設立後
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「ブラジル国立宇宙研究所」の記事における「設立後」の解説
1971年4月22日、国立研究会議の下位組織として、INPEが設立された。INPEは、大統領の顧問組織であるブラジル宇宙活動委員会の指定による、民生分野における宇宙研究開発のための執行組織である。 1970年代半ばまで、気象用、通信用、地球観測用衛星の利用が主要な計画に含まれていた。これによってさらに他の計画が生じた。 MESA - 気象衛星画像の受信と解析 SERE - 衛星遠隔感知技術と地球資源の航空機による監視の利用 SACI - 静止通信衛星での放送を介した教育方式開発 1970年代末に政府がブラジル総合宇宙計画(MECB)を承認し、国立宇宙研究所は、研究と応用のほか、大陸規模の宏大な無人地帯の国土に対して必要不可欠な宇宙科学技術の開発を始めた。
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設立後
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「防衛省全国情報施設協議会」の記事における「設立後」の解説
協議会結成後は、加盟市町村地区選出の自由民主党国会議員からの支援を受けるため、平成16年5月に防衛省情報施設振興議員連盟を組織してもらい、レーダーサイトと情報収集施設を基地交付金の交付対象とする規則改正を強く要請し、その結果、平成17年に議員立法による「基地交付金に関する法律の一部改正」が行われ、レーダーサイト及び通信所も基地交付金の対象となった。
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設立後
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「コンピュータソフトウェア倫理機構」の記事における「設立後」の解説
設立当時は「一般ソフト作品」(便宜上の全年齢対象)と「18禁」の2段階のみで審査を行っていたが、1994年6月より「15禁」のレイティングに該当する「R指定」のカテゴリが追加された(2011年9月30日を最後に廃止。後述)。 これはジャパンホームビデオの『卒業II 〜Neo Generation〜』が、「性表現以外の理由(未成年者の飲酒や喫煙)」を含んでいたために「18禁」とされたことに対する抗議を受けたものといわれている。 ソフ倫の倫理規程が適用されるようになってからは、18歳未満の人物の性描写が禁止され、また、いわゆる学園物のアダルトゲームの世界観も大きく変えた。高校以下の言葉は登場人物のほとんどが18歳未満であることが明らかなため使用禁止になり、代わりに18歳未満であるかどうかがはっきりしない「○○学園、○○学院」「女子校生」、または(飛び級を認めない限り)18歳以上であることが明らかな「○○大学(生)」といった言葉を用いるようになった。 詳細は「ロリータ系(18歳未満)作品に対する表現規制」を参照 このような変化は1997、1998年頃から起こった。ソフ倫の倫理規程が適用される以前は、高校生以下(18歳未満)であることが明らかな登場人物の性描写を扱う作品もあった。 PCにおけるビデオCDや、DVD/BDプレイヤーの普及に伴い、アダルトゲームの他、グラビアアイドルのイメージビデオといった実写映像も審査するようになった。DVD/BDについてはゲームで競合関係にある日本コンテンツ審査センター(JCRC)でも審査が行われており、両団体には審査基準に若干の違いはあるものの、相互に審査結果を尊重する旨の覚書を交わしている。そのため、市場ではソフ倫およびJCRCの審査済みタイトルは同等の扱いを受けており、いわゆるインディーズとは区別される。 なお、ソフ倫ではDVDの対話的機能を利用したゲームの統一名称として「DVDプレイヤーズゲーム」を提唱している。 2009年4月28日には、任意団体から一般社団法人となった。また9月18日には、一般向けゲームとの混同を避けて18歳未満購入禁止であることを明確にしたい意向から、ソフ倫会員が制作するアダルトゲームの呼称に対し「美少女ゲーム」は使わず、代替として「R18ゲーム」を使うことに決定した。 2022年4月1日には、美少女PCゲームメーカーの作品を掲載した情報サイト「Moepedia美少女ゲームカレンダー」が正式オープンした。
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設立後
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2018年6月 - ダウ・東レ株式会社設立。 2019年2月 - デュポンとダウの分社に伴い、ダウ・東レはダウ社と東レの合弁会社として、東レ・ダウコーニングはデュポン社と東レの合弁会社(デュポン・東レ・スペシャルティ・マテリアル)として、再編スタート。
