画像に取り組む一方、スラムに住む彼女の周りの住民たちや夫の患者たちに強い印象を受け、貧困や苦しみを描くようになる。 彼女は1897年に、ゲアハルト・ハウプトマン作の下層階級の人々を描いた戯曲『織匠』(Die Weber、1892年)を見た印象から制作した最初の版画連作『織匠』(織工の蜂起)を発表し、一躍脚光を浴びる。批評家からは絶賛を浴びたが、当時の芸術家のパトロンたちにとっては難しい題材であった。彼女はベルリンの『大展覧会(Große Kunstausstellung)』で金メダルにノミネートされたが、皇帝ヴィルヘルム2世は授賞に対する許可を与えなかった。 その後彼女はドイツ農民戦争を題材にした連作『農民戦争』(1908年)で評価され、版画に加えて彫刻も手がけるようになったが、1914年、第一次世界大戦の開戦一週間後に末息子のペーターが戦死した。社会全体に開戦への熱気が高まる中で息子のハンスとペーターが兵士に志願した際、彼女は止めるどころかむしろ後押ししてしまったこともあり、彼女は長い間悲しみにさいなまれた。戦後、彼女はペーターの戦死を基にした木版画による連作『戦争』(1920年)や労働者を題材にした『プロレタリアート』(1925年)を発表する一方、息子の死後17年間にわたり彫刻『両親』の制作を続け、1932年にベルギー・フランデレンのRoggevelde にあるドイツ軍戦没兵士墓地に設置された。後に、ペーターの葬られた墓地は近くのVlodslo に移転し、彫刻も移転している。彼女はその他、激戦地だったベルギー・ランゲマルク(Langemarck)の墓地のために四人の黙祷する兵士の像を制作している。 彼女は1919年、女性アーティストとしてはじめてプロイセン芸術院の会員に任命され、1929年にはプール・ル・メリット勲章を受章するなど、第一次世界大戦後の国家や社会の各層から高い評価を受け、多くの人々から親しまれた。一方で社会主義運動や平和主義運動にも関与し、『カール・リープクネヒト追憶像』の制作や、ドイツ革命後わずかな間存在した社会主義政府の労働者芸術会議に参加するなどの活動を行っている。 1933年、ナチ党の権力掌握とともに「退廃芸術」の排斥が始まった。彼女も反ナチス的な作家とされ、芸術院会員や教授職から去るように強制された。彼女は最後の版画連作『死』および、母と死んだ息子を題材にした彫刻『ピエタ』(1937年)を制作するものの、1930年代後半以後は展覧会開催や作品制作など芸術家としての活動を禁じられた。宣伝省は人気のあった彼女の作品を『退廃芸術展』では展示しなかったものの、逆にいくつかの作品をナチスのプロパガンダとして利用している。彼女の夫は1940年に病死し、孫のペーター(長男ハンスの息子)は東部戦線で1942年に戦死した。 1943年、彼女はベルリン空襲で住宅やデッサンの多くを失い、ザクセン王子エルンスト・ハインリヒの招きで、ベルリンからドレスデン近郊の町・モーリッツブルクに疎開し、モーリッツブルク城のそばのリューデンホーフという屋敷に住んだ。彼女は制作を禁じられた後もひそかに制作を続けており、最末期の作品には子供たちを腕の下に抱えて守り、睨みつける母親を描いた1941年の『種を粉に挽いてはならない』という版画作品がある。1945年4月22日、第二次世界大戦終結のわずか前、彼女は世を去った。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 05:12 UTC 版)
幼少期については、はっきりとした記録が残っていない。寺町誓願寺で軽業渡世に励んだ後、1842年(天保13年)に京都道場の芝居にて軽業。1843年(天保14年)、大坂へ下って興行し、10年以上に渡って活躍した。 1857年(安政4年)正月、江戸に下って両国で興行を始めるや否や、たちまち人気を博すようになった。歌舞伎仕立ての衣装を身にまとい、独楽や手品の手法を取り入れた豪快な舞台を披露。およそ2カ月の間に錦絵30数点が出版され、たちまちのうちに売れたという。曲差し(きょくざし)(竿から手を離して肩だけで支え、三味線を曲弾きするという非常に高度な芸)や石橋(しゃっきょう)(足で長い竿を支え、竿に人や動物を載せる芸)と呼ばれる、長い竿を足や肩で支える曲芸を得意とした。 慶応3年7月25日(1867年8月24日)、約30名の一座を率いて、虎吉は横浜を出発しアメリカに渡航した。翌月にサンフランシスコに上陸。サンフランシスコのメトロポリタン劇場を振り出しに、サクラメントやニューヨーク等アメリカ各地を興行した。 フィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでの興行(慶応3年12月30日(1868年1月24日)終了後、突如体調を崩し、慶応4年1月15日(1868年2月8日)に心臓病で客死した。その数日前より、一座を海外へ連れ出した外国人手配師の契約不履行などを訴え、揉めていたようである。その後、明治7年(1874年)に実弟が二代目早竹虎吉を襲名した。
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人物・生涯
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レイフは、グリーンランドを発見し、最初の定住を試みたエイリークの長男としてアイスランドで生まれ、グリーンランドで育った。若い頃に祖父の故郷ノルウェーに渡って滞在し、ノルウェー王と会見してキリスト教に改宗、そこで学んだキリスト教を持ち帰ってグリーンランドに教会を建てた。 サガの伝えるところによると、この頃グリーンランドへの航路から西に流された者がおり、グリーンランドの西に木材が多くグリーンランドより豊かな島があるらしいので、レイフはノルウェーからの帰還後、997年に西へと探検航海に出た。最初に漂流者のルートをたどって西に赴くと、岩に覆われた陸地があり、彼らはこれを「岩の国(ヘルランド)」と名づけた。次に南下した彼らは木に覆われた陸地を見つけ、「森の国(マルクランド)」と名づけた。さらに海を南に下った彼らは、小麦の自生する豊かな国へとたどり着いて、そこを「ブドウの国(ヴィンランド)」と名づけて前線基地を置き、グリーンランドに帰った。西暦1000年のことであったという。 ヴィンランドは、川にはサケが遡上し、定住するのに好適な土地であるように思われたので、まもなく数百人の入植者がグリーンランドからヴィンランドに向かった。しかし、先住民(レイフたちは「スクレリング」と呼んだ)との関係もあってヴィンランドの入植地は長続きせず、やがて放棄されてしまった。レイフ自身は父の後を継ぎ、グリーンランド西海岸にあった入植地の有力者としてその後の人生を送ったようである。
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人物・生涯
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「エルンスト・エンゲル」の記事における「人物・生涯」の解説
ドイツのドレスデンの生まれ。ドイツ社会統計学の代表的な人物の一人であり、プロイセン王国の統計局長官となり、官庁統計を整備し、統計教育に努めた。家計の中でしめる食費の割合(エンゲル係数という)が貧富の階層差に密接に関連することを指摘した。 「エンゲルの法則」で有名。著書『人間の価値』『ベルギー労働者家族の生活費』など。
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人物・生涯
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「バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア」の記事における「人物・生涯」の解説
スペイン南部ヘレス・デ・ロス・カバリェロス(エストレマドゥーラ州)出身。実家は貴族身分ながら貧困にあえいでいた。1500年にイスパニョーラ島へ開拓者として移住したものの経営能力のなさや放埓な生活で借財を重ねた。その債権者から逃れるようにして1510年、カリブ海に面したヨーロッパ人最初の植民都市サンタ・マリア・ラ・アンティグア(現コロンビアとパナマの国境付近)に移住し、後に活動拠点とする。 現地では食糧不足や先住民(インディオ・インディヘナ)の襲撃に悩むスペイン人たちのリーダーとして才覚を発揮。新しい植民都市ダリエンの建設を指揮し、完成後はその総督に任命される。懇意にしていたインディオの酋長から南方にある黄金の産出地の情報を得たバルボアは、1513年9月に190人の隊を組織して探索を開始する。この時の部下の一人が、後にインカ帝国の征服者として知られるフランシスコ・ピサロである。 先住民の案内でパナマ地峡を横断し、9月25日に隊は海に到達した。バルボアはこの海を「南の海 (South Sea)」と命名した。これが後の太平洋である。また、彼の探検によってアメリカ大陸が2つの大海に接する大陸であることが明らかとなった。この探検では目当ての黄金を発見することはできなかったが、より南方のペルーに黄金郷が存在するという情報を掴んだ。しかし、バルボアの探検隊にはペルーに赴くだけの余力はなかったので一旦植民地へ帰還した。黄金探索という本来の目的は果たせなかったものの、彼は偉大なる探検者として迎えられた。 しかしながら行程中に略奪や虐殺などの残虐行為を働いたことにより、この探検に対する後世の評価は芳しくない。スペインの本国政府も、それを容認するバルボアのリーダーシップに危惧を持ち、またパナマ支配を強化する目的で彼のダリエン総督としての任を解き、新たにペドラリアス・ダビラ(en)を総督として送り込んだ。豪放なバルボアと猜疑心の強いダビラは反りが合わず、次第に対立を深めていく。 黄金郷探索のためペルーへ向かおうとしたその矢先の1519年1月、ダビラの召喚を受ける。出頭した彼はかつての部下ピサロに捕らえられて獄につながれ、形ばかりの裁判で反逆罪に問われた挙句、斬首刑(絞首刑とも)に処され、波乱の生涯を終えた。
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興福寺の玄昉、元興寺の良敏に法相唯識を学び、審祥から華厳を学んだ。740年(天平12年)審祥による華厳経の法会では副講師をつとめ、同14年(742年)には講師となった。755年(天平勝宝7年)には宮中講師となる。翌756年(天平勝宝8年)聖武天皇が病気となった際、良弁・安寛とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、759年(天平宝字3年)には、文室智努とともに意見封事を淳仁天皇に行い、採用されている。760年(天平宝字4年)には良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後道鏡が現れると、「政を行うに理に乖き、僧綱たるに堪えず」という理由で763年(天平宝字7年)僧綱を解任され、かわって道鏡が少僧都に就任したが、道鏡が失脚した770年(神護景雲4年)8月には少僧都に復帰している。
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スイスで唯一のイタリア語を公用語とするティチーノ州出身のモッタはカトリック保守人民党から1911年に政府閣僚に任命され、以後30年間その職にあった。特に第一次世界大戦後は外務大臣を20年近くにわたって務めたため、モッタ外交と称された程である。 モッタは1920年にスイスの国際連盟加盟を実現させ、多くのヨーロッパ諸国と仲裁協定を結んで、国際社会での仲裁役を自ら積極的に買って出ることでスイスの国際的威信を高めた。また、自らも熱心なカトリック信徒であったこともあり、バチカンとの関係強化にも積極的であった。 だが、同時に徹底的な反共主義者であったため、1925年に一方的にソビエト連邦との国交を破棄(その後1946年まで回復される事はなかった)した。更に隣国イタリアとの関係を重視する余り(出身地のティチーノ州はイタリアとの国境を接する)、ムッソリーニのエチオピア併合を真っ先に支持して、1938年には国際連盟は国際紛争に無力であるとして、脱退を表明するのである。 だが、イタリアとの協調路線を取るモッタもイタリアとナチス・ドイツが同盟を結んで、スイスに圧力をかけ始めるとこれに激しく反発、アンリ・ギザンを軍の司令官に任じて徹底した武装中立路線へと方向を転換させた。 小国・スイスの外相として、徹底した実利重視・日和見主義を取った事で複雑な国際政治の中でスイスを生き延びさせることが出来たことに関しては高く評価されている。だが、彼の個人的な考えによって外交政策が決定されてしまい、スイスにとって真の国益に適った外交政策を取れていたのかという疑問も指摘されている。そのため、戦後のスイスでは連邦議会の外交委員会の外務省に対する監督が強化され、モッタの様な外務大臣による専権的な外交手法は否定されるようになるのである。 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。
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「桂小文治 (2代目)」の記事における「人物・生涯」の解説
現在の大阪府大阪市港区出身。1906年(明治39年)ころ、7代目桂文治門下となり9代目桂小米。1915年(大正5年)、2代目桂米丸襲名。三友派若手の有望株として踊り、声色で活躍する。 1916年(大正6年)10月、東京寄席演芸会社の招きで上京し上席に出演。当初1か月の契約だったのが、そのまま東京に定住。1917年(大正7年)5月、下席から桂小文治に改名し真打昇進。1922年(大正11年)4月、落語睦会に移籍。6代目春風亭柳橋、(俗に)3代目春風亭柳好、8代目桂文楽と並ぶ「睦の四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現:落語芸術協会)に加わり、副会長として、会長6代目春風亭柳橋を補佐する。大阪落語の落語家でありながら、東京落語界の幹部となった。 また、小文治は東京に行ったのち、師匠文治の引退興行の時に大阪に顔を出したが、小文治を可愛がっていた4代目橘家圓蔵が引退する文治よりも小文治の宣伝をしたため、小文治の兄弟子初代桂春団治が激怒し、止めに入った小文治を蹴飛ばし、舞台上で圓蔵を罵倒した、それがゆえに大阪へ戻れなくなり、東京に骨を埋めることとなったといわれている。 2代目三遊亭百生と共に、上方落語を東京で紹介した業績は大きい。また、第二次世界大戦後は、衰亡していた上方落語復興のため、当時の若手6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝らを支えた。戎橋松竹や道頓堀角座にも定期的に出演していた(ただし、肩書きは「東京落語」であった)。 面倒見の良い性格で、他所の門を失敗した落語家を引取ったため、門人も多かった(このため、小文治一門は現在、芸術協会の大半を占め、80名の真打の中で50名以上いる)。 1961年、文部省芸術祭奨励賞受賞。 1967年11月28日死去。74歳没。墓所は寛永寺第一霊園。戒名は生前からすでに用意していた「芸能院小文治居士」。小文治没後の副会長は総領弟子5代目古今亭今輔が就任した。
