第7回十字軍
第7回十字軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 14:42 UTC 版)
詳細は「第7回十字軍」を参照 1248年 - 1249年 アル=カーミルの死後、1244年にエルサレムがイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。これを受け、1248年にフランス王ルイ9世(聖王ルイ)が十字軍を起こす。ルイも第5回や第6回と同じくイスラム教国中最大の国家であるエジプトへと遠征して海港ダミエッタを占領するが、さらに南の首都カイロを目指す途中の1250年2月にマンスーラの戦いにおいてアイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になった。交渉途中にサーリフは死亡し、サーリフの遺児の政権は軍人集団のマムルークのクーデターによって打倒され、新たに成立したマムルーク朝にルイは莫大な賠償金を払って釈放された。
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第7回十字軍
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「ルイ9世 (フランス王)」の記事における「第7回十字軍」の解説
国内外の平和を取り戻すと、ルイ9世はかねてから悲願の十字軍(第7回十字軍)の遠征を計画し始めた。1244年にエルサレムは再びイスラム教勢力により陥落していたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はローマ教皇インノケンティウス4世と対立しており、イングランド王ヘンリー3世は国内の反乱の対処で忙しく、西欧で十字軍に行ける余裕があるのはルイ9世だけだった。第1リヨン公会議で十字軍遠征が検討されたが、ルイ9世もこの会議に参加している。 フランス内部にも反対の声は強かったが、ルイ9世は押し切り、1248年に出発した。アイユーブ朝のエジプトを攻撃したが、敗北して捕虜となり、占領地を全て放棄した上に莫大な身代金を支払って撤退した。こののち、ルイ9世は聖地イェルサレムへ巡礼の旅に出ている。その一方でイスラム教に対する同盟国を見つけるため、1253年にフランシスコ会員ウィリアム・ルブルックをモンゴルへ派遣した。
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