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設立後
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「日本ボクシングコミッション」の記事における「設立後」の解説
1952年4月21日に、「コミッショナー制」という世界のプロボクシング興行における原則に従い、日本におけるプロボクシング統括機構として設立された。同日東京会館別館において、「日本ボクシングコミッショナー推戴式」が行われ、当時の東日本ボクシング協会の理事長であった本田明が田邊宗英をコミッショナーに推薦した。 1956年3月、浅草公会堂の試合を最後にJBCに無届の草試合が禁止されると、事実上の「1国1コミッション制」が形成され、後にJBCルールの「宣言」(現在は「前文」)に「(財団法人)日本ボクシングコミッション(JBC)は昭和27年(1952年)4月21日、日本プロボクシング協会の推載により日本で行われる全てのプロ・ボクシングを統轄するために1国1コミッションの方針のもとに設立された」などと盛り込まれるようになっていった。 1978年に財団法人化(文部科学省所管)。 設立時よりWBA(当時は全米ボクシング協会(NBA))に加盟。1963年にWBCに、OBF(東洋ボクシング連盟)を通じて加盟。1966年9月27日にWBC世界ランキングを非公認とするものの、1970年ジョニー・ファメション対ファイティング原田の第2戦に際して、WBC世界ランキングを公認した。2013年にIBF・WBOにそれぞれ加盟。 2013年7月1日付で一般財団法人へ移管される。 2014年5月15日付で本部事務局を長らく入居していたビルから後楽園ホールビルへ移転した。 2022年3月31日、財政難により解散を発表。
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設立後
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「オランダ東インド会社」の記事における「設立後」の解説
設立当初は東インド(インドネシア)における香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦った。 1605年には、スラウェシ島に上陸。 1606年、職員のウィレム・ヤンスゾーン(英語版)がオーストラリア北部を調査し、交易の可能性を探ったが、撤退している。 1609年、イギリス人のヘンリー・ハドソン船長の乗るハーヴ・ミーン号(英語版)により北アメリカのハドソン湾を調査し、ニューアムステルダム、ニューネーデルラントの植民地経営の足掛かりを作った。また、イギリス人の三浦按針の仲介により、江戸幕府から、プロテスタントが布教を行わないことを条件に長崎のオランダ平戸商館を通じた国際貿易を幕府から許可され、蘭学が広まる足掛かりを作った。 1619年には、第4代東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(在任1619年-23年、再任1627年-29年)がジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア要塞を築いてアジアにおける会社の本拠地とした。 1622年にポルトガルのアジア貿易拠点であった明朝マカオを攻撃したが敗退し、代わりに澎湖島を占拠した。しかし明に撤去を求められたため、翌年には台湾本島に安平古堡(英語: Fort Orange)を築城し、8か月間の明軍との衝突ののち1624年に講和して明の許可を得、ここをアジア貿易の拠点とした。 1623年にモルッカ諸島でアンボイナ事件が勃発し、イギリス東インド会社のイギリス商館の職員を殺害した。イギリスは東南アジアから撤退し、インドの植民地経営に専念することになり、ムガル帝国攻略に向かう転換点となった。 1628年から1629年にかけて、ジャワ島でマタラム王国がバンテン王国への進出を目指し、2度に渡ってバタヴィアに侵攻したが撃退した。1646年に、マタラム王国と平和協定を締結し、ジャワ島でマタラム王国と独占貿易をすることになった。 また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入り島原の乱の制圧を支援するなどして、ポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。 フランスは同盟国のオランダに触発されてフランス東インド会社を設立したが、オランダとの競合を避けインド貿易に専念した。 なお、オランダ東インド会社が日本に進出した時点で、すでにポルトガルが日本との貿易を行っており、オランダ側は貿易品を充分に確保できなかった。