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人物・生涯
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中島撫山は1829年(文政12年)4月12日、江戸亀戸に生を受ける。生家は江戸初期以来、諸大名に駕籠を納入する日本橋新乗物町(今日の東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の豪商であった。数えで11歳の時、母が亡くなる。14歳の時に出井貞順に入門し、出井貞順の薦めで亀田綾瀬・鶯谷にも学ぶ。19歳で父と死別する。1858年(安政5年)に両国矢ノ倉に私塾「演孔堂」を開塾する。1869年(明治2年)12月、武蔵国埼玉郡久喜本町122番地(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本、今日の久喜市本町6丁目)に移住する。1872年(明治5年)、久喜に戸籍を移す。1878年(明治6年)には久喜本町の住居に私塾「幸魂教舎(こうこんきょうしゃ)」を開塾する。「幸魂教舎」の「幸魂」とは埼玉の古い読み方である「さきたま」に由来する。その後、晩年の1909年(明治42年)には大字久喜本より大字久喜新(今日の久喜中央2丁目)へと転居する。その2年後の1911年(明治44年)6月24日、83歳で永眠する。 中島撫山の墓は神道式となっており、久喜市本町1丁目の光明寺に眠っている。また、久喜中央2丁目(旧:大字久喜新)の住居跡地に六男の田人(中島敦の父)撰文の記念碑が中島撫山の没後30年の1941年(昭和16年)に建てられ、現存している。 上記の「幸魂教舎」のように、中島撫山は地域での教育においても功績を残し、また久喜の地に移り住み永眠するまで多くの撰文などを行い、碑文も数多く残すなど、旧久喜町やその周辺地域にその足跡・功績を多く残している。
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人物・生涯
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ポルト・アレグレで生まれ、11歳の時にRádio Farroupilhaの子供向けラジオ番組で、歌手としてのキャリアをスタートさせた。1959年にはラヂオ・ガウシャ(Rádio Gaúcha)と契約して、翌年にはリオデジャネイロへ赴き、彼女の最初のLPである「Viva a Brotolândia」を録音する。 1965年には、彼女が初めて受けた歌謡コンテストでエドゥ・ロボとヴィニシウス・ヂ・モライスの「アハスタォン(Arrastão)」を歌い、優勝する。2枚目のLPである「Dois na Bossa」は、ジャイール・ロドリゲス(Jair Rodrigues)と共演盤で、ブラジル国内のレコード売り上げ記録を更新した。 1960年代の後期から1970年代の初頭にかけて、ジルベルト・ジルなどのミュージシャンたちと共にレコーディングを行ったりして、トロピカリア運動の普及に貢献。1974年には、アントニオ・カルロス・ジョビンとのコラボレーション作品であるアルバム『エリス・アンド・トム』を発表。このアルバムを、最も優れたボサノヴァアルバムの一つ、そしてこのアルバムに収録されたジョビン作の「三月の水(Águas de Março)」を最も優れたボサノヴァ曲の一つであると考える人も多い。彼女はまた、ミルトン・ナシメントや、ジョアン・ボスコ、シコ・ブアルキ、ジョルジ・ベンやカエターノ・ヴェローゾとも共演作品をレコーディングした。 エリスは、彼女と同世代のブラジルのミュージシャンたちを迫害し追放していた当時のブラジルの軍事政権を時々批判することがあった。1969年のインタビューでは、「ブラジルはゴリラに支配されている」という見解を述べたこともあった。彼女は人気があったゆえに牢獄に入れられることはなかったが、それでも圧力を受け、やむをえずスタジアムのショーでブラジル国歌を歌わされることになり、左翼的思想の人々から反感を買うことになる。 1982年にコカイン中毒とアルコール中毒によって死去。36歳没。現在、彼女はサンパウロのモルンビ墓地に葬られている。その短いキャリアの中で、数々のトップセラーを記録した。 なお一人目の夫である、ホナルド・ボスコリ(ポルトガル語版、英語版)との間に、息子ジョアン・マルセロ・ボスコリ(ポルトガル語版)がおり、ミュージシャンとして活動している。また二人目の夫である、セザール・カマルゴ・マリアーノ(ポルトガル語版、英語版)との娘であるマリア・ヒタ(Maria Rita、もしくはマリア・リタ)も同じく歌手となり、2004年にファースト・アルバム『マリア・ヒタ』をリリースしている。これは彼女の故郷ブラジルで、プラチナム・ディスクとなり、2つのラテンの音楽賞を受賞した。
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人物・生涯
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1857年10月2日(安政4年(旧暦)8月15日)、近江国水口で生まれる。巌谷家は代々水口藩典医を務め、祖父は巌谷玄通、父は典医より明治維新後太政官一等書記・貴族院議員を務めた明治の三筆の一人・漢学者である巖谷一六(本名巌谷修)である。立太郎は長男として誕生した。 6歳より水口にて藩儒中村栗園に学び神童と称され、1868年(明治元年)京都にて神山鳳陽に師事し漢学を学び、1870年(明治3年)4月に上京し慶應義塾に入学。10月に藩の貢進生に選ばれて大学南校に入学した。1873年(明治6年)4月10日大学南校が(第一大学区)開成学校と改称された後、立太郎は化学を専攻し、1875年(明治8年)9月化学本科第一学年に進み、1877年(明治10年)5月には鉱山学学習の為ドイツ留学を命じられた。 1877年(明治10年)10月、ドイツザクセン州フライベルク鉱山大学(独: Bergakademie Freiberg)に入学し冶金学・鉱山学を専攻、1880年(明治13年)銀鉛冶金に係る論文を提出して同地の学位を受ける。その後もフライベルク市官公冶金所で実地実験に従事、フライベルク鉱山大学のヴァイスバッハ教授やヴィンクラー教授の要請を受け研究を行うが肺結核を患い1881年(明治14年)8月帰国した。 帰国後1年程度神戸で静養しながら文部省の依頼で鉱山学関係のドイツ書籍の翻訳を行った。1883年(明治16年)8月母校東京大学理学部講師となる。同年12月には文部省御用掛に任じられると共に東京大学文学部講師も兼務し、諮詢機関に推挙された。1884年(明治17年)6月鉱業実施・鉱物採取のため兵庫県・岡山県・鳥取県を巡り、1885年(明治18年)3月中学校師範学校教員免許学力試験委員を命じられ、同年4月東京大学理学部教授に昇進した。1886年(明治19年)3月学制変更により東京帝国大学工科大学教授に再任され、また同年5月農商務省鉱山局技師を兼務し、以後各地の鉱山を視察した。1888年(明治21年)6月7日、工学博士の学位を授与される(採鉱・鉱山学専攻者学位としては長谷川芳之助に続き二人目)。 1888年(明治21年)11月東京帝国大学評議員を命じられ(翌年辞任)、1890年(明治23年)には第三回内国勧業博覧会審査官に任じられた。この間、長崎県・佐賀県・奈良県・愛媛県・秋田県・兵庫県の鉱山・鉱物を視察し、予てからの激務がたたり1891年(明治24年)1月24日に33歳で死去した。 立太郎は多種多様な社会事業に携わっており1885年(明治18年)1月、東京市京橋西紺屋町の東京地学協会の一室に日本鉱業会(現資源・素材学会)を組織(議長は岩佐巌)した。高橋健三と共に「日本新聞社」創立発起人18人の内の一人となるなどしている。 日秘鉱業株式会社 1889年(明治22年)、特許局長であった高橋是清に南米ペルーで銀を掘ってはどうかとの話が持ちこまれ、是清は銀山開発に魅力を感じ特許局長を辞任してペルーのカラワクラ銀山経営のため全財産を拠出し、巌谷立太郎・有吉平吉・沢村大八・九鬼隆一・米田虎雄・曾我祐準らと共に資本金50万円で日秘工業(にちひこうぎょう)株式会社を設立した。日秘鉱業株式会社創設にあたり、カラワクラ銀山への下見調査に行った東京帝国大学卒業の技師が架空の報告書を描き、立太郎や是清は是を信用してしまった。日秘鉱業設立後是清が調査団を率いてアンデス山中の現地に着いてみると、銀山は廃鉱であった。事後下見調査に行った東京帝国大学卒業技師は詐欺罪に問われた。この件で技師を推薦した立太郎は、一部出資者や世間から大きな非難を浴びた。
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人物・生涯
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憲宗・穆宗時期の宰相の段文昌の子で、父の功によって校書郎に任じられ、尚書郎・吉州刺史・処州刺史・江州刺史・太常少卿を歴任した。博学を以て知られ、随筆集『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』は特に名高い。また彼は駢儷文にも優れた手腕を見せ、やはり当時名手として知られた李商隠・温庭筠らと並び称せられ、排行(一族の中で、同世代の男子の通称として誕生順に番号を付したもの)が3人ともに16であったところから併せて「三十六体」と呼ばれた。
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人物・生涯
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尾張国中島郡下祖父江村(現在の愛知県稲沢市)出身。1887年(明治20年)、東京帝国大学工科大学を卒業し、大学院に進んだ。三菱社に入社し、吉岡鉱山技術係、同副支配人を務めた。1894年(明治27年)、採鉱冶金学研究のためドイツに留学し、フライベルク鉱山大学に学んだ。1897年(明治30年)に帰国し、東京帝国大学工科大学教授となり、海軍機関学校教授や海軍大学校教授を兼ねた。1899年(明治32年)には工学博士の学位を得た。1906年(明治39年)、病のため退官。1908年(明治41年)、東京帝国大学工科大学講師として復帰し、1911年(明治44年)、九州帝国大学工科大学教授に転じた。
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「ラ・アルヘンティーナ」の記事における「人物・生涯」の解説
アンダルシア出身の舞踊家マヌエル・メルセと母親ホセフィーナ・ルケ(カスティーリャ出身)の娘として、ブエノスアイレスで生まれる。若いころから天分に恵まれたダンサーとしての頭角を現した。生涯をダンスに捧げたのも両親の影響が大きく、4歳から父親がクラシック・バレエの指導にあたる。 9歳で、マドリードのスペイン王立劇場テアトロ・レアルで、デビューを飾り、11歳のころにはマドリード・オペラ界のスターとなっていた。 父が死去した直後、クラッシック・バレエ界から退き、14歳で、母とともにスペインの伝統舞踊の勉強を始めるが、この新しいスタイルは、評価を受けることはなかった為、劇場やコンサート会場で披露するかわりに、カフェ・カンタンテ(居酒屋)やミュージック・ホール等での上演をしていた。 第一次世界大戦前、パリのムーラン・ルージュやシャンゼリゼ劇場から招待を受け、ディアギレフ等の評論家から絶賛された。この頃から、ジプシーの踊りに関心を持ち、自分自身のスタイルとして昇華させた。米国ツアーを6回行なっており、フラメンコ・ギタリストのカルロス・モントージャを同行することもあった。 1929年1月来日。東京帝国劇場で公演を見た大野一雄が、功績を讃え、1977年「ラ・アルヘンチーナ頌」を発表。 フランスのバイヨンヌで死去。
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人物・生涯
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フランスのフォントネー=ル=コント生。ポワチエの大学で法律を学ぶ。最高法院ブルターニュ管区判事、パリの最高法院の請願書審理官と王室顧問官などを歴任した。1589年以降アンリ4世に仕えた。本職は弁護士、政治顧問官であるが、数学を研究した。初めて既知数の記号化を行い、記号代数の原理と方法を確立し、当時の代数学を体系化し、「代数学の父」といわれている。この頃スペインからの暗号文を解読したといわれる。時間の合間を縫っては三角法、球面三角法、一般係数の代数方程式などを研究した。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 08:30 UTC 版)
