ルイ9世 (聖ルイ) とモンゴル
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「フランクとモンゴルの同盟」の記事における「ルイ9世 (聖ルイ) とモンゴル」の解説
詳細は「第7回十字軍」を参照 フランス王ルイ9世は、彼自身が起こした第7回十字軍を通してモンゴルと接触している。彼の最初の海外遠征の挑戦の間に、彼は1248年12月20日にキプロスで2人のモンゴル使節と面会している。彼らはイルハン朝のモースルからやってきたデイビッドとマーク(英語版)という名のネストリウス派の信者で、ペルシャのモンゴル軍指揮官イルジギデイの書簡を携えてきた。書簡はそれまでの服従を迫るような内容と比較してより懐柔的なトーンで書かれており、イルジギデイの使者は、エジプトとシリアのイスラム教徒の軍が合流するのを防ぐ方策として、イルジギデイがバグダードを攻撃する間に、ルイ9世がエジプトに上陸攻撃してほしいと要請した。ルイ9世は大ハーンのグユクの下にロンジュモーのアンドレを特使として派遣することで応えたが、特使がモンゴル宮廷に到着する前にグユクは酒色が過ぎたために急死してしまった。代わって面会したグユクの未亡人で摂政のオグルガイミシュは、ルイ9世への返礼として、贈り物と見下したような手紙を特使に与えたのみで返し、彼に毎年賛辞を送り続けるよう朝貢を命じた。 アイユーブ朝エジプトに対抗するルイ9世の作戦は失敗に終わった。彼はイルジギデイの提案の通りエジプトへ上陸し、ディムヤートの包囲戦(英語版)でディムヤートの占領に成功したが、マンスーラの戦いで全軍を失い、エジプト軍に捕虜にされてしまった。結局、莫大な身代金 (一部はテンプル騎士団からのローンで対応した) とディムヤート周辺の全ての占領した都市の返還と引き換えに、彼の解放交渉がなされた。数年後の1252年に、ルイ9世はエジプトと同盟 (第7回十字軍の間にエジプトではクーデターが発生し、アイユーブ朝からマムルーク朝にとってかわった)してシリア攻撃を模索したが失敗し、1253年に、彼はイスマーイール派の暗殺教団とモンゴルとの間で再び同盟を模索した。ルイ9世は、ヘトゥム1世の兄、アルメニア軍司令官スンバトがモンゴルのことを褒め讃える書簡を見倣って、自らもモンゴル宮廷にフランシスコ会のウィリアム・ルブルックを派遣した。しかし、モンゴルの大ハーン、モンケは1254年にウィリアムを通じて返書を返すだけで応じ、モンゴルへの国王の服従を求めた。 ルイ9世は、1270年に彼自身2回目の十字軍 (第8回十字軍) を企てた。モンゴルのイルハン朝の君主アバカは、十字軍がパレスチナに上陸したら直ちに、軍事支援をしてほしいと書簡でルイ9世に要請したが、ルイ9世はパレスチナではなく現代のチュニジアにあたるチュニスに進軍した。彼の思惑は明らかに、最初にチュニスを征服して、そこからエジプトのアレキサンドリアに到着するまで、海岸に沿って彼の軍隊を動かすことだった。フランスの歴史研究家のアラン・ドゥマルジェ(英語版)とジャン・リシャールは、この時、十字軍側は未だモンゴルとの調整の企てが完了しておらず、1270年の時点でルイ9世がアバカからのメッセージに対して彼の軍と十分に協議が出来ていないため、作戦を1271年に延期してほしいと問合せている最中で、シリアに代わってチュニスを攻撃したのかもしれないことを示唆している。ビザンチン帝国皇帝、アルメニア、モンゴルのアバカからの使節がそれぞれチュニスに在陣していたが、ルイ9世の突然の病没によって、彼の十字軍遠征計画の継続は困難となり、終止符が打たれた。伝説によると、彼の最後の言葉は「エルサレム」だった。
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