結果、オランダは「私掠」としてポルトガル船などを襲う挙に出ていた。だが、東アジアでは私掠の概念は通用せず、江戸幕府からは1621年に海賊行為を禁止する禁令を出されるなど、オランダの貿易独占が成立する以前には海賊として認識される有様であった。 スペイン、ポルトガルでユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていた。そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社もユダヤ人が関係している。日本からのポルトガルの排斥はその意味からも非常に重要なポイントである。 1643年、オランダ東インド会社に所属するマルチン・ゲルリッツエン・フリースは、東インド総督の命を受けて日本の東方沖にあるとされた金銀島探検のために結成された第2回太平洋探検隊の司令官として太平洋を北上し、ヨーロッパ人で初めて択捉島と得撫島を発見した。そして、それぞれスターテン・ラント(オランダ国の土地)とコンパニース・ラント(オランダ東インド会社の土地)と命名して領土宣言をした。 1643年、カンボジアに留まっていた会社員たちが惨殺され、会社は短期間の戦争の後、1670年代までにカンボジアの交易地を放棄した(カンボジア・オランダ戦争)。 1648年、八十年戦争が終わり、ネーデルラント連邦共和国がヴェストファーレン条約によりスペインから独立しオランダ黄金時代が築かれると、1652年の英蘭戦争が始まるなか、17世紀の世界最大の営利会社となった。 1660年よりオランダ東インド会社は、スラウェシ島のマカッサル西海岸でゴワ王国(英語版)との戦争に突入し、1669年にコルネリス・スペルマン(英語版)提督が、スルタンのハサヌディン(英語版)に、オランダ東インド会社のスラウェシ島支配に関するボンガヤ条約(英語版)を署名させた。1665年から1667年にかけての第二次英蘭戦争で、バンダ諸島(東インド諸島モルッカ諸島)にあるラン島(香辛料貿易)とニューアムステルダム(毛皮貿易)の自治権と交換して獲得し、香辛料貿易(ナツメグ、クローブ等)の独占を図った。イギリスは既に種子を持ち出しており、1815年頃からモーリシャスやグレナダなどでプランテーションを開始すると、香辛料はありふれた商品となってバンダ諸島の価値は相対的に下がっていくことになった。 18世紀には3度に渡るジャワ継承戦争(1703年・1719年・1749年)や華僑虐殺事件によって、マタラム王国が四分割され、ジャワ島での支配体制も確固たるものとなった。 オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていた。17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。1795年にはフランス革命軍により本国を占領された。この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収された。ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになる。
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設立後
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彼らの指導原理は統合(synthesis)、つまり東洋と西洋の合流、古代と現代、科学と宗教、学問と芸術の統合であった。1962年1月にアラン・ワッツが講演を行い、夏には高名な心理学者のエイブラハム・マズローが訪れてエサレンに興味をもって初期の最も熱烈な支持者になり、彼の言葉はエサレンの教育機関としての価値の証明書になった。政治学者・ジャーナリストのW・T・アンダーソンは、「これまで一つに統合されなかった断片を統合して大衆にそれを紹介した。それによってエスリンは一つのサブ・カルチャーを創造した」のであり、「折衷的」であることが最も明確な方針であり貢献だったと評している。 ヒューマン・ポテンシャル運動では、心理療法のアプローチに東洋哲学が接合され、成長を助けるものとして瞑想を利用したが、特にエサレンはこれをグループで実験することに取り組んだ。1960年代には、フレデリック・パールズがエサレンに、直接的で真実の経験を目指すグループ・ゲシュタルト療法を導入した。初期のセミナーリーダーには、グレゴリー・ベイトソンがおり、のちにパールズらと共に、エサレンの長老のような存在になったエサレンには、当時の著名な心理学者や哲学者の大部分が訪れた。心理療法や心身技法の開発実験室のようなものになり、Tグループ(感受性訓練)やゲシュタルト療法なども利用して、人間の潜在能力の覚醒を目指す心理療法や身体開発のテクニックが恐ろしい勢いで開発され、様々なワークショップが開催された(→#ワークショップ)。 