ルシア・サラーテは、1864年にメキシコ、ベラクルス州サン・カルロス(西: San Carlos)に生まれた。その後、同州アゴスタデロ(西: Agostadero)におちついた。イギリスの雑誌『ストランド・マガジン』の1894年の記事によれば、サラーテは1歳のときまでに十分な成長をとげた。 12歳の時に、サラーテは、生地メキシコからアメリカ合衆国に移ったが、合衆国で彼女は、小さい体躯のためにフリーク・ショー(freak show、見世物小屋)で見せものにされた。オックスフォード大学が1876年に刊行した年鑑の中に、数人の医療専門者が行ったサラーテへの往診後の次のような議論が掲載されている。すなわち、彼らは、彼女が12歳であることをはっきりと実証することができなかったが、彼女の歯の成長によって彼女が少なくとも6歳であることは確認することができた。当時、彼女の身長は20インチ(約50センチメートル)あり、彼女のふくらはぎの周囲は4インチ(約10センチメートル)あって、平均的な成人男性の親指よりも1インチ(約2.5センチメートル)大きかった。彼女は当時、両親とともにいて、そして健康的で知的であることがわかり、母語のスペイン語以外にも多少の英語を話すことができた。 彼女は最初、「妖精姉妹」("Fairy Sisters") と銘打たれた出し物のパートを務めた。後にフランシス・ジョセフ・フリン(英語版)(「ノミ将軍」("General Mite")というステージ名で知られた小人症の男性)と組んで国際的に公演を行った。1889年に彼女は『ワシントン・ポスト』に「驚くべきメキシコの小人」("marvelous Mexican midget")と宣伝され、そして「ちっちゃい、しかしながら、大衆を大いに惹きつける強力な"磁石"」("a tiny but all powerful magnet to draw the public")と評された。 1890年、サラーテの一座のサーカス列車が雪のシエラネヴァダ山中で立ち往生し、彼女は低体温症で死亡した。
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人物・生涯
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「オットー・フォン・ゲーリケ」の記事における「人物・生涯」の解説
ドイツのマクデブルクの貴族の家に生まれた。ドイツの大学で法学と工学(数学)を学ぶ。さらにイギリス、フランス、オランダに留学。その後、エルフルトで工学技師として働いていたが、1627年にマクデブルクに戻って市会議員となった。 1631年、三十年戦争によりマクデブルクから脱出し、スウェーデンのグスタフ2世の軍隊に入隊。 1646年からドイツのマクデブルク市長を務め、三十年戦争のマクデブルクの戦いで壊滅状態に陥ったマクデブルクの復興に力を尽くした。 1686年に死去。オットー・フォン・ゲーリケ大学マクデブルク はゲーリケの名を冠している。
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人物・生涯
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元文3年(1738年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。父の岡村良通は御書物奉行(620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟の林従吾(林道明)に預け諸国放浪の旅に出た。子平らは、大名家に往診にも行く開業医であった叔父の従吾のもとで養われる。 まもなく、長姉と次姉は仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、仙台藩5代藩主伊達吉村の侍女として仕えた。次姉のなお(きよ)はその容姿と心ばえが吉村に愛され、やがて6代藩主となる宗村の側室に抜擢され、お清の方と呼ばれるようになった。お清の方は1男1女をもうけた。男子はのちに三河 刈谷藩主土井利信の養嗣子となる土井利置、女子は出雲松江藩主松平治郷の正妻となる方子(青楽院)である。 お清の方の縁で、養父の従吾は仙台藩の禄を受けるようになった。従吾の没後、子平の兄の林友諒が封を継ぎ、宝暦6年(1756年)に正式に仙台藩士として150石が下された。同年5月に宗村が死去すると、友諒は家族を引き連れ、仙台川内に移住した。子平は部屋住みの身で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活するようになった。 子平はみずからの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友する。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』『海国兵談』などの著作を著し、「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して、当時の人びとを驚かせた。『海国兵談』の序を書いたのは、仙台藩医工藤平助であった。また『富国策』では藩の家老佐藤伊賀にあて藩政について説いたが、採用はされなかった。 『海国兵談』は海防の必要性を説く軍事書であったため、出版に協力してくれる版元を見つけることができなかった。そこで子平は、16巻・3分冊もの大著の版木を自ら彫り、自費出版で須原屋市兵衛から刊行した。『海国兵談』は寛政3年(1791年)、仙台で上梓された。しかし幕閣以外の者が幕政に容喙するのはご法度であり、両著はともに発禁処分が下され、『海国兵談』は版木没収の処分を受けることとなった。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして後に伝えられた。 最終的に、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居に処される。蟄居中、その心境を「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。 寛政5年6月21日(1793年7月28日)死去。享年56。 林子平の墓は仙台市青葉区の龍雲院にあるが、その龍雲院の所在地は1967年(昭和42年)の住居表示の際にそれまでの半子町から、墓があることにちなみ子平町と改称されている。 明治15年(1882年)、正五位を追贈された。
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人物・生涯
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1931年、アイヌの両親のもとに近文コタン(現旭川市内)に生まれた。1953年の22歳の時に木彫を始めて、鎌倉へ移住してモダンアート協会に所属。読売アンデパンダン展などにも出展し、阿寒と鎌倉を製作拠点にしていた。1959年に旭川市に戻り、北海道と東京を中心に多くの展覧会に出展した。1978年には上川支庁北部、音威子府村筬島(おさしま)に移住して小学校跡地を自身のアトリエを構えて製作活動をしていた。亡くなるまでの十余年、精力的に木彫作品の制作を行なった。北海道を中心に屋外彫刻も多数手がけるなど、土産物の木彫から出発し、大胆にして繊細、原始的にしてモダンな独自の作風を確立した。その作品は国際的にも評価が高い。1989年に骨髄癌で死去した。 北海道アイヌ協会、北海道教職員組合、北海道新聞と、しばしば対立的な立場を取っていた。このこともあり『「アイヌ」芸術家』という枠にはめられることを嫌っていたと言われるが、背景には旭川でアイヌ民族が置かれた複雑な歴史的事情が根ざしている。 山田美年子(画家)との間に長男チカル(OKI (ミュージシャン))、再々婚した一般女性との間に長女砂澤チニタ(書家・画家。1961-2013)、次男アウタ(砂澤陣、工芸家)、三男など。
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人物・生涯
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横浜で生まれた。父は土木工学者の安芸皎一である。東京大学出身、1959年東京大学より理学博士の学位を取得、学位論文の題は「Space and time spectra of stationary stochastic waves, with special reference to microtremors(複雑な波動のスペクトル的研究 : 特に微動について)。 東京大学地震研究所助教授、マサチューセッツ工科大学教授をへて南カリフォルニア大学教授を務めた。アメリカ地球物理学連合の地震学部門の会長、アメリカ地震学会 (Seismological Society of America) の会長を務めた。インド洋上のフランス・レユニオン島で火山活動の研究を行い、レユニオン島で没した。
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人物・生涯
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釧路春採コタンに生まれる。若い頃より民族文化に関心を持ち、古老の聞き取りに取り組む。1922年に樺太を訪問した際も、古老からの聞き取りに取り組む。釧路地区のアイヌの老人からアイヌの口話伝承を聞き、文字化する作業をライフワークとして続ける。 1937年、屈斜路湖のコタンでヒグマの木彫りなどの民芸品を製造・販売する店を開業する。「アイヌ民芸品としての木彫製作・販売の先駆者」としている文献もある。1940年、著書『阿寒国立公園とアイヌの伝説』を出版する。 1942年、海軍軍属としてトラック島に従軍する。戦傷で右目を失明し日本に引き上げる。 1946年、北海道アイヌ協会釧路支部の初代支部長に選ばれる。1948年、帯広市の伏古コタンに移り住み「北人民芸社」を設立する。アイヌ文様をあしらったサラダボウルとパイプスタンドなどの木彫り品1万点以上のアメリカ輸出の商談が決まりかけ、衆議院議員の本名武が経営する本名木材から材料を掛け取引で調達し商品を製造したが、商談は結局破談になり、このことが原因で「北人民芸社」は廃業することとなる。1949年、釧路市に戻る。 その後も、民芸品製造やアイヌ語研究で活躍する。1972年に『アイヌ民族抵抗史』の著者である新谷行の訪問を受け、大きな影響を与えている。同じ年の8月25・26日に札幌で開催された第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会のシンポジウムに参加し、アイヌ民族の立場から「魂のない」アイヌ研究家の態度を批判している。1973年に、「ヤイユーカラアイヌ」民族学会の創立に関わる。1976年に、パリのユネスコ本部で山本多助伝承のユーカラ『アイヌ・ラッ・クル伝』が上演される。1985年、北海道文化賞を受賞する。 1993年2月13日、88歳にて死去する。 なお、妹の伊賀ふでの娘でアイヌ文様刺繍家のチカップ美恵子の著作『カムイの言霊』に山本多助が紹介されている。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:34 UTC 版)
青海軍事学校に入学する。1925年(民国14年)、寧海軍騎兵第11営の幇帯となった。1928年(民国17年)、馮玉祥に反旗を翻した。しかし国民軍の劉郁芬に敗北して、河西に逃れた。 1929年(民国18年)、蔣介石から討逆軍第15路軍第2路縦隊司令に任命され、反蔣軍と戦う。1930年(民国19年)、山東省に赴いて馬鴻逵の参議となった。同年中に寧夏省に引き返し、引き続き馬鴻逵の下で教導大隊長をつとめている。 1931年(民国20年)、馬仲英は河西行政委員会を組織し、さらに甘州4県と粛州7県を河西省(中国語版)として、同省政府主席を自称する挙に出る。しかし同年4月に、青海省の馬歩芳の攻撃を受け、酒泉へ逃れた。同年中に、今度は新疆省へ軍を率いて進入し、同省政府主席金樹仁と交戦した。しかし、クムル(哈密)を攻略できず、河西へ退却した。 1932年(民国21年)、馬仲英は、蔣介石により国民革命軍新編第36師師長に任命された。翌1933年(民国22年)5月、またしても新疆へ進攻し、同省政府主席盛世才と交戦した。馬は、トルファンなど13の県城を占領し、9月には、新疆省政府委員にも任命されている。しかし、1934年(民国23年)、盛の反撃に敗北してしまう。馬は退却途中に、東トルキスタン共和国(第1次)とホータンのイスラム教政権を攻め滅ぼしている。同年7月、馬仲英は、部隊の200人とともに、ソビエト連邦へ向かい、空軍に加入した。 1937年(民国26年)、暗殺されて死ぬ。
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人物・生涯
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その部族的出自は不明で、しばしばヘルール族ともゴート人ともテューリンゲン族(英語版)ともスキリア族ともされるが、実際にはエデコがゲルマン人であったのかどうかすら分かっていない。 テオドシウス2世がフン族の長アッティラへ派遣した外交官マクシミヌス(英語版)に同行したプリスクス(英語版)によれば、エデコはゲピド族の王アルダリック(英語版)と並ぶアッティラの重臣であったという。詳細は不明であるが、445年のアッティラの兄ブレダの死に関連してアッティラの地位を高めるような功績があったという。 449年、エデコはアッティラからテオドシウス2世への使者としてオレステスとともにコンスタンティノープルを訪れた。エデコはテオドシウス2世の宦官クリサフィウス(英語版)から高額の報酬を餌にアッティラの暗殺を依頼されたが、エデコは計画に賛同したふりをして暗殺の計画をアッティラに報告した。451年にはアッティラに従ってカタラウヌムの戦いに参加している。 453年にアッティラが没すると、エデコはゲピド族の王アルダリックとともにフン族の連合体から独立し、454年にはネダオ河畔の戦い(英語版)でフン族を打ち破った。以後はスキリア族の軍隊を率いて東ローマ帝国に所属し、特にレオ1世の治世には皇帝より重用され、パンノニアで自身の王国を築いた。 469年、東ローマ皇帝レオ1世の示唆を受けてゴート人の将軍ウァラメールらを排除しようとしたが、ボリア川の戦い(英語版)でウァラメールら率いるゴート人の集団に敗れて死亡した。
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人物・生涯
