危機の時代以降の建築とは? わかりやすく解説

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危機の時代以降の建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 05:44 UTC 版)

オスマン建築」の記事における「危機の時代以降の建築」の解説

ティムール朝対す敗戦契機とした国内一時的な混乱建築活動にも多大な影響与えたが、国内分裂状態1410年代までには終息しメフメト1世によって再び建築活動息を吹き返すことになったブルサイェシル・ジャーミーは「緑色モスク」を意味するその名のとおり、見事なタイル装飾を見ることができる。初期オスマン建築傑作と言われるこのモスク建築複合体は、メフメト1世の命により1412年あるいは1413年から起工され、当時ブルサ知事であったハジュ・イワズによって設計された。建物1420年頃までには建設されたが、装飾1424年になって完成している。このモスク主要な特徴ミフラーブのある礼拝堂室にドーム設けられ、本来中庭となるべき礼拝室前室にもおなじくドームかっていることである。このような空間ルーム・セルジューク朝はまった見られないタイル装飾それまで伝統的な装飾であるが、イェシル・ジャーミーミフラーブみられるタイル装飾は、壮麗さの点ではルーム・セルジューク朝作成されたものを超越しており、施工ある程度未熟さ認められるものの、大理石タイル均整がとれた調和した比類なき空間構成している。 オスマン建築最盛期には、巨大な帝室モスク建設されるうになるが、その最初となるのはバヤズィト1世ニコポリスの戦いでの勝利を記念して建設したブルサウル・ジャーミーである。これはルーム・セルジューク朝から続く伝統的な会衆モスクである。しかし、ムラト2世以後会衆モスクは非常に巨大なものとなり、その内空間バヤズィト1世伝統的な会衆モスクとは基本的に異質なものとなっていった。 ムラト2世1438年建設命じたエディルネユチュ・シェレフェリ・ジャーミーは、礼拝空間巨大な単一ドーム覆った最初モスクである。礼拝堂は、アーチ形作る六角形の上ドーム載せた構造で、当時としては大変巨大なものであったそれまで巨大礼拝堂連続したアーチ構造によって形成されていたので、空間内にはいくつかの立ち上がっていたが、ユチュ・シェレフリ・ジャーミーではのない広大な空間へ探求見られる。このモスク名前の由来(ユチュ・シェレフェリとは「3つのバルコニーをもつ」という意味)となっているミナーレも巨大で、その後1世紀の間、これを超える高さのものは建設されなかった。

※この「危機の時代以降の建築」の解説は、「オスマン建築」の解説の一部です。
「危機の時代以降の建築」を含む「オスマン建築」の記事については、「オスマン建築」の概要を参照ください。

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