1960年代後半には、「エサレン・ブックス」というシリーズの出版が始まった。 1966 - 67年には、大きな雑誌で好意的な特集が組まれ、カリフォルニアには変革を予感させる空気が漂っていた。ヒッピーとの間にも目に見えて関わりができていた。エサレンは世間に知られるようになってきていたが、その影響はカリフォルニアが中心で、全国的な支持は得られていなかった。エンカウンターグループの本拠地というイメージもまだ定着していなかった。エサレンをモデルにした「成長センター」がこの頃生まれ、マーフィーはサンフランシスコにエサレンの支部を開いて様々なプログラムを開催し、ウィリアム・シュルツは大学の教職をやめてエサレンに移り、ここを自分流のエンカウンターの場にしようと計画し、ジョージ・レンナードはエンカウンターを人種問題撲滅に活用する試みを開始した。この時期エサレンの活動は爆発的に拡大することとなる。 セラピー的成長の熱狂の中、1968年に、最初の宿泊プログラムにいたスタッフの女性が、MDAというスピードと似た薬物の中毒で死亡した。エサレンが直接の原因ではないが無関係とも言えない事故死は、新しくて危険もある領域を開拓する過程で死者が出るとは思ってもみなかった人々にショックを与えた。さらにワークショップの参加者・スタッフで、フレデリック・パールズの元患者で元愛人の女性がライフルで自殺した。二つの死と、エンカウンターの危険性やシュルツとパールズの確執などもあり、エサレンの大きな試みであった長期の宿泊プログラムは1968年に4カ月に縮小された。1969年には、パールズの5日間プログラムを受けていた女性が浴槽で自殺している。当初激しい非難を受けたのはパールズだったが、時間がたつにつれ、パールズのゲシュタルト療法より、エンカウンター・グループに対して、危険ではないか、また自殺者が出るのではと批判がされるようになった。 1969年から70年に、1960年代の精神革命の試みに大きく貢献した3人の人物、ジェームズ・パイク(英語版)、フレデリック・パールズ、エイブラハム・マズローがこの世を去った。 エサレンの指導者たちは有名になり、洪水のように多くの著作が出版された。エサレンに認められれば、どんな学問も実践も一気に全国的な名声を得ることができたので、内部には権力闘争も生まれ、黙想的で求道的だった初期から、体験的方法を提供するビジネスの面も大きくなっていった。しかし、ワークショップのリーダーたちに競合他社で働くことを禁止したり、勝手にプログラムを作るのを禁止するといった、ビジネスライクな行動はせず、エサレンが特別で他より優れていると主張することも、民間資格を発行することも、フランチャイズ事業をすることも、チェーン展開することもなく、宿泊プログラムの修了者が認定されたグループリーダーとして宣伝することも禁じていた。経営は上手なものではなく、あくまで非営利団体に留まっていた。スタッフの給料は安く、収益の多くをビッグサーでの建設に使った。 1977年にはサンフランシスコの支部を閉じたが、サンフランシスコの文化と人々のものの見方にエサレンの影響は大きく残っていた。 1970年代半ばには、リチャード・プライスはリーダーとして評価され信頼されていたが、彼はまだ精神病院時代の記憶に苦しんでおり、ヨーガやセラピー、マッサージ、サイケデリック薬物、過酷なハイキング、可能な限り激しいロルフィングを受けるなどして何とかしのいでいたが、新しい何かを求めていた。当時プネーにあったバグワーン・シュリー・ラジニーシュのアーシュラムもヒューマン・ポテンシャル運動のセラピストの実験場と化しており、数年間はエサレンとの交流も盛んであった。プライスもラジニーシュを知って感銘を受け、彼のアーシュラムを訪問したが、1か月の滞在の間に幻滅し、そこを去った。プライスはメールオーダーでラジニーシュのサニヤーシンとなっており、1972年にラジニーシュのアーシュラムを訪れてセラピーを受けたが、そのとき別のセラピーで腕を折られた人がいたという。そこでプライスは、ラジニーシュ・アーシュラムでの、感情を誤った方向に発散させる過激なセラピーの実態を知り、帰国後ラジニーシュに抗議の手紙を送った。結果的にエサレンはラジニーシュとの関係を絶つことになった。 その後、プライスはジェニー・オコナーというイギリス人霊媒 - 彼女は自分を天界第1位の輝星シリウスを基地にする人間ではない9つの存在の霊媒であると主張していたため、「ナイン」とも呼ばれた - に偏向するようになり、彼女の自動書記をセラピーに活用する実験を続けた。管理者レベルの主要スタッフには、オコナーの活用を懸念する人もいたが、プライスはその2人をクビにし、エサレンには大きな衝撃が広がった。オコナーはエサレンのスタッフになり、エサレンの一部の人々はスピリチュアルなものに過度にオープンになっていた。 