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安田氏は甲斐国山梨郡八幡荘内の安田郷を本貫地とする一族。平安後期に甲斐源氏は甲府盆地の各地に進出して土着するが、峡東地域に勢力を持っていた古代在庁官人の三枝氏は応保2年(1162年)の八代荘停廃事件を契機に没落し、義定は盆地東部に進出し旧族安田氏を継承したと考えられている。義定は同郡八幡荘や牧荘、安多荘などを根拠地として笛吹川流域の峡東一帯に勢力を持ち、山梨県山梨市小原西の保田山妙音寺に館を構えたという。 治承(1180年)4年4月、後白河法皇皇子・以仁王は平家追討の令旨を発し諸国の源氏に挙兵を促すが、『吾妻鏡』に拠れば以仁王令旨は伊豆国の源頼朝から甲斐・信濃方面へ伝えられ、同年4月末から5月初めまでに、甲斐源氏の元へも伝えられたと考えられている。平家方に対して挙兵した伊豆国の頼朝は8月23日の石橋山の戦いで敗退し、8月25日には平家方の俣野景久、駿河目代の橘遠茂が甲斐へ攻め込み、甲斐源氏方では義定と工藤景光・工藤行光、市川行房らが出兵し、富士北麓の波志田山において景久らを撃退しており(波志田山合戦)、その経緯を記した『吾妻鑑』同条が義定の初見資料となっている。 このときは甲斐源氏の棟梁である武田信義や一条忠頼らは参加していないが、信義らは9月初頭には信濃国への侵略を開始している。同年10月には駿河国に侵攻する信義らと共に橘遠茂らと戦い勝利する。その後黄瀬川で頼朝の軍と合流し、10月20日に頼朝・甲斐源氏の軍勢が平家方の平維盛の追討勢を撃破した富士川の戦いでは信義とともに敵の背後を襲撃したという。 甲斐源氏の一族は富士川合戦での戦功により頼朝から信義を駿河国守護に任じられ、義定も遠江国守護になったという。『吾妻鏡』に見られる「守護」補任記事について、『吾妻鏡』以外の記録史料を総合すると甲斐源氏の一族は頼朝の傘下ではなく独自の勢力であったと考えられており、富士川合戦においては敗走する平家方を追討した信義・義定らが駿遠地方を占拠し、『吾妻鏡』の守護補任記事は甲斐源氏の戦功を頼朝が後日容認したものであると考えられている。 義定は遠江国府・鎌田御厨を占拠し、同年12月には蒲御厨を拠点に在地支配を行っている。義定は遠江において平家方と対峙しており、養和元年(1181年)には平家方の平通盛の尾張国侵攻に際して頼朝に軍勢の派遣を要請し、頼朝は和田義盛を遠江へ派遣している。また、遠江において義定は橋本辺の陣地構築に非協力であったという浅羽・相良両氏や、在地支配を廻る伊勢神宮・熊野神社との訴訟を起こしている。 寿永2年(1183年)には木曾義仲が信濃・越後の軍勢を率いて北陸道から上洛しているが、義定も平家追討使として東海道から上洛している(『愚管抄』)。義定ら源氏の諸将は洛中の警備を命じられ、義定は大内裏守護として京中の守護をしている。後白河法皇は平家一門の官職・所領を没収して源氏諸将に分配し、義定も同年8月10日には従五位下遠江守に叙任する。 都では後白河法皇と木曾義仲の反目が顕在化し、法皇は頼朝に上洛を促すと頼朝は法皇に要請して寿永二年十月宣旨の勅令が発布される。頼朝はこの勅令により義仲や甲斐源氏に対して優位の態勢を整え、翌寿永3年に源範頼・義経の義仲追討軍が上洛すると義定は義経の軍勢に加わり、元暦元年(1184年)には宇治川の戦いで義仲を滅亡させた。 同年、一ノ谷の戦いでは、義経の搦め手軍に属し(範頼、義経、義定の三軍制だったと見る説もある)、平経正、平師盛、平教経を討ち取る(教経については壇ノ浦で入水の異説あり)。文治5年(1189年)の奥州合戦にも武田信光らと従軍している。文治6年(1190年)1月26日には後白河法皇から京都伏見稲荷社、祇園八坂神社の修理の遅れや、六条殿造営公事の怠慢を責められ下総守に転任されるが翌建久2年(1191年)3月6日には従五位上に昇叙し、遠江守に遷任(還任)し、義定は皇室守護と遠江国浅羽荘(静岡県袋井市)の地頭も兼ねている(また、息子・義資も越後守となっている)。鎌倉で義定の屋敷は頼朝館に隣接する鎌倉大倉に存在したと伝わり、同年3月に行われた鶴岡八幡宮の法会では、参拝する頼朝の御供の筆頭に義定の名が見られる。 甲斐源氏の有力武将は頼朝によって次々と排斥されているが、建久4年(1193年)に義定も子の安田義資が院の女房に艶書を送った罪で斬られ、義定も所領を没収されている。同時に遠江国守護職も解職。翌建久5年(1194年)、義定は謀反の疑いで梟首された(永福寺事件)。享年61。 『鎌倉大草紙』に拠れば、追討使は梶原景時と加藤景廉で、義定は法光寺(放光寺、山梨県甲州市)において自害したという。また、『尊卑分脈』に拠れば義定が誅された場所を「馬木庄(牧庄)大井窪大御堂」と記しており、これを放光寺阿弥陀堂、あるいは窪八幡神社(山梨市)と解釈する説がある。安田氏の滅亡後、牧庄などの遺領は景廉に与えられたといわれるが、加藤氏と牧庄を関係付ける史料は見られない。 山梨市下井尻の雲光寺(神龍山雲光禪寺)には安田一族の墓所とされる大五輪塔群がある。
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人物・生涯
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松前藩の生まれとされるが、生年は不詳。名は有次。 東蝦夷地の請負場所で活動していたが、1807年(文化4年)に蝦夷地が幕府の直轄領となると、松前奉行所で働くようになった。ゴローニン事件に際してはヴァシーリー・ゴロヴニーンからロシア語を学び、通訳を務めた。
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人物・生涯
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「ジョセフ・フランシス・チャールズ・ロック」の記事における「人物・生涯」の解説
オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれた。10歳の時に父親とエジプトにわたり、その後ヨーロッパ各地を放浪した。1905年にアメリカに移住し、1907年からハワイのホノルルに住み、後にハワイの植物のオーソリティになった。ミルズ・カレッジ(現在の私立高校ミッド・パシフィック・インスティチュート(英語版))で教職に就くが、1908年に健康のために戸外で働くことを選び、ハワイ大学で植物学者として働き、最初の栽培農園の設立に従事し、1911年から学芸員として1920年まで働いた。その後アジアの植物の探索に生涯を費やした。 ビルマ、タイ、アッサムで薬用植物のダイフウシノキの探索から始め、1922年から1949年の間は中国南部の植物、民族、言語の研究のために雲南省、四川省、南西甘粛省および東部チベットですごした。ロックの集めたアジアの多くの植物はアーノルド樹木園(英語版)で栽培された。 麗江の近くの村をベースに、ムリなどのチベット地域の探検の記録を、ナショナルジオグラフィックに寄稿し、徐々に有名になり、たとえば小説家のジェームズ・ヒルトンの、理想郷「シャングリラ」が登場する『失われた地平線』の執筆に影響を与えたとされる。 1917年からのゴロクの反乱(英語版)(Ngolok rebellions)の間には、ロックは何度もチベットの夏河県やラプラン寺のゴロクのチベット人(英語版)(Golok people)と馬麒が率いるイスラム軍との戦いを目撃し、馬麒軍の残虐な行動を目撃した。 ロックは植物学的に興味深い地域のひとつである雲南省に入った植物学者としては、ジャン・マリー・デラヴェ神父(Père Jean Marie Delavay)やジョージ・フォレスト(George Forrest)、ハインリヒ・ハンデル=マツェッティ(ドイツ語版、英語版)(Heinrich von Handel-Mazzetti)らの後に位置し、多くの植物を収集し、記載したという点では彼らに及ばなかったが、多くの貢献をした。 中国共産党が支配を確立した後の1949年に麗江市から他の外国人滞在者とともに専用機で退去させられ、中国を去りホノルルに戻った。1962年にホノルルで没した。 ボタンの種、Paeonia rockiiに献名されている。
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人物・生涯
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上野国勢多郡東村花輪(現・群馬県みどり市東町花輪)生まれ。父、彦作は幕府代官付の村吏(後に区長)。母、常子は伊勢崎藩主酒井氏の藩医だった祖父原常益の遺志を継ぎ、12歳で江戸の浅田宗伯の門で学び、17歳で開業医となった。 嘉一郎は花輪学校卒業後、1883年(明治16年)16歳の時に県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学。同級生に海軍大将の鈴木貫太郎がいた。しかしすぐに退学し、同年に医者を目指して上京。独逸学協会学校第1期生として大倉喜三郎、松井茂博士などと学び、柳蔭家塾を経て、1884年(明治17年)に一ツ橋の大学予備門に入学、1886年(明治19年)に第一高等中学校に入学し、水野錬太郎、若槻礼次郎、小川平吉などと寄宿生活を送った。この頃まで医師を目指していたが、ふと小学校の卒業論文「志は大なるを要す」を思い出し、医術よりももっと広い殖産興業方面に進むことに改め、1889年(明治22年)東京帝国大学工科に入学した。鉱害対策技術に深い関心を寄せ、在学中から別子銅山の硫化鉄鉱処理による煙害防止、未利用資源開発などに先鞭をつけ、また、日本の将来の富源は鉱山にありと鉱山の重要性を松山市の海南新聞に「伊豫鉱山論」を投書した。伊豫鉱山論では、伊豫の各銅山が同業者間の組織を作ることにより経営の合理化を図ると同時に、技術上にも、有用含有物の完全採取をもって冶金術を合理化すべきことを述べ、従来いたずらに焼き棄てられていた硫黄分鉄分を完全に採取して、化学工業および製鉄事業の原料とすべきことを唱えて、当事者並びに一般大衆に向かって注意喚起をした。 帝国大学卒業論文の「別子銅山における湿式収銅法試験について」ではより具体的に、銅鉱山から排出される硫黄を化学品としての硫酸製造に利用し、従来の乾式精錬法では採りきれない銅の痕跡までも採取し、最後に鉄分は製鉄原料として利用する方法を記した。1892年(明治25年)に帝国大学卒業後、農商務省に入省。卒業論文に沿った検証試験を命ぜられ、後藤象二郎農商務大臣に結果を報告した後、政府案としてまとめられ、1895年(明治28年)に榎本武揚農商務大臣の時に製鉄所設立案が提出され衆議院を通過、翌1896年(明治29年)に製鉄所官制が発布された。 嘉一郎は農商務省入省後、榎本武揚に認められ、1894年(明治27年)から2年間、ドイツ・フライベルク鉱山大学に留学し、冶金学を学んだ。帰国後、良き理解者であり密接な関係にあった榎本武揚が設立しようとしていた官営八幡製鉄所の創業に従事、同所の製鋼技術を確立に導き、主席勅任技師に進んだ。技術面での自信を示しながらも、八幡製鉄所の経営不振に陥る原因は、官業による弊害が顕在化したためと考え、「製鉄所処分案」を作成し、民業への移管を提案したが政府に却下された。鉄鋼業は軍事でなく平和産業に結び付いて発展するとの信念のもとに、1912年(明治45年)に一橋大学予備門以来の友人白石元治郎と日本鋼管株式会社(現、JFEスチール)を設立。日本で初めて継目無鋼管の製造を手がけたほか、1936年(昭和11年)には念願の高炉を建設し、銑鋼一貫製鉄所を完成させた。当時、日本で主流の製鋼法は平炉であったが、平炉は鉄スクラップの使用を前提としており、日本は米国などからの鉄スクラップの輸入に頼っていた。満州事変を契機に原料不足が深刻化する中、鉄スクラップに依存しない高効率な製鋼法であるトーマス転炉に着目し、日本鉄鋼協会などでその必要性を説いたものの受け入れられず、結局自ら創設した日本鋼管・川崎製鉄所での導入を決めた。トーマス転炉はリン分の高い鉄鉱石を原料とした時にその威力を発揮するが、当時日本で流通していた鉄鉱石はリン分が少なかった。そこで高炉にリン鉱石を加えて調整するという、日本独自のトーマス製鋼法を嘉一郎は開発した。また、スラグ化したリンも農業用の肥料として活用した。 民間技術分野の開拓に尽くし、1920年(大正9年)には第14回衆議院議員総選挙に群馬県から出馬して当選、衆議院議員としてメートル系度量衡の採用を法案通過させた。1922年(大正11年)、ウィーンで開催された第19回万国議員総会には議会代表議員団長として出席。ルクセンブルク大公国名誉総領事、工業品規格統一調査会委員、日本鋼管、南洋鉄鋼各取締役などを兼務また日本鉄鋼協会会長、日刊工業新聞社社長などを歴任。大著『鉄屑集』(てつくずしゅう、1930年)その他優れた著作も残した。
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人物・生涯
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「カスパー・バルトリン」の記事における「人物・生涯」の解説
当時デンマーク領(現在はスウェーデン)のマルメで生まれた。早熟な才能を示し、3歳で本を読み、13歳でギリシア語、ラテン語の文を作り公衆の前で披露した。18歳でコペンハーゲン大学に入学し、ロストック大学、ヴィッテンベルク大学でも学んだ。ドイツ、オランダ、イギリス、フランス、イタリアなど各地を旅し、多くの学者と交流した。1611年に解剖学の著書、"Anatomicae Institutiones Corporis Humani"を出版し、これは当時、解剖学の教科書として長く使われることになった。1613年にコペンハーゲン大学の医学教授に任じられ、11年間その職を務めた。重病にかかり、その回復後、神学の研究に転じた。コペンハーゲン大学の神学の教授、ロスキレの律修司祭を務め、ソーレで没した。 息子の、トーマス・バルトリン(デンマーク語版、英語版)(Thomas Bartholin)とラスムス・バルトリン(Rasmus Bartholin)も有名な学者である。孫にバルトリン腺を発見した同名のカスパー・バルトリンがいる。
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人物・生涯
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「ファウスト・デ・エルヤル」の記事における「人物・生涯」の解説
スペイン北部のログローニョに生まれる。パリで教育を受けたあと、ドイツのフライベルク鉱山専門学校で冶金学などを学んだ。スペインのベルガラの神学校の教授になった。1783年、ベルガラで鉄マンガン重石から分離したタングステン酸(1781年にカール・ヴィルヘルム・シェーレにより発見され、新元素と発表されていた)を木炭といっしょに強熱してタングステンの単離を行ない、鉄マンガン重石のドイツ名にちなみウォルフラム(wolfram)と命名した。この名はドイツで今も用いられており、タングステンの元素記号Wの元になっている。 国王の命令でメキシコの王立鉱山院の長官に任命されて1790年ころメキシコに渡った。1821年までその職にあり新大陸での鉱山技術者の教育などに尽力した。
