ルイ18世時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 14:10 UTC 版)
「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事における「ルイ18世時代」の解説
マリー・テレーズは死の間際の父から「憎しみを捨てるように」と諭されたが、ルイ・フィリップとナポレオンへの憎しみはいつまでも呪縛のようについてまわった。アルトワ伯とマリー・テレーズは超王党派となり、出版の自由の制限や教会勢力の増大、完全な国王主権を望んだ。ルイ18世は中道的で、時には自由主義者との妥協もいとわなかったためそりが合わず、政治面で何度も衝突したという。マリー・テレーズはまた、過激で無慈悲な白色テロを扇動した。これには、幼少期に受けた過酷な体験が影を落としていたといえ、復讐のためフランスに戻った王女とも呼ばれるほどであった[要出典]。アングレーム公はイギリス亡命時代に触れた議会政治への憧れが徐々に強くなり、夫婦は政治面に口論する一因にもなった。 しかし、ボルドーでマリー・テレーズが見せた勇気と慈悲深い性格を人々は称え、作家で政治家のシャトー・ブリアン夫人は1816年、パリに元亡命貴族と聖職者の避難所の病院を作るとマリー・テレーズに献名した。ルイーズ王妃に先立たれたプロイセン国王が最初の寄付者となり、病院は1819年に完成した。この年、ルイ18世はマリー・アントワネットが最期を過ごしたコンシェルジュリーの独房を公開した。教会は敬虔なマリー・テレーズに司教と枢機卿を指名する名誉を与えた。 6月17日、アングレーム公の弟ベリー公が両シチリア王フランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌと結婚した。ところが1820年2月13日、オペラ座でベリー公は狂信的なボナパルト派の馬具屋ルイ・ピエール・ルヴェルにより暗殺された。王族一同が警察大臣エリー・ドゥカズの罷免を求め、アルトワ伯爵とマリー・テレーズはこの事件を、ルイ18世の自由主義的政権と権力を強めたドゥカズのせいとした。彼女はルイ18世に「もう一緒に食事をしません、パリを立ち去ろうと思います」と夫婦で南西部へ行く意向を示すと、ルイ18世は譲歩し、ドゥカズを罷免した。9月29日にマリー・カロリーヌがアンリ・フェルディナン・デュードネを出産する。マリー・テレーズは友人ポーリーヌに「やっと永遠に諦めがついたから子供がいないままでいるわ」と心中をもらした。 マリー・カロリーヌは社交に熱中し、子供たちと過ごすことは少なかった。マリー・テレーズは幼い甥と姪が自由に遊べるプチ・トリアノンのような場所を望み、自らも辛い思い出から離れるために1821年12月29日、パリ西部にあるヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入した。図書室には集めた旅行記や革命史の本を並べ、父ベリー公を失ったルイーズとアンリのために動物を集め、農場を作った。農場で取れる牛乳と生クリームを自慢にし、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだ。しかし、政治的な面で嫌っていたリシュリュー公が参加した晩餐会では、その皿に自慢のクリームを分け与えなかった。
※この「ルイ18世時代」の解説は、「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の解説の一部です。
「ルイ18世時代」を含む「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の記事については、「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」の概要を参照ください。
- ルイ18世時代のページへのリンク