また、マーフィーは超能力とスポーツを研究してエサレンの方向性に変化を与え、1971年にソ連を訪問して、転生や超能力の研究など、ヒューマン・ポテンシャル運動とよく似た潮流がおきていることに気付き、これを育ててアメリカの潮流と結びつけようと考え、1979年から本格的にソ連と協力し交流した。マーフィーは、スポーツマンであると同時にゴルフをするヨーガ行者であった。1970年代にはジョギング・ブームがあって健康志向が強まり、「身体の癒し」と「精神世界」が結びつけられて、エスリンにスポーツ・センターが開設された。アメリカではオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』がよく読まれるようになり、ティモシー・ガルウェイ(英語版)は『テニスのインナーゲーム』(The Inner Game of Tennis、精神的ゲームとしてのテニス)『ゴルフのインナーゲーム』(The Inner Game of Golf、精神的ゲームとしてのゴルフ)などを書いたが、このようなスポーツにおけるスピリチュアリティへの関心は、マーフィーによって開発されたものである。 マーフィーとジェームズ・ヒックマンという若者が、心霊治療からマラソンの記録まで人間の心身の超常現象をテーマとする論文のアーカイブを作る「エサレン協会・変容プロジェクト」を始め、1万2千点の論文が集められた。 1980年代には、エサレンは新しい発見の場ではなくなっていった。ヒッピー運動の最後の拠点のような雰囲気があり、新しさよりむしろ郷愁を伴って語られる存在になっていた。しかし事業としては経営の危機を乗り越えて安定した収益を上げるようになり、自然エネルギーを活用し有機農業を行うリゾート、セミナー、静養の場であり、様々な国の人々が集う国際的な場になった。 プライスは1985年にハイキング中の落石事故で亡くなるまで協会を運営した。2012年、理事会は資金調達の支援と協会の採算性の維持のために複数の専門的な幹部職員を雇用した。 2017年2月、温泉の片方の側に接するハイウェイ1号線が土砂崩れで封鎖されると、協会は陸の孤島となった。協会は扉を閉ざし、来客をヘリコプターで退避させ、少なくとも限定的なワークショップの提供を再開する7月までは、スタッフの90%の一時解雇を強いられた。また、協会は若い世代に関連性のあるテーマを含むように、提供するワークショップを改訂することに決めた。 2017年7月現在、道路の封鎖に起因する交通制限のため、温泉はエサレンの来客だけが利用できる。
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設立後
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1876年(明治9年)7月には敷地内に「第17番中学変則学校」が併設され、同校は現在の長野県松本深志高校の前身となった。 校舎の写真は、1884年のニューオーリンズ万国博覧会と1893年のシカゴ万国博覧会に出品された。 1888年(明治21年)4月2日、小学校令を実施して開智尋常小学校となる。 1889年(明治22年)9月9日、松本尋常小学校と改称。 1892年(明治25年)4月7日、改正小学校令により東筑摩高等小学校を合併して松本尋常高等小学校となる。 松本尋常高等小学校開智部として、松本尋常高等小学校の本部が置かれた。 1935年(昭和10年)3月、松本尋常高等小学校を廃し7尋常小学校1高等小学校に分割。松本市立開智尋常小学校となる。 1941年(昭和16年)、国民学校令により、松本市立開智国民学校初等科となる。 1947年(昭和22年)4月、学校教育法により、松本市立開智小学校となる。 1961年(昭和36年)3月23日、同校舎は明治時代の擬洋風学校建築としては初めて重要文化財の指定を受けた。 1963年(昭和37年)3月まで校舎は約90年間使用されたのち解体され、翌1964年にかけて現在の場所へ移築・復元された。 松本市立開智小学校は田町小学校と統合され現行の松本市立開智小学校となり、移築された旧開智学校の建物に並んで新校舎が建築された。
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設立後
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「Evolution Championship Series」の記事における「設立後」の解説