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人物・生涯
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「アルテュール・フォルタン」の記事における「人物・生涯」の解説
慶応3年(1867年)、彼はジュール・ブリュネに同伴し、フランス軍事顧問団の一員として日本にやって来た。彼は幕府伝習隊を調練した。 戊辰戦争が勃発すると、フォルタンはフランス陸軍の職を辞し、幕府側で戦い続ける事を選んだ。彼はブリュネ等と共に箱館戦争に参戦し、四列士満(レジマン、フランス語で連隊を意味する "régiment" をそのまま当て字にした)のうちの一隊の隊長を務めた。 明治2年4月9日(1869年5月20日)、新政府軍は北海道に上陸、5月11日(6月20日)五稜郭に立て籠もる箱館政権軍に対し、明治新政府軍の総攻撃が開始され、五稜郭は陥落、5月18日(6月27日)総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降した。フランス人らは、榎本の勧めに従い、総攻撃前の5月1日(6月10日)に箱館港に停泊中のフランス船に逃れた。 その後、フォルタンは、マルラン、ブッフィエと共に、明治3年(1870年)、当時大阪にあった兵部省に雇われた。さらにその後、東京に移った兵学寮に雇われた。
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「アンドレ・カズヌーヴ」の記事における「人物・生涯」の解説
来日前にクリミア戦争のセバストポリの攻囲戦(1854~1855年)等で戦っている。1867年(慶応3年)5月、幕府陸軍の近代化を支援するため派遣されたフランス軍事顧問団より後、馬の輸送のためジュール・ブリュネらの本隊より遅れて来日した。1868年(明治元年)8月、軍籍を離脱したブリュネとともに、榎本武揚率いる旧幕府軍に合流、仙台で大鳥圭介と再会後、箱館戦争に参戦。蝦夷地上陸後は、松前・江差攻略に参加し、その後、松前守備隊の軍事顧問に任じられた。1869年(明治2年)4月、松前での戦闘で脚踵を負傷、5月1日に軍艦コエトロンでブリュネらとともに戦線離脱し、横浜に戻るが駐日公使・マキシミリアン・ウートレーによりサイゴンへ追放される。大鳥圭介は、「学術は浅かったけれども篤実朴直の性質で、戦地では鋭敏で臨機の策に長じ頗る勇猛で兵隊に先ちて進軍すると云ふ勢ひで、松前進軍の時も屡々勲功があった」と評している。 その後、1871年(明治4年)末までには再度来日し、1873年(明治6年)3月にナポレオン3世が幕府に贈呈したアラビア馬の活用を明治政府に進言している。元々このアラビア馬は軍馬の品種改良を意図して送られたものであり、幕府はその価値をよく理解し、カズヌーヴを飼育調教の指導係とし、小金牧の将軍の乗馬を育成する区画に厩舎を建て、飼育する予定であったが、戊辰戦争で計画が頓挫、明治政府の首脳にはこの意図を理解できる者がおらず、ほとんどが私物化されていた。カズヌーヴはこの時点で26頭のうち種馬9頭の所在を確認しており、残りについても捜索を続けていた。同年4月に明治政府に出仕し、翌1874年(明治7年)、6月末から90日程度で東北各県等をまわる予定だったが、帰路、病に倒れた。10月23日から治療を受け、11月19日には、フランス人ハイブル、医師マツセイも到着したが、11月21日午後12時20分か22分、志半ばで福島県の浪江町で逝去した。明治政府に雇われた時のカズヌーヴの地位、リウーテナンもしくはリュトナンは、フランス陸軍では中尉を指し、陸軍省では中尉待遇であった。カズヌーヴの遺体は友人の「ハラフル氏」が引き受けた。
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人物・生涯
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光緒7年(1881年)に生まれ、第15代順承郡王(dahashūn giyūn wang)を継ぐ。光緒32年(1906年)に陸軍貴冑学堂を卒業する。 宣統3年(1911年)に正白旗満州都統と禁煙大臣に任じられる。 民国6年1月23日(1917年2月13日)に死去した。子供がいなかったため、再従兄弟の長福(チャンフ)の第3子である文葵(ウェンクイ、1917年生、当時6歳)が第16代順承郡王を継承した。
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人物・生涯
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兵庫県揖保郡に生まれる。彼は中学校に行っておらず学歴は無かったが、幼少より利発聡明、アイデアマンだったと伝えられる。父親豊治郎が鉄工所を経営していたため、その設備を利用してさまざまなものを手作りしていた。 1923年、星製薬に入社。社長の星一(星新一の父)が宣伝用新聞を印刷するためにと外国で購入した高速度輪転機(ドイツMAN社製)を組み立てて稼働させる仕事を与えられる。この時、森澤は印刷の知識などまったくなかったが、参考に朝日新聞大阪本社の輪転機を見学、その機能に驚いた。彼は奮闘の末、その輪転機を完成させるも、活版印刷がいかに大変なことかを知るに至る。これを機に印刷部の主任を命じられた。 またこの年、海外(イギリス)には写真植字というアイデアがあるが、なかなか実用化できずにいることを知る。欧文活字と和文活字を比較した森澤は、和文活字はすべて正方形であるという点に気づく。欧文では文字毎に幅 (set) が異なるゆえに実用化できずにいたわけだが、和文ならば歯車を一定量回すことで均等に動かして露光していくことで、実現可能ということをひらめく。この大発見によって、森澤は下宿先で写真植字機の構想をまとめ設計図をひいた。 1924年、同じ星製薬に技術者として勤めていた石井茂吉と出会い、意気投合。同年7月24日に装置の特許を出願(モリサワ公式サイトでは、この年を創業年としている)。1925年6月23日に特許成立(特許第64453号。石井との共同)。同年10月に試作1号機を完成。 1926年には、石井写真植字研究所(現・写研)を設立し、1929年に実用1号機完成。大手印刷会社に納品されるが、当時はほとんど使われなかったという。1933年には、開発方針の違いから、事業では石井と袂を分かつ。ただし、1963年に石井が死去するまで個人的な交流関係は継続し、戦災で焼失した写植機の開発再開では相互に協力した。 1948年に大阪市西成区に写真植字機製作株式会社を設立。1954年に社名を株式会社モリサワ写真植字機製作所に改める。 1971年、勲三等瑞宝章。同年、会社は株式会社モリサワに改称。森澤は、1975年に社長の座を退いて会長職に就き、2000年に死去した。
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人物・生涯
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「ウィルヘルム・プラーゲ」の記事における「人物・生涯」の解説
1888年(明治21年)、オーストリア=ハンガリー帝国内のドイツ人居住地であったライヒェンベルク(現チェコ・リベレツ)で誕生。父親はプロイセン国籍の商人であった。 1908年、ベルリン大学で法律経済学と日本語を学び、1910年に日本語通訳試験に合格。1912年6月から1913年(大正2年)まで東京のドイツ大使館に、1913年から1914年8月まで長崎のドイツ領事館に勤務。ワシントンD.C.勤務や第一次世界大戦従軍(陸軍中尉)を経て、1920年には東京のドイツ大使館副領事となる。 1921年8月にドイツ外務省を退職し、1922年3月から1925年6月まで旧制松江高等学校(現島根大学)にドイツ語教師として勤務。この間、1922年6月に結婚している。 1925年にドイツに帰国、1927年(昭和2年)にハンブルク大学で博士号取得。 1928年に3度目の来日を果たし、旧制松山高等学校(現愛媛大学)に勤務。1929年4月から1931年3月は旧制第一高等学校(現東京大学)に、1930年3月から1933年12月は旧制府立高等学校(現東京都立大学)にドイツ語教師として勤務した。 1931年に欧州の著作権管理団体の委託を受け、放送局などに楽曲使用料の請求を開始。「プラーゲ旋風」と呼ばれた。1937年には著作権管理団体大日本音楽作家出版者協会を設立、山田耕筰などの著作権管理を行う。しかし、1939年に成立した著作権に関する仲介業務に関する法律(仲介業務法)によって著作権管理団体が許可制となり、大日本音楽作家出版者協会は許可を得られず、翌1940年10月に解散した。 1941年、奉天市(現瀋陽市)で開設した東亜コピライト事務所が仲介業務法違反で罰金600円の判決を受け、ドイツに帰国。1969年死去。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 15:39 UTC 版)
東京出身。アメリカのジュリアード音楽院作曲科を卒業。フェリス女学院大学客員教授。夫は柴田翔。ニューヨークのコンポーザーズ・フォーラムでデビューし、リンカーン・センター内の新ホールのこけら落しに作品を委嘱される。帰国後「ピアノ・ソナタ」を発表する。既成の「現代音楽」に対する疑問、子育て、病気などで対外活動を停止する。自分の面白いと思う音楽を貫徹させる方針を立て、1977年(昭和52年)から1985年(昭和60年)までは自作を中心としたシリーズコンサート「現代音楽は私」を東京の渋谷ジァン・ジァンで毎年2回ずつ行い、現代都市の日常と人々に直接届く音楽を提示した。また、ロッケン・ハウス国際音楽祭、ハイデルベルク現代音楽祭などに招待出演。ピアニスト、即興演奏者としては、ウェイン・ショーター、高橋悠治、山下洋輔など、内外のさまざまなジャンルの音楽家と共演している。作品に、「憂愁の時――ダブル・コンチェルト」、「プレイ・タイム――ウィンド・オーケストラのための」、「why not,my baby?」、「ミニマム・オーケストラ集」。CDに作品集『空気の音楽』、『ほんの47分の地獄』など。著作に『アイヴスを聴いてごらんよ』『音楽未来通信』など。
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人物・生涯
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「ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第3代デヴォンシャー伯爵)」の記事における「人物・生涯」の解説
サー・ウィリアム・キャヴェンディッシュ(後の第2代デヴォンシャー伯爵)と、初代キンロス卿エドワード・ブルース(英語版)の娘であるクリスチャン・キャヴェンディッシュ(英語版)の間に長男として生まれる。1626年のチャールズ1世戴冠の際にバス勲章を授けられた。同年父親が襲爵したため、以後「キャヴェンディッシュ卿(Lord Cavendish)」の儀礼称号を称した。 父の家庭教師でもあった哲学者トマス・ホッブズや、母クリスチャンから教育を受ける。ホッブズは1634年から1637年にかけての彼のグランドツアーにも同行し、後に翻訳したトゥキディデスの『戦史』をデヴォンシャーに献呈している。 1626年に父の死去により第3代デヴォンシャー伯爵となる。1638年から1642年までダービーシャー統監[訳語疑問点](Lord Lieutenant of Derbyshire)に任じられた。デヴォンシャーは有力な国王派(騎士党)であり、初代ストラフォード伯爵トマス・ウェントワースの私権剥奪に反対し、1642年には議会で他の8人の貴族とともに弾劾された。貴族院の裁判への出廷を拒否すると、除名の上ロンドン塔への収監命令が出された。彼はイングランドから逃れ、財産を差し押さえられた。1645年に大陸から帰国、翌1646年に恩赦を受けて£5,000の罰金を払った後バッキンガムシャー州ラティマー(英語版)で母親と共に引退生活を送った。なお1645年10月13日にはチャールズ1世が同地を訪問し一泊している。1660年に王政復古が成るとデヴォンシャーはダービーシャー統監に復し、終身でその職にあった。また1668年から1669年までCommissoner of Trade[訳語疑問点]に任じられていた。 1684年11月23日にサリー州のローハンプトン・ハウスで死去し、ダービーシャー州エデンサー(英語版)に葬られた。 彼は科学と文学に興味を持っており、ジョン・イーヴリンと親しかったほか、1663年には設立されたばかりの王立協会のフェローに選出されている。
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鉄道技師だった父の任地インドのジャムシェドプールで生まれる。長兄はロレンス・ダレルで、4人兄弟の末弟(ほか姉1人)。 1928年に父が死去、ロンドンへ戻るが、1935年から1939年まで母や兄とギリシャのコルフ島で過ごし、ジャン・アンリ・ファーブルの『昆虫記』に影響を受ける。第二次世界大戦が起きてロンドンへ戻り、病気のため兵役を免れ、ホイップスネード・パーク動物園で飼育係となる。 戦後、英領カメルーン、英領ギアナなどで動物狩りをし、1953年最初の著書『積みすぎた箱舟』を刊行、1956年『虫とけものと動物たち』で作家としての名声を確立、夫人とともにアルゼンチンや東南アジアにも行く。1959年、チャネル諸島のジャージー島に「ジャージー動物園」を設立する。1963年、ジャージー野生動物保護財団を設立する。 日本では浦松佐美太郎が『積みすぎた箱舟』を1960年に訳し、以後もぼつぼつ翻訳されてきたが、1974年に池澤夏樹が『虫とけものと動物たち』を訳すと広く知られるようになり、以後も主著を池澤が訳した。
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人物・生涯
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「アドルフ・クスマウル」の記事における「人物・生涯」の解説
