危機の際の振る舞い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 18:09 UTC 版)
「エリック・ドラモンド (第7代パース伯爵)」の記事における「危機の際の振る舞い」の解説
ドラモンドの事務総長の任期中には、いくつかの危機があった。国際連盟理事会は、危機の際には、加盟国が自国の軍隊を使って集団安全保障の任務を遂行する意思があるかどうかに依存していた。危機の多くは、第一次世界大戦後の帝国の崩壊に伴う国境紛争であった。1920年代、国際連盟は、加盟国・非加盟国を問わず、このような問題に関わるようになり、ドラモンドはその話し合いや交渉の中心となった。国際連盟はラテンアメリカ、バルト三国、中国での紛争に関与した。ピーター・ヤーウッドは、ドラモンドは他の多くの人々と同様に理想主義者であったが、政治家としての人脈も利用していたと論じている。ドラモンドは、その地位の高さにもかかわらず、世間や政治的な脚光を浴びることを避けていた人物だと広く思われていた。しかしそれは、各国をなだめるために、または、各国政府の指示が得られないために、そのようにせざるを得なかったのである。その一例が、1920年代にベニート・ムッソリーニが行ったバルカン半島やアフリカ、および他のヨーロッパ諸国に対する政策への対応である。ドラモンドは、イギリスとフランスの後ろ盾がなく、イタリアとの良好な関係を維持したいと考えていたため、ムッソリーニの政策を公に非難することができなかった。これが、ドラモンドを無力なリーダーにしてしまった原因の一つだった。 ドラモンドは、国際連盟の舞台裏でその役割を果たさなければならなかった。国際連盟設立時に期待されていた通りに、ドラモンドは世界の平和を維持するために細心の注意を払っていたが、国際法に基づいて各国を牽制するのではなく、各国をなだめることに徹していた。国際連盟の外からの制限にもかかわらず、国際連盟の中での事務局の運営はドラモンドがほとんど決めており、ドラモンドが監督することはほとんどなかった。ドラモンドは、ほとんどの問題について国際連盟の中心的存在とみなされるようになり、自分が最も関心を持っている問題を選び、それ以外の問題はスタッフに任せることが多かった。そのため、自分の政治的利益のために事務局を利用するリーダーとみなされるようになった。 また、ドラモンドの野心や目の前の危機への対処法を後押ししたのは、自身の信仰である。ドラモンドが敬虔なカトリック教徒であったことは、事務総長の任期の初期に起こったポーランド・リトアニア戦争(英語版)の対応に大きな影響を与えた。ドラモンドは、ほとんどのポーランド人がカトリックであることから、ポーランドが同意できるような国民投票を強く求めた。第一次世界大戦後にロシアからフィンランドが独立したことをめぐる危機についても、ドラモンドはいち早く解決策を検討した。 また、ドラモンドの事務総長としてのもう一つの重要な要素は、自分に与えられた立場の枠を超えようとする姿勢であった。事務総長の任期の終盤に起こったチャコ戦争をめぐる危機の際には、ドラモンドは有益な調停者であり、自分の立場で許される以上のことをしたと称賛された。
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