ニコポリスの戦い
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ニコポリスの戦い(ニコポリスのたたかい、ブルガリア語: Битка при Никопол, Bitka pri Nikopol; トルコ語: Niğbolu Savaşı ハンガリー語: Nikápolyi Csata, ルーマニア語: Bătălia de la Nicopole)は、1396年9月25日に、ドナウ河畔のニコポリスでオスマン帝国のバヤズィト1世(在位:1389年 - 1402年)とハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国(参加勢力:ハンガリー、神聖ローマ帝国、フランス、ワラキア、ポーランド、イングランド王国、スコットランド王国、スイス原初同盟(Eidgenossenschaft)、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、マルタ騎士団)との間で起こった会戦。
- 1 ニコポリスの戦いとは
- 2 ニコポリスの戦いの概要
ニコポリスの戦い
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「ニコポリスの戦い」も参照 こうしたバルカン半島でのオスマン帝国の勢力拡大に対して、バルカン半島の国家だけでなく西欧も不安を覚え、ハンガリー王ジギスムントは教皇庁に十字軍を要請した。ローマ教皇ボニファティウス9世とアヴィニョンの教皇ベネディクトゥス13世はフランス、イングランド、サヴォイアなどの西欧諸国に十字軍の結成を呼び掛け、西欧より王族、貴族、騎士が参加を表明した。1396年7月下旬から8月上旬にかけて十字軍はブダに集結、ワラキアの軍隊と共にジギスムント率いるハンガリー軍に合流し、ヴィディンもオスマンへの臣従を破棄して十字軍に参加した。 十字軍はブルガリアに進攻して領内のイスラム教徒、キリスト教徒の双方を殺害し、9月10日にはドアン・ベイ(英語版)が守るニコポリスに迫り、包囲を布いた。コンスタンティノープル包囲の指揮を執っていたバヤズィトはただちに引き返し、自ら軍を率いてニコポリスの救援に向かった。9月24日にバヤズィトはニコポリスに到達、翌25日にオスマン軍と十字軍が衝突した(ニコポリスの戦い)。軍功を求めてジギスムントの忠告を無視して個別に突撃をかけた西欧の騎士たちに対し、バヤズィトは集団戦法によって彼らを撃破した。彼自身も刀を手に取って負傷しながらも勇敢に戦い、戦闘はオスマン軍の完勝に終わった。ブルゴーニュの公子ジャン、フランス陸軍元帥ブシコー(英語版)らを捕虜とし、彼らの釈放と引き換えに多額の身代金を得る。戦後ヴィディンを併合してブルガリアの征服を達成し、またワラキアに臣従を誓わせた。 アッバース家のカリフ・ムタワッキル1世(英語版)はニコポリスでの勝利を称賛し、バヤズィトにスルタンの称号を授けた。彼以前のオスマン帝国の指導者であるオルハン、ムラト1世も碑文や貨幣でスルタンの称号を用いていたが、後世のオスマン帝国の歴史家はオスマン帝国の君主がスルタンを称した由来を、カリフからの称号授与に結びつけた。 ニコポリスの戦いの後にオスマン軍はミトロヴィツァを攻略、さらにギリシャに進み、1397年にラリサ、パトラ、アテネを占領しペロポネソス半島の大部分を支配下に置いた。1398年にオスマン軍は内乱で分裂状態にあったボスニアに初めて侵入し、これ以降ボスニアはオスマン軍の内政への介入と奴隷狩りに悩まされることになる。
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