ハイデルベルクで医学を学び、ルドルフ・ウィルヒョウのいたヴュルツブルク大学で医学博士を得、1857年ハイデルベルク大学教授、1859年エルランゲン大学内科部長、1863年フライブルク大学内科部長、1876年ストラスブルク大学内科部長。ハイデルベルク市名誉市民。 1868年に、地球上ではじめて、長さ47cm、直径13mmの「硬性胃鏡」と呼んだ金属管を使用して生きた人間の胃の中を観察した医師。とはいってもその時代には現在の内視鏡のようなファイバーなどはなく、まっすぐの硬性胃鏡を、中国の呑剣士(英語版)にまっすぐ飲み込んでもらい観察したという。また、胃内は当然まっくらで、現在なら内視鏡の先から照明で照らせばいいのだが、ろうそくの火でなんとか胃内を明るく見たという。 そのほか、1866年には自らの剖検例にて結節性動脈周囲炎(現在の結節性多発動脈炎)を発見した。1874年には、糖尿病性ケトアシドーシス患者の呼吸について詳細に記載し、クスマウル呼吸と命名。大脳の言語回路についても考察し、クスマウル脈の命名者でもあるなど19世紀の医者の多聞にもれず多彩な活躍をした医師である。
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人物・生涯
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「ヨハン・フリードリヒ・ヘルバルト」の記事における「人物・生涯」の解説
オランダ国境に近いオルデンブルクの生まれ。イェーナ大学で学ぶ。イェーナではフィヒテのもとで学び、そのサークルにはシェリングがいた。その後、フィヒテの観念論に疑念を抱き決別する。当初、家庭教師をしていた時分に自ら教えていた子どもたちを連れて、ペスタロッチの学校を訪れ、その影響を強く受けた。 1802年大学教授資格を取得。ゲッティンゲン大学で私講師として教え、のちに員外教授になる。1809年、ヴィルヘルム・トラウゴット・クルーグ(ドイツ語版、英語版)の後任として、かつてカントが就いていたケーニヒスベルク大学の哲学及び教育学の講座に教授として招聘され、1833年にゲッティンゲン大学に招聘されるまで、24年間にわたり大学では付設の教育学ゼミナールで教師の育成に努めるとともに、対外的には学校参事官としてプロイセンの学校改革等に従事した。1833年、再びゲッティンゲン大学に呼び戻され、後に学部長を務めることになるが、1837年にゲッティンゲン7教授事件が起こり、抗議した教授たちを擁護できなかったことで非難を受け、失意のまま1841年に亡くなった。墓所はゲッティンゲンにある。 教育の目的を倫理学に、方法を心理学に求め、教育学を体系化した。教育の方法として「管理」「教授」「訓練」の3要素(教育的教授)を提唱し、教育の目標は強固な道徳的品性と興味の多面性の陶冶にあるとした。 「教授の無い教育などというものの存在を認めないし、逆に、教育の無いいかなる教授も認めない」という名言を残している。この「教授」こそが「陶冶」である。 ヘルバルトの学説は世界に影響を与え、ヘルバルト学派(ツィラー、ラインなど)を形成した。日本でも明治期にラインの五段階教授法(予備-提示-比較-総括-応用)が伝わり当時の教育界に大きな影響を与えている。ただ、彼の没後、彼の弟子たちのいう教授段階説は、形骸化し、ヘルバルトの教育的教授から離れ、「悪しきヘルバルト主義」といわれ、その後20世紀初頭の新教育運動、ドイツでは改革教育運動が生まれてくるその原因となった。
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人物・生涯
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久米村の蔡氏13世目にあたり、三司官を務めた蔡温の親戚にあたった。1758年に官生に選ばれて蔡温の許に挨拶に行った際、若いころ官生に選ばれることがなかった蔡温は「詞章の学を専らとせず、治国平天下の道を学ぶよう」に諭した。北京の国子監に留学した蔡世昌は官生始まって以来とされる優れた成績を修め、1762年には卒業が認められて帰国を許された。 その後、進貢使として度々清国に渡り、また琉球科律の編纂にも参加した。こうした功績が認められて1782年には紫金太夫に任じられて高島親方の称号が許された。尚温王が即位すると国師に任じられ、国学の設置・官生の久米村出身者独占の廃止などの教育改革を進めた。だが、それは故郷である久米村の人々との対立を招いた。蔡世昌は久米村の人々から改革反対の建議書への署名を求められた際にこれを拒否して人々の反感を買い、やがて改革の主導者が蔡世昌であることが明らかになると彼は故郷の裏切者として糾弾され、久米村の自宅が襲われたり、自身や家族が攻撃を受けたりした。その結果、1798年8月には官生騒動と呼ばれる久米村関係者に対する粛清が行われるに至った。このことに心を痛めた蔡世昌は病に倒れ、同年9月の国学開学に際して初代の学師に任命されたものの、開学直前に病没してしまった。
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人物・生涯
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同治5年(1866年)、北京に生まれる。 光緒24年(1898年)、父の死により粛親王の位を継いだ。 光緒26年(1900年)、義和団の乱に際し、御前大臣として光緒帝、西太后の西安逃避に随行。義和団の乱から辛亥革命勃発までの10年間のいわゆる光緒新政時期に民政部尚書・民政大臣・理藩大臣を歴任し、近代化改革を促進した。日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家であった。立憲制への移行を支持し、革命派に対しても理解があり、開明皇族と知られる。摂政王醇親王暗殺未遂事件で逮捕された汪兆銘の人物を見込み、汪の助命をしたのは粛親王であるといわれている。 宣統3年(1911年)の辛亥革命勃発時には、恭親王溥偉とともに宣統帝の退位に反対した。12月(1912年2月)、清朝皇帝の退位が避けられなくなると、川島浪速らの手引きによって日本の租借地旅順へ逃れた。清朝滅亡後は、復辟をめざす清朝遺臣の宗社党の中心人物として、蒙古旗人升允(シェンユン)らとともに活動を行っている。 1912年の第1次満蒙独立運動(中国語版)では日本の参謀本部と、いわゆる大陸浪人の後押しで挙兵を準備をするも、日本政府の命令で計画は中止された。 1916年の第2次満蒙独立運動では袁世凱の帝政に反対する大隈重信内閣の方針のもと、男爵大倉喜八郎等の資金援助を受け、宣統帝復辟のための勤王軍を組織し、内蒙古のバボージャブ(巴布扎布)と結んで挙兵した。しかし袁世凱の急死により大隈内閣の方針が変更され、援助は打ち切られ、満蒙地方軍の反撃を受けてバボージャブが戦死するという事態に及んで、再び失敗した。 1922年に旅順で死去。溥儀から忠の諡を贈られ、粛忠親王と称される。北京郊外架松の粛親王家墓所に葬られた。
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人物・生涯
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「マトベイ・ブロンスタイン」の記事における「人物・生涯」の解説
1906年にロシア帝国のポドリエ県(ロシア語版、ウクライナ語版、英語版)ヴィーンヌィツャに生まれる。 1930年にレニングラード大学物理学科を卒業。相対性理論の研究と共に、子供向けの物理学の解説書も執筆した。 大粛清が始まっていた1937年8月、ブロンスタインはキエフの両親の家で逮捕され、レニングラードへ連行された。容疑は友人のレフ・ランダウとともにスターリンを批判する文章を書いたことである。翌1938年2月3日にスターリン、クリメント・ヴォロシーロフ、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチが承認・署名した"レニングラード地域"の囚人の処刑命令書にブロンスタインも含まれていた。彼は2月18日に有罪判決を受け、レニングラードの刑務所でその日のうちに処刑された。彼の妻は、通信の権利のない10年間の労働刑に処せられた、という虚偽の通告を当局から受け取ったが、翌1940年に処刑されたことを伝えられた。 1957年に名誉回復されたのに伴い、著作が復刻された。
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人物・生涯
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「アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ」の記事における「人物・生涯」の解説
エダン(フランス語版)にて弁護士の子として生まれた。イエズス会学校で学び、幾度か聖職を離れて軍に入隊したり、逃亡して外国へ行った経験が、高名な小説『マノン・レスコー』の土台となった。
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青森県北津軽郡板柳町小幡の富農、文右衛門の三男に生まれる。東京に出てから陸羯南の影響を強く受け、大陸問題に関心を持ち、東京の順天中学校卒業前に一度大陸へ渡る。1905年(明治38年)専修学校中退後、山田良政を慕ってサハリン経由で大陸に渡り、中国における活動を行い、第二革命のとき革命運動に身を投じ、その後升允に出会ってから復辟派となり、清朝の復活運動を甘粛省方面などで行い、東亜同文会の辺境通信員として膨大な記録も残している。1928年(昭和3年)6月の張作霖爆殺事件ではいち早く詳細な情報を日本政府首脳に伝えた。1931年(昭和6年)11月10日の溥儀の天津脱出の際、溥儀説得役になり、満洲まで随従した。軍歴が無いにも関わらず、1932年(昭和7年)に満州国「侍従武官」(中将)に就任し、ついで「侍衛長」(「侍衛官長」「侍衛処長」)となる。関東軍が軍人でない工藤を排除しようとしたので、執政(のち皇帝)溥儀は工藤を護り、かつ工藤を自分の側から離さないという意向を強く示すため、昭和7年「忠」の名を賜った。工藤鉄三郎は1935年(昭和10年)に戸籍上も工藤忠に改名した。 同郷の青森県出身者に対する面倒見がよく、新京(現在の長春)の自宅は浪人長屋とも呼ばれていた。1942年(昭和17年)5月には、著名人多数の署名を集めて中国国民党との停戦を目的とした建白書を東条英機内閣に提出した。戦後、東京裁判で溥儀が証言した際、工藤は傍聴し、さらに溥儀を擁護するため『皇帝溥儀』を出した。また晩年にはアジアへの謝罪のため台湾に行った。 溥儀は関東軍の事実上の指揮下にあり、とくに関東軍の現役将校で皇帝の御用掛だった吉岡安直は、その行動や発言に対し「助言」するなど、溥儀は皇帝の称号こそあるにしろ事実上日本及び関東軍の傀儡政権であった。その中で工藤忠は常に溥儀の意向を受けて活動し、溥儀に忠誠を尽くした(以上は主として山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠』による)。 溥儀からはは絶大な信頼を受けていたらしく、その著書「わが半生・下巻」では「(工藤は)どこでも私の側に立って発言した。ひそかに関東軍にたいする不満をもらしたことさえあった。あるとき私は茶碗のお茶の色がおかしいように思い、何者かが毒を入れたのではないかと考えて、持って行って検査させようとした。このとき工藤はすぐに茶碗をとりあげるとお茶を一気に飲んでしまった。私が執政になったのち、彼は私を「皇上陛下」と呼ぶ唯一の日本人であり、しかも常に関東軍の横暴に不満をもらし、私がきっと「大清皇帝」の名と位を回復することが出来る、信ずると言っていた。彼の示した忠心は、もっとも典型的な遺臣たちにも決して劣るものではなかったので、私は彼に「忠」の名を賜って改名させ身内として扱ったのである。彼も感激の涙を流し、死をもって忠を尽くし永世変らないことを誓った。」とある。
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アインハルトはカール大帝の側近かつ『カール大帝伝』の著者で、カロリング・ルネサンスの主要文筆家の一人。 生年不詳で770年ごろのドイツマイン川地方(当時のフランク王国東部マインガウ(Maingau))の貴族階級の生まれと推察されている。幼くして教育を受けるためにフルダ修道院に預けられ、20歳頃には書記(Urkundenschreiber)を務めている。修道院長の注目するところとなり、教育の完成のためにカール大帝の宮廷に送られる。まず、アルクインの弟子になり、796年/797年にはカール大帝の側近となっている。師がトゥール(Tours)に移ると、彼は宮廷学校(Hofschule)の中心人物となる。背丈が低く、その豊かな学識(prudentia)と誠実な人柄(probitas)ゆえに王や側近の信頼が厚く、幾つかの司教座を与えられていた。王宮に関わる建築においても指導的役割を演じ、皇帝の教皇への使者の役割も果たしている。大帝の遺言書作成に関わったと思われる。カールの死後、その息子ルートヴィヒ1世にも仕え、王の書簡を作成している。王子ロタール(ロタール1世)の教育係にもなった。815年オーデンヴァルトのミヒェルシュタット(Michelstadt)と生まれ故郷マイン川河畔のミュールハイム(Mühlheim)(今日のゼーリゲンシュタットSeligenstadt)にある王領をもらい受け、晩年をそこで過ごした。その間ディオクレティアヌス帝治下に殉教した聖人の聖遺物を手に入れたが、その経緯を『聖マルケリヌスとペトルスの移葬と奇蹟』("Translatio et miracula SS. Marcellini et Petri " ; 830)として詳細に記録している。後世『カロルス大帝伝』("Vita Karoli Magni ")の著者としてよく知られている。ヴォルムス司教ベルンハルトの姉妹インマ(Imma)を娶っていたが、彼女を836年に亡くしている。彼は840年3月14日に隠遁の地で没した。建築家としても優れた彼はミヒェルシュタットに遺構の残るアインハルトバシリカ聖堂、オーバーミュールハイムの聖マルケリヌス=ペトルス教会などの建築も行っている。 グリム兄弟による『ドイツ伝説集』457番「エギンハルトとエンマ」(Eginhart und Emma)等には、若きアインハルトが、ギリシア王と婚約していたカール大帝の娘エンマ(Emma)と密かに愛し合っていた。ある日、逢瀬の後の朝かれが住居に戻ろうとすると道には雪が積もっている。彼女は彼を背負ってその住まいまで届け、帰りは同じ所に足跡をつけながら戻った。この夜眠れないでいた大帝はこれを見て驚き苦しんだが、最終的には二人を赦し結婚させたとある。フュルステナウ城(Schloss Fürstenau)には、「アインハルトとその妃であるカール大帝の娘・・・」と記された、1622 (?) 年制作の夫妻の絵がある。
