ファースト・アルバム (1999年 - 2000年)
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「グラスジョー (バンド)」の記事における「ファースト・アルバム (1999年 - 2000年)」の解説
1999年、バンドはロス・ロビンソン(アット・ザ・ドライヴイン、リンプ・ビズキット、コーン、スリップノット)をプロデューサーに迎えて、1stアルバムである『エヴリシング・ユー・エヴァー・ウォンテッド・トゥ・ノウ・アバウト・サイレンス』をレコーディングする為にカリフォルニア州マリブのインディゴ・ランチのスタジオに入った。ロスと契約を交わした際の出来事を、ベックはこう語る。「ロスは俺たちが練習している時に現れた。そして俺たちが曲を演奏し始めると、彼は立ち上がって、手を振り、こう言った。」「終わった、遂に終わった!これだよ!契約しよう!」これに関して、ロス・ロビンソンはこう述べる。「そのアルバムでの私たちの目的は“アディダス・ロック”を駆逐することだったんだ。」これは、当時興隆を極めていたニュー・メタルムーヴメントに属する、彼がプロデュースしたアディダスがスポンサーとなっていた一部のバンド(コーンやリンプ・ビズキット)に対する、ある種自己卑下的な姿勢である。バンドの音楽性は攻撃的で激しいものであったが、その反面「When One Eight Becomes Two Zeros」「Her Middle Name is Boom」「Piano」といった叙情的な側面を持つ曲も収録されており、その流れを汲む大作「Everything You Ever Wanted to Know About Silence」は更にパルンボ自身のクローン病について歌われた個人的なものである。だが、基本的なバンドのスタイルはパルンボが出会った人間に対する苦々しい怒りに溢れた感情を、彼の喉を切り裂かんばかりの力強い叫びとユニーク且つメロディアスな歌声にのせるというものだった。このアルバムはポスト・ハードコアに於ける画期的な作品だと評価されたが、その評価に反してレーベルはアルバムのプロモーションに殆ど力を入れず、バンドはロードランナー・レコードに対する不信を募らせた。そして問題は更に悪化することになる。ツアー中にパルンボがクローン病の発作を起こし、彼の激しいパフォーマンススタイルでは致命的な段階に至りかねないにもかかわらず、レーベルは彼が残りのツアーの日程を消化せずに休息をとるのは許されないと主張したのだ。 このツアーでは、デフトーンズに帯同する期間とソウルフライとの六週間のヨーロッパツアーの期間で、ラリー・ゴーマンがドラムを担当した。バンドのラインナップは、マニュエル・カーレロがツアーの日程に不満を持っているという理由だけでロードランナー・レコードによってバンドから外されて以来、変わり続けていた。
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