ルイ3世のイタリア進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/26 02:24 UTC 版)
「キスユラブルグント王国」の記事における「ルイ3世のイタリア進出」の解説
888年にカール3世が死去し、フランク王国は分裂した。ボソの息子でカール3世の養子でもあるルイ3世がプロヴァンス王位を継承し、キスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)が復活した。ブルグント王位はユーラブルグント(上ブルグント)の在地貴族であるルドルフ1世が得て、ユーラブルグント王国を成立させた。成長したルイ3世は、トスカーナ辺境伯アダルベルト2世の要請でイタリアに進出。イタリア王ベレンガーリオ1世を破った。900年にはイタリア王に即位、901年には西ローマ皇帝として戴冠された。900年頃、東ローマ皇帝の娘アンナを娶った。産まれた子供に西ローマ皇帝のカール大帝と東ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝にちなんだシャルル・コンスタンティンと名付けまさに絶頂にあった。しかし905年、マジャール人傭兵を率いたベレンガーリオ1世に反撃されてしまった。捕らえられたルイ3世は目を潰され、プロヴァンスに追放された。ルイはプロヴァンス王を名乗り続けたが、実権は又従兄で義兄のアルル伯ウーゴが握った。ウーゴは911年にプロヴァンス公、ヴィエンヌ侯に任命された。同年、ルイ3世は首都をヴィエンヌからアルルに移した。アルルに移した後のキスユラブルグント王国はアルル王国とも呼ぶことがある。
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