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「チャールズ・ライエル」の記事における「人物・生涯」の解説
1797年、スコットランドのアンガス、Kinnordy で、10人兄弟の長男として生まれた。ライエルの父(同じく"チャールズ"という名である)は、植物学をたしなんでおり、幼きライエルに最初に自然の研究というものを示してみせた。ライエルは少年期をイングランドのニューフォレスト (New Forest) のバートリー・ロッジ(英語版)(Bartley Lodge) で過ごし、自然界に対して大いに興味を抱くことになった。 オクスフォード大学のエクセター・カレッジ(Exeter College)に通い、地質学と出会い、ウィリアム・バックランドの指導のもと、熱心に打ち込んだ。 1816年に卒業し、法律へと仕事を変えたものの、地質学との "二足のわらじ" を履くことになった。1822年にライエルの最初の論文 On a Recent Formation of Freshwater Limestone in Forfarshire を発表。結局、1827年ごろには法律の仕事には見切りをつけ、地質学のキャリアの長い道のりへと足を踏み出したのであった。1826年王立協会フェロー選出。 1830年にロンドンのキングズ・カレッジで地質学の教授の職に就いた。 1830年 - 1833年、『地質学原理(英語版)』 Principles of Geology の初版(3巻、計約1200ページの大著)を出版した。これはライエルの最初の出版物であると同時に最も知られた出版物でもあり、ライエルの地質学理論家としての地位を確立したものである。ライエルは、地質学とは迷信を排除して、大自然の中で起きた変化を研究する科学であると宣言している。 この『地質学原理』が、「斉一説」 uniformitarianism の学説、すなわち、その数十年前にジェームズ・ハットンによって提唱されていたアイディアを、広く世に知らしめることにつながったのである。 1840年代、ライエルはアメリカ合衆国とカナダへと旅した。この体験が彼の有名な、"旅行と地質学" 本、を生むことになった(1845年の Travels in North America と1849年以降の A Second Visit to the United States である)。 1875年に他界。ウェストミンスター寺院に埋葬された。 月と火星にあるライエルクレーターの名は、チャールズ・ライエルへの尊敬の念を込めてつけられたものである。また、カナダノバスコシア州で発見された化石爬虫類ヒロノムスの種小名 lyelli(リュエリまたはライエリ)も彼にちなむ名である。命名者は、友人であったカナダの地質学者ジョン・ウィリアム・ドーソン(英語版) (John William Dawson)。
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「トーマス・ヘンダーソン」の記事における「人物・生涯」の解説
ダンディーに生まれる。法律を学んだ。趣味で天文観測と数学を研究した。 月の掩蔽を使って経度を求める方法を考案したことで、当時イギリス海軍の『天文年鑑』発行の監督官をしていたトーマス・ヤングに注目され、天文学の職を得ることができた。ヤングは自分の死後、ヤングの職をヘンダーソンに継がせることを推薦した手紙を残した。南アフリカの喜望峰の天文台の観測者になり、そこで1832年4月から1833年5月まで多くの星の観測を行い、その中にはケンタウルス座α星があった。 1830年代の天文学の関心事は年周視差を観測して、恒星までの距離を誰が最初に求めるかということで、ヘンダーソンは最も太陽系に近い星であるケンタウルス座α星を測定したことにより有利な立場にあった。イギリスに戻り、測定結果を整理して、3.25光年にあると結論したがこれは実際の距離より30%ほど小さいものであった。 測定装置に自信がなかったので発表をためらっているうちに、1838年にフリードリッヒ・ベッセルがはくちょう座61番星の年周視差を測定しその距離を10.4光年(約10%ほど小さい)であることを発表したため、最初の年周視差の発見者の栄誉はベッセルのものとなった。ヘンダーソンは自らの結果を1839年に発表した。 1834年に最初のスコットランド王室天文官に任じられた。
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「ジェームズ・ハットン」の記事における「人物・生涯」の解説
商人の子としてスコットランドのエディンバラに生まれ、1736年、10歳の時エディンバラ高等学校に入学し、ラテン語、ギリシャ語、数学を学んだ。1740年11月、14歳で大学に入学し、エディンバラ大学で法律を学び、1743年の春卒業し、母親の縁故で弁護士事務所に就職するが、彼に適していなかった。1744年の秋にパリ大学、ライデン大学で医学、化学を学ぶ。1745年8月、秋の授業再開を待っていたとき、チャールズ・エドワード・ステュアート(ジェームズ2世の孫、国外追放されたジェームズ3世の息子)が反乱を起こした。ハットンの勉学の邪魔になったばかりでなく、エディンバラの市民に多大な影響を及ぼした。1747年の末、パリに移り、パリ大学で、医学の勉強を続けた。1749年9月には、ライデン大学で医学の学位を得た。この時の論文は「マイクロコスモスの血液と循環」と題するもので、のちに地球についても「循環」という考え方を適用した。 ハットンは、コリン・マクローリンの自然哲学の講座においてアイザック・ニュートンの考えに初めて触れた。それが後のハットンの考えに重要な作用することとなった。 一時期父の残した農場の経営に当たるが、1768年末、20年ぶりでエディンバラに戻った。独身であったが1770年にセント・ジョンズ・ヒルに家を建て、いずれも未婚の3人の姉妹と一生に生活した。エディンバラで研究生活に入り、スコットランド、イングランド、北部フランス、オランダを旅行、各地の地質を観察する。 ジェイムズ・ハットンの地球についての学説発表のための第一回目の講演会が1785年3月7日、エディンバラ王立協会主催で大学図書館で開かれた。二回目は4週間後の4月4日に行われた。 1795年『地球の理論』(The Theory of Earth)を出版。しかし難解であったため、当時は評価されなかった。1802年に、ハットンの友人であるエディンバラ大学の数学教授ジョン・プレイフェア(John Playfair)が『ハットンの地球理論の解説』(Illustrations of the Hattonian Theory of Earth)を1802年に出版、一般に理解される。 ハットンは4年前から病に冒されており、1797年3月26日の土曜日の夕刻、70歳の生涯を閉じた。エディンバラ城の南にある町中で一番広いグレイフライアの墓地に葬られた。 ハットンは現在の自然現象を元に過去の地質現象を合理的に説明することに努め、地下の火の作用を重視して、熱の膨張力が大地を隆起させ、地層を変化させ、この過程で地殻に割れ目を生じ、マグマが進入すると考えた。また、火山は広域的な大地の上昇の安全弁とみなした。A・G・ウェルナーが水成起源とした花崗岩を火成起源とみなし、火成論者の代表とされたが、二次岩層の形成など水の作用も重視した。 ハットンの説はライエルにより高く評価され、かれの著書『地質学原理』によって広く普及することになった。 ジョゼフ・ブラック、 ジェームズ・ワット、アダム・スミスらと交流があった。
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人物・生涯
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1910年、誕生[どこ?]。ベルリンでゲルマン文化、芸術史、哲学、新聞学を学び、1939年以前はハンブルク、キーンで新聞の編集の職にあった。 1939年に来日すると旧制松江高校でドイツ語を教え、在職中の1939年11月1日より1945年8月6日まで、島根大学旧奥谷宿舎(旧制松江高等学校外国人宿舎)に夫人と暮らし子どもが生まれた。 帰国後[いつ?]、ジャーナリストとして活躍すると1960年に再来日、ドイツ大使館広報担当官として1975年まで東京に在住した。この間1969年から1974年にわたり、東京のオーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会(OAG)会長を務める。1975年、日本とドイツの文化交流に寄与した顕著な貢献を認められて、勲三等旭日中綬章を受賞。 帰国後はベルリンの独日協会事務局長を務め、茶道に関する著書がある。 2018年にドイツから訪問した遺族を迎えた島根大学は、在職中に旧宿舎で撮影した写真や博士夫人の書簡ほかを受贈した。旧宿舎は2009年に同学の募金事業により修復して大学博物館・分館に転用しており、贈られた資料の展示を検討している(2018年10月時点)。
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人物・生涯
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「ユリウス・ワイスバッハ」の記事における「人物・生涯」の解説
1822年から1826年までフライベルク工科大学に在籍し、その後ゲッティンゲンにてカール・フリードリヒ・ガウスと、ウィーンでフリードリッヒ・モースと共に学んだ。 1831年にフライベルクに戻って地元のギムナジウムで数学の教師を勤め、1833年にはフライベルク鉱山大学で数学と山岳機械の理論の教師となった。1836年には応用数学、力学、山岳機械の理論などいわゆる「鉱山測量」で教授となった。 『Lehrbuch der Ingenieur- und Maschinenmechanik』という本を執筆し、1845年から1863年までの間に何度も出版され、機械工学を学ぶ学生に影響を与えた。 また、ヘンリー・ダルシーの作った公式を改良し、これは現在、ダルシー・ワイスバッハの式として広く利用されている。 ドイツの鉱物学者アルビン・ワイスバッハ(ドイツ語版)(アルビン・ユリウス・ワイスバッハ、1833年12月6日 - 1901年2月26日)はワイスバッハの息子に当たる。
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人物・生涯
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「ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン」の記事における「人物・生涯」の解説
ビュフォンはモンバールのコート・ドールに生まれた。父親はディジョンとモンバールの領主であった。 彼ははじめ数学の分野で有名になり、確率論の分野に、微分や積分の概念を導入した。スイスの数学者ガブリエル・クラメールと手紙のやり取りをした。モンテカルロ法のルーツとなった「ビュフォンの針」の問題で知られる。 パリに出て、ヴォルテールらの知識人と交流し、27歳でフランス科学アカデミーに入会した。1739年からパリ植物園の管理者になった。ビュフォンが園長を務める間に、パリ植物園は王の庭園から研究機関、博物館、公園に変え、多くの世界中の植物を集めた。1740年にロンドン王立協会のフェローに選出された。 ビュフォンは、1749年から1778年までに36巻が刊行され、ビュフォン没後にラセペードによって8巻が追加された『一般と個別の博物誌 Histoire naturelle, generale et particuliere』の著者としても著名である。これはベストセラーとなり、博物学や科学思想の発展に影響を及ばした。 『博物誌』の中の1778年に刊行された『自然の諸時期 Les Epoques la Nature』の巻では、太陽系の起源について考察し、ビュフォンは惑星は、太陽に彗星が衝突して形成されたという説を述べた。また地球の年齢を鉄の冷却率から75,000年だと推定した。これは、17世紀のアイルランドの司教ジェームズ・アッシャーが、聖書の記述をもとに天地創造までの時間を計算して求めた、地球の起源が紀元前4004年に始まるという説を否定するものであった。ノアの洪水伝説があったことも否定したが、自らが無神論者であることは否定した。
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「アブラハム・ゴットロープ・ウェルナー」の記事における「人物・生涯」の解説
300年来鉄鋼業に関係してきた家に生まれる。父は鋳鉄工場の管理をしていたが、ウェルナーは幼い頃からその仕事を手伝い、父の鉱物標本に興味を抱いていた。 1769年フライベルク鉱山学校で鉱山技術を学び、1771年ライプツィヒ大学で鉱山法を学んだ。1774年の在学中に出した最初の論文「鉱物の外部の特徴について」が認められ、1775年から1817年にかけて、ドイツのザクセン州の町フライベルクにあるフライベルク鉱山学校の教授を勤める。彼は、鉱物のあらゆる経済的利用やその医学への応用、土の資源や富、それの人間文化への影響などについて講義し、学生たちを引きつけた。歴史的な地質学の講義は、1779年から始めた。地球の歴史についての講義はヨーロッパでは最初のもので、ウェルナーの見方が学界の多くの人に受け入れられていた。 ウェルナーは鉱物分類は化学構成によるべきだということは認めながら、当時の分析に精密さを期待することはできなかったため、外部の特長による分類方法や地理的分布を研究した。彼は、これらの研究のことをゲオグノジー(geognosy:地球の知識の意)といった。鉱物学などに厳密な学術用語を取り入れたのも彼である。また、地表の堅い岩石は火成岩起源のものであるという層序学に基づいた考えに対して、ウェルナーは岩石は全て海洋の底に堆積して出来たものであるとする水成岩起源説(水成論)を主張した。 なお教育者としても優れていたとされ、ウェルナー学派といわれる一派ができた。レオポルド・フォン・ブーフ、アレクサンダー・フォン・フンボルトらは彼の弟子である。
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人物・生涯
