危機を乗り越えて
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映画産業の危機を受けて1990年(平成2年)3月にフェルナンド・コーロル大統領によってブラジル映画配給公社が廃止され、一切の公的支援を廃止、製作本数はゼロに失墜した。 1993年以降ブラジル映画は回復の様相を見せ、ブルノ・バヘット監督の『クアトロ・ディアス』(1997)、ヴァルテル・サレス監督、フェルナンダ・モンテネグロ主演の『セントラル・ステーション』(1998)、カルロス・ヂエギス監督の『オルフェ』(1999)など、ブラジルから地球を半周した日本でも劇場公開された質の高い映画が製作された。 1995年の時点で、2000本の映画がブラジルで製作されていた。 2001年(平成13年)、ブラジル国立映画庁がリオデジャネイロに設立された。
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危機を乗り越えて
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滝乃川学園の運営は、いつまでたっても安定しなかった。1921年には、園児の失火により、園児数名が死亡する事故が起きる。亮一夫妻は責任を感じて学園の閉鎖を決意するが、貞明皇后をはじめ、心ある人々から激励と義援金を贈られ、事業の継続をあらためて決断する。支援者からは、事業の安定のため、学園の事業を財団法人化し、安定化を図ろうとの動きが活発化し、財界からは渋沢栄一が支援に乗り出した。渋沢は後に第3代理事長として、亮一の事業を援けることになる。 財団法人認可後も、依然として財政は厳しく、昭和恐慌の影響から莫大な負債を抱えることとなる。亮一は私財をほとんど学園に寄付し、石井家はもはや破産状態であった。そのうえ、亮一を支えてきた渋沢も没し、学園の運営はさらなる困難を迎えることとなる。 そのような中でも、亮一の業績や、学園の事業への評価は益々高まり認知されており、亮一も晩年は東京府児童研究所長等の公職にも推挙され、1934年には、現在の日本知的障害者福祉協会を創設し、推されて初代会長に就任した。 1937年(昭和12年)、体調を崩しながらも、激務をこなしていた。秩父宮雍仁親王夫妻が学園に来訪し、夫妻は亮一の体調を気にかけ労いの言葉をかけた。しかし、6月14日死去した。遺体は亮一の遺言により、献体された。 滝乃川学園の事業は筆子夫人が継承し、第2代学園長に就任した。
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