2003年からは現在の「EVO」という名称が使用されるようになった。 2004年からは、ゲームセンターで使用するような筐体ではなく、家庭用ゲームハード機を用いるようになった。その為、参加者は自分で使い慣れたコントローラー(ゲームパッドを含む)を持ち込めるようになった。 2012年7月8日に、東京・秋葉原にある秋葉原クラークスタジオで「EVO2012 Public Viewing in Japan」(中継観戦イベント)が行われた。。 2013年より始まった一年を通して行われるカプコンカップにおいて、得点を非常に多く稼げる大会でもある。 2016年は初日の会場に「ラスベガス・コンベンション・センター」、最終日の会場に「マンダレイ・ベイ・イベント・センター」を使用。 2017~2019年は全日程を「マンダレイ・ベイ・イベント・センター」で開催。 2020年は新型コロナウイルスの影響により、オンライン大会「EVO Online」として開催される予定だったが、CEOのジョーイ・クエジャルが性的犯罪の発覚により更迭された。これによりゲーム会社が抗議、参加を拒否する事態となり、大会前日に初の完全中止が発表される異例の事態となった。 2018~2020年では、米国以外での地区開催として「EVO Japan」が日本で開催された。日本での運営は、米国でEVOを開催しているSRKX Productions, LLC.とのパートナーシップ提携の元、松竹ブロードキャスティング等が運営法人を都度設立する形で運営された。 2021年3月19日、ソニー・インタラクティブエンタテインメントが、RTS社と共同で設立した合弁会社を通じてEVOを共同買収。
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設立後
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1953年(昭和28年)株式会社設立、資本金は500万円。その後増資をへて1985年(昭和60年)以降は資本金5,000万円となる。 寺社関係の仕事は常にあるわけではなく、宮大工から発展した企業としてその技術伝承は大きなテーマであった。尾田組では「古建築は任せろ」の気概のもとに、それらの仕事は解体作業から採算を度外視して請け負った。戦前までは毎日午前3時ごろから集まってくる大工や土工をその日に必要な人数だけ雇っていたが、戦後は大工を直傭とし棟梁が彼らを束ねて仕事をするようになり、優秀な大工に若い社員の大工を張りつけて技術を伝承させる工夫をした。 1992年(平成4年)には8代目の尾田芳信が社長となる。1999年(平成11年)現在の尾田組の業務は、建築、土木、営繕、ガス設備、及び古建築の模型作りの5部門に分かれている。 尾田組の技術は近年でも、なら・シルクロード博覧会の奈良公園館(現・奈良公園シルクロード交流館)建設、奈良公園の浮見堂修復、重要文化財となった奈良女子大学記念館(旧本館)の改修など奈良の景観形成に貢献している。 特に平城宮跡の復原整備工事の中でも重要な東院庭園の復原整備が注目される。東院庭園は奈良国立文化財研究所が1967年(昭和42年)以来発掘調査を続け1993年(平成5年)から東院庭園整備事業が開始された。工事は形式上は大林組が請け負ったが、その下請けという形で尾田組が庭園全体の整備、3つの建物と付属する反橋と平橋、ならびに南面大垣の復原とそのすべてを施工した。 2005年(平成17年)に本社を奈良市高畑町に移転。その後2008年(平成20年)には旧本社地の東大寺門前(奈良市春日野町)に総合飲食施設・ふれあい回廊「夢しるべ風しるべ」を開設し地元奈良の観光発展にも寄与している。 また奈良の四季を彩る祭礼、東大寺のお水取り、率川神社のゆり祭、興福寺の薪能、春日大社摂社若宮のおん祭などでは、舞台作り、矢来、幔幕などの設営を請け負い、伝統行事を陰で演出している。 2021年(令和3年)、9代目 尾田安信が代表取締役社長に就任する。
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設立後
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「国際テロ情報収集ユニット」の記事における「設立後」の解説
2016年7月に発生したダッカ襲撃テロ事件等を踏まえて、2016年9月、国際テロ情報収集ユニット員と在外公館の担当者をあわせて約80名程度まで約倍増することが決定された。 2017年12月「2020年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会等を見据えたテロ対策推進要綱」において、今後、より核心に迫る情報収集が可能となるよう、その活動の拡大・強化を図ることとされた。 2015年にシリアで行方不明となり、3年4か月間にわたって拘束されていたフリージャーナリストの安田純平の解放の裏にも、国際テロ情報収集ユニットの働きがあったとされる。 将来的には、イギリスの秘密情報部(MI6)のような組織を志向しているとの指摘もある。
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