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1899年中央気象台に入り、地磁気、空中電気の観測を担当する。1911年ドイツのリンデンベルク高層気象台及びポツダム気象台に留学した。帰国後の1920年に高層気象台の初代台長に就任。 1926年に刊行された「高層気象台報告第1号」で、大石は測風気球による高層気流の観測結果をエスペラントで世界に公表した。しかしジェット気流の命名と概念が確立する20年前のことであり、世界の反響もなく、注目を集めることもなかった。
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人物・生涯
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東寺の坊官・蜷川子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。 父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。 1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。 1869年7月、太政官制度取調御用掛、権少史から少史へ進み、従7位。 1871年、少史が廃官となり、外務省の外務大録として編輯課御用書類下調掛。 1872年、文部省博物局御用兼務を兼務して、八等出仕。 1875年、内務省博物館掛。 1877年、1月、病を理由に退職。 在任中の業績に、次があった。 1869年 - 1871年、民法編纂の会議に列して、フランス民法典の翻訳に協同した。海軍の軍艦旗と短剣、陸海軍の軍服の制定に関係した。 1871年、2月、太政官に許可を願い、3月、写真師横山松三郎・洋画家高橋由一と、『旧江戸城写真帖』を作った。常設の博物館を上野と芝に開設するよう、町田久成らと建議した。5月、田中芳男らと九段坂上で物産会を開いた。10月の京都博覧会の開催に尽力した。岩倉使節団のための、書類の準備に携わった。 1872年、3月 - 4月一杯、町田久成、当時オーストリア=ハンガリー帝国公使館勤めのハインリヒ・フォン・シーボルトらと湯島聖堂大成殿で、文部省博物局主催としては初の博覧会(湯島聖堂博覧会)を開いた。東京国立博物館の始まりとされている。これは翌年のウィーン万国博覧会の準備でもあった。5月から10月まで、(太政官の前年5月の布告『古器旧物保存方』に基づき)、町田久成に従い、高橋由一・横山松三郎らと、伊勢・名古屋・奈良・京都の古社寺や華族の宝物を調査し、さらに正倉院の調査を行った。『壬申検査』と呼ばれる。この調査のうちの正倉院開封の状況を、日記『奈良の筋道』に残した。 1875年、4月1日からの奈良博覧会に出展のため、再び正倉院へ出張した。 道三町の自宅には多くの陶器を所蔵した。退職前の1876年1月、屋敷の一部を出版所『楽古舎』に改め、川端玉章、高橋由一らを雇い、『観古図説陶器之部』の第1 - 第5冊を、1876年から1878年にかけて刊行し、さらに1869年秋、関西へ調査の旅をした上で、第6冊を1879年に、第7冊を1880年に刊行した。石版刷りに彩色を施した画集である。京都玄々堂の松田敦朝が刷った 。仏文あるいは英文の解説も付けられ、殆どが輸出され、海外コレクターの指標になった。 『楽古舎』では、同好を集めて古陶器の「当てっこ」もした。ハインリヒ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースも訪れた。式胤は1879年初から、モースと繁く交わって日本の陶器の鑑識について教え、1000点以上と推測される古陶器を、贈り、或いは共に町に出て集めた。今日ボストン美術館が所蔵する『モース日本陶器コレクション』の発祥である。またシーボルトの帰国前に自著を含む少なくとも5冊の書物をおくり、これらは現在ケンブリッジ大学図書館に所蔵されている。 1882年(明治15年)8月21日、没した。享年47。谷中の葬儀に参列したモースは、死因をコレラと記している。 1902年(明治35年)、姉の辰子が、『観古図説陶器瓦之部』、『観古図説瓦之部』を刊行した。 正倉院の所蔵品の散逸に式胤が関わる、との推論が行われている。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 03:37 UTC 版)
東京府豊多摩郡渋谷町(現・東京都渋谷区)栄通1丁目生まれ。1948年、東京都立高校(旧制)尋常科(現東京都立桜修館中等教育学校)修了。当時からの友人に地理学者江波戸昭がいる。 1949年、東京都立高校高等科(現・東京都立大学)修了。1955年、東京外国語大学第四部(ロシア語)卒業。1958年、東京大学文学部言語学専攻卒業。 同年、チェコスロヴァキア政府奨学生としてプラハのカレル大学に入学。ヨーゼフ・クルツ(チェコ語版)のもとで古代教会スラヴ語ならびにプラーグ学派を研究すると共に、1959年から同大学日本語科講師を務める(1967年まで)。1964年、カレル大学文学部スラヴ語科修了。1967年12月に帰国した。 1969年、東京教育大学文学部に助教授として着任し、教授だった河野六郎と親交を深める。1976年、東京外国語大学外国語学部助教授。1977年に教授。 1988年、チェコスロヴァキア国際交流協会金賞受賞。1989年、ヨゼフ・チャペック、カレル・チャペックを研究する日本チャペック兄弟協会を設立、会長となる。1991年、ポーランド語科およびチェコ語科の新設に伴い、東京外国語大学ロシア・東欧語学科教授着任。 1992年12月、『言語学大辞典』の業績により第46回毎日出版文化賞特別賞受賞。1993年、東京外国語大学名誉教授。1994年、同大学を定年退官。同年、和光大学人文学部文学科教授着任。同年11月、東京外国語大学ポーランド語科およびチェコ語科の創設の功績により、原卓也と共にポーランド功労十字章受章。1997年、和光大学学長就任(2001年まで)。 2000年9月、日本におけるチェコ語の普及ならびにチェコ文学・チェコ文化の紹介によりチェコの文化功労賞を受ける。 2002年3月19日、国立病院東京医療センターで死去。2002年4月9日朝日新聞「惜別」に学芸部・伊左恭子の追悼文がある。 元妻の千野ズデンカ、再婚相手でチェコ語研究者の保川亜矢子(千野亜矢子)、ズデンカとの間の娘の千野花江は共にチェコ語講師。
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人物・生涯
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美作国久米南条郡中籾外3ヶ村戸長光元東伯氏は、年来の戸長に加えて、部内において貧民が困苦すれば私財から貸与し、返金しても利子を受けとらず、返済期限を延長することも度々あった。いろいろとあるが中でも、米、穀物、金銭、労務などの訴訟については大概同氏の説諭(話して聞かせること)でまとまるから、いわゆる公事費(裁判費用)なども大いに省けるので、部内の民の人望も少なくなかった。(明治22年(1889年)1月26日)
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人物・生涯
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1915年6月20日、島根県大田市の農家に長男として生まれる。 1937年、浜田歩兵第21連隊に入隊。訓練後、中国の戦場で戦闘中に負傷。1939年に憲兵志願試験に合格。日本憲兵教習隊の第二中隊に配属され、中国の言語・歴史・地理などを学び、優秀な成績で卒業。1940年末、極秘の特殊任務を受けて中国人を装い、諜報員として活動を始める。敵国紙幣を偽造して貨幣市場を混乱させるなどの任務を成功させ、27歳で瑞宝章を受けた。終戦後も任務続行という命令を受け、中国に13年間潜伏。1958年にスパイ容疑で中国当局に逮捕され、上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に合わせて20年4ヶ月収監。その間、拷問を含む厳しい追及を受けるも、戦後のスパイ活動については完全黙秘を貫いた。 1978年、日中平和友好条約締結に伴う特赦を受け、家族と共に帰国したが、戦後に何者かが軍人恩給を虚偽申請して横領していたため、本来の支給額を大きく下回り、一家は困窮した。国からは元軍人ではなく亡命者として扱われた。度重なる見直し要求は認められず2015年4月21日に肺炎のため広島市内の病院で死去。 2014年には次男である深谷敏雄が獄中記録などを基にした著書『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』 を出版した。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 07:33 UTC 版)
文久3年12月5日(1864年1月13日)に越後長岡藩士屋井家(現在の新潟県長岡市)に生まれる。屋井家は代々300石余りの禄を奉じる上級武士の家だったが、6歳で父が死去して没落し、母親ともども叔父に引き取られた。 明治8年(1875年)に13歳で東京の時計店の丁稚となる も、病気のため帰郷。長岡の時計店「矢島」で修理工として7年間年季奉公した後、東京高等工業学校(現:東京工業大学)入学を志望したが受験に2度失敗。年齢制限もあって進学を断念し、叔父の工場で働きながら、それからの3年間は独力で永久自動機等の研究を続けた。 明治18年(1885年)、21歳のときに電池(湿電池)で動作する連続電気時計を発明する。電気を使った時計はすでに存在したが、それらは動力源のゼンマイを電気で巻くというものであり、先蔵のそれは自作の電池を組み込んですべてを電気で動かすという画期的なものだった。この連続電気時計は、明治24年(1891年)に日本では初めてとなる電気に関する特許として認められる。連続電気時計に用いられていたのはダニエル電池など液体の入った湿電池であり、電池の手入れが必要なことと、冬場は電池の液が凍結するため使用できなくなるといった問題があった。屋井は、これら問題を解決する電池の開発に取り掛かる。 東京物理学校(現:東京理科大学)の付属職工となっていた屋井は東京物理学校の学者ともよく相談していたようであり、産学協同の先駆者であるとも言える。湿電池の問題に、薬品が沁み出して正極の金具が腐食するということがあったが、屋井は炭素棒にパラフィンを含浸することで解決し、明治20年(1887年)に「乾電池」の発明に成功する。しかし、屋井は特許の申請費用が用意できなくてすぐには出願できず、日本における最初の乾電池の特許は通信省の電気技師高橋市三郎によって取得された。1888年にドイツではカール・ガスナー(ドイツ語版)が、デンマークではヘレンセンが乾電池の特許を取得している。 屋井乾電池は、乾電池を用いる製品そのものが普及していなかったこともあって、しばらくは売れなかった。 1891年に、繁(しげ)と結婚。 1893年のシカゴ万国博覧会 (1893年)に帝国大学の地震計が出品され、それに使用された先蔵の乾電池は来場者を驚かせた。 1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、陸軍から大口発注があり、満州において使用されていた軍用乾電池の大成功に関する号外記事が掲載されることになる。従来の湿電池では液が凍結したため満州では使用できなくなったが、屋井の乾電池だけは使用できたのだった。 1895年、妻のいさ(青森県士族の娘)との間に、のちに家督を継ぐ三郎が生まれる。 1910年(明治43年)には、合資会社屋井乾電池を設立し、東京府東京市神田区錦町一丁目に販売部を新築するとともに、浅草神吉町に乾電池の製造工場を設け、乾電池の本格量産にとりかかった。筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確立している。屋井乾電池は海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電池界のシェアを掌握し、屋井は乾電池王とまで謳われるようになった。 1927年(昭和2年)、胃がんに侵され、急性肺炎を併発して急逝。享年63。 後継者が育たなかったのか、昭和25年には屋井乾電池の名は乾電池工業会の名簿から消えてしまっている。 2014年(平成26年)、IEEE関西支部の推薦による「日本の一次・二次電池産業の誕生と成長1893」がIEEEマイルストーンとして正式に認定され、屋井の出身地の長岡市、出身校の東京理科大学近代科学資料館(以上は屋井乾電池が現存しないため)、ジーエス・ユアサコーポレーション、パナソニックの4者に銘板が贈呈された。
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 07:01 UTC 版)
金日成総合大学・露西亜文学科卒業。 父は兵士であったが、朝鮮戦争で戦死した。 金日成主席が正日に紹介したことがでキッカケで1966年に結婚し、一女である金恵敬(現在の最高指導者・金正恩の長姉)をもうけた。 1969年に離婚した後、1977年から1991年までに最高人民会議のメンバーを務めていた。 議会から退いた後には、1991年9月に金亨稷師範大学の学長に任命されたが、2012年6月に、70代を目前にして退任した
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人物・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 09:56 UTC 版)
父・山田チクユピ(アイヌ名:Sahpo)、母・テツ子(アイヌ名:Tekakunkemah)との間に、当時ロシア領であった樺太西海岸のアイヌコタン、オタスフ(Otasuh/小田洲。終戦時は恵須取郡珍内町)で生まれるが、生後まもなく失明する。父親は1902年病死、母親はタケが18歳のときに亡くなる。幼少期より、子守で生計を立てた。 樺太真岡郡真岡町出身のアイヌ・浅井政治と結婚し、太平洋戦争後は北海道沙流郡平取町振内に移住した。1961年に夫と死別し、1974年に門別町立特別養護老人ホーム「得陽園」で暮らし始める。1983年に、言語学者の村崎恭子と面会した際、樺太アイヌ語が完璧であったことが確認されている。1993年5月札幌の東札幌病院に入院し、1994年4月30日、同病院にて92歳で死去。
※この「人物・生涯」の解説は、「浅井タケ」の解説の一部です。
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